日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「使役受け身」が入り、早速、泣き言が始まった……。

2017-11-29 08:27:55 | 日本語学校
晴れ。

今日は、20度近くにもなるそうですが、明日には北風将軍が下りてきて、真冬に戻ってしまうそうな。また風邪引きさんが出て来るでしょうね。

さて、学校です。

ここで、「初めて日本語を習った」と言っても良いような人が半数以上を占めている「Dクラス(4月生)」です。

やっと(通常の進度よりも遅かった)『みんなの日本語』が終わり、今はその「読解」をやっています。それと同時に、「『N4』文法」と「『N4』ヒアリング」、「作文」も入れ、そして「N4」、「N5」の漢字の復習もしたりしていますから、いっぱいいっぱいで、音を上げるかと思いきや、それほどでもない…。そこが不思議です。

「作文」は、楽しんでいるようですし(まだまだひらがなが多く、彼らが書いた文章は白っぽく見えます。でも、自由に何を言っても叱られないので、楽しいのでしょう。おしゃべりさんは確かに多い)、ヒアリングだけはやっと人並みになれたようで、それが証拠に、「今はわかります」などと言っています。もっとも、文法がわかるというのではなく、アルバイトなどで困らなくなったというだけのことなのでしょう。

とはいえ、泣いてしまうのが、(相変わらず)新しい文法事項が入ったとき。

昨日は、「『N4』文法」のうち、まだ勉強していなかった「使役受け身」を入れられた(?)ものですから、その後の授業の時、早速訴えに来られました。

「先生、あれは何ですか。全然わかりません」…いつもの台詞です。「はいはい、そうですか」

「先生、『可能形』、大丈夫。『受け身形』、大丈夫。『使役形』、多分…大丈夫。でも、『使役受け身』は、わからない。ホントにわからない」

でもねえ、「可能形」を勉強したときも、「なんのこっちゃ?????」で、なかなか可能形が作れなかった。意味はわかっても、「Ⅰグループ」と「Ⅱグループ」が一緒になったり、「Ⅱグループ」と「Ⅲグループ」がごっちゃになったりしていた。

次に「受け身」を入れたときも、呆然としていた。だいたい、動詞が姿を変えるという理屈が呑み込めず、こちらでも、「こいつぁ、ルールを説明するだけ時間の無駄。とにかく毎日繰り返せ…」で、口頭練習を嫌になるくらいさせた…(今でもです)。言えれば良いのです。皆、日本にいるのですから、聞き取れるようになれば、…慣れてくる。

で、「使役形」を勉強したときには、あきらめからでしょうかしらん、あまり抵抗せずに(ため息はついていたようでしたが)とにかく口を動かして覚えていった…。ルールを納得して、覚えていくというのが苦手な人が多いのです、このクラスは。

ただ、もう、「基礎編」は終わっていますから、「可能形」、「受け身形」、「使役形」、「尊敬形」などを勉強したときのように新しい動詞が出るたびに、「はい」と、練習していく時期ではなくなっている。

もっとも、今年いっぱいは、「基礎」の「応用編」と言えば良いようなものですから、昨日勉強した、「使役受け身」も動詞で練習していきますよ。大丈夫、安心してください。それほど違和感を持たずにすむようになるでしょうから…期待も込めて。

とはいえ、すぐに忘れてくれる面々。2、3日でも間が空くと、「それ、何?」と、あどけない顔でこちらを見てくれる。はあ、本当にため息をつきたいのは、こちらの方なのですけれどもね。

日々是好日
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「ツバキ」?、それとも、「サザンカ」。こんな時期に一時帰国するなんて…。

2017-11-28 18:06:15 | 日本語学校
曇り。

今朝方、ベランダが濡れていましたから、昨夜、雨がパラパラと降ったのかもしれません。寒くはないけれども、辺りの景色は……やはり、もう冬の入り口に入っていると言っても良いでしょうねえ、何を今更と言われそうですけれども。

そして、いつもこの時期になると、悩んでしまうのが、学校の入り口におかれている、いわゆる鉢植えの「ツバキ(椿)」のこと。

「ツバキ」とはいうけれども、どう見ても、あれは「サザンカ(山茶花)」。もちろん、どちらでも花の身からして見れば、私らとは関係ない…なのでしょうが。

だいたい、落ちる姿も、一輪がそのまま落ちるというものではない。ひとひら、ひとひら、ハラハラと落ちていくのです。これは「ツバキ」とは違うような気がするのです。「ツバキ」なんて、落ちるにしても、ドサッと(音はしませんが、さすがに花ですもの)どこかしら重量感が伴う…はず。なにせ、「首」が落とされるようなと言われ、忌まれていたわけですから。

