日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日の出」。「江戸東京博物館」参観。「一升枡には一升しか入らぬ」。

2010-01-29 08:21:41 | 日本語の授業
 暖かくなりました。昨日は昼前後に小雨が降りましたが、もう雨が降っても寒くはならないのです。季節も「一雨ごとに暖かくなる」という巡りに変わったようです。

 これまで「寒い。寒い」と「気温」にばかり気をとられていましたが、「日の出」も早くなったようです。今朝も、来てから直ぐに、灯油が空っぽになっているのに気づき、本来ならば、う~んというところだったのです。が、今朝は違いました。もう人工の明るさなど必要なかったのです。外の明かるさだけで、充分事足りました。ほんの少し前までは、電気なしには何もできなかったのに。

 さて、今日は「卒業生クラス」だけで、午前中、「江戸東京博物館」へ行って参ります。昨日「玉三郎」と「助六」を見せたのですが、どうでしょう。華やかなりし「元禄」だけでも、記憶に留めておいてくれたでしょうか。

 しかしながら、まずは、何と言いましても「日本橋」です。カゴに乗ったり、馬車に乗ったり、人力車に乗ったり、また、纏を担いだり、千両箱で盗人の気分になったりと、そこは適当に遊んでもらうつもりでいますが。

 不思議なもので、(このクラスでは)この一年半近く、口癖のように、あるいは、折を見ては言い続けてきたことが、決して(教師側の)徒労にはなっていないのです。当たり前と言えばそうでしょうが、同じように言い続けてきても、馬耳東風と聞き流されてきた時代が長かったので、(ある意味では)今、非常に心が和んでいるのです。

 私自身、「努力」という言葉は、あまり好きではありませんし、使いたくもありません。本心を言えば、「努力」をしたり、「勉強」したりするのも嫌です。人に強いたくもありません。その気になっている人に、その人の望みが叶うように、手助けをするくらいが、せいぜい教師の出来ることだと思っています。皆が何事によらず、好奇心を持って、そのまま進んでいってくれるのが一番好もしいことなのです。

 例えば、「初級」のうちであれば、書いてみたり、共に声に出して繰り返し言っているうちに、日本語が耳に馴染み、自然に覚えていけるようになることが望ましいし、皆でいる時も、遊んでいるような感覚を味わってもらえていれば、それが一番いいことなのです。職業柄、「努力」や「勉強」という言葉を使わざるを得ない時も、あるにはあるのですが、いつもどこかしら後ろめたさを感じてしまっています。

 ところで「卒業生クラス」です。いつもは、カリキュラムに余裕がないので、草花の名前などを教えても、そう繰り返してやるというわけにもいきません。その前の段階で、骨身を削っているのですから。ところが、最近、この「卒業生クラス」の学生達と話していた時のことなのですが、(覚えていないのは覚えていないのです。けれども)草花の名前に抵抗がなくなってきているのを感じました。

 私が口に出しても、ごく自然にそれを聞き、写真を見、春の花だというと、春を待つような雰囲気になるのです。この人達も、最初の頃は、草や花の名前が何なんだというふうでしたのに、それが、だんだんこのような「あっ。ああ、あれ」という表情になってきたのです。私だって草花や鳥、虫たちの名前に詳しいわけではありません。しかしながら、やはり、ある程度は知っておかなければならない部分もあるのです、この国に居る以上。

 こういうことは、折につけ、(たとえ無駄になろうと、)繰り返していくしかないのです。この地にいる人も、その人々が築き上げた伝統も、そしてこの地の人々の感性も、この風土に育まれたものなのですから。

 さて、話は変わります。
最近おかしな諺が耳の中をスッと通り抜けては、また戻ってくるのです。
「一升枡には一升しか入らぬ」…、
「人の心は九分十分」…、
「人は誰でも自分の荷が一番重いと言う」…。

 あるときは、「人は努力次第で、一合枡に二合入れられるようになる」と思ったりするくせに…。どうもいけません。(こちらが学生に対して)手加減をしてやらぬと、却って(彼らが)つぶれてしまうという事態にもなりかねないのです。

 確かに「一升枡には一升しか入らぬ」なのです。

 勉強を始めた頃には、一日単語を10個くらいしか覚えられなかった人も、毎日コツコツと弛まぬ努力を続けているうちに、一日に50くらいの熟語が覚えられるようになってきます。ですから、ある程度は「努力で補える」のです。ただ、「ある程度は」なのです、これも。

 かといって、それで、その人が「劣っている」とか、「頭が悪い」とかいうのではありません。人によって得手不得手がありますから。計画を立て、仕切るのに秀でている人もいれば、多くの人とコミュニケーションをとるのが巧みな人もいます。理解力に優れた人もいれば、実行力が図抜けた人もいます。皆それぞれであるし、人の考えも、多分「九分十分」で、大差はないのです。

 ただ、「ズル」はいけません。皆が同じ条件で同じように真摯な態度でもってやって、初めて「なんぼのもの」なのですから。自分が出来ないから、他の人のを見たり、他の人に書いてもらったりしたら、それはルール違反で、評価の対象にすらなりません。

 それに、「人は誰でも自分の荷が一番重いと言う」のは本当です。自分を見てもそうです。自分が一番大変であるような気がしています。皆そうでしょうが。

 もう少し、自分の時間を取れたらいいと思いますし、どうにかして家にいる時くらいは、仕事に煩わされたくないと思います。適当にしておいても、そこそこのことはできるのにと、自分で自分が恨めしく思われる時もあります。授業の膨らみを持たせるために自分の時間が使われてしまっているような気がすることも多いのです。

 けれども、翻って考えますと、そのこと一つ一つは決して自分の嫌いなことではないのです。嫌なことをやっているわけではないのです。それを仕事と考えるから、自分の時間をとられているような気がするだけで、趣味だと思えば大変でも何でもないことなのです。

 ただ、人は弱いものですから、時には、全く関係のない時間も持ちたくなります。新聞の切り抜き、DVDの整理、何もかも放って、どこかへ行きたくなってきます。とは言いながら、どこかへ行ってしまったら、(仕事は決して減りませんから)倍も貯まってしまいます。

 やることを自分で考えることが出来なかった時期が懐かしい。その頃は仕事に「終わり」がありました。「キリがない」というのは、幸せとも言えましょうが、その渦中にある間は、苦しいものです。

日々是好日
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「朝の十分」。「東風と南風」。「こんな坂、あんな坂(口癖)」。「『願書』書き」。

2010-01-28 08:08:35 | 日本語の授業
 朝の10分間は貴重です。う~ん、確かに。「人の通り」も、十分の差で、全く違うものになってしまいます。まず、人が多い。しかも、いつもですと、きっと、まだ余裕があるのでしょう、ゆっくり歩いています。それが、今日出会った人たちの速いこと、速いこと。セカセカと小走りで、あるいはズンズンと大股で歩いています。自転車に乗っている人も速い、速い。ぶつかりそうになって、オットット。まったく「あわや」の状態です。こういう日は、用心するに限ります。事故に遭う確率が高くなってきますから。日頃、ぼんやりと歩いていますから、なおさらです。

 それに、今朝は、猫たちの姿も、多く見かけました。暖かい風が吹いて、寒さを遠ざけてくれたからでしょう。それとも、風が猫たちを吹き寄せてくれたのかしらん。どうも「啓蟄」の前に、「啓猫」の日がありそうです。ただ、学校の前のマンションが建て替え中というわけで、学校の近くで、猫たちが見られないというのは、少々寂しい…。

 ビュー、ガタガタガタ…風が窓を鳴らしています。天気予報でも強い風が湿った空気を運んでくると言っていましたが、まるで春一番といった感じです。ところで、この風を、ここいらでは何と呼ぶのでしょうか。南西から吹いてくる風です。東風は「こち」、南風は「はえ」だし…と、ここまで書いて、どうも学生達は気の毒ですね。こんな読み方までもあるのですから。

日本人なら、
「東風吹かば にほひをこせよ梅花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな」(菅原道真)
(この歌も面白いもので、私が覚えた時には、「こち吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」であったのです。けれど、万一と思い調べてみると、前出のものの方が古いのです。もしかしたら、「な…そ」の係り結びを覚えさせるために、例に出されていたものかもしれません。とは言うものの、この歌は、『文学』ではなく、『歴史』の本で見かけたものでしたから、そういうわけではないのでしょうが)

 で、「東風」と書いて、「こち」と読むというのは大丈夫なのですが、「南風」と書いて、「はえ」と読むのは、皆、つい忘れがちになっていたのです、高校生の頃。すると、一人が、「暖かくなったら、蠅(はえ)が出るでしょう。蠅を運んでくるから『はえ』だよ。「なるほど」で、皆納得。判ったような判らないような屁理屈でしたが、要するに、覚えられればいいのです。

 思えば、難しい漢字の覚え方なんて、みんな、代々こういうふうにして覚えてきたのです。

 例えば「戀」です。これも画数が多く面倒な字ではあるのですが、たいてい皆間違えません。なぜかといえば、こう言う文句があるからなのです。「『いとし』、『いとし』と『いう』『こころ』」(「いとし」は「恋しい」と「糸(いと)」を掛けたもの、「いう」は「言う」で、「こころ」は「心」)。こういう「七、五」を聞いてしまえば、もう忘れようったって、なかなか忘れられるものではありません。

 というわけで、今朝は、「人も多い、猫も多い。風は暖かく、強い」で始まりました。ここまでは、まあ、よかったのですが、これに、信号が加わるのです。「赤信号に、毎回、引っかかった」で、「赤信号も多い」だったのです。たいていの場所は、それでも大丈夫なのですが、一カ所、ちょいと困るところがあるのです。「帰りはよいよい、行きは怖い」と、歌と全く反対になるというところ。つまり、「行きは上り、帰りは下り」というところなのです。そこで一旦停められてしまいますと、青信号になった時が大変。もう捻り鉢巻きで、リキを入れて、ヨイショッとばかりにペダルを踏まなければなりません。

 そんな時に、急いでいる車なんぞに遭ってしまいますと、「もう災難」を通り越して、むかっ腹を立てて走らなければならなくなってしまいます。優先順位は、人が一番、次が自転車、最後が車のはずなのに、先に行こうとするのです、車の分際で。会釈くらいすれば、譲らないこともないけれど、(運転手の方は)横着を決め込んでいますから、こっちの方を見もしません。(こっちが)グッと睨んでやると、まるで知らぬ半兵衛です。明後日の方向を見ています。しかも、ズズズーイと歩道に乗り上げんばかりに近づいていますから、危なくってしようがない。とんでもない車です。暴走族の兄(あん)ちゃんでも、そんなことはしないで、お行儀よく待っていてくれるというのに。

