日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『皇居』に行って楽しんでいた学生と、『教室』で勉強させられていた学生と、どっちも頑張ってね。

2023-04-28 07:46:43 | 日本語学校

晴れ。

今日もいいお天気です。

家族がみんないなくなってしまうと、何事も、自分の世界で、自分事として、完結できなくなったような気がします。これまでは、それほど密な関係とも思っていなかったのに、急に、いろいろなところで顔を出してくるのです。それが家族であると言われれば、そうなのかもしれませんが。

さて、学校です。

昨日の午後、戻ってきた教員に聞きました。「どうだった?楽しそうだった。」…昨日はみんな「皇居」へ見学に行ったのです。学生曰く「見学」ではなく、「旅行」なんですけれども。

「うん。楽しそうだった」と言った後がいけない。「大変だった。もう、もう、みんな興奮状態で、うるさいのなんのって」
「そう」
「そうどころではない。『Cクラス』の学生達、学校であんなにうるさかった?」
「教室では静かだよ。練習の時、声が大きいくらいかなあ」
「もう、さすがの私も『静かにしなさい』って注意したくらい。周りは静かなのに、恥ずかしかった」

彼女は「課外活動」の時には、まず注意しません。せっかくだから、できるだけ楽しんでもらおうとして、よほどのことがない限り、何も言わないのです。私が一緒の時には、注意するのは、私くらい。広がりすぎて(彼らの国ではそうなのでしょ)道を通せんぼしたり、騒いだりしたら、まず注意していました。

もっとも学生達の歩く速さ(写真を撮るために止まったり、呼ばれて急に走り出したりしますから)に、ついて行けませんから、間に合わないところでは斥候を飛ばしたりしていましたが。

「『皇居』の中で?」
「いや、その前から。ずっと、ずっと、うるさかった」「特に『皇居』では、『周りの人を見なさい。あなたたちみたいに大声で騒いでいる人達はいないでしょ』と言ってもダメ。完全に小学生か幼稚園さんみたいになって、「きゃあ、きゃあ」言っては写真を撮って喜んでいる」

「グループ分けしても無駄だった。だいたい二年生からして、写真を撮るのに夢中で、『○○さんがいない。どこ』と、リーダーと定めていた人に聞いても、『あれ?』と周りを見渡して、探すくらい。みんな自分のことで、いっぱいいっぱい。本当に楽しかったようです」

まあ、何事もなく、楽しんで帰れたようで、とはいえ、教員の方は、「足が痛い」「疲れた、疲れた」と、ばて果てていました。

「Cクラス」の中には、既に10数年日本にいる人が数人かいましたのに、こういう機会はこれまであまりなかったと見えます。なにせ、みんな(この集団は)外国人ですからね、何をやろうと、楽しかったみたい。きゃきゃ言ってはあっちを見、こっちを見、写真を撮り、また互いに見せ合い…。

もっとも、「Bクラス」のおじさん学生は、日本人の団体さんに話しかけたり、自己紹介をしたりしていたそうな。それで戻ってきては、教員に「とても楽しい」と言っていたそうな。

「先生が付いている」というのも安心材料だったのかもしれません。何かあっても、日本人先生が付いているので、心置きなく騒げたのでしょう。

まずは先生方、お疲れ様でした。
学生さん達、これで英気を養えたかな。教室では、一生懸命に勉強していたから、静かだったのね。それとも猫をかぶっていたのかな。

まずは、連休前の「楽しい休日」でした、行ったみんなは。ところが、昨日、教室で勉強させられていた一人が、真剣な顔つきで「私は夏休みに富士山に登ります」。「えっ。君は夏休み無しだよ」と返すと、「私は、富士山に登ります」って。よっぽど悔しかったのかな。

日々是好日
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今日、学生達は「皇居見学」に行ってきます。迷子さんになりそうな人がいるので、グループ分け、リーダーまで選んでの出発です。。

2023-04-27 08:07:26 | 日本語学校
晴れ。

空には、雲一つない春の柔らかな青がどこまでも続いていて…春の青ですね。ホッとします。

今朝、公園の隅に、まだ綿毛を飛ばしていない「タンポポ」を見つけました。今は、「フジ」の季節と言うけれど、「フジ棚」のある家は知っているけれども…行けない…。あれは自転車に乗れた頃の夢…みたいなもんです。で、テレビで見て、我慢しています。

「フジ」にしても「サクラ」にしても、平安朝の大宮人の、どこか郷愁を誘うような、そんな存在。どちらも「華やか」でいて「優しい」。「けばけばしさ」もなければ、豪華絢爛というわけでもない。それがいい。

さて、雲一つない空の下、今日、学生達は「皇居見学」に行く予定です。

留学生は「Aクラス」の10人(多分、二人休み)と「Cクラス」の3人。そして在日の方が、「Bクラス」1人と、「Cクラス」10人。それに教員が三名。在日の人たちは、比較的年齢の高い人もいて、言葉こそ不自由なものの、日本での生活には慣れている。多分大丈夫。しかしながら、「Cクラス」は、なんと言いましても、まだ『みんなの日本語(
Ⅰ)』、しかも第9課に入ったばかりと言うレベルですから、心配した教員が、昨日、全員を集めて、「さて、グループ分けをする」と言い出した。

課外活動のために、グループ分けをするなんてここ十数年なかったこと。しかもリーダーまで決めておくほどの気の使いよう。そこまではしなくても…と思っていたのですが、見ているうちに「Aクラス」に穴があるのに気がつきました。

「Cクラス」の方は、2人を除いてそれほど気にしなくても大丈夫でしょう。みんなしっかりしていますし、大人ですから。言葉は通じなくても、日本のことはだいたいわかる。ただ問題児が二名います。二名ともスリランカ人…だいたい迷子になるのは、スリランカ人…という、これも先入観かな。そういう偏見が、こちらにはある。

1人は、学校に来てすぐに、二度、迷子になった女子。12時半に帰ったはずなのに、2時か3時頃、(私が教室から)戻ってみると、職員室にいた。ちょっと驚いて「どうしたの」と聞くと、どうも道に迷って戻ってきたらしい。…どうやって帰ったらいいのかわからないと言う。で、学校から御母堂に電話して、迎えに来てもらいました。これが1度目。2度目も似たようなもの。3度目には道はわかったらしいけれど、なぜか交差点で躓いてねんざした…。一週間ほども休みました。ショックだったのかな。そういえば、ずいぶん前ですが、部屋の前で転んだので休みたいなんてのもいました。これは男子でしたが。

もう1人の男子は、延々と葛西まで歩いて行って、「ここはどこ??」となったらしい。「先生、迎えに来てください」と電話で訴えた。この2人は、要注意。運良く、親切な先輩スリランカ人学生がいるので、彼らにこの2人を預けた。よろしく。

で、「『Cクラス』は大丈夫」とホッとして、教室を眺めているうちに、1人、危ないのが「Aクラス」にいるのに気がついた。この子もどこに行くかわからなさそう…。教員それぞれが、多分、同じ思いで彼女を見ていた。で、「…大丈夫かなあ」と言うと、「Aクラス」全員が笑った…きっと、彼らもそう思っていたのでしょうね。彼女は、一応、「Aクラス」ですけれども、今年の一月に来ているので、実際は一年生さんのようなもの。彼女もスリランカの親切さんたちに預けました。大変ですね、重責を担っています。

他の「Aクラス」の学生はそれぞれ、チームのリーダーとして、それから遊軍として、斥候として活躍してもらいます。

そして、私は、中学生さん(午後は中学校に戻ります)と、見学どころではない学生1人を教えるべく、ここにいます。午後は「N1」を目指す学生に、90分ほど教える予定です。

