日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「晩秋というよりも、小春日和の一日」

2011-11-30 11:49:44 | 日本語の授業
 快晴。風もなし。
 今朝も空が少し焼けていました。お日様が出るとは思えなかったのに、朝焼けです。昨日の夜、お月様が雲に薄く覆われていたので、今朝は曇りだと思っていたのです。

 空の赤さが映ったのか、雲は黒く見えました。この色も光りも宇宙から来ているかと思えば、なにやら宇宙という存在が身近なものに感じられます。宇宙の始まり、ビッグバンが起きてからずっと宇宙は拡張を続けているだけだとばかり(漠然とですが)思っていたのに、それにも軌道があり、私たちの銀河も、その法則に従って廻っているとは。

 地球というのは、その中にあって、どれくらいの存在になるのでしょう。確かに小さい存在であるけれども、宇宙の流れの中で、それを構成しているネジの一つであることは間違いないことですし、なければ、宇宙の流れにも、もしかしたら、小さな歪みが生じるかもしれない。そして私たちは、その地球に生息しているヒトに属するものであることも、また確かなこと。

 こう、とりとめもないことを考えていくと、不思議なことに(宇宙について思いをめぐらせているというのに)、気が大きくなるどころか、どんどん自分が小さくなっていくような気持ちになってしまいます。あまりに大きな存在について考えてしまうと、矮小な人は、自身の思考の幅を超えてしまうのでしょう。それで暗くやるせなくなってしまうのです。

 とはいえ、蟻の思いも天まで届くです。こんなふうに考えて、足掻くなんて、つまらぬこと。ヒトとは、なんと言っても、木の葉一枚の幸せを噛みしめることができる存在なのですから。

というわけで、学校です。

 今年もまた11月に入った頃から、裸足の学生を見つけては、「風邪をひくから、靴下をはけ」だの、膝下が出ているようなズボンをはいている学生を見つけては、「冷えは下からやって来る、長ズボンをはけ」だの、いたちごっこの生活指導に明け暮れています。

 しかしながら、いつも、だめなのです。この中途半端な寒さでは。今日にしても、早朝で11度、昼も17度。これくらいの寒さでは、高を括っている、若い彼らに、靴下をはくように言っても、言うことを聞かせることができません。

 彼らが驚くような「寒さ」が来なければ、靴下も長ズボンも、彼らから縁遠いままなのでしょう。

 そう言えば、昨日、午後の受業が終わってから、学生たちと話している時、一人が、「虫が入ってきた…」。見ると「蚊」なのです。いくら何でも、11月の下旬です。「時を弁えろ」と思わず、(品のないことですが、蚊に)心の中で毒づいてしまいました。学生たちが言うことを聞かないのも宜なるかな。

 子供のうちは、薄着に慣れさせておくべきでしょうけれども、大人になって、南国から(日本へ)来たという人には、話はまた別です。冬の足音が聞こえていても(木の葉が散る、木の実が赤くなる、山茶花が咲く…)、心身共に「寒さ」に対する備えができないのです。

 慣れていれば、今は薄着であっても、(「どれほどの寒さが来るものであるか」というのがわかっていますから)「元気ね」と言われて、終わりですが、そうでなければ、きっと(寒くなれば)、あたふたすることでしょう。悪くすると、風邪をひいてしまうかもしれません。「これくらい(の寒さ)であったら、暖かくして部屋で寝ているだけでいい」とか、「それ以上であったら病院に行ったほうがいい」とかいう勘も働かないことでしょうし。

 転ばぬ先の杖とも言います。結局は口を酸っぱくして言い続け、指摘し続けなければならないのでしょうが、こういう天気が続くようでは、(日本の寒さで)脅すというのも難しいし。何せ、今はモンゴル国から来た学生がいますから。

 先日、「今、何度くらい?」と聞きますと、「マイナス15度くらい」と言っていました。その頃、この行徳(昼間)では20度前後くらいでしたから、これでは(寒くなるよといくら言っても)脅しがききません。

 ところで、この「ベトナム、インド、モンゴル」から来た学生たちよりなる「Dクラス」も、やっと来週から「初級Ⅱ」に入ります。今週と来週に、まとめのテストをして、それで「初級Ⅰ」は終わり。「初級Ⅱ」に、一応、冬休み前に入ることができそうなので、ホッとしています。

 ただ漢字はちょっと…かわいそうですね。「四級漢字」は、だいたい覚えられたようですが、これとても、1日か2日でも、練習をサボると、直ぐに忘れてしまいます。しかもこれと同時に「三級漢字」の方も学んでいかなければならないのですから。

日々是好日
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「落ち葉掻き」。「やりたいことを探そうはいいけれど」。

2011-11-29 12:41:45 | 日本語の授業
 街が随分華やかになりました。この華やかさは、どうも桜の紅葉によるものらしい。オレンジの中に、ピンクが紛れ込んだような色合いで、時には宝石のようにも輝いてみえます。

 路肩には、風で運ばれてきた木の葉が重なって溜まっています。二筋の水の流れのようになっていて、どこまでも続いているのです。

 そういえば、先週の土曜日、近隣の公園に、皆が集まって、「落ち葉搔き」をしました。枝もかなり落ちており、これが袋に入れる時に邪魔になるのです。 運良く風がなかったから、よかったようなものの、掻く人の上をまたハラハラと落ちてきては、せっかく集めたものをと空しくなってしまいます。やはり、掻いたら掻いたなりに、すっきりしてほしいもの。

 さて、木々の最後の宴が紅葉なら、虫たちにとってはなんでしょうか。既に地中で眠りについた虫も少なくはないでしょうに、「ハチ(蜂)」は依然として活発に行動しています。迂闊でしたね。今朝、スリッパに足を入れた途端、チクと刺されてしまいました。不思議なもので、足を抜くことも忘れ、これはいったいどうしたことだと考え込んでいました。

