曇り。
ムシムシした日が続いています。九州地方も四国地方も梅雨入りしたとか。関東地方も今週、梅雨入りするかもしれないとか…。
今年は例年よりも早め、五月中に梅雨入りするのは数年ぶりとのこと。
ところで、「今年は…」とは言われても、どこからが、本来の「異常気象」であって、どこまでは、通常の「お天気は気まぐれだから」と、構えていられるものなのか、そこいら辺りが、実際、よく判らないのです。
専門家や、報道機関が、「異常だ」と騒げば、お天気のデーターを律儀にとって、コツコツと調べるような習慣のない一般大衆は、「そうか、異常か、大変だ」となるのも当然のこと。
もとより、温暖化は進んでいますし、決してそういう現実を見て見ぬ振りをしているわけではありませんが、(何か言わねばならぬから、言っているだけであろうに)「大変だ。大変だ」と旗を振られてしまうと、自分たちまで大仰に騒がねばならぬかのようになってしまって、却って、困ってしまいます。「何事もほどほどに」というのが、一番難しいのでしょうが、できればそうして頂きたいものです。
さて、学校です。
この「さじ加減」の難しさというのは、教育現場でも同じことで、もし10年ほど前のように、大体いつも、同じ国から学生を集めていれば、それなりに、相手の国情や国民性などは,感じ取れていますので、問題となった場合でもそこそこ対処出来るものなのですが。
ところが、初めて(その国から学生を)入れるという場合、本などである程度の知識は入れていても、そう自在には動けません。まずは、「観る」しかないのです。相手の話を「(相手が言いたいだけ)聞く」しかないのです。そして、どこかしらで「ストンと落ちた」と思えてから、行動するしかないのです。
その(黙って観、聞く)過程で、こちらが黙って聞いていることをいいことにして、噓八百を並び立てる人もいますし、己の立場をよくするために他者の中傷を言い募る人も出てきます。そういうのに、躍らされることなく「耐えて見聞きする」というのは、案外に辛いことですが、どういう場合であっても、その間は、とにかく相手を「善」と観て、対するという心構えが肝心なのです。
この「忍耐」が、長くて半年、短ければ3、4ヶ月ほど続きます。この時期が終われば、「さあ、始めるぞ」で、言いたい(言うべき)ことも言い、遠慮会釈なしで、スパッと相手を切ってのけることも必要となれば、やります。
外国人同士(私も、こういう時は、自分を外国人と見ます。相手だけが外国人ではないのです)のことですから、相手のことばかり慮って自己主張が足りなくなれば、却って相手のためにもなりませんし、日本の事情ばかり語って、相手の話を聞かなければ、相手の行動への理解が不足してしまいます。
もちろん、こんなことをしながらも、相手を理解するための行動は続けていかなければなりません。それに、「○○国から来ているから」と、十把一絡げに決めつけるのもおかしいこと。何より、個別の違いというのもありますから。ただ、お国柄というのは、確かにあるのです。そして、それさえ掴めてしまえば、あとはその他の国から来ている人達と同じに扱って、困ったことはないというのも事実。
それは語学教育という狭い世界でのことだからできるのでしょう。もっと手を広げたら、おそらくは、やっていけないでしょうね。
日々是好日
ムシムシした日が続いています。九州地方も四国地方も梅雨入りしたとか。関東地方も今週、梅雨入りするかもしれないとか…。
今年は例年よりも早め、五月中に梅雨入りするのは数年ぶりとのこと。
ところで、「今年は…」とは言われても、どこからが、本来の「異常気象」であって、どこまでは、通常の「お天気は気まぐれだから」と、構えていられるものなのか、そこいら辺りが、実際、よく判らないのです。
専門家や、報道機関が、「異常だ」と騒げば、お天気のデーターを律儀にとって、コツコツと調べるような習慣のない一般大衆は、「そうか、異常か、大変だ」となるのも当然のこと。
もとより、温暖化は進んでいますし、決してそういう現実を見て見ぬ振りをしているわけではありませんが、(何か言わねばならぬから、言っているだけであろうに)「大変だ。大変だ」と旗を振られてしまうと、自分たちまで大仰に騒がねばならぬかのようになってしまって、却って、困ってしまいます。「何事もほどほどに」というのが、一番難しいのでしょうが、できればそうして頂きたいものです。
さて、学校です。
この「さじ加減」の難しさというのは、教育現場でも同じことで、もし10年ほど前のように、大体いつも、同じ国から学生を集めていれば、それなりに、相手の国情や国民性などは,感じ取れていますので、問題となった場合でもそこそこ対処出来るものなのですが。
ところが、初めて(その国から学生を)入れるという場合、本などである程度の知識は入れていても、そう自在には動けません。まずは、「観る」しかないのです。相手の話を「(相手が言いたいだけ)聞く」しかないのです。そして、どこかしらで「ストンと落ちた」と思えてから、行動するしかないのです。
その(黙って観、聞く)過程で、こちらが黙って聞いていることをいいことにして、噓八百を並び立てる人もいますし、己の立場をよくするために他者の中傷を言い募る人も出てきます。そういうのに、躍らされることなく「耐えて見聞きする」というのは、案外に辛いことですが、どういう場合であっても、その間は、とにかく相手を「善」と観て、対するという心構えが肝心なのです。
この「忍耐」が、長くて半年、短ければ3、4ヶ月ほど続きます。この時期が終われば、「さあ、始めるぞ」で、言いたい(言うべき)ことも言い、遠慮会釈なしで、スパッと相手を切ってのけることも必要となれば、やります。
外国人同士(私も、こういう時は、自分を外国人と見ます。相手だけが外国人ではないのです)のことですから、相手のことばかり慮って自己主張が足りなくなれば、却って相手のためにもなりませんし、日本の事情ばかり語って、相手の話を聞かなければ、相手の行動への理解が不足してしまいます。
もちろん、こんなことをしながらも、相手を理解するための行動は続けていかなければなりません。それに、「○○国から来ているから」と、十把一絡げに決めつけるのもおかしいこと。何より、個別の違いというのもありますから。ただ、お国柄というのは、確かにあるのです。そして、それさえ掴めてしまえば、あとはその他の国から来ている人達と同じに扱って、困ったことはないというのも事実。
それは語学教育という狭い世界でのことだからできるのでしょう。もっと手を広げたら、おそらくは、やっていけないでしょうね。
日々是好日