 と、いろいろな事を考えながら、今日も、その道を越えてきたのですが、その時、ふと「こんな坂、あんな坂、こんな坂、あんな坂」と口ずさんでいる自分に気づきました。

 「『よいしょ』と言ったらお爺(じじ)、『どっこいしょ』と言ったらお婆(ばば)」なんて、子供の時、言っていませんでしたか。今でも、時々、ものを持ち上げる時などに(弾みをつけるようなつもりで)、ぽろりと口から出てしまうのですけれど。

 それと同じで、坂道(勿論、急な坂道というわけではありません。緩いスロープです)を上る時には、「こんな坂、あんな坂」と登り切るまで言ってしまうようなのです。

 さて、もうすぐ8時です。昨日『願書書き』を一緒にした学生は、今朝は何時に来るでしょうか。昨日、帰る時に「試験は遅い方がいい。もし、早く決まっていたら、多分、もう勉強しなかったと思う」なんて、しおらしいことを言っていましたが。

 けれども、それは、本当です。特に試験が卒業後にあるような学生は、この学校で、最後の最後まで勉強できるわけですから。勉強なんて、いくらしすぎても困ることはありません。他の人たちよりも、もっと多くのことを、しかも、個人レッスンで勉強できるわけですから、勉強する気のある人だったら、これほど好条件のところはないでしょう。それは、そのまま、大学に行っても役に立つでしょうから。何と言っても、このペースを崩さないまま、大学での勉強が始められるのですから。

日々是好日
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「空の花と地の星」。「卒業前に、最後に何を入れておくべきか」。

2010-01-27 08:00:01 | 日本語の授業
 昨日の帰りは、寒かった。もう、北風、ビュービューで、久しぶりに「北風小僧の寒太郎」さんの声を聞いたような気がしました。寒さの中で襟巻きを、その名の通り、グルグル巻きにして、自転車を飛ばし(他の人から見れば、ヨタヨタとよたっているとしか見えないようなのですが、本人は、あくまでジェット機並みにゴォーのつもりなのです)、帰りを急いだという次第。

 ところが、こういう時には、神様が「贈り物」をしてくれるようです。「可哀想に。寒さに震えているか、北風は冷たかろう」と。で、プレゼントというのは、み空の花なのです。

  同じ自然のおん母の       御手(みて)に育ちし姉と妹(いも) 
  み空の花を星といひ       わが世の星を花といふ

  かれとこれとに隔たれど     にほひは同じ星と花
  笑みと光を宵々に        かはすもやさし花と星

  されば曙(あけぼの)雲白く   み空の花のしぼむとき
  見よ白露のひとしずく      わが世の星に涙あり     
                                       『星と花(土井晩翠)』

 土井晩翠ときけば『荒城の月』であり、『荒城の月』ときけば、土井晩翠でありましたから、この詩を初めて見た時には驚きました。そして、何やら合点がいったのです。確かに英文学者であったし、英文学の翻訳にも専念した人であったと。

 子供のうちは、何を読んだらいいのかなんて、判らないものです。半ば、「偶然」に支配されていると言ってもいいでしょう。「学校」で指導するといっても、それは「子供の、この時期には、このようなものを読むのがふさわしい」とか、「読ませておきたい」とかいう、大人の合理的で理性的な判断から来るもので、好奇心とは対立した概念のような気がします。

 子供というのは、勝手なものです。気に入ったものはどんどん読み進めていくし、そうでないものは、「義務」で、しようことなしに、大人に付き合うだけです。子供の中にも「そうした方が身のためである」という処世術(?)めいたものはありますから。

 で、子供というのは、心惹かれたものを読んでいるのが常ですが、それと同時に、いわゆる「世界詩集」というものや、「日本詩集」などという、総花的なものを与えてやるのも必要なのです。

 この詩を見たのも、そういう冊子ででした。そうでなければ、知らぬままにいたでしょう。ただ、花と星という言葉の組み方が面白かったといえば、それだけなのでしょうが、漢文調のリズムも心地良く、覚えやすかったというのも事実なのです。

 「和文調」といい、「漢文調」といい、そして、明治以後は「翻訳調」というよく判らない調子も出てきたようですが、覚えやすいと言えば、「漢文調」のものでしょう。「和文調」は難しい。連綿とした想いに心至らねば、読めないし、続かないのです。しかも、「和文調」のうち、大声で元気よく読んで(子供が読むのですから、鬱陶しい顔をして読むとは思えません)、どうにかなるというのは、万葉集の一部の歌くらいで、あとは、なかなかに難しいのです。

 もっとも、わけも判らずに覚えられるという、幼い一時期であれば、話は別ですが。理性が働くようになっていれば、まず、理解しようとするでしょう、子供でも。

 つまり、少なくとも、中学生くらいには至っていなければ、人の死を悼んだり、別れを惜しむといった部分も想像力が働かないのです。イメージで作られる歌というのも多いことですし。

 そう考えていけば、この学校で対象としているのは、殆どが18才以上なのですから、「和文調」のものでも、かなり入れられるはず…なのです。ところが、やはり、この分野では、また違った、それなりの順序が必要であるように思われます。

 ロンドンで、土井晩翠とも同居していた夏目漱石の『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』。これくらいの読みやすいものでも、彼らに朗読させ、それを聞いていると、リズムは取れていないような気がするのです。

 特に詩歌の世界では、各民族ごとの違いは確かにあるものの、共通点というものもあるので、読ませてみれば、民族に関わらず、「よめているかどうか」は感じ取れるものです。理解して読んでいるかどうかの判断は、「感覚的」なものです。

 「知音」で有名な伯牙と鐘子期を例に引くまでもなく、音楽ですらそうです。「況んや言語においてをや」なのです。

 以前、中国の放送局にいたとき、二人の若い人を見て、一人に対しては、「この人は日本のローマン派の詩を朗読していったら、きっともっともっと日本語が上手になるだろう」と思いましたし、もう一人には「この人は俳句だ」と思ったものです。

 それぞれ、人には、本来(母語)の色があります。それに加えて、その人の言語に関する資質があります。これは劣っているとかそういうことではなく、「向き不向き」という色合いのことです。

 (日本語を専門に学び)もう大学を卒業していたり、院を出ていたりしますと、その色合いは随分とはっきりしたものになります。こういう場合、それに手を貸したり、道を示したりするだけで、あとは自然に自分で伸びていけるものです。勿論、これは、「好学の徒」であることが条件なのですが。

 今度、卒業する学生には、せめて「枕草子」の「春は…」の段くらいは、覚えさせ、日本語のリズムを体得するよすがにさせたいと思っているのですが、(時間は)間にあるでしょうか。こういう学生に限って、国立を目指していたりするので、落ち着いて、こういう勉強にはなかなか専念させられないのです。まあ、これは、最後は、予備校と化してしまう日本語学校の宿命なのかもしれませんが。

日々是好日
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「(ABクラスの)授業」。「日本の風土・目に見えぬもの」。「『問い』を発することの大切さ」。

2010-01-26 08:09:25 | 日本語の授業
 学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」の蕾がわずかに膨らみをみせています。近くの学校の「ハクモクレン(白木蓮)」の蕾も「ネコヤナギ(猫柳)」の花穂ほどの大きさになっています。もう少し経ったら、恐竜の爪ほどにもなるのでしょうが。

 この二三日の暖かさで、「春遠からじ!」と勘違いしたのかもしれません。今日は冬将軍が休暇から戻ってくるようですから、また驚いて穴の中へ潜り込んでしまう虫たちも出て来るかもしれません。まったく、人騒がせなとブツブツ言っていることでしょう。

 さて、「ABクラス」の大学入試に関する騒ぎは、ちょいと一休み。国立大の入試が始まるまでは、『論文指導』と『知識(「地球の歴史」、「類人猿の頭脳」、「日本人が、どうやって世界遺産を守ってきたか」「連続ドラマ」「日本語云々」「ニュース」など)』で、静かに過ぎていきそうです。

 『論文指導』は、個別対策になりますので、受け持ち(の教員)も分かれます。勿論、『論文指導』を通しての『面接対策』も行っていきます。一方、『知識』は、DVDなどを用いて行いますから、彼らにとっては、「肩の凝らない授業」ということになるでしょう。試験のために、覚えなければならないという類のものでもないのです。ただ、記憶の片隅にでも残せれば、それでよいのです。そうできれば、これから、過ごすことになる大学生活をより豊かにしていくことができるでしょう。これは、いわば、ここまで、頑張れた人たちへの、「ご褒美」なのです。

 この「ご褒美」は、味わうべきもので、「見た」で終わって良いものではありません。それほど頑張れなかった人や、頑張ったけれどもあまり上のレベルに達しなかった人には、なかなかこの「醍醐味」は味わえないものなのです。

 つまり、「『日本語』で知識を吸収できるようになった」というのは、そういうことなのです。

 「見る」だけなら、日本にいれば、テレビなどを通して、中国やミャンマーにいる時よりも、知的なものが、数多く楽しめますから、それだけでもいいのです。ただ、それが、どの程度、理解できているかというと、そこには「はてなマーク」がついてしまいます。おそらくは、「見た」で終わりといったところでしょう。

 たとえば、動物学に関する知識にしてもそうです。テレビでは、かなり面白くしつらえられてあります。専門的な知識がなくとも、動物学者が蘊蓄を傾けた講義をしてくれていますし、新聞にその時々の所感を述べた文章が載っていたりもしますから、それを適当に楽しめばいい。ただ、日本人と同じように、(今の彼らの日本語のレベルで)さらりと読めたり聞き取れたりするかというと、まだまだなのです。だから、まだ一人では、出来ることが限られている…。

 というわけで、まだ、教師の助けが必要なのです。導入さえしてやれば、今のレベルでも、かなり上の程度まで楽しめます。つまり、こういうことも、少なくとも、一般的な日本人が持っているほどの知識がなければ、楽しめないのです。知的に楽しむというと、少々言い過ぎでしょうか。

 DVDを見る時には、見る前に教師が説明したり、前のDVDとの関係で見たりしますので、知識を拡げたり、深めたりするのに役立つでしょうし、動物の姿(可愛いというだけではありません。そこには、どう見るかという「視点」が必要になります)を見れば、ヒトが如何に思い上がっているかもわかり、少しは一歩退いて考えるようにもなるでしょう。

 日本人には、ヒトもその他の動物も、平等に、同一線上に生きているという、また、そう思ってきたという歴史があります。もっとも、これは、日本人だけではなく、世界各地の民話を探れば、どの民族においても、古くはヒトと動物の区別なぞなかったということがわかります。ただ、それをまだ「心に留めているか」というと、そうとも言い切れない民族が多いのも事実でしょう。ヒトも動物も同じと言うと、どこかしら、「成り下がった」ような感覚を抱いてしまう人も、少なくはないのです。

 ヒトは動物の王というわけではないし、また、彼らを支配しようなぞと思い上がるべきでもない。この当然のことが、いつの間にか、人間の歴史から消えているような気がするのです。

 いつからか、暮らしが自然の流れから外れて行くにしたがって、人工のもの、或いは抽象的なもの、例えば金融商品のような、見えないし、掴めないようなものに、心を惑わされて、右往左往しているうちに、ヒトには自然の風の流れが必要だということも、掴める大地が必要だということも、記憶からぬぐい去られてしまったのです。