見学に行った学生達は、きっと明日、きれいだったとか面白かったとか報告してくれることでしょう。コロナ禍の最中だった頃は、ほとんどどこへも行けず(以前は、大きな試験がある時を除けば、月一で行っていました)、隙間に、「紅葉狩り」に行ったり、「鎌倉」に行ったりしたくらいでしたが。それに比べれば、四月にもう「課外活動」ができるくらいですもの、ラッキーですね。今年卒業した学生には、恨まれそうです。

学校では、もしかしたら、自分たちは行けないとブチブチと愚痴を聞かされることになるかもしれませんが、まずは、何事もなく、楽しんできてください。

日々是好日
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「初級クラス」は、応用が少しずつできるようになりました。

2023-04-26 08:32:32 | 日本語学校
曇り。

雨と聞いていたけれども、ちょうど今、雨雲が切れているのかな。降っていません。

夜中にふと目覚めて、ウトウトとしている時、夢とも現実ともつかぬような、そんな状態が続いていることがあります。朝、起きた時、疲れているような、どこかすっきりしないような感じになっています。以前なら迷わずに行動できたようなことでも、その時は、どっちつかずになってしまい、雲の中にいるかのよう。

「人は『今日』を初めて迎えるのだから、初心者であることは当然である」と、慰めとも、愚痴ともつかぬことをよく耳にしますが、わかっていると思っているのはただの習慣に過ぎず、わかりきった行動というのは、慣れきった行動に過ぎぬということなのでしょうね。

どうも新たに覚えなければならぬ事が増えてくると、「ところてん」のように、以前覚えた事々が押し出され、落ちて、消えていく。それは新しいことを覚えられたのだから、まだましであると見るべきか、あるいは郷愁をそそるような美しいものが消え、訳のわからないことが、表面上「覚えた」となっているだけなのか、わからない…。

前はゆっくりと考える時間があったのに、今はその余裕もなく、走れ、走れと急かされているような気がして、どこか落ち着けません。もともと思考活動がマッタリしているからなのでしょうけれども、あのマッタリが自分には合っていた…多分、大半の人はそうでしょう、が、最近の世間は、走っていて、振り返ることもできず、それすら気づけないような、最近の人は大変ですね。

さて、学校です。

「Cクラス」では、だんだん応用ができるようになってきました。もっとも、懸命に「ひらがな」「カタカナ」を覚え、「単語」を覚えしている人たちが、ですけれども。まあ、その割合が増えてくれば、全体が向上しますから、これもクラスの雰囲気が良くなったということなのでしょう。一斉授業という形で言語を学ぶ場合、自分だけが上手になるなんてことはありませんから。

『教科書』での練習が一つ終わる毎に、「では、○○」とやるのです、応用編です。もっとも、まだ勉強を始めて一ヶ月くらいの人たちですから、簡単な、単語だけ違えてというくらいのものなのですが。それでも考えているようですね。目が互いを見たり、はっと考えたりしているのがわかります。一人が皆が思いつかないような「単語(それでも既習です)」を言うと、「ああ」と尊敬したような顔をしますもの。

きっと単語の量が少しずつ増えてきたからでしょうね、簡単な応用が成立するというのは。それを、5,6回ほども言い換えてやらせていくうちに、「ああ、これだったのか」と、意味がだんだんわかってきたという表情をする人が増えていきます。

既習の単語を覚えていなければどうしょうもないのですが、うろ覚えでも、覚えようと努力している人は、繰り返していくうちに、意味に形が添えられていくような感じになるのでしょう。朧だった影に形がついてくるとでも言った方がいいのでしょうか。それに伴って、表情が豊かになってくるのです。それは見ていても気分がいい。「じゃあ、おまけで、もう一ついってみようかという気にもなってくる、こちらの方でも。

それに引き換え、問題は「Aクラス」です。「N2」の漢字を入れ始めているのですが、一つ覚える毎に、前覚えた漢字がストンストンとこぼれ落ちていくような。…私みたい。

「この連休中、『N5』と『N4』、を復習しておくこと。暗記用のプリントを見て、読んでいくだけでいいから」なんて発破をかけるというか、かなり弱気な発破ですけれども。「N3」と言えないところが悲しいし、暗記用プリントを「見るだけでいい」というのも、弱気だなあ…と思うのですが。

とはいえ、このクラスの学生たち、よく書いて練習しているというのも事実。漢字テストでは、今週、二人が「N2」に入りますし、あと2,3回で入りそうな人が三人ほどいます。南アジアの人はちょっと弱いようですが、それでも書き順などを見ていますと、間違ってはいない。見ているだけでなく、書くという作業をしているからでしょう。

本当に頑張れ、頑張れ。特に、まだ「N3」に合格できていない若干名の人たち。

日々是好日
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最初の関門「ひらがな」そして「カタカナ」。

2023-04-25 08:19:23 | 日本語学校
曇り。

「五月(さつき)」が来る前に、街路の「サツキ」がくたびれてしまいそうです。日当たりのいいところから咲き始め、先週にはだいたい満開状態。きれいだなあと見ていたのに、昨日ふと気がつくと、茶色に変色している花がちらほらと。「コブシ」も「モクレン」も「サクラ」も、今年は咲くのも早ければ、散るのも早かった。この分で行きますと、きっと、あっという間に、例年より早めの「アジサイ」の季節になってしまうのでしょうね。

今年は、五月の連休はぐずつき気味だそうですから、雨を呼び込むような「アジサイ」がすぐに見られるようになるかもしれません。

もっとも、「まだか、まだか」と、やきもきさせられるよりは、ずっといい。でしょう。

さて、学校です。

留学生が多い時には、スリランカの新入生にはスリランカの上級生を、ベトナムの新入生にはベトナムの上級生をと、それぞれ、母国語で説明してもらっていました。が、コロナ禍で、一度、この流れが切れてしまうと、「う~ん、どうしよう」と、困ってしまう場面も少なくないのです。

上級生も新入生も同じ留学生という身分。新入生たちのこれからの道は、自分たちが既に来た道。半年か一年ほども先に(日本に)来ていて、様々なことに出会っていれば、自ずから、彼らへの注意も熱を帯びてきます。

ところが、そういう役立つ先輩がいない国から来た学生には、紹介してくれた向こうの先生に連絡して、話してもらうしかないこともあります。ただ、あちらの先生はこちらのやり方をよく知らない場合もあるので、手間も時間もかかれば、誤解や曲解もあるように思える場合もあり、ちと不便。

やはり、ここで勉強したことがあるという、彼らと同国の上級生がいると、本当に助かります。こちらが一言言うだけで、やり方のみならず、どうしてそうしなければならないかまで、延々と話してくれますから。同国人の先輩がいると本当に助かる。

先日も、新入生の一人がウトウトしている。聞くと、深夜のアルバイトを始めたと言う。すぐに同国の上級生を呼んで、注意してもらいました。体が強そうな学生には見えませんできたから。

留学生なのだから、主は勉強である事をしかと言ってもらい、夜勤など授業中眠くなるようなアルバイトはしないほうがいいということを伝えてもらいます。今が日本語を学ぶ上で一番大切な時期なのだから、まずは、勉強に集中することが大切。この期間に「ひらがな」、「カタカナ」は完全に覚えておいて欲しいし、その上で、「ひらがな」「カタカナ」で書かれている単語も「読め」「書ける」ようになっておいてほしい。