 まず、頭に浮かんだのは、キャンプで出会った「ムカデ(百足)」のチクです。しかし、マンションの三階で、「ムカデ」というのはないだろう。では、「ハチ」か。とはいえ、部屋に入ってきた「ハチ」を見たことはないし…思い当たる節がない…。けれども、このチクは、確かに虫に刺されたように思われるし。

 それから、ハッとして足を抜いてみると、足の指の上に「ハチ」が乗っかっていました。「ハチ」の方でも、朝の寒さで弱っていたところに、急にむんずとおかしなものが入り込んできたわけですから、そりゃあ、攻撃せずにはいられません。もちろん当然のことです。

 そういえば、鉢植えを、昼の間だけでも陽に当てようと思って、外に出しておいたのがまずかったのかもしれません。もう虫がつかないだろうと高を括っていたのですが、蝶の卵ならぬ、蜂が潜んでいようとは。

 さて、学校です。
 最近、「Aクラス」では、「試験が近づいているんだよね」と、時々強調したくなるようなリラックスした雰囲気が続いています。いいのでしょうか、これで。

 進学を考えている学生たちに、「まず、好きなことを探せ。それからだ、何もかも」というのが、やたらに受けてしまって、「さあ、自分の好きなこと、やりたいことを探そう」という気分に、皆が、なってしまっているようなのです。

 本当は、日本語力というしっかりしたものがないと、「あれもやりたい、これもやりたい」が、絵に描いた餅で終わってしまうのに。

 ただ、点数だけで、やりたくもない所へ追いやられるよりは、ましでしょう。なんといっても、やりたいことができるのならと、頑張る気にもなれるでしょうから。

 多分、学費の高さを別にすれば、日本にはいろいろな専門学校があって、それこそ、何でも学べるように思われるのでしょう。ただ、専門学校は、特に質の高い専門学校は、厳しいのです。簡単に入れませんし、出るのも難しいのです。入学できても、途中で、(厳しさに)耐えきれなくてやめてしまう学生だっているくらいですから。これは日本人でも同じです。

日々是好日
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「成長したのは、学生だけではなかった…」

2011-11-28 08:37:56 | 日本語の授業
 今日は快晴では…ありません。あろう事か、秋なのに、冬のもったりとした厚い雲に覆われています。まあ、秋の長雨とも言いますから、こんな曇りの日もあってもいいのですが、寒くなりますと、お日様が恋しくなります。それに、お日様さえ出ていれば、野良猫でも、家猫でも、かわいいのでも、不細工なのでも、お外をぶらぶらと歩く姿が見られますから、心がホンワカして、安らぐのですが。

 今朝、メールを見てみますと、卒業生から、ゼミに合格できたという知らせが入っていました。日本の大学に入ることによって、ずんと大きくなったと感じられる学生は幾タリかいるのですが、この学生もその一人と言ってもいいでしょう。

 この学校で、日本語を勉強している間は、苦手な言語の勉強です。話したくないのに話さねばならないし、書かねばならない。しかも、小説や散文なんてのも読まなければならない。国でだって、全然読む気にもならなかった分野なのに。

 その上、「問い」なんてのがある。えっ。何を言っているかだって。どんな気持ちかだって…。「答えよ。選べ」と書いてあるけれども、どれを選択していいのかわからない。あああ。どうしても点数で結果を出せない。私はだめだ、だめだと、こんなふうにぼやいているばかりだったのに。

 やはり、人は関心のあること、好きなことをしたほうがいい。そうでなければ、大学四年間は辛いだけでしょう。好きなことを選んで、それに向かって進んでいると、人という者は大きく変われるものなのですね。自信ができるのでしょう。ですから、(それまでは言えなかった)わからないことをわからないと言えるようになるのでしょう。知りたい、できるようになりたいという気持ちが、すべてに勝って。

 しかも、相手がその道のプロです。彼らの気持ちが本物であるかどうかはきっと匂いでわかるのでしょう。で、合格。まずは良かった、良かった。

 実は、この申し込みを書かねばならないから手伝ってくれと、朝、八時頃、やってきた時、「どうして、このゼミを選びたいか」と、彼女の気持ちを尋ねたのです。が、以前とは全く違って、はきはきと答えられたのに、びっくり。

 大学入試の時でさえ、(願書に作文めいたのがあって、いろいろ書かねばならなかったのですが)こうではありませんでした。何をどう書いていいのかわからないし、だいたい自分の気持ちを整理することすらできなかったのです。

 それが、「私は、どうしてもこのゼミを受けたい。自分の希望はこうだから、この先生のゼミを受けることは自分の将来にとって、とても大切であると思う」とちゃんと言うことができたのです。

 「好かった、好かった」と、他の教員にも話して、喜びを分かち合いました。

 ところで、変わったのは、彼女だけではなかったようです。

 これは、別の卒業生とのことですが、彼らがやってきた時、一人が今度「N1」を受けるから問題のプリントをくれと言ったのです。それで、私がそれをコピーして、渡そうとすると、「えっ。先生、コピーできるようになったの?」と二人が異口同音に叫んだのです。

 思わず、ムッとして、「できる」。
「ええっ!ありえない。5,6年前はいつも失敗していたのに。すごいねえ、先生。成長したねえ」

 ムッとしたままでいた方がいいのか、あるいは褒められて喜んだ方がいいのか、本当にわかりませんでしたけれども、どうも、学生だけではなく、私の方でも、この四、五年で、成長しているようです。

 なんと言いましても、ブログに文章を書き続けているのですから。もっとも、私は書くだけです。管理も何も、それ以外のことはできません。書いて載せるまでは、できるようになりましたが(最初の頃は、直接書いていたので、書いたと思って、すべてを消してしまったことがよくありました。そうなると、また一からというのは…無理です)、それ以上はどうも…、私には、荷が勝ちすぎるようです。