 人と離れて、一人、渓谷に立てば、体中が「感覚の柱」になるのが判ります。夜、山の中に一人いれば、そこにいるだけで、山の諸々に圧迫を受ける、か弱い自分に気づくはずです。ヒトは、そういう、自分に迫ってくる力を「神」と呼び、畏れ、敬い、奉ることによって、遠ざけてきました。

 古人の心には、常に、この恐るべき存在の影があったのです。
 勿論、
「神といひ仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは」  (源実朝)
という認識はありましたけれども。

 以前、『大菩薩峠』を読み進めていた時、最後の方で、途中から、作者の心が、宙に絡め取られているような気がしたことがあります。「何ものかに絡め取られているな。目に見えないものを見ているな」という感覚です。それを「山野の精」と言ってもいいでしょうし、「気」と言ってもいい。

 そういうものの中に、作者の心が入り込んでいると思えたのです。
それは、
「秋山の 黄葉をしげみ 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも」(柿本人麻呂)
のように、求めても、得られるとは限りません。ただし、古人は、そういう存在を、今の人よりもずっと信じていたのです。それが、人麻呂のように亡き妻であったかもしれません。また樹や草花の精であったかもしれませんし、風であったかもしれません。

 私たちも、山に行ったり、人里離れた瀬を見たりすると、ふっと何かの存在を感じたりすることがあります。これは、一人で行かなければだめです。頼りない存在にならなければ、人の世界から離れていなければ感じられないものなのです。山の存在、動物の息吹、風の渡りといった、かつては当たり前だった世界の一部に自分がなるのです。

 もしかしたら、ヒトというものは、今でも、こういう世界に、繰り返し帰っていかねばならないのかもしれません。帰って、自らを浄化していかなければ、自分を見失ってしまう、そういう蜉蝣のような存在なのかもしれません。人の輪の中で、始終暮らしていれば、その中を彷徨うしか生きる術を持たぬ者になってしまうでしょう。「自分とは何か」という「問い」を発するということも忘れて。

 とはいえ、「自分とは何か」なんて、おいそれと判るはずもなく、ただ、こういう「問い」なんていうのは、頭の端っこにでもおいておけば、それでいいようなものなのです。置いておくのと置かないのとでは、彼らの人生に、多少違いが出てくるというのも事実だと思いますから。

 そういう「問い」を一つでも多く見つけ、これからも学んでいって欲しいものです。

日々是好日
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「『運』だけに頼るのか、『努力』は」。「早く、来い、来い。『宝』たち」。

2010-01-25 08:13:41 | 日本語の授業
 ふと気づくと、干涸らびて、カラカラになりながらも、それでも、しっかりと枝にしがみついていた柳の葉が、すっかり落ちてしまっているではありませんか。アレレレレです。けれども、これも春が近づいてきたことの証なのでしょう。

 今朝もきれいな空でした。順々に空の赤味が拡がっていくのがわかります。「『明ける』は『朱(あけ)』」と考えていけば、空が焼けるような色であることもわかります。

 「夕焼け」を「寂しい」と見るか、それとも、「華やかである」と見るか。その違いほどのものは、「暁」の空にはありませんが、それも、「終い」ではなく「始まり」だからでしょう。「始まり」というのは、総じて、「希望」を感じさせる言葉です。

 大学入試で、学生達と一緒に志望校を選択する時に悩むのは、「『日本人』にとっての難関校」と「『外国人』にとっての難関校」とが、必ずしも一致しないところです。しかも、それが、年ごとに違っている場合もあるのです。

 その上、同じ大学でも、例えば「経済学部」と「経営学部」で、『日本語能力試験』での「日本語の得点」が、100点近い差がある所すらあるのです。思わず「あり得ない!」と叫びたくもなってしまいます。「どうして!?」なのです。日本人にとっては、「それほどのものか」と、その大学に対して、不満の「紅蓮の炎」を燃やしたくもなるのですが、現実はそうなのです。何と言っても、「現実に」そうなのですから、否定は出来ません。

 それに、「英語」で足切りをし、面接まで持って行けない大学もあるのです。国立やレベルの高い私立では、諸般の事情(これまでに育ってきた各国の教育事情というのがあります)を鑑み、その学生の将来性を買ってやるという太っ腹の部分もなければならぬはずと、考えはするのですが、結局、「素質」や「やる気」よりも、入れてからの「楽さ」を考えてしまうのでしょうね。それも、学問が商売になりつつある現状を考えれば、無理からぬことなのでしょうが、しかしながら、一応、大学という看板を掲げているからには、それなりに責任も考えてもらいたいと思ったりもするのです。

 なぜかと言えば、最近、発展の著しい中国でさえ、生まれた場所によって、受けられる教育のレベルが全く違うからなのです。来日までに受けた教育の差が、これほど大きいと、日本語学校での、わずか二年足らず(最長で)の期間では、これを埋めていくことは、至難の業なのです。如何ともしがたいのです。

 日本語学校では、まず、知識・技能習得の道具たる「日本語」を学ぶことに専心させますから、どうしても「その他の知識」というのは、副次的なものになります。日本語のレベルが低いのに、世界情勢や文学・科学などを語っても、全く意味はありませんから。こう言う場合、まず、必要なのは、「個々の知識」ではなく、それらを見る「視点」なのです(勿論、知識もかなり足りません。最初の頃は、絶句していましたが、最近は慣れました。日本人と同じように知らされていると考えること自体に無理があるのです)。様々な角度から見た有識者の意見を紹介したり、或いはまとめたりして、考える基を作っていかねばなりません。日本では日本語は不可欠です。当然のことですけれど。

 それが、さらに、ずっと遅くテレビ放送が始まった所(つまり、彼らの知識は、国から出ていないし、物事に対する考え方も、村レベルから出ていないということも少なくないのです)とか、自分の狭い行動半径で充分満足している思想(?)の持ち主(これまで、それで充分だった。どうして変える必要があるのか)などになってしまいますと、もう梃子でも動きません。

 前にも書いたことがありましたが、「ODA」についての文章を説明し、作者の述べるところを理解するための問答をしていた時のことです。私としては、「最初は援助を受けても、最後には自立の方向へ」というふうに、話を持っていこうとしたのですが、頑なに
「あげたいんでしょう。だから、もらってあげているんでしょう。それでいいんじゃないですか。欲しい人もいるし、上げたい人もいる。どこが問題なんですか」
と、そこから、一歩も話が進まなくなったことがあったのです。

 「困った時は援助を受ける」。これは当たり前です。日本でも地震の時、世界各国の方からの善意を受け取りました。そして、今、世界のどこかで災害が起きれば、日本の政府も動きますし、日本のいろいろな組織も活動します。

 しかし、それを、何十年も続け、あるいは半永久的に続けても、何とも思わない。当然と思うという神経。これは仏教の喜捨の習慣がなせるワザなのでしょうか(こう発言したのは仏教国の人でしたから)。それとも、彼の国では、貧しい人は永久に貧しいと思われている(それは「生まれ」の問題にしかすぎない。そういう階層に生まれたからと、諦める習慣がついている)ゆえに、国際援助も、そういう捉え方しかできないのでしょうか。国際援助の方法に、「自立」を促すという条項が不徹底なのは、意識的にそうしてあるからなのでしょうか。紐付き援助をその国の政府も求めているから…。

 「自立」。多分、日本人なら、「できれば、生活保」はもらいたくない。それよりも仕事を紹介してもらいたい。自分の仕事を持って自分で稼げる方がずっといい。そして、己の拠って立つ所を固めたい。人がましくありたい」と思うはず。それは、日本では、平等という思想が、確固としてあるからであって、そういう思想の無い所では、それを要求する方が間違っている…のでしょうか。

 話は変わりますが、中国人の学生達と話していて、気がつくのは、「運」や「偶然」に頼っているとしか思えないように見えることです。「努力」ではなく、「運」の方なのです。彼らがしょっちゅう話題にするように思えるのは。誰か(権力か権限のある人です)を知っているとか、誰か偉い人と関係のある人と偶然知り合いになれたとかいった、そういう「運」や「偶然」なのです。そこから見えてくるのは、「努力」だけでは、どうにもならない国、中国の姿なのですが、本当のところはどうなのでしょう。

 それに「悪しき平等主義」です。あの人が出来たのだから、自分も当然出来るはずだという、例の「悪しき平等主義」です。その「できた」のは、「その人なりの努力があったればこそ」という視点が欠けているのです。あの人が出来たのに、どうして自分がだめなのか。ただし、あきらめはいいのです。だって、「運」がなかったわけだからと。

 ここに来た「大卒」の学生達には言います。日本では、「大学院」は「研究する」所で、一から勉強する所ではないのだと。「勉強する」所は、大学か専門学校であると(なぜ、こんなことを言わねばならないのかが、言わねばならないと思い、言い聞かせている私ですら、その理由が今ひとつ判らないのです。どこの国であっても、それは当然のことのように思われますのに)。

 大学院で、その専門を一から勉強したいなんて、本当に日本人の私には、彼らの言っていることの意味が判らないのです。ただ、そういう人にとって、大学合格は難しいのも事実です。だから、結果的には、大学院へ進む前の、研究生になるしか、可能性はない。だから、多分、研究生になろうとするでしょう。しかしながら、一年後か二年後に、それで無事に大学院の修士課程へ進めるかどうかは、甚だ心許ないことなのです。

 とはいえ、多分、初めから勉強したいとか研究したいとか、そういう「頭」はないのかもしれません。ただ「学位」とやらを持っておくと、世間を渡っていく上で便利であると、だから欲しいだけなのでしょう。

 それゆえに、「勉強したい」、「知識を獲得したい」と、シンから思って来日してくる学生は、私たちにとって、大切で、得難い「宝」なのです。彼らのために、教材を準備し、計画を練っていくことは、教員一同にとっても「喜び」なのです。

 本当に「早く、来い。来い。宝たち」なのです。

日々是好日
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「大使館へ、大学(願書提出)へと忙しい学生」。

2010-01-22 12:17:48 | 日本語の授業
 今朝は寒い…という予報でした。確かに、昨日は大気がユルユルでしたのに、今日は(昨日に比べてです。大気は)緊張しているのです。張っているといった方がいいのでしょうか。緩んではいないのです。

 とはいえ、職員室に入ってストーブをつけてみると、室温はそれほど「下」ではないのです。12度もあるのです。今年、一番寒かった時には、室温も4度で、部屋中が凍てついているような感じでしたのに。それに、普通でも、室温は、6度か8度くらいですから、この、10度を超えているというのは、体感温度としては…春ですね。

 さて、昨日も放課後、面接の練習をしました。ただし、一人は来られませんでしたから、一対一での練習ということになりました。来られなかった学生も、最初は来るつもりだったようでしたが、どうも慣れない電車の往復で疲れ果ててしまったようなのです。