それができていないと、次のステージに入れない。まずは、転けてしまいます。実際、「ひらがな」「カタカナ」を適当に覚えていますと、「漢字」のパーツの説明がわからない。最初は、彼ら、「部首」なんて知りませんから、「『カタカナ』の『ハ』を書いて」とか、「『カタカナ』の『タ』の中に云々」とか言って、覚えてもらうので、そこが曖昧ですと、何を書いていいかわからなくなってしまう。「知らないこと」を「知らないこと」を使って説明されているようなものですから。  

で、「『漢字』は難しい」となる。で、完全に両手を挙げて「降参」となってしまう。「漢字の「イロハ」で止まってしまうと、「学び」はそれで「終い」になるでしょうね。後は日本人と「話して」、「聞いて」で、生活日本語を使うだけになってしまう。

今も「初級クラス」に、一人か二人、覚えるつもりがあまりなさそうな人がいます。まあ、在日の人ならば、本人の必要に応じて学べばいいだけのことなのですが、ただ、一応、ここは学校なので、「文字」がわからないと、席に座っているのも、だんだん辛くなるかもしれません。

既に「ひらがな」「カタカナ」の導入は終わっていますし、練習やテストも終わっています。それなのに、『教科書』の文が全然読めなくても何とも思っていないよう…だと、ちょっと大変ですね。

もとより、年齢からみて時間がかかるであろうと思われる人には、こちらも無理なことは言いません。自分のやれることを少しずつ殖やしていけばいいのです。頑張っていれば、殖えることはあっても、減ることはないのですから。

しかしながら、相手がまだ20代前半であれば、その上、学びに来ているのだから、「ひらがな」「カタカナ」くらいは覚えようと努力してよと言いたくなってしまいます。

おそらく、「文字」の大切さが理解できないのでしょう。練習も、文字を通してできるわけですし、文字が適当であれば、宿題もできません。

開講してから、もうすぐ、一ヶ月が経とうとしています。この、最初の一ヶ月というのは本当に大切で、この間の努力、つまり「文字」が読めるようになっているか、書けるようになっているかで、これからが決まってくるのです。

もっとも、どの国であっても、「字が書けるし、読める」というのは大切でしょうにね。

日々是好日

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少々肌寒い…これで平年並みとは…。

2023-04-24 08:29:41 | 日本語学校
曇り。

風は少々冷たい。夏になったり、秋になったりといった感じです。

とはいえ、季節はジワジワと進んでいるようです。今朝、ふと空き地を見ると、あっちにもこっちにも小さな黄色い花が咲いていました。「マツヨイグサ」です。

まるで急に地面から湧いてきたような。毎日通っている道なのに、こういうこともあるのですね。

庭のたたずまいというか、在り方というか、自分の決めた草花や木々以外の存在を許さないという人もいるでしょうし、また、あるがまま、生えたいものはここで生えたらいい、運ばれてきたものも、ここであり続ければいいという人もいるでしょう。草ボウボウというのは、人間生活に支障を来すでしょうから、それは論外としても…どっちがいいかなあ。潔癖すぎる庭は、そしてそれを見続けるというのは、住人の方が疲れてしまうでしょうし。そういう庭がいいのは修行僧くらいでしょうから。

普通の人は逃げ道をどっかに、あるいは、あっちこっちに作っておいて楽しんでいるのでしょうね、庭と自分と折り合いをつけながら。

さて、学校です。

病気やけがは致し方ないにしても、一週間ほども続けて休んでしまうと、特に「初級」の、本当にその入り口であった場合、ちょっともう追いつけなくなってしまうのではないでしょうか。留学生の場合、そういうことがあっても、「頑張れ」と言って頑張らせることが、ある程度はできるものなのですが、それが在日生となると、ちょっときついですね。

日本人なら、(一ヶ月分の学費を払っていることだし)勿体ないから頑張るとなるところでしょうが、特に大したけがでない場合。ところが、そういう頑張る「習慣」がない所から来ている人は、何かそれらしい口実を作って来なくなるようです。…つまり頑張らない私は悪くないということにする。本当に勿体ないなあ。それでいて、日本語は難しいと、必ず言う。在日生が多いクラスは、普通のクラス(留学生クラス)よりもずっと復習の時間をとってやっているのですが。

留学生でも、少し書いただけで「手が痛い」と大仰に(でも、本気です)言う人だっているくらいですもの。「書かないでどうやって『文字』を覚えるんだ」と、こっちの方ではそういう人の方が不思議。漢字(「火」の字)を三回か四回書いて、もう終わり。「覚えたの?」「大丈夫」「大丈夫なわけないでしょ」。すると、そう言われるのがどうも理解できないようで、「本当に大丈夫です」と言う。

こういう手合いには、「口」は役に立ちません。で、「百回書け」と、目の前でやらせるよりほかないのです。で、書かせていると、三回くらいで、書き順が違ってくる。で、「やり直し」。それから10回くらい書くと、「手が痛い」と言い出す。「聞いて・覚えて・言って」という教育を受けてきた人には、「書いて覚える、手が覚える」という覚え方がかなり苦手のようで、いえ、苦手と言うより、なぜこんなことをするのかがわからない。

だいたい、そういう国では「手仕事(作業)」は下の階級(層)がするものだと思っているようで、すぐに覚えて、(テストの)点が取れるのが「上」なのでしょう。でも、…すぐ忘れるんだから、意味がない。その場しのぎでは、職人さんになれないと「職人の国」、日本の「民」は思うのですが。

もっとも、日本のように職人さんを大切にし、尊敬している国の方が世界的にみれば少ないのかもしれません。

ただ、同じように「職人さん」と言っても、彼らの「職人さん」と、日本の尊敬されている「職人さん」とはレベルが違うし、根性も違うと思うのですが。

つまり、「『手作業』の大切さ」の意味が理解できないのでしょう。しかも、それを強制されるのも嫌。理解の外なので、まずやらない。で、漢字が覚えられない。テスト用に覚えても、当然のことながら、すぐに雲か霞と消えてしまう。漢字を覚えている人が不思議でしょうね。地道な作業が大切ということが理解できない限り、漢字は覚えられない。

勿論、こちらの言うとおりに「書いて、覚えて」とやっている学生は、半年ほども過ぎると(もっと速い人もいますが)下のレベル(「N3」を学んでいる時は「N5」)の漢字などはすぐに読め、書けるようになって来る。そうなると漢字の勉強がそれほど苦にならない。

ここまで行けばいいのですが、それがなかなか。それから後は、「読み」の問題が出てくるくらいで、「N2」「N3」と進んでいっても、書き順も間違えなくなる。こうなると、こちらも少し説明して、一緒に書いていけばいいので、教えるのも楽になるのですが。それがいつまで経っても、「N5」の漢字と「他人付き合い」を続けているようですと、もう完全な外様大名で、漢字から実権は持たせてもらえなくなる。今、そういう人が一人いるのです…。

日々是好日

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写真を見ながら、「白地図」に国名を記入していく。「この国は、こんなふうなんだ…」がよかったみたい。

2023-04-21 08:12:44 | 日本語学校
晴れ。

なんとなく「Aクラス」の学生達がシャッキッとしません。もとより、不真面目だとか、いい加減にやっているというのではないのです。が、「黄砂」が飛んできた頃から、「具合が悪い、のどが痛い、熱が出た…」と、お休みする人が増え、なんと多い日には4人もいましたから、12人しかいない教室が途端に、がら~んという感じになってしまいました。その上、学校に来た人も、元気がない。いつも残ってアルバイトの時間まで勉強していた学生も、帰ります…。遅刻したことがなかった学生が、寝坊して遅刻…。ってなこともありました。