まあ、良いのですけれども…。

と、思わず、年中行事のように同じことを思ってしまわせるこの花、今年も無事に花開いています、二輪ほど。それに、大きく膨らんだ蕾がどの枝にもしっかりとついていますから、これが皆、満開になったら、きれいでしょうね。

さて、学校です。

このような時期に、いろいろな理由があるにせよ、一時帰国(二度目です)するという二年生がいます。せめて、進学先が決まってからにすればと思うのですが、彼らの国ではそうも行かないのでしょう。

けれど、2週間ほど国で過ごしたあと、戻ってきてからどうするのでしょう。性格もよく、真面目で、初めのころは勉強もよくしていたのですが、一度目の帰国をした後、どうも勉強の方がうまくいきません。

これは、時々こういう学生がいるのですが、アルバイト先で重宝され、自分は日本語がうまいと思い違いをしてしまうのです。

小さな飲食店などでは、客と従業員の垣根がなく、そういうところで日本人との会話をしなれてしまうと、なかなか学校で勉強しているような日本語が身につかなくなってしまいます。

人は易きにつくもの。「N3」や「N2」の文法を知らなくったって、日本人と話せるということになるのでしょう。コツコツと勉強するのが馬鹿らしくなってしまうのかもしれません。そんなことをしなくったって、アルバイトもできるし、ちゃんとお金も入ってくるのですから。

最初は、親切な店があってよかったと思っていたのですが、高校を出たての学生には不向きなのかもしれません。いい学生であっただけに惜しまれます。

日々是好日

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「応用」は難しい…。「同じ文を言うだけなら良いのに…」と、思っているようです。大して変わらないのですけれども…。

2017-11-22 09:43:27 | 日本語学校
晴れ。

夕方には雨になるそうですが。

寒気団は、まだ、この辺りまで出張っているようです。太平洋岸はともかく、日本海側でも、内陸部(?)でも、真冬並みの寒さが続いているそうです。中には、かなりの雪が降っているところもあるそうで、映像で流れたりしていますと、思わず、見入ってしまいます。

二十四節気では、今日が「小雪」になります。「立冬」から「小雪」になり、次は「大雪」、そして、いよいよ「冬至」となるのでしょうが、寒かったり、暖かかったりしますし、その上、今年は暖冬だとか、いやいや、前半は寒さが厳しいとか、いろいろな情報が飛び交って、何が何やらよくわかりません。情報に振り回されるこちらが問題なのでしょうが、本来なら、「冬至」ごろになるまで、「冬」という自覚はあまりなかったような…ではなかったかしらん。

今年は、寒気団の来襲が早かったような気がします。もっとも、「気がする」だけかもしれません。

思えば、早い人では9月ごろから、「今は、秋ですか、それとも冬ですか」などと聞きに来ていました。今年初めて、(日本の)冬を迎える人たちにとってはそうなのでしょう。もっとも、私たちから見れば、南国から来ているとしか思われない人たちでも、最初のころは「自国にも冬がある」と、言い張って、譲りませんでしたが。

とはいえ、一度でも、この地で、12月、1月、2月を経験しますと、「ああ、これが、いわゆる『冬』なのか」ということになり、もう「(自国の冬」めいた言葉は言わなくなります。

さて、学校です。

「Dクラス」の学生の中には、「言語には、法則がある(もちろん例外もある)」というのがなかなか判ってくれない人が多く、テストの時でも、このルールに基づいての回答ができないのです。例えば、「『~そう(伝聞)』の前には、『~』が来る」というのを、「難しい、難しい」と言うのです。

練習で何度も繰り返し、言えるようになっているどころか、半分暗記までできているのに、しかも、その後数日の復習の時にも言えているのに、テストになると、だめなのです。前後の文に引きずられてか、あるいは似た言葉とごっちゃになっているのか、こちらとしては、どうしてできないのかがわからない。おそらく、何事によらず、応用が苦手なのでしょう。

彼らの国(あるいは地域)の試験では、覚えたものをそのまま書けるか、言えれば良いのかもしれません。だから試験の形式が呑み込めない。こんなもの、あるの?という漢字になってしまう。どこをどうしたらいいのか、全くわからない。しまいには、(試験問題を)見たら、固まってしまう。