 計画では、朝のうちに大使館へ書類を受け取りに行く。それから、直ぐに大学へ向かい、願書を出す。で、うまくいけば、楽勝で戻ってくるはずだったのですが、大学に着いた時には折悪しく、すでに休みに入っており、「1時45分まで待たねばならない…どうしよう」というメールが、友達のところへ送られてきました。それを私もちゃっかり見て、当然のことながら、「助詞が間違っている」だの、「動詞はおかしい」だの文句をつけてやりましたから、電車に乗りすぎて疲れたのやら、文句をつけれられて嫌気がさしたのやらで、また学校へ行くという気力を失ってしまったのかもしれません。

 同じ学生へのメールで、「草臥れたので、今日は行けませんと先生に伝えてください」とありましたから。

 疲れたとはいえ、彼女たちが受けたいという大学(東京都内です)は、ここから、電車で通おうと思えば通えるのです。大学のオープンキャンパスの時でも、オープンキャンパスのハシゴをしようと思えばできるくらいでしたから(もっとも、そういう不心得者はいませんでした。ちゃんと最後までいて、先生の話を聞いて帰ってきましたから)。

 そういう彼らも、もし、地方の日本語学校に入ってしまっていたら、そして、もし、東京の大学へ入りたいという希望を持っていたとしたら、かなり大変なことになります。新幹線か飛行機を使って、その都度、東京へ来なければなりませんし、泊まるところも捜さなければなりません。

以前、ある学生が、
「先生、私の友達が、この学校に来たいと言っています。だめですか」
と聞きに来たことがありました。

 どういう人かと聞くと、彼女の高校時代のクラスメートと言います。その人は、この学生より、一年早く来日し、九州の日本語学校に通っているのだそうです。大学は東京の大学に入りたいから、東京の近くの日本語学校に通いたい。それで、彼女に連絡してきたのだそうです。

 それで、私の答えです。
「まず、その学生が今通っている日本語学校の方が手放さないでしょう。それに」
と、話を続けます。

「あなたは、一度入管に拒否されている。その理由を覚えていますか」
と聞くと、下を向いて、小声で、覚えていると言います。

 実際には、二度目の申請が通り、彼女が日本へ来た時には、私たちは、まじめないい学生が来てくれたと喜びました。何事によらず一生懸命にします。多分、これ以上頑張れないだろうなと思うくらい頑張ります。

 ただ、高校を卒業して直ぐに出した書類では、パスできなかったのです。なぜかと言えば、4級合格の証明がありませんでしたから。それは、他の彼女の同級生達も同じだったと思います。ただ、彼らは「九州」であったということで、審査が緩かったのかもしれません。

 その時、私たちが彼女に言ったのは、
「頑張って4級に合格しなさい。高校を出たばかりで、4級か3級に合格していなかったら、審査には通らない。書類は、北京に行った時に話す」
ということでした。

 最初の審査に、彼女が落ちた時のことを、私は今でも覚えています。それを連絡したのは、私でしたから。「だめだった」と言うと、電話の向こうで、「もういい」という半べその声が聞こえてきました。「もう一度がんばってみなさい」と言うと、「きっと、だめに決まっているから、もう、いい」と言うのです。「頑張って勉強すれば、大丈夫だから、諦めるな」と言うと、喉から漏れてくるような返事が返ってきます。

 二回目の時には、彼女は頑張って、4級に合格しました。そして、私たちが北京に行った時に会って話をし、一緒に書類の確認もしました。この時も、日本語学校に申し込むための書類は、彼女が全部自分で揃えたものです。高校を卒業したばかりの学生でも、一生懸命に、こちらのいう通りにしていけば、揃えられるのです、来日のための書類を。

 そういう辛い思いをして、全部一人でし、この学校に来ているのです。楽だからと、誰かにお金を払って揃えてもらい、楽に入れる所に入った人とは違います。私たちも、来日する前から、こういう関係を築いていますから、彼女が来日し、この学校に入って来た時に、リキを入れて教えられるのです。ああいう辛い思いをしたのは、決して無駄であったわけではないのです。

 だから、「一旦日本へ来てしまったら、後は勝手だ」というふうには行かないのです。

日々是好日
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「暖かい朝」。「『風土』の違いによる『自然の捉え方』、様々」。

2010-01-21 07:47:41 | 日本語の授業
 今朝も暖かです。朝のお天気お姉さんが「現在の温度、15.4度(都内)。昼には18度くらいになるでしょう。これは5月頃の気温。ただし、夜にはグッと下がるようですから、気をつけてください」と言っていました。

 そうなのか。暖かいのか。けれども、帰りには、グッと寒くなるのかと、結局いつも通りの恰好をして外に出てきました。出てみると、地面がわずかに濡れています。どうも、早朝、雨が降ったらしい。

 中国に留学していた頃のことです。ある春の日、友人と世間話をしていて、話が前夜の雨に及んだことがあります。友人は、急に「春雨貴如油」と言いました。確かにその言葉は何かで読んでおり、文字にしてみれば、「ああ知っていた」という類の諺でしかなかったのですが、突然、耳で聞いても、直ぐにそれとは反応できなかったのです。

 どうも、日本人にとって、「春の雨」というのは、「花冷え」とか、「風情」とかを感じさせるものでしかなく、「ありがたい」とか、「生き返るようだ」とかいう言葉には結びつかないようなのです。日本の冬は(日本人から見れば)乾燥しているとはいえ、当時の北京に比べれば、大したことはないのです。「春雨」は、草木の生育を助けるものではありますが、それよりも、雨に洗われた春の草木の美しさを愛でる方に、目は行くのです。

 「春雨は、ありがたいものだ」。また、その「ありがたさ」を表すのに「油」を以てなすというのも、どこかしら判らない理屈なのです。こういうものは、「食文化」や「その風土」を知らなければ、いったいに「どうして???」なので、終わってしまうものなのです。だから、異なった風土から来た人間には、覚えるのが難しいとも言える部分なのです。そんなこと、思っていませんもの。

 学生達を見ていてもそうです。日本人にとって、大切であったり、心地良かったりすることが、反対に厭うべきものになったりするのです。

 先日、面接の練習をしていた時のことです。中国の東北地方から来た学生に、
「先生、雨は嫌い。日本はどうして、こんなに雨が降るんですか」
と、絡まれてしまいました。
「ああ、東北地方には『梅雨』がないからね。毎日、雨が降り続き、ジトジトとしているのが嫌なのかな」
と、軽くいなそうとすると、
「違います。『梅雨』だけを言っているのじゃありません。いつもです。秋も、冬も、雨ばかり」
「(…そんなに雨が降っているとも思えないのだけれど…)」
すると、もう一人の、これは南から来た学生です。
「日本の雨の量って、普通じゃない?私はそんなにいつも降っているとは思わないけど…」
例の学生、
「雨は嫌い、嫌い。ホントにイヤです。日本は雨が降るからイヤ」

 何日か前、雨が降ったのに大喜び。「犬は 庭 駆け回る」ならぬ、「道 駆け回る」とばかりに、はしゃぎすぎ、風邪を引いてしまった「タイ」の中学生さんの話を書きましたが、人間という者は、生い育った風土の影響をどこへ行っても受けてしまうようです。

 私なぞは、「梅雨時」の雨も、「秋の長雨」も、どちらも大好きです。洗濯物が乾かないとか、腐りやすいとか、困る点も少なくはありませんが、シトシトと降り続く雨を見つめているのは、いいものです。「梅雨時」であれば、春から夏の盛りへと、草木が装いを更える頃ですから、その瑞々しさといったらありませんし、また、秋の頃であれば、「物憂さ」と「もの悲しさ」とが一つになり、「詩の世界」へと誘われるまたとない時間となります。

 雨の日は、このように、部屋の中でジッとしていてもいいのですが、誘われるように、外へフラフラと出てしまってもいいのです。「発見」が必ずあるものですから。

 しかも、この年になりますと、それぞれの時期に、それぞれの記憶が溜められていますから、より味わい深いものになっています。で、「私は、雨が好きだけど…」と遠慮がちに言ってみると、猪武者が「えー。私は嫌いです」ときっぱりと断定してみせます。

 こうなると始末に負えません。で、話題転換。話を別の方へ振っていきます。
「さて、最近のニュースは。一番、印象的だったことは何ですか。それはなぜですか」と責めていきます。

 問われた方は、もう雨がイヤだとか、雨が好きだとか言っていられません。「う~ん、う~ん」と唸っています。

 「金融危機」や「住宅バブル崩壊」、「ITバブル崩壊」など、グローバル化が進むことによって、その「負の部分」が、大衆の目にも、だんだん見えてくるようになりました。勿論、グローバル化によって起こされるのは、「暗」の部分だけではありません。けれども、ひと頃、「グローバル化によって、世界は変わる。また変えなければならない。時流に乗り遅れるな」と、考えることなしに、ひた走ってきただけに、この「暗」はいっそう深い闇に包まれて見えます。

 何事もバランスなのでしょう。が、現在、このグローバル化というものは、「『明』の面だけではなく、『暗』の面も持っている。しかもそれがかなり大きいウエートを占めている」という認識が、一人歩きを始めたようにも感じられます。悪くすると、極端にそれだけが語られ、また「ブロック経済」などの「内向き」に、大国の政策が流れてしまう畏れがないとも言えますまい。何事もバランスが大切。拠って立つ所はそれぞれあれど、現状認識は、ある程度、共通のものが欲しい。というわけで、有識者の主張が聞きたいのですが。

 ただ、昨今の新聞・テレビで語られるのは、政治ばかりときています。なかなか、ひと頃のように有識者による主張なり意見なりが公表されていません。専門誌にはあると言われても、専門誌なんぞを読むのは、その仕事に就いている人たちだけでしょう。一般大衆にとっては、やはり新聞やテレビが知識の源なのです。時流に押し流されることなく、問題は、バランスをとりながら、定期的に扱って欲しいのです。それを読み捨てるのではなく、教材として使っているところもあるのですから。

日々是好日
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「旧北海道帝国大学留学生」。「嫌われたがっているわけではないけれど」。

2010-01-20 12:22:51 | 日本語の授業
 今朝は、朝から、寒さを感じませんでした。寒さがスッと抜けていったようです。三寒四温というわけでしょうか。また、きっと、明日か明後日から寒くなるのでしょうけれど。

 今朝は何としたことか、いつも測ったように1分遅れてくる「オシャマサン」が一人、7時半頃にやってきました。
「早いね。早いね。私が一番早いね」
もっとも、早かったには理由があります。今日は朝一で、中国大使館へ行かなければならないのです。それなのに、自分で自分に感動して、「私が一番早い」を連発しています。放っておくと写真まで撮りかねないので、直ぐに追いだしてやりました。