昨日も、二人お休み。一昨日休んだ二人が来ても、二人分の席が空いています。この二人は国から薬を送ってもらったとのそうで、もう大丈夫だそうな。とはいえ、どこか本調子ではなさそう。こちらも、彼らのそのけだるさが染ってしまいそう。で、どことなくかったるい。

ということで、昨日は、授業を中止して、このクラスで「世界地図(白地図)」を用いて、「国探し」をやってみました。この「国」なのですが、「初級」の頃から、いくつかの国名が出てきはするのですが、クラスの友達の国はともかく、他は真っ白という人がすくなくないのです。つまり、「日本語の言い方がわからない」というのではなく、だいたいからして「他国を知らない」のです。

で、いつもは、彼らが旅立つ前、12月の「日本語能力試験」が終わってからやっていたのですが(ニュースを見せなければなりませんから)、(授業を)タラタラしてやっても意味はないので、前倒しでやってみたのです。

すると、見たことがあるという写真が時々出てきたようで、どこか「古い友達に出くわしたような」表情になって、活気が出てきました。もっとも、ベトナム勢は苦手ですね、こういうのは。白地図どころか、地図帳を見ても、わからないらしく、あらぬ方を探しています。

しかも「東・西・南・北」という言葉を忘れていた輩もいた…。「では」と声を張り上げて、「一緒にやるよ」とばかりに、手を大きく上下左右に動かしながら「きた」「みなみ」「ひがし」「にし」とやってやりました。すると、これまた、大笑い。「忘れてた~。ハハハハハ」といったぐあい。「初級」に戻ったように、皆の声が大きくなったのが、なんとなくうれしかったですね。「初級」が終わり、だんだんレベルが上がってくると共に、皆の「読む声」「言う声」が小さくなっていましたから。

ともかく、私がカレンダーから外して見せた、40あまりの国の写真を見ながら、その国を探し、白地図に名を記入していくという作業は無事終わりました。皆の顔は、ああ、面白かった。「行って見たいなとか、いいなとか思えた国はありましたか」と聞くと、「あった」らしい。ちょっとは楽になったかな。

皆、目先のことばかりが気になって、楽しいことが遠のいていた。だれにも、何にもしたくないという時期はあるものなのですが、それが一人とか二人とかいうのではなく、クラス全体になるというのは珍しい。ゴールデンウイークを控え、気分転換はしておきませんと、休みが明けてからもこんな雰囲気であったら、なんにもできませんからねえ。

6月には『日本留学試験』、7月には『日本語能力試験』と続いてやってきます、大きいのが。ぼんやり構えていては後悔しますよ。

日々是好日
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草花の楽しみ方。どうも日本とベトナムとは違うような気がします。

2023-04-20 08:28:55 | 日本語学校

曇り。

学校のそばの「サクラ」は、既に大きな葉が重なり合い、葉陰が黒ずんで、樹全体が暗く見えるほど。季節は進んでいますね。

以前、ベトナムに行った時、自転車に花を、これでもかこれでもかというぐあいに積んで運んでいる花売りか花の卸かの人々を見たことがあります。そして案内の人に「ここが『花市場』」と説明してもらった時、外からでしたが、その種類の多さと派手さに驚いたものでした。「ベトナムの人たちは、花を買うのだな。南国なのに、買って飾る必要があるのかしらん」と微かに違和感を感じたのものでしたが、それも「何となく」くらいのもので、はっきりしたものではありませんでした。

「南国だから、却って花が少なく、飾りたくなるのかもしれない」くらいにやり過ごしていたのですが、日本で学生達と一緒に居、話し、それとなく見ていると、どうも花に関する楽しみ方がどうも違うような気がしてきました。彼らの反応からですが。

例えば、日本では、「サクラ」の「花見」や、「モミジ」の「紅葉狩り」といった、木々を楽しんだりするものもある。四季のそれぞれの「花祭り」の花々を見に行って楽しんだり、あるいは、道端の野草でも楽しめたりもする。おそらく、そういうのが、ない…ような感じなのです。

勿論、日本にも、「生け花(華道)」などもあります。かれども基本的な考え方は、どうも

「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」 (瓢水)

であると思います。

花は、草木は、やはりそこ(生えている所)で見るのが一番いい、一番美しい。人工的におかれている街の草木であっても、植えられている所で見るのが一番自然で、慕わしい感じがする。

人々が暮らしている家(昔は木造でしたし、自然のもので多く作られていましたから)にしても、自然の一部と化しているような「もの」を最上としてきたような気がします。

しかも、あまり派手で色鮮やかなものは好まれていないような気がします。

強い色彩を持つ、「アヤメ」などの花にしても、派手とは違う、すっきりとした潔さが感じられますし、ただ豪華、派手というだけではないのです。

「サクラ」は華やかだけれども、すぐ散ってしまう…だからいいのだ。あの華やかさの裏には闇が潜んでいる…だからいいのだといった、「口実」めいたものを口にしながら、「咲く桜」を楽しむと同時に、「散る桜」を想像したり、翌年、まだ自分が生きているかどうかを考えたりする。

勿論、「花」だけでなく、「樹」も楽しむ。そして、それらの存在する大地、野山をも楽しむ。どこか、自然全体を楽しみ、その一環として個々の草花、木々を見ているような気がするのです。そして「声かけ」もする。自分たちと同じ存在だといった気持ちで。

亡き母はよく「年を取ると大地に戻る」と言っていましたが、これは「大地に帰る」という意味ではなく、「大地と親しむようになる」という意味なのでしょう。

どうも、私もそうなっているようです。ただ「親しむ」のも、よく見るようになったくらいのものですが。

日々是好日
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今日、ネパールから留学生が一人、成田にやってきます。

2023-04-19 08:12:27 | 日本語学校
晴れ。

今日、ネパールから女子留学生が一人やってきます。迎えにスタップ一人と、学生が二人行ってくれています。

この二年ほど、コロナ禍で国中がアタフタとしていたこともあり、今は二年生にネパール人はいません。が、「初級クラス」に、在日の同国人が三人いますので、おそらく寂しくはないでしょう。

コロナ禍の中では、留学生達が来られず、学校もどうなることかと心配されていたものでしたが、在日の人たちが、一人、また一人と学びに来てくれて、何とか持ちこたえられていました。勿論、「助詞」や「動詞の活用」で、こけた人もいるにはいましたが、「難しいけれども、頑張ります」と続けてくれた人もいました。私達もそういう人を見ていると、優しい気持ちになってきます。

留学生の場合は、学べる期間が決まっていますので、勢い、厳しさの方が先立つのですが、こういう人の場合、厳しくやりようがないのです。一生懸命である事が傍目にもはっきり見て取れますから。

一つ一つ、ゆっくりやっています。

これが、10人以上とかの「留学生クラス」であったら、おそらくできなかったでしょう。何せ、「半年後にはここまでやっておかねば」とか、「1年後には、これこれのレベルにしておかねばならぬ」とか、常に考えていなければなりませんから。

その点、2,3人でやっていると、外から見れば、おそらくタラタラやっているように見えるかもしれませんが、相手(に合わせ)が、辛くならない程度に、ゆっくりならぬ「速くやる…」これが大切になってきます。

彼の場合、当初は「ひらがな」も読めず、書けずでしたから、「宿題」なんぞは「やるように」などとは言えませんでした。「できるようになったら、やるだろう、できなくても、話せ、聞き取れれば、まずまずの御の字だ」くらいにこちらも構え、待てましたから。