日々是好日

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「願書の下書き」。「内定が決まったとの報告」。

2011-11-25 16:57:28 | 日本語の授業
 晴れ。昨日に引き続き、快晴です。

 学生(一人)の入学願書の下書きが、昨日でやっと終わり、ホッとしています。ここは、願書に800字程度のものを二つ、そして100字程度のものも一つ提出せねばならず、山場は、選考日ではなく、願書の提出日、というような気分にさせるような大学なのです。
 
 学生共々、こちらとしても願書書きの指導に精を出さねばならず、特に中国から来た学生は、素直に自分の気持ちを書くという訓練を受けていないものですから、まず、心の垣根を形づくっている太い杭を、一本一本引き抜いていくという荒っぽい作業が必要となってきます。これがかなり手強いのです。

 己の身の分際に合わぬようなことを書いて来たり、自尊心と劣等感と、そして他者に対するおべっかとが、微妙に入り交じったような、何とも言えぬものを書いてきたり、時には、昂揚しまくって、こちらが心配になってしまうようなものを書いてきたりすることもありますし。指導する方としても、その中の、残せるものは残し、消し去るべきものは、バサバサッと切って捨てておかねばなりません。

 学生の心の引き出しを開けさせ(これがなかなか面倒なのです。偽引き出しも、偽偽引き出しもあるくらいですから)、できるだけ、正直な部分、素直な部分を選び出し、私が要求していたのはこれであるということを、まず、彼らにわからせていかなければなりません。どういうものを、(日本の)教員が求めているかが、(彼らの世界のものとはあまりに違いすぎて)わからないのです、最初は。

 外(文章の中)に現れたものの中に、(形は変えられていても)必ず彼らの本心が隠されています。たとえ、それが一滴であろうとも、それを逃せば、また偽りの世界に引き戻してしまうことにもなりかねず、用心しいしい、しかも後戻りさせぬようにしながら、書かせていかなければならないのです。ただ、二三週間という短い期間でやっていかなければなりませんから、うまくいかない時もあります。

 人というのは弱いもので、ぎりぎりにならなければ何事もできないのです。土壇場で、「本当は」などと言われても、間に合うはずもなく、こうなると、次に賭けるしかありません。そういうわけで、第一回目の願書というのは、その訓練を始める端緒となるだけという場合も少なくないのです。

 ただ、こういう作業を行う度に、これまでにも(彼らの国で)作文を書かねばならぬようなことはあったであろうに、いったいなぜなのだと心配になってきます。

 子供の頃から受けてきた教育、そのままの色に、染め上げられ、日本に来ているわけで、今さら、変われないという人もいます。高校を卒業してから来ていれば、それほど時間を必要とせず、案外早く、素直な自分に戻れものなのですが、それが大学まで行っていますと、彼らの殻の厚さたるや、押しても引いても、ハンマーで叩いても、どうにもこうにも、にっちもさっちもいくようなものではなく、時々、お手上げ状態になることもあります。

 大半は表面的なもので、日を過ごしていますから、いくら外国に来ていても、自国と他国の違いがわからず、自分の国でやってきたようにしてしまうのでしょう。

 ところで、水曜日、卒業生が二人やってきました、袋一杯の鯛焼きと内定をもらったということを手土産に。とはいえ、(内定は)もらったものの、学校にも行かなければならないので、今は二足のわらじを履いているとのこと。

 早いものです。ついこの前、ああでもない、こうでもないと進路を決めたばかりのような気がしますのに。もうあれから四年も経ったということですね。

 彼らは大学進学後も、学校の近くに住んでおり、時々、近所のお祭りなどで見かけていました。「ずっとご無沙汰しているから、敷居が高くなって、来にくかった」と言いながら、一度、来てくれてからは、また少し、縁近くなっていたような気がしていました。

 内定が決まったとはいえ、留学生は、学校にも行かなければなりません。同じように内定が決まった日本人学生は、もう学校に行かなくてもいいのに、不公平だと愚痴をこぼしていましたが、まあ、決まっただけましなのでしょう。

 「そう言えば、先生。○○君達が、先生は優しいと言っていた。私たちは、絶対に違う。とても厳しいといくら言っても、いや、優しいと言い張ってきかない。どうしてなの。本当に優しかったの」

 これは…難しいですね。同じ学生であっても、打たれ強い者と、打たれたら、直ぐにヘナヘナとなってしまう者とがいます。能力は普通でも、気が弱いし、根性もあまりない、はっきり言えば、毎日学校に来て授業を受けているだけでも、よしとせねばならぬ学生もいるのです。そういう学生を、わざわざ、嫌な思いをさせてまで打つ必要もないでしょう。

 厳しくするということは、厳しくする方も疲れるのです。体力の面においても精神的な面においても。一時的ではあれ、恨まれたり、嫌われたりすることですから。それなりの変化が、相手に期待できなければ、また、それだけで半分死に態になってしまいそうな学生には、なかなかできるものではありません。

 ちょうど彼らはこれから日本の会社に入るわけです。会社に入って厳しく指導されなければ、会社側はこの社員は見込みがないと思っているのだということを、ついでに言っておきました。

日々是好日
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「『ネコ』は、食べ物、それとも家族?」

2011-11-18 11:28:49 | 日本語の授業
 曇りどころか、雨までぱらついてきました。昨日は見事な秋晴れでしたのに。まったく、「○○と秋の空」とはよく言ったものです。いや、それにしても、最近は、最低気温が10度を切ったと騒ぐくらいですから、それほどは寒くなかったのでしょう。今日だって、最低気温は11度で、しかも、これから暖かい空気が雨を運んでくるという予報ですから、もっと暖かくなるはずです。とはいえ、暖かさに慣れた身にとっては、11度でも、かなり寒く感じてしまいます。