それが、半年ほど、日本で学校に通ううちに、少しずつ緩んでは来た。自分たちでも、「初めはどうしていいかわかりませんでしたが、今はわかります。いえ、わかるようになりました」などと言うようになってはいる。なってはいるけれども、テストの成績は相変わらずで、可哀想なくらい…というのが現状なのです。

これが続くと、やる気が失せるのではないかと思われ、授業の合間合間に、(勉強するという)気持ちが続くように元気づけたり、面白がらせたり、教員は皆、手を替え品を替えしてやっているのですが、それももう8ヶ月を過ぎると、もう騙せなくな、り、そう。

何人かが、下校時に、「成績は悪いですけれども、わかるようになりました」と言いに来るのに、相手をしてやるだけになってしまいそうなのです。それだけ、覚えなければならないことの分量が増えているのです。

つくづく、「母国でどれだけのものをやって来たか」が、大切であると思います。

こういう日本語学校に来ているのは、ごく普通の人たちであって、特別、頭が良いとか、言語的な能力に長けているとか、そういう人たちではないのです。そういう人たちもたまに紛れ込んではいるものの、本当に稀なのです。その上、生活のためには、アルバイトをしなければならない人がほとんどなのです。

国にいるときには、比較的安定した生活をしていて、一人で生活したことも、アルバイトをしたこともなかった。日本に来れば、勉強だけしていればいいというのではなくなる。だから、よけいに母国で日本語をどれだけ勉強してきたかが問題になるのです。

現地の学校も、こういった面も考えて、学生を送ってもらいたいものですね。私たちも初めて会う学生達にあまり厳しいことは言いたくないのです。断るのも、あまり気分の良いことではありません。けれどもこのままでは、言わざるを得なくなってしまいます。学生にも、その教育を担っている人たちにも。

日々是好日

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「紅葉・黄葉」を求めている間に、「サザンカ」の花が咲きはじめていました。

2017-11-21 08:44:16 | 日本語学校
晴れ。

晴れると寒い…、これ、そのままです。学生達は、皆、「寒い、寒い」と言いながらやって来るのですが、足元を見ると、まだ靴下を穿いていない頑固者が二、三いる…。こうなっても、まだ頑張って(?)いるわけですから、もう「寒さ」が骨身にしみるまで待つしかないか…というところでしょう。

街では、「黄葉、紅葉」と目を上の方にさまよわせている間に、いつの間にか、中くらいの高さで、「サザンカ(山茶花)」の木が赤い花をつけはじめています。

今年はというか、今年も本当に慌ただしく、何が何やらわからぬうちに過ぎてしまった感あり。ふと気づくと、もう「サザンカ」は咲き、直に「ツバキ(椿)」の花と交代するでしょう。思えば、じっくりと「キンモクセイ(金木犀)」や「ギンモクセイ(銀木犀)」の香もかがず、いったい何をしていたのでしょうねえ。

数年前は、自転車で近所を回った折になど、いくつかのお宅の「モクセイ」の花が散り敷いた道も通っていたものを。

さて、学校です。

私が先ほどのようなことを言うと、「暇人が」と白い目で見そうな学生たちのことです。

進学先の専門学校や大学に合格した学生は、親たちから、なにがしかの援助を受けているようですが、それでも足りない場合、自分で何とかせねばなりません。いきおい、アルバイトを増やすしかありませんから、欠席がちの人が少し増えてきました。もちろん、こういう寒さが続くことから来る「風邪」なども欠席の一因のようですが。

本当に、「許されるアルバイト時間」を少し増やしてもらえないのかしらんと思ってしまいます。平日は4時間ほどで、休みの日は普通の日本人が平日働くのと同じ、6時間から8時間ほどに…。これくらいであったら、若い彼らは、目的さえしっかりしていたら、2年ほどであったなら、勉強との両立に耐えていけます。

それくらいの時間働くことで、経済的に安定すれば、不安なく勉強を続けることもできるのです。もし、家が豊かであったら、日本に来ずとも、彼らの国で大学に入れたことでしょう。「お金があったら、(国で)大学に行けます」と言う人も少なくないのです(「あの人は大卒ですね」と言ったら、「お金があるからです」と一言で言ってのけたフィリピンの学生がいました。他の国も似たようなものかもしれません)また、(国で)大学に行けるほどの家庭であっても、さて、卒業後、仕事を探すとなると、そこで行き詰まってしまうらしく、「仕事がないから日本へ来ました」という大卒者もいるのです。