「急がせない、『ねばならぬ』的な追い込みはさせない」で、教員もゆっくりやれました。

それが、一ヶ月ほどの休みの後、復学(?)して、また「最初からやる」と行って来た時、彼の方にも余裕が多少できたようで、自然と、宿題をし、そのノートを提出するようになっていたのです。すごいですね。「字が書けると日本人に褒められる」というのも、頑張れた理由の一つなのかもしれません。

時々、こういう人がやってくるのです。以前はアラブ系の人でしたが、その人の場合は、「留学生クラス」にいて、しかも数が多かったので、ちょっと気を遣いました。「彼女はそれが許されているのに、私には許さないのか」という不届きな留学生もいたからです。「事情が違う」と、一言で切り捨てましたが、こういう人(「書けるようになる」のに時間がかかる)たちだけであったら、随分、お互いに心静かににこやかにやっていけるものですね。

もとより、「私は『字なんか』覚える必要がない」と言う手合いには、別の対応をするのですが。

日々是好日
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高校に入学できた学生のことを思い出してしまいました。卒業まで頑張ってね。

2023-04-18 08:36:44 | 日本語学校
時々、陽は射してくるようですが、全体的に、曇り。

お天気はあまり安定していませんね。北からは、大陸から冷たい空気がド~ンと押し寄せ、南からは海の上を暖かい空気がジワジワとやってくる。夏とか冬であったなら、わりと理解しやすいのですけれども、お天気でも。ところが、このような季節の端境期というのは、わずかばかり、冷たい空気がここまで降りてこなかった(予報図の上で)…だけで、気温が急激に上がったり、或いは、ちょうど鬩ぎ合う場に当たってしまった…で、雷様がお出ましになったり…。地上というか下界同様、天上界でも大変なことになってしまう。

でも、まあ、お天気であったら、お天道様には逆らえないで、終わってしまえますけれども、欲得尽くのヒトのなせることには…。人類というのは「争う」というか「戦う」ことが、「業」になっているようです。「生きる」ためというのではないのに…。

さて、学校です。

「学校です」と言いますか、学校に至までの道のこと。現在、道は、白や赤、朱色の「ツツジ」が満開。で、花の道となっています。

冬の終わり頃から、「ウメ」、「コブシ」、「モモ」、「サクラ」(もっとたくさん見かけたのですが)と木々毎の花を見上げながら過ぎて行き(勿論、「スミレ」や「ナノハナ」などの花々もおろそかにはできませんが)、「サクラ」が散ってからは、木々の若葉や路地に咲いている小さな花々が自己主張をはじめ、そして初夏にいたる前、「サツキ」が満開となって街を彩るのです。「アヤメ」や「ショウブ」も時期を迎えていることでしょう。それから「フジ」が咲き、「アジサイ」の季節となる。こう書いてみれば、なかなか忙しいものですね。年を取ると、忙しくなる。山川草木を追いかけるだけで、一年が終わってしまうものとはよく聞く言葉。

さて、本当に学校です。

昨日、フィリピン人女性二人がやってきました。娘さんの方は、来日してからすぐ(かなあ?)ここで、2か月ほど学んだことがあるそうで、高校へ行ったけれども、わからなかったし、面白くなかったからすぐやめてしまった…そう。行かなくなってから数年経っているので、もう高校へ行く気はない…らしい。

けれども、こちらから見ると、勿体ない。どうにか我慢できなかったのかなあと思います。今年高校へ行った、この学校の学生三人にも、「どんなことがあっても卒業だけはしろ」と、皆で口を酸っぱくして言いました。

高卒の資格がないと、これからの道は狭くなる。或いは、閉ざされてしまう可能性が高くなる。だから、どんなことがあってもやめるなと。

「やりたいことができたから、専門学校で勉強したい」と言っても、高卒の資格が必要ないところはほとんどないと言ってもいいでしょうし、正社員になりたいと言っても、かなり難しいでしょう。

今年の三月に(この学校を)卒業し、高校に無事入学できた三人(一人は日本語がかなりあやふやだったのですが、親御さんがもう一年は待てないと言うことで、受験せざるを得なかったのです。こちらとしては、いくら秀でたところがあっても、日本語が不自由だと、学校生活はちょっと…頼りない限りだったのですが)、まあ二人は「N2」レベル以上、「N1」未満くらいまでは日本語ができるので、高校生活は無難にやれるか、或いは問題があっても、問いかけや主張はできるでしょう。

高校に入れたのだから、それが無駄になるというのは何としても避けてほしい。せっかく三年という猶予期間があるのだから、その間にできるだけ日本に慣れてほしい。

なんと言いましても、ここは日本語学校で、教師以外は皆、外国人。日本の社会をごく自然な状態で見られるというのではないのです。学生達の日本語力が「N2」を過ぎた段階で、「ニュース」なども見せたり、説明なども加えたりしているのですが、分野も限られれば、深さにも限りがある。その点、高校まではいろいろな分野について基礎的なことを学べるので、これを生かさない手はない。

彼らが行った高校では、高校三年間の間に、中学時の復習などもかなり入れてくれるそうですから、そこも頼みになる。

昨日、彼女の話を伝え聞きながら、今年卒業した三人のことを思い出していました。

日々是好日
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高校に入学できた学生のことを思い出してしまいました。卒業まで頑張ってね。

2023-04-18 08:34:45 | 日本語学校
時々、陽は射してくるようですが、全体的に、曇り。

お天気はあまり安定していませんね。北からは、大陸から冷たい空気がド~ンと押し寄せ、南からは海の上を暖かい空気がジワジワとやってくる。夏とか冬であったなら、わりと理解しやすいのですけれども、お天気でも。ところが、このような季節の端境期というのは、わずかばかり、冷たい空気がここまで降りてこなかった(予報図の上で)…だけで、気温が急激に上がったり、或いは、ちょうど鬩ぎ合う場に当たってしまった…で、雷様がお出ましになったり…。地上というか下界同様、天上界でも大変なことになってしまう。

でも、まあ、お天気であったら、お天道様には逆らえないで、終わってしまえますけれども、欲得尽くのヒトのなせることには…。人類というのは「争う」というか「戦う」ことが、「業」になっているようです。「生きる」ためというのではないのに…。

さて、学校です。

「学校です」と言いますか、学校に至までの道のこと。現在、道は、白や赤、朱色の「ツツジ」が満開。で、花の道となっています。

冬の終わり頃から、「ウメ」、「コブシ」、「モモ」、「サクラ」(もっとたくさん見かけたのですが)と木々毎の花を見上げながら過ぎて行き(勿論、「スミレ」や「ナノハナ」などの花々もおろそかにはできませんが)、「サクラ」が散ってからは、木々の若葉や路地に咲いている小さな花々が自己主張をはじめ、そして初夏にいたる前、「サツキ」が満開となって街を彩るのです。「アヤメ」や「ショウブ」も時期を迎えていることでしょう。それから「フジ」が咲き、「アジサイ」の季節となる。こう書いてみれば、なかなか忙しいものですね。年を取ると、忙しくなる。山川草木を追いかけるだけで、一年が終わってしまうものとはよく聞く言葉。

さて、本当に学校です。

昨日、フィリピン人女性二人がやってきました。娘さんの方は、来日してからすぐ(かなあ?)ここで、2か月ほど学んだことがあるそうで、高校へ行ったけれども、わからなかったし、面白くなかったからすぐやめてしまった…そう。行かなくなってから数年経っているので、もう高校へ行く気はない…らしい。