 温暖化のせいとはあまり思いたくありませんが、多分、そうなのでしょう。ただ、被災地では、既に雪が降りました。今朝も寒さがいちだんと厳しくなっていることでしょう。

 ところで、昨日、「Dクラス」の授業の時、何かのついでに、近くのスーパーの辺りを縄張りにしている、例の「盗人被りのネコ」の話をしたのですが、すると、ベトナム人学生が、知っているといかにも嬉しそうに言いながら解釈を加えはじめました。もっとも、「大きい」と言い、手でそれを表すといったくらいのことでしたが。

 以前、中国人学生から、日本のネコは皆、シッポを手術しているのかと尋ねられたことがありました。「シッポが切れて、ひねられている…」。なるほど、そういうシッポのネコは少なくはありません。ただ、捕まえて(その中には野良も入っている)、一匹ずつ手術をして廻るほど、日本人は暇じゃないのです。

 中国のネコのシッポは、私の見た限りですが、皆長くて、フワフワしていました。あれがネコだと思って日本へ来ると、シッポが短い。しかも、先端が、結ばれているように見える。これは何としたことだと驚いてしまったのでしょう。大学入試に備えて、面接の準備をしている時、少し前までは、カラスの多さと、ネコのシッポが話題になっていましたっけ。隔世の感がありますが。

 ベトナムにもネコはいるようですが(当然ですが)、嘘か真か、彼らはイヌとかネコとかが話題になると、すぐに、口を揃えて、「おいしい」と言うのです。こっちが眉を顰めるのが面白くてそう言っているのか、あるいは本当に食べるのか、今でも確としないのですが、もし本当だったら、ネコを連れて彼の地に長期滞在なんてできませんね。

 中国で仕事をしていた頃、同じホテルに住んでいた欧米人の女性が、「私のイヌがいなくなった。知らないか」と尋ねに来たことがありました。彼女は、同じ棟に住んでいる外国人の部屋をみんな廻っていたようでした。話によると、ホテルの従業員が掃除に来て、ドアを開けっぱなしにしている間にいなくなったらしいのです。私がこんなに探しているのに、見つからない。食べられたのかもしれないと、涙で顔はぐちゃぐちゃになっていました。私も密かに、そうかもしれないと思ったのですが、ただ老犬でしたので、食べはしないだろうという気がしました。

 家族の一員として、動物を見るのが当然だという国から来た人と、食べ物としてみる国の人とは、ある一線で話が通じ合わないところがあります。特に日本のように、高齢化が進みいますと、これはもう、家族以上の存在になってしまいます。人の本性というのは、もしかしたら、弱いものを守りたい、愛しいものを守りたいから始まっているのかもしれないと思わせるほどなのです。

 もちろん、愛しいものを守りたいというのも、そこにいてくれるだけで、心の寄る辺となっているからなのでしょうが。

日々是好日
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「アルバイト先の人たちが話す言葉が、やっとわかった」。

2011-11-17 13:34:02 | 日本語の授業
 快晴。今朝は、きれいなオレンジ色の空から始まりました。来る時、昨日よりも少し中天に近いところにお月様が覗いていました。餃子形の月です。少し風が吹いていましたが、(学校に)着く頃には、風も殆ど止み、日溜まりに立っていれば、まるで、今日は「小春日和」。三階の日当たりのいい部屋は、ポカポカとして暖房いらずですし、ここで、ネコの子のように丸くなって、うたた寝でもできたら、どんなに幸せだろうと思います。最近、ネコの姿をよく見かけますし。

 とはいえ、そうも言っていられず、いつものように、学校中の窓を開けに走ります。今は、(学生が来るまで)開けたままでいいのですが(来ると、寒いと言って、勝手に閉めます)、これがもっと寒くなりますと、一度開けてから、二、三十分くらい経ってから、今度は閉めに廻らなければなりません。それから下の階では、暖房をつけておきます。そうしないと、学生が氷室の中で勉強しなくなくてはなりませんから。

 昨日、「Dクラス」がやっと普通形の「問題」部分に入ったのですが、やはり普通形ともなりますと、会話のスピードが速く聞こえると見えて、「先生、もう一度」という声が頻繁にかかります。

 そして、多い時には、五六度も聞かせたでしょうか、最後にやっとわかった時、必死になっていた学生が、「あああ、わかった」と、ホッとしたのでしょう、大きく伸びをして、万歳ポーズです。

 やはり、アルバイトで苦労していると見えます。工場などでは、丁寧語など使ってもらえません。やっとアルバイト先の人たちが使っている「会話文法」の先端に触れたのです。これまでは、「すみません。これは何ですか」というのが日本語だと思っていたのに、アルバイト先の人たちは、学校で習うのとは別の日本語を話す…わからない。それが、わかった。つまりは、「これ、何?」なのだ、というわけなのでしょう。

 漢字圏の学生なら、いざとなれば、漢字で書くという手があります。けれども、その拠ってたつところがなければ、素のままで、異国で異国人と相対さなければなりません。これは、辛い。日本語能力試験の「N4」か「N5」に合格してから日本へ来ていれば、日本でブラッシュアップをする程度ですみます(もちろん、『初級』の基礎からやりますが、それでも周りにいるのは日本人ですから、発見は多いはずです)。つまり、「聞くこと・話すこと」の練習で、すむのです。

 けれども、それが、非漢字圏の学生であった場合、「ひらがな」であろうと、まず読むのに時間がかかる。その上、「カタカナ」があり、「漢字」まで、後ろに控えている。漢字の意味を説明しながら、教えていくのですが、彼らにしてみれば、「午」を覚えたら、次に「牛」が来た。頭が出ているかどうかで、「×」になったり、「○」になったりする。一応、漢字を教える時には、象形文字をいれたり、成り立ちの理屈を話したりしているのですが、いかんせん、「初級Ⅰ」レベルでは、説明できることが限られています。