もちろん、経験からも、初めて外国語を勉強する時は、若い方がいい。二つ目、あるいは三つ目の外国語であったなら、年齢はそれほど関係しないと思われるのですが。

この「初めて」というのは、「中、高で、習いはした、けれども、全くゼロに等しい」という(国の)人も含めてです。

スリランカ人の場合、「英語はできる」と本人は言うので、それではと「(日本語の)初級」レベルの単語の英訳本を渡すと、途端に困ってしまう人も少なくはないのですが、とはいえ、耳で覚えているというか、周りで英語をよく聞くからなのか、聞き慣れているので、簡単な英会話くらいならできる。こういう人は、日本語が、初めて(一つ目)の「外国語」であるとは言えません。

本当に、高校を出て学んだ日本語が、初めての外国語と言っても良いような場合、やはり、母国で日本人に会っているかどうかというのは、大きいようですね。

「来日して、一番うれしかったことは」と聞いたとき、「日本人に自分の日本語が通じて、日本人と話せたこと」という人がいましたもの。それまで、心許なかったのでしょう。もしかしたら、そう言わなかった人の中に、「来日して一番悲しかったことは」と聞いたとき、「日本人に自分の話す日本語が通じなかったこと」を挙げる人がいるかもしれません。

ある人は、自信を持ち、ある人は不安いっぱいで来る。特に発音に難がある人ほどそう。そういう人であっても、力尽くで教えた方が良い場合と、少しずつやった方が良い場合とがありますから、ちょっと難しいですね。

まあ、どちらにせよ、ある程度の意思の疎通ができてからであることは確かなのですが。

日々是好日
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なかなか一様に上手になれるわけではありません。時間がかかっても真面目にやっている学生にはそれなりの対応をしてもらいたいのですが…。

2017-11-17 14:48:40 | 日本語学校
晴れ。

昨日、また卒業生が、大学は大変だというような愚痴をこぼしにやってきました。だいたい、一時間半ほどもこぼしていたでしょうか、少しスッキリしたのでしょう、また頑張ると言って帰っていきました。

大学に入学したものの、慣れるまでがやはり大変なようで(1年目です)、特に、それほど日本語力がついておらぬまま(まだ「N2」には合格出来ていません)入った学生などは、そのようです。

しかも、聞くと、大学の専門は頑張れるからいい。でも、大変なのは日本語の授業だと言うのです。大学の日本語担当の人が、彼らのレベルが見えないのでしょう。それゆえの、不満のようです。

中国人相手であったら、「N2」以上は彼らの母語のレベルであると突き放すこともできるのですが、「非漢字圏」の学生の場合、そうはいきません。まあ、比較的大人数がやって来ている、スリランカやネパール、インド、パキスタン、バングラデシュなどのインド圏の学生は、ヒアリングがいいので(それに、国で英語を勉強しているので、日本語は二つ目の外国語になります)、日本語で文法の説明をしても、問題なく、入っていくのですが、大変なのはベトナムの学生です。

他の国の学生に比べれば、ヒアリング力もかなり劣るし、発音も総体的に悪い。しかも日本語の文法がなかなか呑み込めない。これは、日本で出版されているベトナム語の文法説明書(「このベトナム語は難しい」と言いますから、もしかしたら、かなり硬い、知的レベルの高い人用のものかもしれません)を見せても、ベトナムで出版されているベトナム語の文法説明書を見せても、うまく意味がとれないらしいのです。どうも、きちんと整理されていないようなのです。もちろん、私たちはベトナム語がわからないので、日本語の例を見て判断するだけなのですが。

そういう学生でも、一生懸命に勉強しようと思い、実際に勉強している学生は、来日二年か三年くらいで、「N2」試験に一応、合格はできます。もっとも、ギリギリですし、本当のところ、どれだけわかっているかと言いますと、少々あやしいものなのですが、ともかく懸命に勉強していたことは事実ですから、おそらく、時間が経てば、自分の中に日本語が染み込み、どうにかなるのでしょう。

ただし、そういう真面目なベトナム人学生には、それなりの手当が必要であることは事実で、他の国の学生のようにすっ飛ばして授業を進めていくのは厳禁です。一つ一つ理解できたかを確認していけば、如何にわかっていなかったかがよく判り、(こちらは)唖然とさせられるものなのです。とはいえ、基礎の文法が入っていないというわけではなく、入ってはいても、応用で躓いているのです。