けれども、こちらから見ると、勿体ない。どうにか我慢できなかったのかなあと思います。今年高校へ行った、この学校の学生三人にも、「どんなことがあっても卒業だけはしろ」と、皆で口を酸っぱくして言いました。

高卒の資格がないと、これからの道は狭くなる。或いは、閉ざされてしまう可能性が高くなる。だから、どんなことがあってもやめるなと。

「やりたいことができたから、専門学校で勉強したい」と言っても、高卒の資格が必要ないところはほとんどないと言ってもいいでしょうし、正社員になりたいと言っても、かなり難しいでしょう。

今年の三月に(この学校を)卒業し、高校に無事入学できた三人(一人は日本語がかなりあやふやだったのですが、親御さんがもう一年は待てないと言うことで、受験せざるを得なかったのです。こちらとしては、いくら秀でたところがあっても、日本語が不自由だと、学校生活はちょっと…頼りない限りだったのですが)、まあ二人は「N2」レベル以上、「N1」未満くらいまでは日本語ができるので、高校生活は無難にやれるか、或いは問題があっても、問いかけや主張はできるでしょう。

高校に入れたのだから、それが無駄になるというのは何としても避けてほしい。せっかく三年という猶予期間があるのだから、その間にできるだけ日本に慣れてほしい。

なんと言いましても、ここは日本語学校で、教師以外は皆、外国人。日本の社会をごく自然な状態で見られるというのではないのです。学生達の日本語力が「N2」を過ぎた段階で、「ニュース」なども見せたり、説明なども加えたりしているのですが、分野も限られれば、深さにも限りがある。その点、高校まではいろいろな分野について基礎的なことを学べるので、これを生かさない手はない。

彼らが行った高校では、高校三年間の間に、中学時の復習などもかなり入れてくれるそうですから、そこも頼みになる。

昨日、彼女の話を伝え聞きながら、今年卒業した三人のことを思い出していました。

日々是好日
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『席替え』を考えた方がいいかな

2023-04-17 08:17:04 | 日本語学校

晴れ。

早朝は雲が厚く、雷雨が今にも来そうな空模様だったのですが、今は、お日様が照っていて、とても明るい。

今朝、スーパーの駐車場を横切ってきました。久しぶりです。自転車に乗っていた時には、よく通っていたのですが。ちょっとズルをして、楽をしようと思ったのです。と、春の欠けらを見つけました。「シャガ」がまだ咲いていたのです。「サクラ」も散ったし、「タンポポ」も飛んでいった。春は終わった…と思っていたのに、まだ春は足踏みしていたのですね。

さて、学校です。

留学生ばかりの時には、あまり気にしなくて済んだ座席のことです。留学生の場合、短くても一年間は同級生という事になりますから、相互に多少行き違いがあったとしても、どうにかなる…。ところが、そうでない場合、ちと面倒になることも…ある。

例えば、今の「初級クラス」。三カ国から来た人たちからなっているのですが、中には、一斉授業にあまり向いていなさそうな人もいる。どう向いていないかというと、「人(教師)が話している時は黙って聞く」、「授業中、隣の人に普通の声の大きさで訊かない」といったようなこと…などが守れない。

四月から始まったばかりのクラスです。「始まったばかり」とはいえ、「ひらがな」は終えています。この二週間くらいの間に、どうにか「読める」か、「書ける」ようになった人というのは、うちでも頑張ったのでしょう。先週末から「カタカナ」に入ったそうですから。

ところが、まだ「書けない」人がいる。「書けない」どころか、「読めない」。こういう人は、「覚える」のは得意ですから、「繰り返し」はできる。で、それでお茶を濁す習慣が付いている。

「文字」との関係があまりよくないので、当然のことながら、教科書を「見ない」。しかも、それを何とも思っていない。教科書を見れば、一目瞭然なことも、「読めない」からすぐに、隣近所に訊こうとする。訊かなくても、少し聴いていれば(待っていれば)、やり方がわかるはず(たいしたことはやれませんし、同じことを三回は繰り返していますから)。ところが、待てない。…子供みたい。で、隣の人は、集中して聴きたいのに、邪魔をされるから、聴けない。で、腹を立てる。あの人の隣は嫌だということになる。

場数を踏んでいる教員の場合は、そういう隙を与えないものなのですが、慣れていないと、こういう人に振り回されてしまう。「親切」をやってしまうのです。…これが難しい。

で、席替えを考えなければならなくなる。

最初は、「白紙」状態の人を前列におき、あとは知り合いや同国人で、言語を学ぶ上で勘のいい人とそうではない人を組にして席に着かせるくらいを考えるだけでいいのですが(なにせ、あと一人留学生が来ていないのです)、こういう人が一人入っていると、雰囲気が変わってしまいますから、席替えを考えなくてはならなくなる。

まあ、それにしても、「学校」に勉強に来ているわけですから、一人でできることはやった方がいい(学費ももったいない)。新出語を見て、できれば覚えてくるくらいはやったほうがいい。教室に座っていれば、どうにかなると思わずに。特に、「書く」・「読む」は、どうにもなりませんから。うちでも勉強してから来ている人との差は広がっていくばかりでしょう。そして、だいたいこういう人は、すぐに隣か離れていても、同国人にすぐ訊こうとするし、その後、決まって「わからない」「難しい」と言うのです。

確かに、たいていの人は、そういう人のそばには居たくないでしょうね。

日々是好日

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「黄砂」が飛んできました。のどが痛いという学生があっちにもこっちにも。

2023-04-14 08:14:34 | 日本語学校
晴れ。

「柳青める北上の…」という歌がすぐに口をついて出てきそうなほどの、「ヤナギ」の「緑」です。中国では「玉」にたとえられたりするようですが、日本人には、ちょっと肌感覚が違うような。色よりも触った感じ、軽やかさに目が行くような気がします。

病院の植え込みには、ちょうど「スズラン」が真っ盛り。自転車を止めて見ている人もいました。そのそばに、名前を書いて差し込まれているのがあったりすると、たくさんあるその花の一つ一つが、「名乗り出ている」ようで、どこか微笑ましい。

さて、学校です。

関東地方にも、「黄砂」は飛んできているようで、昨日など、具合が悪いと言って二人欠席。席に着いている学生も(聞いてみると)、のどが痛いだの言っています。ただ、「黄砂」とは「何ぞや」で、説明しても、「はてな?」なのです。

大気汚染が進んでいる国や都市から来た学生にとってみれば、「(先生は)いろいろなことを言っているけれども、まだここの空はきれいじゃないか」というところなのでしょう。(排気ガスなどの)汚染と別に「何?黄砂?」。それとこれと、一体どう違いの?ということなのでしょうね。

日本人にとっては、洗濯物に匂いや埃が付くから、外に干せなくなるとか、うっすらと空が淀んで、青くないとかで、例年ですと、西日本の春の風物詩(…そう言いたくはないが)。それが今年は偏西風の影響で、東日本にやってきた…。話に聞いていた「これが黄砂か」で、大騒ぎなのです。

西の人間にとっては、春の終わりくらい、ちょうど「サクラ」の頃にやってくるので、いつだったか、「せっかくの『サクラ』が、黄砂にやられて、可哀想。今年の「サクラ」は桜色とはならなかった」という時もありましたっけ。まあ、「自然現象」といえば「自然現象」、「土を堀繰り返した報い」といえば、「報い」。「その土地の伝統的なやり方、生き方を尊重せずに、己がやり方」を「押しつけたその挙げ句の果て」がこれ。…と言えるかどうかはさておき、今年はいつもよりひどいようですから、大変です。

