昨夜の雨が嘘のように静まりかえっています。晴れ。きれいな青空です。
昨夜は久しぶりに「雷様」が団体でやってきました。ピカピカ、ドンドン、ゴーロゴロ、そのままに、賑やかに騒いで、そして去って行きました。
今日はすべて洗い流されたような朝で、もしかしたらここからも富士山が見えているかもしれません。
一昨日でしたか、「初級Ⅰ(4月生)」のクラスで、ここからも富士山が見えると言いますと、驚かれてしまいました。そうか、見えると思っていないから気にもとめていなかったんだ…。
実は、「どこそこに行きたいのですが」という文作りだったのですが、最初は近場の、「ディズニーランド」とか、「東京スカイツリー」などが出てきました。それから「京都」「富士山」が続いたのですが、で、例の台詞になったのです。
ここから、電車に乗って東京方面に行く途中で、「ランド」のもろもろを垣間見ることもできますから、たぶん、すぐに出てきたのでしょう。もっとも、今年の冬は「ディズニーランド」へ行きます(昨年は「ディズニーシー」でした)から、よかったですね。中には、何回行っても楽しいそうだと言う学生もいました。いろいろと情報は入っているようです。
ただ「東京スカイツリー」は、学校では連れて行かないかもしれません。数年前に皆で行ったときには、並ぶのに疲れるやらで、気分が悪くなる人もいたようですし、それに天気が悪かったときには何も見えなくなるそうで、ここは「遠きにありて思うもの」のほうがいいのかもしれません。どこからでも見えますし。
それに、「京都」。学生達は、「京都、京都」と言うわりには、京都のことは、どこかで見た「写真」の一枚くらいの感覚でしかないのです。しかも、彼らのお寺に対する「常識」からすると、京都のお寺を見たらも、ちょっとがっかりするかもしれません。金ぴかじゃありませんもの。
もちろん、宗教の存在しつづけている場所は、どこの国であっても同じで、人々の思いがこもっていますもの。歴史的遺物としてのみで存在を続けている古建築とは、違います。ですから、宗教心のある、そういう感覚を持ち続けている人は、きっと感じてくれるでしょうね、何かを。たとえ、それが、「きらきらしく」なくとも。
「神」と「妖怪・化け物」とは表と裏の関係で、どちらにも人にはない「力」があると思われています。「どちらのほうが怖いか」と人に聞かれたら、日本人なら、さて、どう答えるでしょうか。日本には、「妖怪」も「神」と同じように、まるで「同格」のように祀られているところがありますし、「神」に対するのと同じように祈りを捧げる人もいます。
だいたい比べること自体、おかしいと言われるかもしれませんが、日本人にとっては、超自然的な力を持つものとして、同じなのです。それだけ原始的であると言われてればそうかもしれません。けれども、こういう「人の気持ち」というものは、原始的であればあるほど、私には尊いと思われます。哲学や神学などに犯されていない、原初の感情、気持ちが流れているような気がするのです。
神社のような「ところ」へ行った。ところが、そこには、「あやかし」としか思われないような、様々な(奇妙な)ものが描かれていた。いったい、ここはなんなのか。神社とは違う、別の「あるところ」なのかと聞かれたとき、ちょっと困ってしまいました。
なんであれ、古人が「祈りの対象」としたものは、多分「神」と同じような扱いをせねばならぬと、日本人は考えます。そうしなければ、「祟る」と感じるのです、理屈を考えるよりも先に。
この「祟る」というのも、うまく説明ができません。「運が逃げる」とか、「悪いことがおこる」とか、あるいはぐっと具体的に「病気になる」とか、言うことはできるでしょうが、それよりも、その人自体の、どこか、もっと深いところで、変化が起こるような気がするのです。
もっとも、人が手を合わせて祈りたくなる瞬間がある限り、存在し続けるのでしょうね、「神」というものは。そして「神」のような存在が祈られ続ける限り、「妖怪・化け物・鬼」なども祈られ続けるのでしょうね、日本では。