この「からくり」は私にもよく判りません。けれども、ベトナム人学生は「(発音ができ)ない」、「(ヒヤリング力がつか)ない」、「(文法がわから)ない」、「(漢字も母語には)ない」の「四無い」で、勉強していますので、他の国の学生に比べて、とりわけ、教え方を考えていかなければならないのです。

真面目な学生であればあるほど、わからないことに悩んでしまいますから、大変です。「予習もやっている、でもわからない」となれば、「日本語の授業に出たくない。アルバイトで疲れているのに、出るだけ無駄だ。その時間、眠っていた方がいい」と思うようになるのも、当然のことなのかもしれません。

大学でも、もちろんレベルの高い大学であったら、日本語の授業は必要ないか、あるいはもう日本人並みの読解力を付けるという作業に入ってもいいと思われるのですが、そうではない、ごく普通のレベルの日本人学生しか募集できないような大学の場合、それを考えて留学生に対処してもらわないと、留学生の方で、「あの先生、何を言っているのかわからないから、(講義に)出るだけ時間の無駄」などということを実際にしでかしてしまうかもしれません。

一人一人の留学生を見ることはかなわなくとも、まずは、その年度の学生達の傾向を捉え、彼らの希望に添うような形で、そのときどきの授業を進めていくだけの感性と能力が教師に必要になるのではないでしょうか。教育現場に立っている限りは、研究者である前に、現場の人(教師)であるのですから。

日々是好日
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アルバイトの言葉はみんなわかるのに…、日本人は上手だと言ってくれるのに…。

2017-11-16 09:36:32 | 日本語学校
晴れ。

霜月も、もう中盤を過ぎました。秋は深まり、時には冬であるかのような感じがすることさえあります。

庭や畦道などに残っている「カキ(柿)」の実は、もう「カラス(鴉)」さえ食わぬと言う渋だけ。そんな木が、青空の下にぽつんと立っているのを見かけたりしますと、途端に何百年も前の記憶が蘇ってくるような気がしてきます。田は既に米の収穫も終わって、枯れ葉色に変わっていますが、畦などには、まだまだ緑の草が残っていて、これもまた美しい。最近は鳥の騒ぎも、泣きわめく声も聞こえなくなり、ズンと静かになりました。

さて、学校です。

時折、卒業生がやって来ます。目的は兄弟姉妹を呼びたい、そのための相談というのです。けれども、こういう人が顔見せに教室に(授業中です)やってきますと、「さあ、大変」。後で「捕まっちゃった」と言われてしまうのですが、こっちは、(彼らが来たら)在校生に大学の様子や専門学校の様子などを話してもらおうと待ち構えているのですから。

一年生はともかく、大学に入った学生の話(三年生あるいは四年生ということが多いのですが)は、二年生でも聞き取れないということが少なくありません。

卒業生が帰った後、学生達が「難しかった。わかりませんでした」と言うので、「そんなものか」と思ってしまうのですが。実際は、別に、これと言って難しい話をしてもらったわけではなく、ごくありきたりの話をしてもらっただけなのです。おそらく、単語だけでなく、話の進め方などにも、ピンと来ないのでしょう。

一年生は、まだ『みんなの日本語』が、終わるかどうかという程度の日本語ですから、アッケラカンとして、「わ~かりません」と言っていても、それですむのですが、二年生はそうはいきません。(聞いて)それほどよくわからないことに、「ちょっと驚いているな。おかしいと思っているな」という反応なのです。

二年生は、既に来日後一年半ほどが過ぎている人も多く、アルバイト先などで重宝されているものですから、それなりに「日本語はできる」という妙な自信がついているのです。アルバイト先では、別に日本語の問題で困っていない…のです。

ところが、実際に大学などで勉強し、直に日本の会社に入り、そこで活躍を始めるという人たちと私たち(日本人)が話しているのを聞きますと、わからない。ゼロというわけではないのですが、ついていけない。もちろん、「ついていけない」ということに気がつけるのも一つの能力なのですが。

普通の外国人ばかりが行くような専門学校へ行った人たちは、おそらく専門学校でもそういう日本語は使わないというか、聞かないのでしょう。だから、アルバイト先で「日本語がうまいと言われている」から、自分でも「うまいと思う」という世界から抜け出せないのです。