 大使館には、9時前に着いておかねばならないのに(他の人が、「8時半には着いておかなきゃだめ」と言っていましたが)、全く何としたことでしょう。早く起きたことに満足して、それから先へなかなか行かないのです。困ったモンです。一時間で着くと自信満々、それを取らぬ狸の皮算用と言うのですゾ。

 さて、昨日は、放課後、「オシャマサン」の二人に面接の練習をしました。専門に関する分野や社会問題は、今日明日明後日の課題として、まずは「一般的な問い」です。判っていても、思うようには答えられません。相手の意図が那辺にあるかが掴めない時があるのです。それでも、すでに某大学に合格している学生には、余裕があります。初めて受験する者は、やはり大変ですね。

 今日の分が終わり、二人を帰した後、午後の学生達の「ディクテーション」のチェックです。それから、「願書」の提出時に、作文を添えなければならない学生もいますので、それを見ます。それが終わると、頼まれた手紙をもう一度見ていきます。

 この手紙というのが、「親戚捜し」なのです。

 彼女の曾祖父に当たる人が、日本の旧北海道帝国大学に留学し、現地の日本人女性と結婚。そして、一児(つまり、彼女の祖父に当たる人です)を得た。けれども、その女性は数年後に病を得て、亡くなり、曾祖父は、生まれた子と彼女の遺骨を持って帰国。
 60年代に入って、祖父の元に母親の兄弟から手紙が数通送られてきた。しかし、折悪しく文革の真っ最中。日本人と関係があることが判れば、どんな目に遭うか判らない。返事を書くことも、保管することも憚られた。

 と、そういうわけで、日本の親戚との糸がプッツリと切れてしまったのです。祖父に当たる人もすでに80才。「母を恋うる想い」が、母親に繋がる人を求めるのは当然のこと。

 それを託されたのが、夫の仕事で日本へ来た孫娘の彼女というわけなのです。

 とにかく、判っているのは、旧北海道帝国大学で水産を学んだと言うことだけなのです。それで、入試や卒業のご準備で忙しいのは、重々承知の上で、お願いの手紙を出してみようとなりました。

 中国も文革の時期を過ぎ、ある程度、自分を出せるようになると、ルーツ捜しというか、こういうことも、おおっぴらに出来るようになったのでしょう。彼女のように、血縁関係が日本人との間にあったというのではなくとも。

 これまでは、中国へ行けば、「私の叔父さんは日本人に殺された」とか、「日本人は南京虐殺を忘れてはいけない」とか、そういうことばかりを言われてきました。私たちは戦後の生まれですが、そういうことも、知らないわけではないので、初めは黙っています。けれども、それが、一回や二回ではありませんし、十回や二十回でもないのです。普通の日本人にです。何百回かわかりません。とにかく会うと直ぐにこれです。

 そうなると、いい加減、こちらでも、だからどうして欲しいんだなどというけんか腰にもなってきます。日本人は、戦後、個人だけではなく、日本政府も、日本企業も、中国の復興のために、物資やお金、また技術など、少なからぬ援助をしてきました。しかも、日本人はその事実を知っています。知らぬのは、普通の中国人ばかりなのです。


 戦後だけでなく、中国の革命前でもそうでした。孫文に財を傾けるほどの援助を与え続けた梅屋庄吉のことを、いったいどれほどの中国人が知っているでしょう。別に感謝してほしいと言っているのではありません。公平に見て欲しいと言っているのです。自分のことだけ言い募るのは、あまり品の良いことではありませんから(もっとも、梅屋庄吉は、信念に基づいて、孫文を助け、そのことを誇ったりするような人ではなかったようですが)。

 ただ、一つ覚えでそれを繰り返し、建設的な方向に進めなかったという一面も、日中間にはありました(最近はおさまったかもしれませんが)。日本政府や企業のやり方がまずいのか、それとも、中国政府の政策で公表してはまずいと思っているのかはわかりませんけれど。

 戦後、日本は世界の戦争に、一度も荷担していません。外国の人を戦争という手段で殺していません。負けた方は戦争をしていないのです。第二次世界大戦で、勝った方、或いは解放された方が、次々に「戦争」という手段に訴えて、自分の主張を通そうとしているかの如くであるのに。

 こうなると、アメリカに負けたのもよしとせねばならないのでしょうか。『きけ、わだつみの声』の学生達は、「ふるさとの父母のために、死にます」と言って死に向かいました。死にたくなかったのに、生きることを許されなかった若者達の声を、日本人は忘れてはいません。若者にそのように思いを抱かせてはならないし、「人を殺して、死ねよ」と教えるような教育をしてはならないのです。

 もし、日本の教育の原点を問われたら、多分、これが来るでしょう。
もちろん、そのために、何より大切なのは、「外交」であり、それを司る「政治」であることは判っています。誰にも好かれるような「八方美人」の国になる必要は全くありません。

 ただ、今、外国から来た人々と接している時、不安になるのです。皆、「日本はいい」と言います。皆、「日本が好き」と言います。けれど、これでいいのかという一抹の不安がよぎるのです。

 別に嫌われたがっているわけではありませんが。

日々是好日

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「冬に『桜』を想う」。「お留め山」。

2010-01-19 07:51:23 | 日本語の授業
 早朝、まだ暗いうちです。自転車を走らせていますと、だんだん小学校が視野に入ってきます。すると、道へせり出している、黒い闇の塊が目に入ってくるのです。桜です。春には、淡いピンクの雲とも見紛うばかりの花をつける、あの桜の樹です。

 古人は、花見にさんざめく人達を、桜で覆いました。上空から鳥の目で見た時のように、桜の雲間から、町が見え、人々が見え、暮らしが見えるような具合に、描いたのです。

 今、東京でよく見られる桜、「ソメイヨシノ」はそろそろ寿命が来たと言われています。寿命は60年ほどと言われていますから、そうなのでしょう。代替わりの時期に来たのです。私たちを楽しませ、いえ、心を豊かにさせてくれたと言った方がいいでしょう、この代の桜たちは。

 戦後すぐ、荒廃した国土の中で、人々が考えたのは、まず「食う」ことでした。食いつないで生きていくだったのです。そんな餓えに晒された時代に、桜は植えられていったのです。「樹を植えるということは、未来を信じる」ことでもあると思います。今日明日しか考えられない人に、「樹を植える」ことができるでしょうか。当時の日本は貧しかったけれど、人は「未来」を信じることができたのでしょう。

 今、どこへ行っても、桜の名所があります。それが、公園であったり、小学校であったりすると、生きる希望を託したものであることがわかります。今年も咲いたよ。今年もこれを見ることができたといった具合に。

 桜の中には、千年以上も生きている古木もありますが(今でも花をつけています)、その殆どは、戦後に植えられたものです。そして、公害が問題になる頃には、汚染に強い樹(都市の空気は、やはり汚れているのです。自動車が、ブカブカ、排気ガスをばらまいているのですから、人のみならず、普通の神経をしている草木だったら、イチコロでしょう)が、もて囃され植えられるようになりました。見栄えがよく、公害に強い樹です。

 すべては対策なのです。抜本的な解決になると言うわけでもないのですが、当座はそれで間に合わせられるからなのでしょう。人々は桜を見て心を潤わせたい。ところが、弱い桜は大気汚染で次々に死んでいく。これは困った。どうするか。そこに、大気汚染に強い桜があると言う。これはいい。これを街路樹にすれば、人々の心が慰められよう。というわけです。

 桜は排気ガスに弱い。困った。このままでは桜が死んでしまう。桜を殺さないために、きれいな空気を取り戻そう、とはならなかったのです。「ソメイヨシノ」は、大気汚染の中でも、たくましく生きていけるし、見栄えもいいということで選ばれたのでしょう。その木も寿命とあれば、次の代に譲っていかなければなりますまいが、皆、「ソメイヨシノ」でいくのは如何なものか。

 私は、桜の季節にお花見と称して、友人と「小石川植物園」に行くのですが、(ここは草花に名札をつけているのです。それで、桜の季節には、いろいろな種類の桜を楽しめるだけではなく、残んの椿まで愛でることができます)大振りの花びらを持つものから、チマチマとした子供のような花を持つもの、またピンクの濃いものから、清楚な白まで、いや実に様々な桜を目にすることができます。都内のそれぞれの庭園の桜も見事ではありますが、本数が少なければ、桜の周りは人で埋まってしまいます。

 とはいえ、この「桜」という樹は日本の風土によく合っているのでしょうね。このように華やかになったのは、多分、近世からでしょうが。地味な山桜なぞを見ていますと、西行がこの花を好んだ理由が、今ひとつ解らなくなってしまいます。

 その国の風土に合った樹が、根をはり、ふとやかに育ち、花を付け、子孫を残し、拡がっていく。それを、目にし、育った人たちが、歌に詠み、言祝ぐ。それを聞き、覚えた者が、またそれを後世に伝えていく。桜は、歌題としては、そう古いものではないそうですが、それでも、「古今集」の時代まではさかのぼれるでしょう。

 この学校にも、「林学」というか、森を考えたいという学生が来ています。日本という大地であれば、それも、難しくはないような気がするのですが、それが、乾燥している土地であった場合、どうなのでしょう。

 日本には、江戸時代にも、各藩が、それぞれ「お留め山」を作り、森林を保護してきましたし、当時から、「山持ちさん」達が、地勢や気候にあった保護を加えてきました。育てるにしても、むやみに植えればいいと言うものでもないのです。

 「山持ちさん」が、代々伝えてきた山には、要になる部分にそれそれ決まった樹を植えていたといいます。大分県の日田は、日田杉で有名ですが、杉が植えられている山を見ても、所々で色が違うのです。そうしないと土砂が流れると言います。すべてを一色の樹にしてしまうと、地盤が崩れてしまうのです。

 理に叶った育てられ方をした山は、地盤が安定し、水資源が確保され、生態系も保護されていますし、防風・防砂の役にも立つと言われています。それは、この風土に生きた先人達の知恵なのでしょう。経験や、もっと長い歴史が、人に強いてきた「教訓」から生み出されたというわけで、この土地を離れたら、さて、どうなのかという不安があるのは、私が素人だからでしょうか。

日々是好日
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「富士山」。「やさしいお巡りさん」。「忙しい週」。

2010-01-18 07:26:20 | 日本語の授業
 先週の土曜日、治療院へ行った時のことです。電車の窓から、雪化粧した「富士山」が、くっきりと浮かび上がって見えました。冬は、ここからでも、富士山が見えることがあると、聞いてはいたのですが、なにさま、普段、学校と家との往復で終わっているもので、話だけで終わっていたのです。確かに、外に出れば、いいことがありそうですね。しかしながら、この土曜日ごとの通院は、乗り継ぎ三回という、私にとっては「大旅行」なのです。とは言いながら、通い始めて、もう一年になろうとしています。初めて行ったのは、確か、梅の頃でしたかしらん。

 同じ関東と言いましても、沿岸部と内陸部とでは寒さが違います。先日も、道の水たまりに氷が張っていたとか聞きました。しかも、透明の、薄いものではなく、硬く、白かったと言いますから、よほど寒かったのでしょう。それに霜柱も踏めたそうで、全く羨ましい限りです。南国から来た学生達に、あれを踏ませてやりたいもの。きっと大喜びするでしょう。