 まあ、どちらにしても、気長に、コツコツとやっていくしかありませんが。

日々是好日
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「北風小僧の『白い息』」

2011-11-16 09:23:21 | 日本語の授業
 今朝は、寒い。窓を開けるなり、北風小僧のビュ―という白い息が流れ込んできました。思わず、ワッとせっかく開けた窓をまた閉めてしまいました。冬の到来です。

 今朝のこの風で、もしかしたら、色づく前の木の葉が落ちてしまうかもしれません。心は、はや次の課外活動、「紅葉狩」に飛んでいます。

 空に浮かぶ白い残月を横目に見ながらの、通勤です。忙しなく歩いて行く人々と無縁の世界を、あの無機質であるが故に、清々しい白い存在に見て、人は、立ち止まったりするのでしょう。

とはいえ、陽の当たる方、陽の当たる方と選びながら道を歩んでいる自分に気がつきます。もう日溜まりが恋しい季節になりました。ついこの間まで、木陰を選びながら歩いていましたのに。

 さて、学校です。
十月開講の「Dクラス」ですが、かなり普通の授業ができるようになりました。教師がいる時には、「大声で私語をするのは慎むべきだ」ということと、「テストの時にカンニングをするのは悪いことだ」ということが、共通認識として定着したような気がするのです。

 実際には、ついつい、思わず(今でも)してしまうようですが、私と目が合うと、「しまった」という顔をしますから、すぐわかります。以前のように、「平然と」とか「うるさい、また文句を言っている」というような表情は、覗えません。

 だからというわけでもないのでしょうが、一二週間前までのイライラがかなり消え、「さて、彼らの力をどこから伸ばしていったらいいのか」という建設的な観点から考えられるようになってきました。

 それまでは、(相手の考え方を)更地にする(乱暴な言い方ですが、授業中、私の大声が届かないのです。黙ってみせるとか、いくつかの手を、それなりに打ってみたのですが、それが通じるような、ある種の感受性を相手が持っていないと言うことに気づいてからは、やめました。実力行使に移ったのです)ということに、精力の半分を割いていたわけですから、かなり疲れていたのです。

 何事によらず、建設的に考えることができるようになれば、人は疲れとは無縁になる…は無理でも、無縁に近い存在になれます。同じように日の半分を費やしているとしても、モグラたたきをしているような無力感に苛まれるのと、ゲーム感覚で遊びながら双方の力が増していくというのとは、違います。

日々是好日
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「盗人被りの毛の白黒ネコ」

2011-11-15 12:28:56 | 日本語の授業
 窓を開けてみると、ベランダが濡れていました。空気がしっとりとして、風も心なしか、今日は冷たく感じられます。青空はどこかへ行ってしまったようです。東北、北海道では雪が降っているとのことですから、関東地方に、冬将軍が来るのも近いのかもしれません。

 今朝、通勤途上、向こうの道を白黒のネコが歩いているのを見つけました。早速近づいていきます。先日も、話しかけると答えてくれたネコがいましたから、今日もネコも返事をしてくれるかもしれません。それと悟られぬように近づいていきます。途中、右折した車に邪魔されて、一瞬ネコの姿を見失ってしまいました。が、なんと言うことはない、ネコはネコで避難していたのです、車から。また道に戻って歩き始めています。

 だんだん近づいていくと、ちょいと厳つい顔をした雄ネコです。声もドスがきいています。黒毛が、盗人被りそのままに、頭のところに生えています。鼻の下にも、手ぬぐいを結んだような黒毛が生えていますから、これはもう、そのままです。しかも、ちょっと褒められたご面相ではない。

 とはいえ、呼びかけると、もの問いたげに、じっとわたしの顔を見つめています。逃げようともしません。へっぴり腰ながら、一応、きちんと見つめてくれています。最初は「ミー子さん」と呼んだのですが、どうも、あまりにおっさん顔なので、「ミー夫さん」に変えてみます。

 本人(本猫)は、可愛げに出した声かもしれませんが、油を差すのを忘れたドアみたいな声です。触らせてくれるかなと手を伸ばした途端、逃げられてしまいました。彼が許してくれた距離というのは、せいぜい一㍍くらい。それ以上は近寄るなというところなのでしょう。

 友人に、捨て猫を拾ってきて育てている人がいます。今いるネコは、ある大学の医学部の近くで泣いていたと言いますから、これはかなり強運なネコと言えるでしょう。そのまま、あそこにいたら、(医学生達に)どんな目に遭わされていたかわかりません。

 時々、友人達の話を聞いていると、本当にネコと一緒にいたくなります。

 そうは言いましても、年がら年中、一緒にいられるというわけではありません。ひとりぼっちの時間が長いと、ネコの方でも寂しいのではないだろうかと、そんなことも考えてしまいます。子供の時に飼っていたネコは、皆、随分と寂しがり屋でしたから。

とはいえ、彼らがいたら、もう少しわたしも優しくなるかもしれない…という気がしないでもないのですが、なかなかそうは行かないでしょうが。

日々是好日
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「日本に来たら、やはり『日本人の理屈』で、動いたほうが、いいと思うのだけれども…」

2011-11-14 14:39:20 | 日本語の授業
 昨日は、『留学生試験』でした。なぜか、八時頃に来た学生の顔はすっきりして見えました。まずはともあれ、「終わった」というところなのでしょうか。

 昨日に引き続き、今朝も、曇りがちながら、晴れ。暖かく、その暖かさの中で、ぼんやりしていますと、十一月も、もう中旬に入ったのだということを忘れてしまいそうです。

 先日、この学校を出て、大学へ入り、無事に就職できたという学生が、訪ねてきてくれました。その時に、ついでにと言っては何ですが、専門学校か、大学かを悩んでいる学生たちに話をしてもらいました。