どの国の言語であろうと、文化が背景にありますから、基本的には奥深いものです。

ところが、二年生で「(アルバイト先の)日本人とよく話す」という人たちであっても、話している内容は、「御飯のこと」「遊びのこと」「仕事のこと」くらいのものですから、日本人同士が「普通の話」を始めると、途端にわからなくなる。専門学校では、日本語学校のようにいつも日本語の勉強をするというわけではありませんから、「できる」と思い込んでいれば、余計にいい加減になってしまいます。

ただ、それ(自分のレベル)を認めるか、認めないか。あるいはそれを機に勉強を始めるか始めないかで、先が変わってきます。

日本の会社に入った場合、どうしても仕事の話では詰めが必要になってきます。日本人の他の社員が、そういう人と話を詰めていくと、理解できていないのがバレバレになります。知ったかぶりは通用しないのです。

レストランのアルバイトであったら、大切な部分、根幹の部分は正社員、あるいは責任者がやりますから、彼らの関知しないことでしょうし、それに、彼らの見えない部分で、どういうことがなされているのかなんて知らされませんから、太平楽に構えていられます。会議でどんな話がなされているか、そのためにどういう計画を立てているのか、こういう時の言葉は、アルバイトでキッチンをしていたり、ホールをしているだけでは聞くことすら稀でしょう。

日本語学校で二年、専門学校で二年か三年過ごしていますと、適当に日常会話はできますから、アルバイト先の日本人も重宝がって使い、日本語が上手だと言ってくれます。そういう仕事だけをずっとしているのなら、問題はないのですが、専門学校が終わると、自然と日本で就職するために行き先を捜したりするようになります。そこに同国人がいなければ、勢い、転々と会社を変わらざるをえなくなる…。

できれば、せっかく日本へ来て日本語を学んでいる人たちがそういう目に遭わずに済むようになれればいいと思うのですが、これもなかなか難しい。

理由は多々あるのでしょうが、その一つに、日本のことがわからない、想像できないということもあるように思われます。それに、この裏には、彼らだけではなく、彼らを送り出してきた側の問題(思い込み)も絡んでいるような気がするのですが、そうなると、ますます問題は込み入ってきます。

私たちは、日本で働くにせよ、帰国するにせよ、彼ら本人が望む形で行われることを望んでいるのですが…。

日々是好日
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黄葉がかなり進んでいます。課外活動まで、保つかしらん…。

2017-11-13 08:32:30 | 日本語学校
晴れ。

さっきまで、雨雲かなと思われるような黒い雲が浮かんでいたのですが、その雲も色を少し薄らげているようです。とはいえ、今晩は雨になるとか。

「サクラ(桜)」の葉も、疎らになってきました。こうなりますと、「明治神宮外苑」の「イチョウ(公孫樹)」並木の黄葉ぐあいが気になってきます。所によってはすっかり葉を落としている「イチョウ樹」もありますし。

ところで、「サクラ」の樹のこと。

花が咲いている時(春)は、花の色や大きさ、花びらの様子の違いなどを見つけては喜ぶということはあったのですが、秋になった時の、黄葉の色具合の違いなんて気にもとめていませんでした、これまで。

ところが、ついこの間、あれっと思うことがあったのです。それで気をつけて見てみますと、小学校の、あの辺りのサクラ樹とこの辺りのサクラ樹は種類が違っていた、すると黄葉の色も様子も違っている…。

いくつになっても、あれっと思うことは尽きません。考えてみれば、「なるほど、当然のこと」なのでしょうけれども。

さて、学校です。

最近、「Dクラス」のネパール人学生達、テストの形式に驚かなくなりました。慣れてきたのでしょう。けれども、それに約7ヶ月ほどかかっています。やはり、一応、国でこういうこと(日本語を学び、日本に留学しようというのであれば)をやって来ていなければ、せっかく日本に来ても、無駄な時間を過ごすことになってしまい、それが残念。だって、彼らが日本で学べる時間というのは限られているのですから。

この条件の中で如何に効率よく学んでいくか、それがとても大切なのです。

多くの学生は、経済的理由から、アルバイトをせねばなりません。生活が安定していなければ、勉強も落ち着いてできません。「N4」くらいの単語や文法がきっちり入っていますと、アルバイトもすぐに探せますし、勉強にも余裕がでます。

それが、「ひらがな」「カタカナ」は適当で(何語かわからないような字)、「数」も「曜日」の言えないまま来日したりしていますと、(来てから)何事も思うようにいかず、不満タラタラということになってしまいます。

