日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『授業中、私語が多い』ということ。『カンニングをしてはいけない』ということ」。

2012-04-26 09:38:04 | 日本語の授業
 曇り。陽まで射してきて、どっきり。

 実は、明日、課外活動で「上野動物園」へ行く予定なのです。

 昨年度はなぜか、課外活動は、すっきりとした「晴れマーク」が続きました(その前は、雨あり、風ありの時も少なくなかったのですが)。ところが、どうも「晴れマーク」をもたらしてくれた人たちが卒業したと見えます。

 4月27日が近づくにつれ、「雨マーク」が濃厚になってきたのです。最初は、「ちょっと夕方から雨かな」だったのが、「朝から雨…、何時頃上がるのかな…。下手をすると、学生たちがいる間は雨で、解散になってから(彼らがアルバイトなどへ行くために戻ってから)止むことになるのかしらん…」にまでなってきているのです。

 そんなわけで、「今日は、いっぱい雨に降ってもらって、一滴も残らないくらい降ってもらって、明日に残さないでもらいたい」なんて、勝手なことを考えていたのですが…。お天道様は、そんな勝手をお許しにならないようです。

 もちろん、程度にもよるのですが、重い雨が降るほどであれば、楽しみも半減しますので(一人で行くなら、雨の日の動物園も捨てがたい)、その時は同じく上野にある、「国立科学博物館」へ行くことを考えているのですが、ただ、これはこれなりに、ちょっと心配があるのです。

 既に「中級」に入っている「クラス」以上(「A・Bクラス」)は問題はありません。が、これがまだ「初級」程度のクラスには、まだ日本の集団生活に慣れていない、つまり日本の社会生活に馴染んでいない人が数人いるのです。この人達が博物館で、つい羽を伸ばしたりしはしないかと、ちょっと心配になっているのです。

 おそらくどこの国であれ、病院や図書館では騒いではいけないでしょう。そしてまた、美術館や博物館でもそうでしょう。

 授業中でさえ、時々、彼らの私語が気になる時があります。まあ、初めのころに比べれば、随分マシになりましたけれども。最初のころは、「もう大人なのに、(授業中)人(教師)の話を黙って聞くことができない(全く授業と関係のない話を、大声でする)なんて、いったいどういう教育を受けてきたのか」と頭に来たりしていましたが、慣れというものは恐ろしいものです。私の方でも、かなり、この面では、ズボラになってしまいました。

 もちろん、時には、私語が(私が黙っていられないほど)うるさく感じられ、(他の学生の邪魔になりますから)叱責しなければならないくらいの時もあるのです。それで、彼らが、こういう博物館で静かに観察したりできるかどうか、少々疑わしいのです。

 ただ、授業中、少しずつではありますが、以前に比べれば、随分小さな声で話せるようには、なっています。けれども、それが、一人二人ではなく、もう少し増えてしまうと、またそれがさざ波のように十人くらいの同国人の中で拡がっていきますと、「いい加減にしろ」とでも、言いたくなってしまうくらいなのです(実際には言いますが)。

 小さな声で、一人二人が話すくらいであるのなら、こちらもそれほど目くじら立てるほどのことはないと平然としていられるのですが、これが五人六人となりますと、もう授業が騒音の中で運ばれていくような感じになっていきます。

 一度、彼らの国の中高校へ行ってみたいですね。いったいどんな教室で、どんな授業を受けてきたのかを知りたくなります。こういうのは習慣ですから、(母国の)中学校や高校できちんと授業を受けることができていた学生は、他の国へ行っても同じようにできるはずですし、ガヤガヤと教師の話をそっちのけにして騒いでいた、またそうすることが許されていた人たちは、今さらそれを変えろと言われても、一朝一夕には変えるなんてことはできっこありません。

 好きな道ならいざ知らず、大半の学生にとって、「日本語を学ぶ」というのは、日本にいるための一つの方便にすぎないのですから。

 以前、スリランカの学生が多かった時に、スリランカの中高学校へ行って、「なるほど」と、この日本語学校の学生たちの習慣の一部がわかったような気がしたことがあります。

 教室と言いましても、それは長い講堂か廊下といったようなもので、クラスとクラスの間には、全く仕切りというものがありません。そこに幾つかのクラスが入っていて、どこからどこまでがこのクラスで、どこからが隣のクラスなのか、椅子の向き、子ども達の見ている方向を確かめなければ、全くわかりませんでした。

 子ども達はギュウギュウに詰められて座っているように見えましたが、彼らとしてはあれくらいの(人間)距離がちょうどいいのかもしれません。皆の視線の向く方向には黒板があり、教師が立っています。教師を見ている子どももいれば、他のクラスの子を見ている子どももいます。隣に座っている他のクラス(であろうと思われました)の子と遊んでいる子どももいれば、身振り手振りよろしくおしゃべりに明け暮れている子どももいました。

 これでは、日本流のクラス経営なんてことはあまり考えられていないだろうなという気はしましたが、(日本にいるスリランカ人学生が)日本的な空間とは違う空間、人と人との距離の中で育ってきたのだということは判りました。

 それから、スリランカ人学生に対している時も、何となく手心を加えるようになったような気がします。カンニングをしても、「ああいう(スリランカの)教室であったら、カンニングが簡単に出来たであろうから、(答えが)判らなければしてきただろうな」とか、「テストの時、答えを聞いたり、聞かれたりするのは、多分彼らの世界では助け合いとこそ言え、不正な行為とは言わないのだろうな」とか、そんなことでしかないのですが、心の余裕というのは大きいのです。

ベトナム人学生も、恐ろしくなるほどカンニングをします。おそらく彼らはこういう呼び方はしていないのでしょうけれども。(テストの時)聞くのも教えるのも、当然の行為であると思っているとしか思えないのです。日本人のいわゆる「カンニング」に込められた「悪いことをしている」という響きは彼らには通じません。

 あの国で短大を出ているわけですから、決してレベルが低い人たちというわけではないのでしょうが、これは判らないようですね。彼らと話していると、「カンニングをしてはいけない」と言う私の方が、「間違ったことを言っている」かのような気分になってきますから、これはこれで恐ろしいことなのですが。

日々是好日
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