 彼はインド圏の人です。彼の時も、大学に行った方がいいと(私たちが)いくら言っても、「いえ、友達はみんな専門学校だから」と言って、オープンキャンバスにさえ、行こうとしませんでした。

 土壇場で、とにかく行くだけでいいからと、引きずり出すようにして大学の方へ説明を聞きに行かせたのですが、その時に、運良く、親切な先生に出会い、根気よく(彼の)話を聞いてもらい、一言「君が勉強したいことは、全部、この大学で勉強できると思うよ」と言っていただき、それが、最後には彼の背中を押してくれたのです。

 そういう過程がありましたから、同じくインド圏の学生であれば、私たちが言うよりも、互いの事情がわかっていますから、話にも納得がいくのではないかと…そう思っていたのですが。

 どうも、彼らは(進学する場合)日本語の能力以外に、彼らなりの損得尽くの計算をしてしまい、どちらが得か損かで決めているようなところがあるのです。専門学校に行ってから、大学に行くと(彼らは)簡単に言うのです(その方がお金が安くて済むと、本気で思っているのです)。安くもない入学金を二度払うんだよと言っても、大学は、休みが長いよと言っても、厚い壁にぶち当たっているようで、みんな、はね飛ばされてしまうのです。

 ところが、彼の話で、ぐらぐらと来、どうやら気持ちが変わったようです。「先生…大学へ行くとしたら…」と、担任に言いに来たそうですから。

 異文化というと大仰に聞こえるかもしれませんが、「進学」一事にしても、東アジア圏の人間同士でしたら、勉学、あるいは進学に対しては、共通の気持ちの流れや、ほぼ同じような理屈があり、話が通じる場合がおおいのですが、文化圏が異なってしまうと、男女の差、身分(この身分というのも、私たちにはわかりかねるのですが、彼らの内部では非常に大きなウエートをしめているようです)、経済的なものなどによる障碍が屹立しており、生半可(私たちはそんなつもりではないのですが)な説明や説得では、心を動かしてもらえないのです。

 私たちと(彼ら)話していましても、双方向の、いわゆる会話というものではなく、彼らによる「言いっぱなし」に近いのです。わかってもらいたいと訴えるだけで、私たちの話は、右の耳から左の耳です。いくら言っても(相談を、形の上では受けているわけですから)耳に入っていかないという無力感。結局は自分の辛いところをわかってくれと訴えたいだけで、私たちにいい案を出してほしいとは思っていないということが、伝わってくるのです、ビンビンと。

 何が障害になっているのだろうと思うのですが、つまりは文化でしょう。彼らも、私たちが彼らの望んでいるようにしないほうがいいと思っているというのがわかっていますから、その言い訳をしなければならないと思っているのでしょう。

 まあ、いろいろありましたが、一応は大学を受験するということになりそうです。それでも、(大学を)受けたい、(大学に)行きたいと思っていても、行けるかどうかはわかりません。そこのところも、まだあまりわかっていない人がいるような…そんな気がするのですが。

日々是好日
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「今日の出来事を『書く』ということ」。

2011-11-11 09:22:42 | 日本語の授業
 今朝は、雨の中を学校へやってきました。昨晩から降り始めるとの予報でしたので、そのつもりでいたのですが、朝、窓を開けてみると、まだベランダが濡れていません。午前中はもちこたえられるかなと少々甘い見方をしていたのですが、さて、出かけようとした時には、道を行く傘の列。これはしまったと、慌てて傘を持ち出しての通勤です。

 昨日、中学校が、終わってからやってきた中学生さんが、
「先生、知ってる? あのね。今日、タイはね」と言いながら、もどかしげに手で何かの形をつくって見せます。それでも、私がわからないという顔をしていますと、
「先生は、知らないかなあ…。う~ん、ちょっと待って下さい」と、辞書をひき始めました。

 それによると、何でも昨日は、タイの「灯籠流し」の日だそうで、「これは、いろいろなお願いをする日」と言って、ケラケラと笑っています。

「さて、では、決まったね。それを書きましょう」と、本人の抵抗を無視して、まず「灯籠流し」のことを話させていきます。

 実は、小学生からの漢字の練習を、これまでは、ここでもしていたのですが、なかなか身につかないのです。つまり、ストーンと肚に落ちていくというような形で、理解できてはいないようなのです。もちろん、(漢字を)見れば、直ぐに同じように書けますし、テストでも、それなりに枡を埋めていくことはできます。けれども、それでは身についたことにはならないのです。

 以前、フィリピンから数ヶ月ほどの休みをとってきていた中学生が、三ヶ月ほどで、漢字の意味と読みと形とが、ストンと肚に落ちていき、一つになっていくのを見ていましたから、これくらいの年頃で、しかも中学生の最初から日本にいて中学校に通っていたのなら、もう少し、どうにかなっていてもよさそうなものと思っていたのです。

 彼女の場合、言われたとおりに勉強していますし、懸命に覚えようとはしています。けれども記憶は直ぐにあやふやになりますし、文章を読んでも意味が掴めているようには思われないのです。

 知的な部分で、決して他の子供達に劣っているというわけでもないし、ごくごく仏の中学生です。彼女が、そういうことができないのは、こちら側の教え方、あるいは教材の選び方に至らないところがあるからとしか考えられなかったのです。単に、小学校からの漢字を順に書かせ、覚えさせていっても、彼女の中で一つにならなければ、無駄とは言わないまでも、効率の悪い甚だしいで、入試には間に合いません。

 というわけで、何か他に方法はないものかと考えていました。これも、他の留学生達の授業が終わってからの、わずか30分ほどの時間(中学校が終わってから来ています)、それも一週間に一度のこともあれば、一度もないこともある中での作業で、なかなか捗りません。