もっとも、何事であれ、「自然現象に過ぎん」と、ノホホンと構えていてはならぬわけで、そうにかせねばならぬのでしょう。

海に囲まれた日本でも、海の汚染というのが焦眉の急であった時代がありました。いや、まだその状態から脱却できたわけではない…そうで、永続する力、努力が、より一層必要であるとのこと。

そして、実際に行動を起こしているのは、その地に住んでいる民、人々なのです。

「森は海の恋人」という考え方が、今では、ごく普通のことになっていますが、以前はそうではありませんでした。山は山、海は海で、「山の民」と「海の民」とは、遠い遠い関係にありました。山のことを「海の民」は知らず、海のことを「山の民」は知らぬ。何が起こっても「我がこと」とはならなかったのです。それが、今では、「海の民」が、山の木々の間伐作業に出向いたり、植樹に励んだりしています。そうなると互いに力を合わせ、山を守ろう、海を守ろうとなってきます。

もっとも、こういう「知見」は専門家の間では、古くからあったのかもしれません。それが、その地に住んでいる人たちを突き動かし、自分たちの力で海を守ろう、山を守ろうとなったのには、それ相応の危機意識があったからに違いありません。その「危機を知る力」を身につけた人々は強い。

「お上の言うことを、ただ、口をあんぐりと開けて待っている」だけであったら、こういうことは起こらなかったでしょう。  

「民は由らしむべし。知らしむべからず」を、まだそう信じて疑わない国の首長もいれば、「知らしむべし」を実践できる国の首長もいる。その違いは何なのでしょうね。昔とは違い、為政者であれ、一般大衆であれ、その差は「情報量」だけと思っている日本人は少なくない。「知っているからできる」と「知らないからできない」でしかないのです。だいたい、為政者と民の能力に、大きな差があると思っている日本人は、ほとんどいないでしょう。向き不向きがあるくらいでしょうね。あとは為政者は「3バン」(「地盤」「看板」「鞄」)があって、なりやすいくらい…でしょうか。能力と考えている人は、よほどおめでたい人でしょう。

行動できないのは、その知識が無いからに過ぎない。為政者がそれをわかっていれば、「畏れる」ことを知り、「己の足らざる」を知り、つまり「限界」を知り、そして、人々に助けを求めることもできるのでしょう(この「知」がない人間ほど、人に頭を下げられない)。その上、そういう為政者は、ブレーンと言われる専門家集団か有識者集団かを持っているでしょうから、その「知」を施政に生かしていけば、その国の民にとっては「幸」、同時に他国から侮られることもないでしょう。

おそらく、民を信じることのできる為政者が、一番強いのでしょう。そのためには、やはり教育です。国民のレベルを上げること。学びたい人には学ぶ機会を提供し、知識を増やし、はっきりと自分の意見を言え、同時に譲るべき所は譲れるだけの度量を持つ国民を育てることが必要なのです。国民は「メダカ」であるのが一番いいというような為政者は困ります。

日々是好日
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今日は穏やかな、いいお日よりであるようなのに、黄砂がとんでくるとのこと。外でもマスクは外せませんね。

2023-04-13 07:58:55 | 日本語学校
晴れ。

風はありません。昨日の強風が嘘のよう。これで、黄砂が飛んでくるのでしょうか。その実感はありませんが、車のフロントガラスを見るまではそれかとわからないのかもしれません。

故郷では海さえ見れば、すぐに気がつく…ことだったのに。高台の上から見るような感じだったので、上空の空が薄い黄土色に染まっていたりすると、「黄砂が来た」ことがすぐにわかるのです。

さて、学校です。

教室内ではまだ、マスク着用をお願いしています。特に「初級クラス」の面々は声が大きいのです。これは普段ならいいことなのですが、マスク無しで、近くで大きな声を出されると、まだ、ちとビビる…のです。

勿論、窓を開け(声が大きいので、ご近所が気になり、全開とまではいきませんが)、通気を良くし、机や椅子などは消毒しています。

昨日、卒業生が、可愛い小蜜柑を山ほど持ってきてくれました。八朔のような色合いで、甘いそうです。何でも珍しい種だとのこと。早速、学生達に一ずつ配りました。

うまく就職が決まったとの報告です。三回目でしたと、うれしそう。前の二つは、「契約と違っていたので、やめた」。二回目の職場では、「『約束と違うからやめる』と言うと、『じゃあ、改めるからやめないでくれ』と言われた」そうな。でも、もう嫌で、相手が信じられなかったので、やめた…。おそらくその他にもいろいろと問題があったのでしょう。

この学校にいた時には、気が弱くて、すぐに人に譲ってしまうような人だったのに、大学四年間でかなり強くなったのですね。

卒業生が学校に来ると、だいたい、いつも、上のクラスに連れて行き、学生達に話をしてもらいます。下のクラスでも、同国人がいる場合は、紹介して、話をしてもらうこともあります。今回も、「初級クラス」に、二人スリランカ人がいたので、上のクラスの話が終わった後、彼らの所に連れて行って、話をしてもらいました。

ここにいた時、すぐに相手の力になりたいと、相手構わず、親切にしてしまい、それが時々、仇となって、苦しめられるような所もありました。何度泣きを見ても変わらないなあと少々困ってしまうくらいだったのですが、今はもう大丈夫のようです。

はっきりと自分の考えを言っているようでしたし、嫌なことは嫌と言えていましたから。特に「初級」の女子スリランカ人は日本で言うと高校生くらい、こういうお姉さんがいると心強いでしょう。勿論、まだ在籍しているスリランカ人お姉さん、お兄さんもいることはいるのですが、二人とも、以前の彼女と同じ。気のいい人たちで、日本で大学四年間を過ごし、就職活動で苦労もしたという、こういう先輩とは違います。

卒業しても、何か問題があると、親切なスタッフの所に相談に来る人が多い中、「就職できた」とか、「近くまで来たから会いに来た」というのを聞くと、やはりホッとします。

新聞やテレビなどのニュースでは、あまり明るい話題はありませんもの。日本で生まれ、育ち、生きている日本人だとて、世知辛い世になったものだと嘆いてい向きもある昨今、「とてもいい」という一言が聞けるのは、どういう場合であれ、うれしいものです。

異国で暮らしていく場合、まず、はっきりと言えることが大切です。スリランカの人はよく我慢しがちで、また反対に我慢しないという人は非常にわがままであるという傾向があり、中間がないなあというのを感じていました。我慢しがちであった人が、はっきりと言えるようになったというのが一番強い。

これからも自分の考えをはっきり言いながら(常に相手を考えて行動していましたから、根底のこの性格は変わりませんもの)、それなりに頑張らないで、楽しく生きていってくださいね。日本が、彼女にとって暮らしやすい社会になりますように。

日々是好日
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留学生クラスは、今日からです。

2023-04-12 08:14:18 | 日本語学校
曇り。風強し。

ここ数日、風の強い日が続いています。公園の囲いの外に揺れていた、「タンポポ」もすっかり綿毛を飛ばし切り、丸坊主姿。「あれもこれもツンツルだあ、ツンツルだあ」と言いながら歩いていると、「カタバミ」の花が咲いているのを見つけました。毎日見ていると、日々新たな発見があるようで、楽しい。足の痛みも忘れてしまいます。

そういえば、あるお宅の少々奥まったところに、私の肩くらいの高さまで伸びた、鉢植えの「シャクナゲ」を見つけました。花が咲いていないと、どうもそれとは気づけないようで、思わず「君、こんな所にいたの」と話しかけてしまいました。