まず、私たちの言っていることがわかりませんから、注意しなければならないこともわからない。勉強だけのことではないのです。

これは、おそらく研修生として来日している外国人にも当てはまることでしょうけれども。小さなことでは、「ゴミ出し」などから、近隣の日本人との間で問題を起こすこともあるのです。

この学校では、2年目の学生を「通訳」兼「助手」として、日常気をつけねばならぬことなどを説明していますし(入学式前後に)、学校の寮として借り受けているアパートで問題が起きれば、すぐに教師が行って対応しているので、どうにか事なきを得ているのですが、それでも4月、7月、10月、1月と、新しい人たちが来る毎に、面倒なことは少なからず発生します。

時々、「それは自分で、して来るべきことであり、そのように、先に現地の学校の教師にも伝えてある」というようなことについても、「向こうで日本人がやってくれると言っていた」などという学生が出てくることがあります。

それを聞く度に、次に現地に行ったときに向こうの人に再確認をしているのですが、やはり、考え方、受け捉え方が違ってしまうと、なかなかスムーズには流れていきません。それが昂じてしまうと、こちらの方でも、あの学校の人ではどうにもならないなということにもなりかねません(お互い様でしょうけれども)。

だいたい、そういう人が教えていますと、日本の事情(勉強の事は当然です)が、うまく学生に伝わっていないのです。ということで、問題も起こりがち。私たちも教えることに集中できなくなってしまいます。

何度か現地に行って、向こうの人たちと話し合い、学校の方針などを説明しても、なかなか、こういう問題は解決できません。異文化というのは、本当に手に負えない化け物みたいなものです。

日々是好日
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「漢字」は、やはり書くしかないのです、覚えたいと思うならば。

2017-11-10 09:35:49 | 日本語学校
晴れ。

明日は、大荒れになるそうですが、今日は今のところ、無風状態です。最低気温が10度を下回ったとか下回らなかったとか…。木枯らしも何回か吹きましたし、明治神宮外苑の「イチョウ(公孫樹)」も、そろそろ黄葉が始まることでしょうし…、秋はあっという間に過ぎてしまいそうです。

さて、学校です。

「N5」の漢字の復習をしています。18人のクラスのうち、中国人学生が二人、この二人はいいとして、残りの16人のこと。

ベトナムの学生は、総じて漢字学習に対して意欲を見せるのです。これも、彼らの祖父母、あるいは曾祖父母の時代にはまだ「漢字が健在」であったことが関係しているのでしょう。それに、ハノイなどの旧跡には、王朝時代、中国の「科挙」に合格した人の石碑なども残っていて、「書けないし読めないけれども、身近な存在」であるからかもしれません。

スリランカの学生は、「国でやった、少しやって来た」という人もチョビチョビいる。もちろん、「永字八法」などで学んできたわけではありませんから、左右の「はらい」や、「点」「はね」などは曖昧で、太い線をぐいとひいて終わりになっていたりする。どうもこういうのは難しいらしい。とはいえ、やる人は、頑張って書いて、書いて、書きまくって覚えるので、どうにかなる。

問題なのは、だんだん数を増してきているネパール人学生。
 
ネパールへ行き、初めて面接をしたときには、私たちも彼らのことがよく判りませんでした。もちろん、これはネパールだけのことではありません。ベトナムの時も最初はそうでした。だから、きっと後数回行けば、私たちの要求(「ここまで教えておいてほしい」とか、「ひらがな、カタカナを教える上での注意点はこうこう」とか)がきっちりできる学校を選べると思います。 

しかとわからぬような「ひらがな」「カタカナ」を書く学生を叱ると(最初はそんなことはしません。けれども、来日後半年も経っているのに、相変わらず、何が何だかわからないような字を書いていれば、「何回注意すればやるようになるのだ」と口調もきつくなります)、決まったように、「ネパールの先生が悪い」と言うのです。

彼らの国では、それほど「書く」ことに注意していないようなのです。もちろん、文法も、今年の4月生など、ほとんどやって来ていませんでしたから、大変でしたけれども。

同じようなインド圏の、インドの学生は(家族滞在なのですが)、この学校に来たときには、「ひらがな」、「カタカナ」の形も、あやふやなものでしたけれども、本人が勉強が大好きと言っていた通りに、よく勉強していました。最近、彼女に驚かされたのが「漢字」の「字形」。これは、相当、家で書いているなということがわかるような形になってきているのです。