 それでも、一度、二、三週間前に、今日、学校で何があったのかと水を向けてみますと、いかにも楽しそうにペラペラと話し始めます。「これはいいかも」と、言ったことを書いてみさせます。その時に、文の中に既習の漢字や、未習でも必要と思われる漢字を入れていきます。すると、「ふ~ん、この漢字、知っている」という言葉が出てきました。

 「これはやるだけの価値はあるな」と、時間に余裕のある時に、それから二度ほど試み、「ではノートを買っておいで。これからこれで漢字を勉強していこう(もちろん、小学生レベルの漢字はそれなりに勉強していかなければなりません)」と言ったところで、ノートを準備しないという抵抗に遭い、少し冷却期間をおいておいたのです。

 無理強いはまずいのです。楽しい、面白いと思わせている時に、こっそりと忍ばせていくという手でやるしかないのです。

 で、「久しぶりに教える機会があった。時間に余裕もあった。私が聞かないのに、『ロイクラトーン』の祭りのことを話しだした」という三つが重なったので、ここはノートを買わせて、書かせてみました。

 書き始めると、思いの外スムーズにいき、書く前に言っていなかったことまで、思い出したと見えて、これは日本語で何というのと聞いたりします。

 言いたいことを言うというのはいいことであり、それを書きとどめておくというのも、いいこと。漢字に意味を貼り付けていくというのではなく、意味に漢字を貼り付けていくのですから、もう一度ノートを見れば、意味も読みも漢字も、すっきりと頭の中に入っていくことでしょう。

 もっとも、本人曰く、「そんなに簡単じゃない」ですが。

日々是好日
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「花が、『切れた』という感覚」。

2011-11-10 08:22:11 | 日本語の授業
 今朝も寒さが続いています。いつの間にか、「涼しい」ではなく、「寒い」という言葉が似合うようになりました。

 今、花が「切れている」ような気がしてならないのです。これも非常に主観的なので、花には申し訳ないような気がするのですが、さてさて、「今」を代表する花はいったい何になるのでしょう。…浮かびません。

 相変わらず、家々からは、花が溢れて見えますし、花屋の店先にも、色とりどりの花の姿を見ることができます。それなのに、どうしてでしょう。花が「切れている」ような感じがしてならないのです。

 もしかしたら、そこには、「日本」が感じられないのかもしれません(近くでは、ハギも既に終わっています)。

 洋物の花は、あくまで「洋物」であり、可憐であったり、豪華であったりしても、どこかしら、この身に入ってきません。日本の山野に、どこかしら、そぐわないのです。なんともはや、花の身になってみれば、好きで、こんな地の果てに、来たわけではない…となるのでしょうが。

 これが日本の大地の中に溶け込み、自然の一部となるには、やはり数百年という百年単位の時間が必要になるのかもしれません。人々の記憶の中では、十二月になれば、シクラメンがなければならないようになっていても、です。

 さて、「Dクラス」が、少しずつ落ち着いてきました。勉強するときのクラスの状態について、かくあるべきであるという、共通認識ができてきたような気がします。が、ただそれ以上ではないのです。

 もちろん、それ以上を望んでも、どうしても無理なところがあります。「大学を目指す。だから日本語を勉強しなければならない。難しくても、好きではなくても、しなければならないのだ」という自覚のある者と、「日本に来たかったから、留学生という立場を選んだ。日本ではアルバイトもしなければならないし、学校へも行かなければならない。大変だ」としか思っていない人とが、共に机を並べているのですから。

 しかも、テストの時は一人でやるという習慣がついている人と、いない人。それから、教えたいではなく、言いたい(教育的立場からの「教える」ではありません。知っていることをだれかに言ってやりたいというだけの、「教えたい」です)人が近くにいるのですから(どうしても人数の関係上、全員を離すというわけにはいかないのです)。

 そういう「とげ(私から見れば問題)」を、一つずつ抜き去っても、まだまだ抜ききれぬ部分があります。

 それはそれで、少しずつ「感化」させていかねばならないのですが、「数」でも負ける、「声の大きさ」でも負ける、「体力」でも負けると、負けがこんでいるというのが実情で、なかなか思うようには参りません。

 それでも、まあ、ボチボチと、やるしかありません。なんといいましても、そういう彼らを、「勉強嫌い」にさせてはなりませんから。

日々是好日
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「卒業生からの電話」。

2011-11-09 09:34:40 | 日本語の授業
 今朝、黄金色に輝く雲を見ました。幸先がいいなとワクワクしながら学校へ来ますと、早速卒業生から電話です。

「今、学校へ行ってもいいですか(今でもすぐそばに住んでいます)」
「どうしたの」
と、思わず、(アルバイトの)面倒をかけた在学生のことかと身構えますと、どうも、自分のことのようです。
「直ぐ来なさい」ということで、今、待っているのですが。

 ふつう、中国人学生というのは、卒業後、だいたいのことは自分でやってしまいます。一人でできなくても、同国人なり日本人なりに聞いてどうにかしてしまいます。が、それでも手に余る時には、時々、こういうことがあるのです。

 ただ彼らは仁義は尽くします。こう言うと、やくざ路線まっしぐらみたいで、少々面映ゆいのですが、教えてもらっている時は、そばにすわっているのです。これは、私にとってはとても大切なことで、何かあったときに直ぐ聞けるだけではなく、教師の業と言いますか、いつの間にか「してやっている」ではなく、「教えている」ようになってしまうのです。

 代わりにやってやるのは、面倒ですが、教えるのならいいのです。やりながら、自然に、チェックを入れ、できそうだと見ると、「はい、ここからは自分でやってごらん」とやってしまうのです。教師にとっては、結果的にはしてやっていることになるにせよ、この雰囲気が大切なのです。

 その上、中国人の場合は、こういう時でも、「本来なら自分がしなければならないのに、先生に迷惑をかけていいる」、だから「申し訳ない」というのが、顔に表れます。それで、教えながらやっていても、それほど迷惑には感じられないのです。