 最近は、新聞でもテレビでも、検察やら政治やらの話が多く、大学入試で聞かれたら、困るなという話題ばかり。経済やら、グローバル化やらの、それぞれの主張を述べてもらえれば、学生達にも考えさせられるのですが。こういう政治の問題は、それぞれ、どの国にもあるようで、学生達は、こういう話を聞いても、あまり反応してきません。テレビのニュースで知っているとは思うのですが。

 中国人の学生であったら、グーグルの中国撤退の方が大きなウエートをしめているでしょうし、ミャンマーの学生にしてみれば、そんなことたいしたことない。自分の国は、もっとひどいという一言で終わりなのです。かといって、欧米や日本の政治の方がいいというわけでもないのでしょうが。ただ、国民が問題意識をもった時、それを変えることができるかどうか、そういうチャンスが国民に与えられているかどうかという面から見れば、確かに、彼らの国よりも、日本の方が、優れているのでしょう。ただ、問題は、この政治のレベルと同じレベルに国民がいるということなのです。

 ところで、「検察」や「警察」というと、怖いイメージがありますが、町の「お巡りさん」だけは、子供にとっても、「やさしい」存在でした。「皆、柔道か剣道の有段者だよ」というのを聞いたことはあるのですが、それでも、優しいと思えたのは(本当に優しくて、親切だと思います)、特に子供には気を遣って応対してくれたからでしょう。

 小学生の時から、子供は皆、落とし物はいつも交番に届けていました。「5円拾った」時でも、「100円拾った」時でも、「お巡りさん」は、「キャラメルを一粒」をくれました。そして、頭を撫でて「いい子だね。はい、ここに名前と住所を書いて」と言ったものです。それが、中学生くらいになると、学生紛争で、学生達とやり合っている「お巡りさん」や「機動隊」の人を見て、「優しかったのは、あそこのお巡りさんだけだったのかな」と、思ったりもしたのですが、それも、「オウム真理教」が起こした事件のあとの「お巡りさん達」の姿を見て、「うん、やはり、お巡りさんは優しい」と思い直しました。

 実は、ちょうどあの頃、東京駅を使ったことが何度かあったのです。その度に、大勢の「お巡りさん」を目にしました。ああいう大事件のあとです。東京には、各地方から応援の「お巡りさん」が集められ、東京駅は、「お巡りさん」の制服を着た人で、溢れかえっているように見えました。

 全く身に疚しいところがなくとも、二人が一組になって、巡回してくるわけですから、何となく、見張られているみたいで嫌でした。ところが、こんな時でも、時々、大きな荷物を持っておばあさんやおじいさんの先を歩いているお巡りさんを見かけたのです。どうも、東京に初めて来たか、道に不案内な御老人に捉まってしまったのでしょう。もう、こうなると、巡回どころではなくなります。

 「町の人に愛される警察官になれ」という「巡回さん」の本能が、直ぐにムクムクと身を擡げてくるようで、巡回そっちのけで、「こっちです。こっちです」と、荷物を持って先導しています。

 やはり、町の「駐在さん」は、優しかったのです。皆に信用されていなければ、まず、警察の仕事なんてできませんもの。それが当然なのです。

 私は、今でも、道に迷った時、近くの派出所に行きます。そこに行けば、必ず力になってもらえると信じているからなのです。これは、多分、キャラメル一粒で作られた刷り込みだとは思うのですが、習慣というものは、なかなか変えられないもののようです。

 さて、学校は、ますます忙しくなりました。入試を控えた学生達の面倒は、勿論、第一番に、みなければなりません。けれども、それと同時に、来年入試を控えている学生達も放っておくわけには行かないのです。きちんと手加減せずにやっていませんと、必ず、あとでしっぺ返しがきます。で、目を話せない。勢い、5時以降に、学生を残さねばならなくなります。これも、山場がいくつかあって、毎週残すというわけではありませんが、初めての面接を控えた学生には、一二度これをしてやりませんと、どうもうまく流れていかないようなのです。

 今週も、どうもそういう週になりそうです。来年のクラスの方も、クラス編成を変えたばかりですから、(ということは、授業のやり方も変えたということですから)今、手を抜くわけには行かないのです。

日々是好日
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「『冬はつとめて(枕草子)』…か」。「『冬の雨の中』を、駆け回った…タイの子」。

2010-01-15 08:15:32 | 日本語の授業
 今朝も寒い…こうなると、人も動物も身体を縮めながら、道を歩きがちです。特に早朝などは。道を行く人の影しか目に映らないということになってしまいます。寂しいですね。色もあまり感じられません。それが、冬の早朝の、早朝たる所以のものであると言われてしまえば、確かにそうなのですが。

 清少納言は「冬はつとめて」と言いました。温暖化が進んだ現代でさえ、「冬はつとめて」なんて言えないのに、どうして、底冷えのする京都で、しかも、「家の作りやうは 夏をむねとすべし」という建物の中で、「冬はつとめて」などと、のたまえたのでしょう。まったく、彼女の根性には負けてしまいます。風流第一の「好き者」とばかりは、言えないお人柄のように、見受けられますのに。

 『枕草子』のような平安時代の文学が、未だに読み継がれているのは、そこに、彼女の人柄が覗えるし(それ故に面白い。平安朝の宮廷サロンにあって、このような人格が許されたということを勘定に入れれば、もっと面白い)、その上、主張が、単なる跳ねっ返りでないところがいいのです。こんな文学は、試験用に使って欲しくないですね。「試験用」が枕に付くと、どうしても楽しめませんもの。寝転がって、読むモノのような記がするのですが。

 同じ「随筆」というジャンルに入るものであっても、男性の書いた『徒然草』(兼好)や『方丈記』(鴨長明)などとは、趣も内容も、その中に含まれている当時の社会状況への把握の程度も違います。それ故、却って、気楽に読めていいのでしょう。「自分記」であり、「自分周辺記」であるのですから。いわば、今の「ブログ」の先駆者なのです。

 こういうものも、学生達には楽しんで読んでもらいたいのです。古文だから、面倒だと思えば、現代語訳でもいいのです。良いものがたくさんでていますから。けれども、学校で扱うとしたら、やはり、原文のままの方がいいのです。極端な言い方をすれば、朗読だけでもいいのです。

 さてさて、今年は、どうでしょうか。卒業まであと二ヶ月もないのです。授業ができる期間はもっと少ないのです。古典(「漢文」、「古文」)を少しでも勉強しておかないと、「一級」レベルで止まったままということになってしまいます。

 「一級」後は、入試のための授業となり、目先のことで終わってしまいがちなのですが、大学に入ってからの四年間、また、大学院に入ってからのことなども考えますと、それだけでは、授業についていくのが難しいのです。「『古典』に親しむ」とまではできなくとも、「紹介」くらいはしておかなければなりません。(大学や大学院に行くまでに)知識は多少増えているでしょうが、それを「基礎力」と呼ぶには少々抵抗があります。少なくとも、先生方が自然に使う言葉に、右往左往しないようにさせておかねばならないのです。

 とはいえ、「論文」用に、書く練習もさせておかねばなりません。これは、「入試」のためだけではなく、進学してから「レポート」を書く時に役に立つのです。また「若者言葉」も少しは知っておかねばなりますまい。楽しめるのです。特に友達と話す時や、テレビドラマを見る時に。

 また「社会」や「政治」、それに「世界の動き」なども、イロハくらいは知らせておかねばなりません(もっとも、新聞の切り抜きをみせたり、「留学生試験」用に授業などで扱ってはきましたが)。現代社会で生きる人間の一人として、「常識がない」ということになれば、困るのです。大学の研究室で、皆との雑談にも加われないということになってしまいますから。

 ああ、ああ。本当に「就学期間」は短いのです。しかも、これは「準備期間」でしかないのですから。すべては「入り口」へ行くための「基礎講座」なのです。何を専攻しようと、こういうことは、不可欠なのです。日本で学ぶ上での。

 さて、大人達(18才以上)のことは、これで終わりです。話は、「中学生さん」のことになります。
 昨日、この「中学生」さんが学校へ着いたのは、四時半近く(授業が終わるのは、四時四五分)でした(彼女は、中学校の授業が終わってから、この学校に来ているのです)。しかも、問題をしていましたから、別の教室で、早めに「日記の添削」をしてもらうということになりました。

 実は、一昨日、元気がなかったので、皆心配していたのです。けれど、昨日はいつも通りでした。元気にワイワイと賑やかなこと。一人で数人分もはしゃいでいます。それで、担当の教員が、一昨日のことを聞いてみたのです。すると、何と答えたと思います?

「雨の中を走ったから…」
「……?」
「前の日に、雨が降ったでしょう。うれしかったから、同じタイ人の中学生と、『雨だ!』『雨だ!」って言って、雨の中を走ったの。それで、あとから寒くなって、多分あの日は風邪を引いていたの」
 それでも、ちゃんと学校に来たのかと驚きはしたものの、
「まあったく、もう」

 日本には冬があります。冬の雨は冷たいのです。タイにいる時と同じように、雨の中を走り回ってはいけません。口では「まあったく」と言ったものの、言われてみれば、自分だってそうでした。子供の時には、冬であろうと、夏であろうと、関係ないのです。うれしかったら、それをそのまま身体で表現していきます。一番原始的な方法が、叫んだり、飛び上がったり、走り回ったりということなのでしょう。

 まあ、大事に至らずによかった。よかった。高校入試まで、あと少しですからね。今、風邪を引いてしまうと、これまでの努力が報われないということになってしまいます。勿論、結果がどうであろうと、努力が無駄になるということはありませんけれども、ね。

日々是好日
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「寒い朝の学校」。「『大学」に入り直すか、『研究生』になるか」。

2010-01-14 08:33:11 | 日本語の授業
 寒いですね。昨日の朝、学校に来た学生が一人、先生、雪が降っていた…と言っていました。けれども、それを聞いた他の学生が「うそ…」と言っていましたから、あるかなきかの雪だったのでしょう。日本海側は大雪が降っているというのに、太平洋側はカラカラです。

 天気予報によると、これから一週間ほどは、ずっと晴れが続くとのことです。しかも、来週は暖かくなるそうですから、今年は、結局、一度も雪を見なかった…ということにもなりかねません。「大雪は天災」と見なしている所からしてみれば、随分贅沢な言いようでしょうが、やはり、毎年、一度は雪を見ませんとね。何やら、し残したような、忘れ物をしてしまったような、そんな気分になってしまいます。

 子供の頃、私が育った南国でも、「雪」は降りました。「霜」まで降りていたのです。「霜柱」を踏んで学校へ通ったこともあります。今は、この東京湾沿岸でも、こんな風ですから、もう「氷柱」なんて見たことがないという子供もいるでしょう。