春は進んでいますね、「サクラ」が散ると、「青葉」の季節、もう夏間近という気がしてしまうのですが、その前に梅雨の季節があったっけ。それを思い出させるのが「アジサイ」の花。近くの「アジサイ」も随分葉を茂らせています。特に今日など、午後から雨になるとのことですから、雨の匂いを嗅ぎつけて一層元気になっているのかしらん。

さて、学校です。

毎年、苦労していることは多々あれど、その一つに、「日本語などすぐにマスターできる」と侮って、二年目の専門学校に次々に落ちてしまうような学生がいることです。困ったことに、こういう学生の高校、或いは大学時の成績はかなりいいのです。それが仇となって、本人も「なにほどのことかあらん」と自信を持ってしまうのでしょう。

大概の学生は「外国で勉強しているんだ。外国人が先生で、最初から外国語で話している…」と思うようなのに、そうじゃないんですよね(まあ、一概に悪いとは言えないのですけれども)。

彼らの国の「文字」は大した数ではないし、勉強も「書く」という作業はそれほどないようです。なぜなら、少し書いただけですぐに疲れてしまうのですから。「書いて」覚えなくてもいいのでしょう。だから、中国語や日本語の学び方を馬鹿にしてしまうのです。聞けて話せれば、できたことになる…と思っているようです。

毎年(こういう学生が)出てくるので、新たに入ってきた学生で、私が受け持っている場合ですが、それが見受けられた場合は、最初に「ガツン」とやっておくのです。けれども、これが四月生でなく、一人、ポツン、ポツンとやってきた場合には、ちと困る。この「ガツーン」が終わってくるので、それをクラスで繰り返せないのです。ガツーンの後は、クラスを(例外もありますが、たいていは)和気藹々とさせていますから。そういうクラスの雰囲気が出来上がっていると、それを壊すわけには行かないのです。それに、他の学生達は「ガツーン」の経験がありますから、「変な子が来た」みたいな目で見てしまう。

勿論、いくらやってもそれが通じない相手もいます。落ちて初めて気がつくというタイプ。こちらが何を言ってもどこ吹く風。頭も良く、小器用であれば、尚更です。週毎の漢字テストなんて、5~10分ほどもシャシャッと練習すれば覚えられるようですし。で、一応、合格(80点)はもらえる。そこで(作業は)切れてしまうのです。「できた…じゃないよ。覚えなければ何にもならないんだよ」という『(こちらの)常識』が通じない。それどころか、覚えるために一生懸命練習している人を小馬鹿にするという傾向まで見受けられることがある。そこまでしなければ覚えられないのかと蔑んだりする。

けれども、「N2」に合格するのはこの貶められているタイプの方で、「N3」に落ちてしまうのは、シャシャシャとやって、「できたできた」で、すぐに忘れてしまうタイプの方。当然、こういう人は、漢字交じりの文章は読めません。勘で読んでも知れています。

当方としても、「もったいないなあ」という目で見、しょっちゅう注意はするのですが、本当に馬耳東風、特に日本で学びたいことがあると言っている場合は、本当にもったいないなあ…です。

けれども、一事が万事なのでしょうね。母国での経験というか、成功体験が他国では通用しない場合があるということが、なかなかわかってもらえないのです。学校でも、本番(試験)の前に、模試を数回やるんですけれどもね。その時に気付いてもいいと思うのですけれどもね。…なかなかこちらの思っているようにはならない

今、一人、そうなりそうな学生がいるのです。折り毎に、締め付けてはいるのですが。最近(彼の場合は春休み無しで下のクラスで勉強させていたのです)、やっと「日本語は難しい」と言うようになった…この段階までやっと来た。でも、そこで止まっているのです。「だから」と声を大にして、「言われたとおりの勉強方法でやれ!と言うのですけれども、まだわからない。そこまでは行っていないのです。困った、困った。

日々是好日
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スリランカからの留学生が、今日から参加します。

2023-04-11 08:22:52 | 日本語学校

晴れ。昨日に引き続き、晴れ。朝から暖かい。酷暑の夏が近づいていることを感じさせないような、爽やかさ。とはいえ、きっと「あれ」は、やってくるのでしょうね。今のうちにこの爽やかさをしっかりと味わっておこうっと。

街は「ハナミズキ」と「サツキ」に包まれています。「ハナニラ」もパラパラと咲いています。知らぬ間に公園の脇がきれいに刈られていましたが、電柱の下などに、根性君の「ポピー」がかわいらしく花を覗かせています。

「サクラ」の時期が過ぎたとて、なんと言うことはない。懐かしい花々が例年通り、笑みかけてくれていますもの。

さて、学校です。

昨日、スリランカから留学生が一人、学校にやってきました。市役所へ行ったり、ハンコを作ったりと、あちこちへ行かねばならず、くたびれたことでしょう。六日に羽田に着いたとのことでしたが、来たら来で、いろいろと手続きが必要で、すぐに授業に参加するというわけでなし。本人が焦っているかと思いきや、ニコニコと爽やか君でした。。

もっとも、現「初級クラス」は、「ひらがな」も書けない、「あいうえお」も知らないという在日生が大半ですから、途中から入っても大丈夫でしょう、なにせ、留学生は「N5」合格で来ていますから。

やらねばならぬ手続きも一応、区切りが付き、今日から「初級」クラスに入ります。12日から始まる「Aクラス」の、二人のスリランカ人留学生ともうまくやっていけるでしょう。

この「初級クラス」ですが、「ひらがな」も初めてという人達が、八人も揃っての開講というのは、本当に珍しいことでした(四月四日開講)これまでは留学生の中に一人か二人、パラパラと入ってきて、留学生の中に呑み込まれていくという感じだったのです。当然おことながら、「N5」合格者達の中に入っての勉強は大変です。

こういう在日生が日本に来たきっかけというのも、家族の事情というのが多く、日本や日本語について真っ白な状態で来ているという場合も少なくなく、「『ひらがな』。へっ『カタカナ』?どうしてこんなに字があるの?」。授業後に、残して足りない部分を補充したりするのですが、疲れていて、「できない、もう嫌」となっていたこともありました。「覚える」とか「書く」という習慣がない人たちが少なくなく、途中で諦めてしまったりすることもあったのです。なんと言いましても、学校では「できるだけ短期間に」となってしまいますから、こういう人たちには向かないのかもしれません

「外国語の経験がある」といっても、子どものころから自然に覚えただけで、文法やら単語やらを系統的に学んだわけではなく、「学ぶ」というのが初めてであってみれば、やはり大変なのでしょう。「教室に座って、聞いているだけではだめだ」と言われてもピンと来ないのです。「ひらがな」も書かなければ覚えられないし、「カタカナ」もそう…というのがわからない。

「日本語を学ぶためには、まず文字をきちんと覚えて」に、時間がかかる。で、嫌になってしまう。在日の人は、最初は人数が多くても、まず「ひらがな」で、これが通れても、次の「カタカナ」で。そして「形容詞の活用」、「動詞の『て形』」と続くうちに、一人減り、二人減りとなることも多々ある事。

会社から派遣されているとか、「N3」に合格しなければならないとかいった「目的」があれば別ですが、ただ漫然と「日本に来たから」とか、「買い物ができないから」「友達ができないから」くらいだったら、「面倒だ」とか「わからない」で、来なくなってしまうのでしょう。学んで楽しくなるには、もうちょっと時間がかかるのです。それが待てなくて、諦めてしまうのは本当にもったいないと思うのですが。

日々是好日

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