 とは言いましても、こういう学生は、この学校でも最後まで頑張れた人が多く(私はかなりきつく当たりますので、逃げる人もいないわけではありません)、最後まで(とにかく大学に入りたいから)どんなに厳しくされても頑張っていた…のです。

 あれだけ頑張れたのだから、これから(大学で、大変で)も頑張れると思っているでしょうし、もしかしたら、あれだけ頑張ったのだから、もう甘えてもいいだろうと思っているのかもしれません。

 また、私にしても、頑張れた学生はかわいいのです。これは、この学校の教師、皆に言えることでしょうが。

日々是好日
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「青空に近づく」。

2011-11-08 08:12:57 | 日本語の授業
 数時間前までは雨が降っていました。今日は「立冬」。昨日は上着が必要ないほどの暖かさでしたのに、暦通りに寒くなっています。

 通勤途上、「ツバキ(椿)」の蕾が大きく膨らんでいるのを発見しました。「ツバキ」とは言いましたが、時期的には、もしかしたら「サザンカ(山茶花)」かもしれず、これは微妙なところです。以前調べたことがあるのですが、「フヨウ(芙蓉)」と「ムクゲ(木槿)ほどの違いはなさそうで、中にはどちらとも言い難いと書かれたものもありましたっけ。が、多分、私の好みから、「ツバキ」…にしておきます。

 最近は「Aクラス」を締めていくのに忙しいやら(なんと言っても受験を控えていますから)、新たに組まれた「Dクラス」において、彼らに即した漢字の確認テストの作成に逐われるやら、まるでお尻に火がついたような毎日です。この「Dクラス」においては、時期的に三期の学生が混ざっているのです。この中には、国である程度勉強してから来ている学生もいますし、まるで「初めて」状態で来ている学生もいます。「初めて状態」に近い学生は、一度学校で勉強してもなかなか覚えられません。それで「もう一度」と言うことになっているのですが。

 とはいえ、同じように十月の段階で、一から始めても、個々に見ればそれほど差があるとは言えないのです、本人はどう思っているのかはわかりませんが。彼ら自身はできると思っていても、大きな声で間違えていますから、実際には大した差ではないのでしょう。様々な箇所でぽろぽろ落としていますから。

 ただ漢字の面においての差は、歴然としています。覚えてきている学生(どうも漢字が好きなようなのです)は、初めて勉強した学生とは同じテストを受けたがりません。またこの態度は、それなりに当然だと思います。そういう学生には、例え『初級1』の段階であろうとも、『中級の読解』に繋がっていけるような簡単なテストを作成してやらせた方が良いのです。ただ、その準備の時間がなかなか取れないのです。

 しかも、一番最後に来た学生が、「第一課」段階から内容把握があやふやなので、その補講も、少しずつでもやっていかねば、「助詞」がめちゃくちゃなまま、『初級Ⅱ』に入ってしまうということにもなりかねません。一度おさえながら、確認をとっていけば、わかるだけの能力は持っているようですから、やはり今、空き時間を使ってでも、やってやった方が良いのです。

 まったく、自分から仕事を増やしているようで、そうなりますと、どの職業でもそうでしょうが、蟻地獄に落ち込んだ蟻のようになってしまいます。「これではいかん」というわけで、平常心を保つべく、先日、「酒井抱一と江戸琳派の全貌」というのを見に行ってきました。久方ぶりに充実した満足感を味わって帰り、「よし。気分転換は完璧」と思いきや、月曜日になって、彼らに対してしまうと、また現実世界でグルグル周りを始めてしまいます。笑い事ではありません。まるでシーシュポスです。

 とはいえ、今朝うちを出る時に、わずかしか覗いていなかった青空が、公園の角を曲がった時には、グンと拡がっていたような気がしました。もしかしたら、歩いた分だけ青空に近づいたのかもしれません。

 今は亡き開高健の言葉にもありました。
「明日、世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植え続ける」 

 それほど(このようには)大したことではありませんが、教員皆、同じような気分なのでしょう。

日々是好日
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「大学受験」。

2011-11-07 17:47:25 | 日本語の授業
 先週は、朝、八時頃に学生が来てから、時には七時過ぎまで、30分と席を温める暇のないような、気ぜわしい一週間でした。これは、私のみならず、毎日、学校で顔を合わせている教員皆に言えることで、とうとう、今年もそういう時期に来たかという思いがします。

 一人は土曜日が受験だったので、慌ただしかったのですが、もっと大変だったのは、願書提出が今週に迫っているもう一人の方です。書けないのです。

 この、土曜日に受験した学生にしても、最初は、なかなかシャキッとしなくて、途中で、かなりきつく注意しなければなりませんでした。おそらく、受験するというのはどういうことなのかが、わかっていなかったのでしょう。日常のまま(つまり、買い物やアルバイトにでも行くような表情で)行って、どうにかなると思っていたようにしか思われませんでした。

 一度受験して、初めてわかるという部分もあるでしょうが、できるのなら、そういうのは避けさせたい。ということで、毎度、初めて受験する学生には、初回は厳しく対するということになっているのですが…。

 ただ、それからは、彼女の場合、少し顔つきが変わったように思われました。この、変われるかどうかということ、そして、その時、教師に言われたことが守れるかどうかということ、それから、大学に行くと言うことは自分の問題だということがきちんと認識できているかどうかということ。これらができなければ、無理をして願書を出しても、結局いろいろな所で、ぼろが出てしまうのです。

 日本語のレベルにおいても、覚悟の面においても、その時期に至っていない学生は、そういうことができません。だから、何事も適当になってしまうのでしょう。まず、このことを判らせると言うこと、もしかしたら、受験のためには、これが一番大切なことなのかもしれません。

日々是好日
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