日々是好日
昨夜は久しぶりに「雷様」が団体でやってきました。ピカピカ、ドンドン、ゴーロゴロ、そのままに、賑やかに騒いで、そして去って行きました。
今日はすべて洗い流されたような朝で、もしかしたらここからも富士山が見えているかもしれません。
一昨日でしたか、「初級Ⅰ(4月生)」のクラスで、ここからも富士山が見えると言いますと、驚かれてしまいました。そうか、見えると思っていないから気にもとめていなかったんだ…。
実は、「どこそこに行きたいのですが」という文作りだったのですが、最初は近場の、「ディズニーランド」とか、「東京スカイツリー」などが出てきました。それから「京都」「富士山」が続いたのですが、で、例の台詞になったのです。
ここから、電車に乗って東京方面に行く途中で、「ランド」のもろもろを垣間見ることもできますから、たぶん、すぐに出てきたのでしょう。もっとも、今年の冬は「ディズニーランド」へ行きます(昨年は「ディズニーシー」でした)から、よかったですね。中には、何回行っても楽しいそうだと言う学生もいました。いろいろと情報は入っているようです。
ただ「東京スカイツリー」は、学校では連れて行かないかもしれません。数年前に皆で行ったときには、並ぶのに疲れるやらで、気分が悪くなる人もいたようですし、それに天気が悪かったときには何も見えなくなるそうで、ここは「遠きにありて思うもの」のほうがいいのかもしれません。どこからでも見えますし。
それに、「京都」。学生達は、「京都、京都」と言うわりには、京都のことは、どこかで見た「写真」の一枚くらいの感覚でしかないのです。しかも、彼らのお寺に対する「常識」からすると、京都のお寺を見たらも、ちょっとがっかりするかもしれません。金ぴかじゃありませんもの。
もちろん、宗教の存在しつづけている場所は、どこの国であっても同じで、人々の思いがこもっていますもの。歴史的遺物としてのみで存在を続けている古建築とは、違います。ですから、宗教心のある、そういう感覚を持ち続けている人は、きっと感じてくれるでしょうね、何かを。たとえ、それが、「きらきらしく」なくとも。
「神」と「妖怪・化け物」とは表と裏の関係で、どちらにも人にはない「力」があると思われています。「どちらのほうが怖いか」と人に聞かれたら、日本人なら、さて、どう答えるでしょうか。日本には、「妖怪」も「神」と同じように、まるで「同格」のように祀られているところがありますし、「神」に対するのと同じように祈りを捧げる人もいます。
だいたい比べること自体、おかしいと言われるかもしれませんが、日本人にとっては、超自然的な力を持つものとして、同じなのです。それだけ原始的であると言われてればそうかもしれません。けれども、こういう「人の気持ち」というものは、原始的であればあるほど、私には尊いと思われます。哲学や神学などに犯されていない、原初の感情、気持ちが流れているような気がするのです。
神社のような「ところ」へ行った。ところが、そこには、「あやかし」としか思われないような、様々な(奇妙な)ものが描かれていた。いったい、ここはなんなのか。神社とは違う、別の「あるところ」なのかと聞かれたとき、ちょっと困ってしまいました。
なんであれ、古人が「祈りの対象」としたものは、多分「神」と同じような扱いをせねばならぬと、日本人は考えます。そうしなければ、「祟る」と感じるのです、理屈を考えるよりも先に。
この「祟る」というのも、うまく説明ができません。「運が逃げる」とか、「悪いことがおこる」とか、あるいはぐっと具体的に「病気になる」とか、言うことはできるでしょうが、それよりも、その人自体の、どこか、もっと深いところで、変化が起こるような気がするのです。
もっとも、人が手を合わせて祈りたくなる瞬間がある限り、存在し続けるのでしょうね、「神」というものは。そして「神」のような存在が祈られ続ける限り、「妖怪・化け物・鬼」なども祈られ続けるのでしょうね、日本では。
日々是好日