 そういえば、「犬は 庭 駆け回り、猫は こたつで 丸くなる」という歌がありまたっけ。あれは嘘です(私の感想)。子供の頃、我が家の犬は、犬小屋で丸くなっていましたし、猫は雪を捕ろうと、庭を駆け回りながら、ジャンプしていました。
 それも、今ではよき思い出ですが。 

 今日も暗い中を学校に来たのですが、運の悪いことに、ストーブの灯油が切れていました。帰りに入れておこうと思うのですが、いつも、つい忘れてしまうのです。スイッチを入れればいいだけならまだしも、朝一番に入れることになる日は少々辛いですね。このストーブは、保って、一日半くらいでしょうか。二日は無理でしょう、灯油を入れずに済むのは。

 暗い中では、そういう作業はできかねるので、しょうがなく、電気をつけてしまいました。早朝の電気は少々気を使います。ここは住宅地なので、台所のすぐ前が、お隣なのです。(お隣の人が)目覚める前だと、かなりの迷惑…になってしまいます。

 職員室にある私の机は、その反対側、道路側ですので、こちらの電気は、もう遠慮せずにつけさせていただいているのですが、お隣の直ぐ前ともなりますと、やはり気になります。けれども、寒さには勝てません。エイッとばかりにつけて、大急ぎで作業を終えて、これまた大急ぎで電気を消しておきます。

 とはいえ、(ストーブを)つけても、なかなか暖まりません。一時間ほども経っているのに、部屋の温度はまだ10度に至っていないのです。底冷えがするという感じです。マンションなどとは全く違います。

 だいたい、7時頃になりますと、普段は、一階と三階の窓を開け放ちにいきます。そして、7時半頃から、暖房を入れておくのですが、それでも、朝の一時限目は、寒いようです。教師の方は動き回るからいいのですが、学生は、せいぜい、声を出して読むか書くかくらいですから、活動して暖まるというわけにはいきません。特に南西アジアから来た学生達には、日本の寒さは応えることでしょう。で、早く暖めておいてやりたいとは思うのですが、この学校が住宅地にあるというわけで、あまりに早く、ガラガラと開けるわけにもいかないのです。

 時々、ブログを書くことに気をとられて、窓を開けるのを忘れてしまうことがあります。当然のことながら、次の段階である暖房まで手が届きません。そうなると、一番初めに来た学生は、悲劇です。とはいえ、今の「Aクラス」の学生達は、(彼らは、ちょっとしたことでも、直ぐに文句をつけるという、すばらしい癖をもっているのですが)こういう時だけは優しい。「先生、大丈夫。大丈夫」と言って、部屋が暖まるまで、寒さに耐えています。

 それも、彼らが、いつも残って勉強しているからでしょう。教師と触れあう機会が多いと、私たちが何をしているかが見えるようになります。そうすると、「感謝」してくれるようなのです。口では戦い合うことがあっても、自分達のためになることをしてくれているという信頼関係は築けていますから、何事かあったときに、助けてくれるのです。

 普段、たいした勉強もしていないのに、要求だけはするという学生達とは違います。努力をしているから、(私たちに)要求するのです。そういう要求には、私たちも、一つ一つ応えてやるべきだと思っています。

 まあ、そういう学生が、寒さに震えることがないように、今から、ちょっと席を立って、窓を開けてきます。

 ありがたいことに、お日様が照ってきました。多分、今日は大丈夫。いつもよりも早く暖かくなってくれることでしょう。寒かったら、お外で「日向ぼっこ」です。「鬼ごっこ」をしてもいいし、「押しくら饅頭」をしてもいい。学生達は、そういうことなら、大喜びですることでしょう。

 とはいえ、「ABクラス」の何人かには、まだ、最後の難関が待ち構えています。そういうことをする時間はありません。特に理系の大学を目指す学生は、「今日、何時に寝ますか」と聞くと、「今日じゃありません。明日です」と生意気な言葉を返して来るくらいですし。うまくこの難関を越えられるといいのですが、あと一ヶ月ほどは辛抱と努力をせねばならないでしょう。

 今の「ABクラス」では、高卒者が(クラスを)引っ張っているので、まだいいのですが、これが「大卒者」が多いクラスになりますと、少々面倒になります。彼らのレベルによっては(つまり、母国の大学で、何をどれくらい学んできているか」なのですが)、大学に入り直した方がいいのではないかと思われる学生も少なくないのです。

 現実に、「研究生」になれても、「修士の試験」に落ちて、「修士」になれないまま終わったという話や、「修士」(これは私立大学の場合です)に、運良くなれたけれども、(他の院生達との)レベルが全く違うので、相手にされず、悲哀をかこっているという話を耳にすることも少なくありません。

 二十年くらい前には、中国の重点大学を出ていても、(専攻したい分野が違えば)「大学からやり直したい」という根性のある学生が、時折見受けられましたが、今はそういう学生も少なくなってしまいました。殆どが、「これを研究したい」というのではなく、手っ取り早く「『学位』をとりたい」で終わっているかのようです。本腰を入れて「(この分野を)やるのだ」という気概に満ちた者が少なくなったのでしょう。「研究」とは縁がないとしか思われない人も、少なからず、大学院を目指しているようですし。

 四年間、それを専攻し、そのうち、二年間は論文を書くために費やしてきた学生達と比べれば、かなり不利だと思うのですが。また、二年間頑張っても「修士」になれなかったという悲哀を味わうよりは、どこかの大学に入って、専門をみっちりやってから、大学院を受け、ストレートで入った方が役に立つし、早道だとも思うのですが。

日々是好日
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「注射」。「『先輩』という言葉には、『責任』と『義務』が含まれている」。

2010-01-13 09:54:15 | 日本語の授業
 昨日は、午前中、結核診断のために、市川市の保険上へ参りました。学校は休校です。駅で皆と8時半に待ち合わせ、何人か落ちこぼれた学生を、一人の教師が拾いながら、それでも、無事に約束の時間前に着けました。

 (学生達を)拾いながら来ている教師が、(問診が)始まったときには、まだ来ていませんでしたので、私が最初に問診を受けました。最初に血液検査をし、最初にレントゲンを撮ってもらったのです。

 ところが、面白いですね、学生達の表情が。何とも言えず、面白いのです。本当は面白いなんて言ってはいけないのでしょうが、最初に私の名が呼ばれた時のことです。ふと皆を見やると、みんなは、これ以上真剣な顔はできないと言わんばかりの表情で、私の一挙一動を見つめていたのです。緊張しているのですね。「なんてこった。こんな(まじめな)顔ができるなら、普段、授業中にやってみせろよ」と思わず、呟いてしまいましたけれど、吹き出さなかったのが不思議なくらいです。

 けれども、そんなことは言えません。血液検査と聞いただけで、逃げ出しそうな人が何人かいましたから。学校で簡単に問診票に書き込んだ時に、不覚にも、レントゲン検査と血液検査と言ってしまったのです。それで「血を採られる」と思ったのでしょう、恐れ戦いて、翌日、学校を休んだ人がいたくらいでしたから。

 とはいえ、保健所の看護士さんは、さすがにプロ。注射が上手でした。ほんの少し、ごくごく少し、蚊が刺したほどのチクリがあっただけで、痛みなど全くありません。終わってから、看護士さんに「注射が苦手な人がいるので、宜しくお願いします」と言いながら、笑顔でドアを開けて外に出ると、皆の視線が集まります。

 一人が「先生、痛くありませんでしたか」と、なぜか、声を潜めながら聞くのです。わざと「へ!何が」と言ってみせてやります。

 一般に、日本では、看護士さんのほうが、お医者さんより、ずっと「注射がうまい」と言われています。誰だって、痛い思いをするのは嫌です。ということは、学校であろうと、職場であろうと、注射をしなければならない時には、自然に、注射の上手な人のところに人は列を作るということです。

 私が子供時代(随分昔のことです)でも、「あの病院には注射の上手な看護婦さんがいるからね」というのが、その病院に行くための必要条件でした。そうじゃないと、子供なんてわけが分からないのですから、行きっこありません。子供にとって大切なのは、直るか直らないかではなく、痛いか痛くないかという目先のことだけなのです。苦しくて気を失っていない限り、いくら親でも連れて行けないでしょう。

 そういう人(注射の達人)がいる所は、(評判を聞いて)人気が出来ますから、当然、病院も儲かります。そういう人がいない病院は、よほどのことがない限り、人は行きませんから、「閑古鳥が鳴く」ということになります。で、その方面のプロになるための技術、正確に、的を絞って突き刺すという、つまり、痛くさせない技術を磨かなければならないのです。

 ということで、行きは、多少緊張していたかもしれませんが、帰りは、いつもの課外活動の時と同じように、冗談を言ったり、笑ったりといつも通り賑やかでした。しかも、学校は休校ですから、皆はニコニコしながら、帰っていきます。「明日は学校よ」と言う声も、どこまで聞こえていたかしらんという有様でした。

 12時前には学校へ戻れていたでしょう。ただ英語の先生だけは、授業がありました。一昨日が休日でお休みでしたので、国立大学を目指す学生のために、来てもらい、いつも通り90分ほどの授業をしてもらいました。

 彼らの授業が終わって帰る時のことです。二人はすでに某有名私立大学に合格していましたので、余裕があります。特に発表が先週の土曜日にあった学生などは、先生方から「おめでとう」「おめでとう」という祝福を受け、「はあ、はあ」と少々気恥ずかしそう。ふ~ん、この小生意気な学生でも、こういう表情をする時はあるのだと見ていると、急にキッとした表情になり、
「先生、いけない後輩がいます。知っていますか」と言うのです。

「知りません。そういう人がいたら、注意すればいいじゃありませんか。あなたは怖い先輩なんだから」
「(ムッとして)私は優しい先輩です。その人とはスーパーで会いました。私はその人を覚えています。課外活動で一緒だったことがあります。『Eクラス(初級)』の学生です。何というか、つまり、外国人です」
(???あなたも、日本では、外国人なんですけれど…)
「私は、この前の課外活動の時にちゃんと顔を覚えていましたから、挨拶に来るかなと思って、じっと待っていました。でも、来ないんです。私のことが気づかないんです。私の方に来たんですけれど、すみませんと言って、私をのかして、行ってしまったんです。いけないですよね。私は先輩なのに」

 本当に、いつの間にか、日本的な怖さを身につけていました…。これでは、大学を卒業してから、万一、大学院に行かずに、そのまま日本企業に就職してしまったとしたら、「『お局様』一丁上がり」ということになってしまうでしょう。クワバラ、クワバラ…。

「どうして、その時、声をかけてやらなかったんですか。まだ「初級」の人だから、皆毛のする時でも、少し緊張していたと思いますよ」
「でも、先生。私は先輩です。向こうから声をかけるのが当然です」
(怖い、怖い…)

 さて、三人が帰ろうとした時のことです。玄関で(いろいろな活動をした時の写真を貼ってあるのです)、
「先生。この人、この人。この学生です。私を無視したのは」
「無視したんじゃなくて…、緊張して見えていなかったんでしょう。初級の人には、みんなから声をかけてあげてね。(そういう気遣いまでしてやるから、先輩と言うの)」
 とは、言いましたが、果たして、どこまで判りましたことやら。

世界各地の民族には、それぞれ伝統があります。その風土に根ざした習慣と言ってもいいでしょう。遊牧民には遊牧民なりの、移動を基本にしたものがありますし、(土地に縛り付けられている)農耕民にしても、また然りなのです。

 こういう習慣は、表層的な部分だけ見て、それを真似しても、あまり意味はないのです。もし、それが形だけのものであったら、すでに亡びているはずです。風土と関連を持ちながら、それが民族性にまで昇華している。その民族と、分かちがたいものなのです。

 日本では、運動部の「クラブ活動」に限らず、文化部であってもそうですし、また「クラス活動」や「学年」対抗、「学校」対抗など、「集団で頑張る」というのが基本なのです。これは、子供の時から始まっていますから、大人になって「祭り」などの「町内活動」でも、「会社組織」においても、このやり方は、威力を発揮します。

 そして、「一日の長」があれば、(他の人より)一日分の知識や経験があるわけですから、その人を「先輩」として奉るのです。一方、奉られた方は、(奉られた限りは)義務が生じてきます。「後輩」に、それを伝えるという義務です。(そうしなければ)後輩から見れば「白白地」奉ったことになってしまいますから、だれもその人を「先輩」として大切には思ってくれないのです。そんな人を、だれも「先輩」扱いはしてくれないでしょう。

 「先輩」というのは、言葉だけのものではないのです。「責任」を持って「後輩」を育ててくれるから、「先輩」なのです。

 これからは、緊張している「後輩」を見かけたら、声をかけてあげてね。そうすれば、きっと、本当の「先輩」であると見なしてくれるでしょう。

日々是好日
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「乏しい明かり」。「捨てられぬ世の また厭わしき」。

2010-01-12 07:51:24 | 日本語の授業
 どこまでも電信柱が続いています。電信柱が続いていると言いましても、こうもくらいと、見えるのはその柱の真ん中ほどにある電灯だけなのですが、その光で、電信柱が浮き上がって見えるのです。

 今日は、直に雨が降り出すそうですから、湿度も高いのでしょう、空が淡く桜色がかって見えます。この電信柱というのも、近頃はよく悪者にされているようですが、私など、昭和の人間にとってみれば、あの頃の「思い出」と重なり合って見えるのです。

 ひとりぼっちで立っていた電信柱と、その懐かしい灯。その笠の下の乏しい明かり。時折よぎる黒い人影。思い出はどこまでも、暗く、切なく、そして、今も静けさが続いているのです。

 さて、現実に戻ります。「現実に戻る」と言いましても、現実の方が色が少ないのです。思い出の方が、淡くはあっても、美しく、色合いが豊かなのです。 

 ところで、こういう日本語学校などに勤めていますと、価値観を共有することの難しさを嫌でも感じさせられます。わずか60人にも満たない学生の中に、11ヶ国、14民族がいるのですから。

 普通は「目的が同じ」であれば、それなりに「同志」と言えるのでしょうが、それは、なかなかに難しいことなのです。「進学が目的で来日した」と言っていても、彼らの頭の中には、「もし、~だったら」という思いが見え隠れするわけですから、「皆、目的は同じ」と、一言で片付けるわけにはいきません。

 同じように笑い、同じように泣く。辛いことは、同じように辛いし、嫌なことも同じように嫌だと感じる。しかしながら、違うのです。「していいこと」と「してはいけないこと」の区別が、感覚的に、或いは習慣的にといった方がいいのかも知れませんが、違うのです。

 中には、いくら言っても判らない人がいます。これは言葉の問題ではないのです。理解できる力が非常に欠如しているからなのでもないのでしょう(多少は欠如しているのでしょうが)、「意識の問題」と言った方がいいのかも知れません。

 「それは、いけないことだ」と言い、また、「それは非常に恥ずかしいことだ」と言う。いくら言っても、そう思えなければ、どうしようもないです。「私の友達もそうやった」と言われてしまえば(本当にそうなのかどうなのかは判らないところですが。少なくとも、私が教えた学生で、そうやって合格できた人はいません)。それ自体が、受け付けられなければ、どうしようもありません。また、怖いことに、得てしてこれは、その民族が「共有している意識」でもあるのです。

 こういう「病(やまい)」は(勿論、私たちから見てです)、ある観念を共有している人に、あっという間に拡がります。日本での「恥」を伝えようとしても、こちらが意図するようには伝わりません。それどころか、同じ民族の一人が感じた、その「感じ様」のままで、そのまま、同じ民族に、あっという間に広まるのです。

 それは、ある意味では、当然のことなのかも知れません。以前、来日20年くらいの中国人を教えたことがありましたが、その人でも、まだ「価値観」は、日本人とは全く違っていました。それどころか、「感じ方」も全く違うのです。「感心するもの」も、「感心の仕様」も、全く違っていたのです。

 当然のことながら、これは「民族が違うから」という理屈では割り切れない部分もあります。資質にもよるのでしょう。ただ、それが判る人は、本当に少ないのです。

 国が違っても、民族が違っても、性が違っても、価値観を共有することはできます。また、(私は日本語教師ですから)日本人の持つ価値観を伝えた時に、直ぐに判ってもらえる人もいます。けれども、それは、難しいのです。年齢も高くなり、普通の能力しかなければ、「知る」ことは出来るでしょうが、「変なの!」で終わってしまう場合も少なくないのです。いえ、それどころか、「左の耳から右の耳へ」で、いくらしつこく諄く言って聞かせても、全くといっていいほど耳に残らない人も少なくないのです。

 こういう仕事は、「人を信じて」全力でやらねばならないという部分が時が多いのです。人が相手ですから、最初から、「この人はいくら言ってもだめだろうな」と思いながらでは、続けていけないのです。人間はそれほど根性がある生き物ではありませんから。

 それだけに、それが空しい結果しか残らなかったときには、それ以上に「裏切られた」という思いしか残されなかったときには、もうその人の顔さえ見たくないほど嫌になります。しばらくは、誰も相手にしたくなくなります。

 人は、どうしても自分の価値観でしか行動できない生き物です。勿論、私もそうです。ただ、ここは学校でありますから、進学目的の学生が多いのです。ということは、ある程度、日本人の価値観を強要してもいいし、また「すべきである」という場所です。

 日本へ来て、進学したいという、その人の能力・資質、そして、今の日本語力、それから、もし、大学院であれば、面接に行くときの大学の教授の気持ちなどを忖度しながら、一番、彼らの望みが叶う様な形で、事を進めていこうとするのですが、本人がそれを信じてくれなければ、それは徒労に終わります。「(同じ民族の)ある人がこうであったから、自分もそうできるはずだ」と信じ込んで、勝手なことをしていけば、恥ずかしい結果しか残りません。

 それが、判っているからこそ、口を酸っぱくして注意し、その人にとって最良と思えることを勧め、そのための指導をしていたというのに、全く無視して勝手なことをしていたとは。

 結局、判ろうとしない人には、何度言っても同じことなのでしょう。一度言えば、すぐにそれと察して判る人。二三度言えば判る人。いつ判るか判らないけれど、十回二十回と繰り返して言っていくうちに、判るであろうと思われるであろう人。本来なら、そういう区別をつけながら、日本語の勉強とはまた別に、指導していかなければならないのでしょうが。

 けれども、何度も言いますが、ここは日本語学校で、大学を卒業してきている人も、大学は卒業していないけれども、30才に近い人もいます。若くても、19才くらいなのです。皆、子供ではないのです。

 国で、価値観を共有する村の中で暮らしてきた人に、「それはいけないことだ」「それは恥ずかしいことだ」といくら言っても、もう頭には入っていかないのでしょうが。

 ただ、「人間的であることと、人情的であることが混同される」のは避けなければなりません。一人のために、何人もの人が同じ失敗をしてしまったら、取り返しが付かなくなります。

とはいえ、
「世の中は、不昧因果の小車や よしあしともに巡り果てぬる」
何がよくて、何がいけないのかは、その地に住む人が決めること。習慣にしかすぎないと言ってしまえばそうなのです。

 私とて、中国にどれほど長く住んでいようとも、中国的な価値観には慣れませんでしたし、その通りにしようなんて思いもよらないことでした。それどころか、ああいう考え方で物事を行ったら、そして、それが習慣になってしまったら、日本ではもう働けなくなると思ったくらいでしたから。

 その国のやり方に慣れない人は、そういうやり方でやらなくても済む国へ行けばいいことですし、それができなくとも、帰れば済むことです。ただ、どうしてもその国で何事かを得たいとか、やりたいとか思ったら、それは、その国の人の価値観に、ある程度、添った形で物事を行うべきです。私だって、自分を曲げながら、ある程度、そうしていたのですから。

「われながら 心の果てを知らぬかな 捨てられぬ世の また厭わしき」(藤原良経)

日々是好日
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「授業内容の変更」。「『教材』選びの難しさ」。

2010-01-08 09:23:09 | 日本語の授業
 今日も晴れのようです。しかし、外へ出たときには、まだ闇の中でしたから、月と星の有無で判断します。もっとも、素人判断は怖いかもしれません。

 学校に着いても、ブログを書くために、時間は割けませんでした。急に、今日の授業のやり方を変えたのです。それで、その準備に追われました。卒業生を送り出すまでに、あと少ししか時間がないのです。あれも入れておかねば、こういう授業のやり方に慣れさせておかねばと、いやでもいろいろな事を考えてしまいます。

 というわけで、一応授業計画らしきものは立てているのですが、直前に、やはりあれを入れておかねばということで、入れ替えてしまうこともあります。もとより、こういうやり方は、あまりいいとは言えませんが、こういう小さい学校ですと、他の教員のことを余り考えずに、判断を下せます。また、日を逐うごとに変わっていく学生を目にすれば、一ヶ月前に立てたものでも、また一週間に立てたやり方でも、まずいと思えることもあるのです。

 教科書がありさえすれば、それに則って、やればいいわけですから、教師の裁量というものは、余り関係ありません。入れ方の問題であったり、内容の深度の問題であったりするだけです。が、この時期は、何と言っても、最後ですから、大学へ行っても恥ずかしくない程度のものは入れておきたいし、やり方にも慣れておいてもらいたいのです。

 というわけで、結局、授業の準備に6時半から9時までかかってしまいました。これも、自己満足と言われてしまえば、そうなのでしょうが。

 卒業生クラスの授業を今日は二コマ持っています。また30分の休みのうち、20分ほどは、DVDを見せるつもりです。今日は金曜日ですから、切れるのはまずいということで、差し替えです。あとのコマの「論文」練習のための内容に急遽換えました。

 これで、少しは彼らの考えが深まるといいのですが。

日々是好日
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