初めて学び始めたころには、(字形の)バランスもとれなかったし、それどころかバラバラと言った方がいいような字で、「偏」は上に行っていたり左に傾いていたり、「旁」はグンと下がっていたり…。それに線も一本調子で、強弱もなし。まあ、普通の「非漢字圏」の人の字だったのですが、最近は、「あれっ」と思わされるような「字」になってきました。

ネパールもインドも、文字はたいして違いがないと思うのですが、これは個人的なものでしょうね。

「漢字は書くしかない」と、「そうしなければ手に慣れない」と、何度も学生達に言っているのですが。しかも、篆書をもちいて、絵文字のようにして説明しているのですが(絵から入ってもらった方がいいので)、それを入れるのが早すぎるのか(早くとも、一回は、導入時に入れた方がいいと思うのです)、二度目、三度目も入れたほうがいいのか、その時期なども含めて試行錯誤は続きます。

漢字だけは、皆でできるようになるというのが難しくて、今でも手探りです。(今のところ、「やる人はやる、やらない人は覚えられない」で、終わってしまっているのです。学校では復習だけにそんなに時間は割けないのです)

日々是好日
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机について勉強するのが苦手でも、手先の器用な人がいるのですが…。行けるような専門学校はないかな?

2017-11-09 08:26:34 | 日本語学校
晴れ。

快晴です。昨日はシトシト雨が降ったりやんだりの一日でしたが。

今日は、お日様が照っている…暖かい日となるはずが、北風ビュービューの寒い日になりそうです。私など、自転車で来るのが、少々辛かった…。もっとも、学生達は北風に負けずとばかりに、ビュッとすっ飛ばしてくるのでしょうけれども。

さて、学校です。

漢字テストをすると言うと、休む人が出てくる(出席率には関心があるようなのに)。こちらも、だいたい外国人に慣れているので、あの人は休むだろうなと目星はつけてある。とその通りに休んでくれる。注意してみても、だめですね。翌日に風邪だったと言うでしょうし。

だいたい、カンニングという言葉がないとしか思われない国が多く、カンニングは卑怯だなどと思っていたりするのは、日本が、ある意味、几帳面な(?)国柄だからかもしれません。

「これは『小テスト』であり、実際の成績には全く関係ない。みんなができていなければ、再度授業で扱わねばならないということがわかるだけ。だから、別に気にしなくていい。今のみんなの状態がわかれば良いのだから(まあ、テストをすると言うと、頑張る人も出てくるので、それを期待してやっている面もあるのですが)」と諭しても(最初は、成績を気にしているのかを思っていたのです)、あまり彼らの心には届かない…。

で、「カンニングはおかしいでしょ(日本人は正当論だと思っている)。頑張った人がいい点をとるのが普通。頑張っていなくて、本を盗み見たり、隣の人のを覗き込んだりして、いい点をとるなんて。しかもそれを誇るなんて。頑張った人が馬鹿を見ることはおかしい…」みたいなことを言っても、「へっ?(…わけがわからん)という顔をしている。

「頑張れば、いい結果が出る」というのは、学校だけのこと(もちろん、どんどん難しくなっていけば、頑張っても、どうにもできない部分というのも増えていきますが)。社会に出れば、頑張っても、頑張っても認められないということが、悲しいほど増えてくる。だから…、つまり私の言わんとするのは、「漢字一字くらいは覚えろよ(時々、半分喧嘩腰になります)。その気になれば、だれだってできるだろ。それくらいやったら?」ということなのです。

わからなかったら、隣の人のを見る。それがごく自然に行われていて、なんとも思っていない。それに、できている人もごくごく自然に見せている。

そういうのを見ていると、「これでも良いのかな」、「もしかしたら、こっちの方が自然といえるのかもしれない」などという気にもなってくるのですが、ただ、残念なことに、これでは、彼らの希望する、良い専門学校とか、大学とか、その先の日本の会社に入るとか、そういうことが望み薄になってくるのです。

漢字が読めなければ、たとえ、日本の会社に入れたとしても、ご普通の仕事をこなすことはできないでしょう。運良く入れたとしても、単純作業用に使われるだけです。外国人が好きな社長が採用しても、周りの日本人の社員がそれを許さないと思います。だって、その人のせいで仕事が増えるのです。よほどのメリットがない限り、厄介者扱いするだけになってしまうと思うのです。やはり最低限のもの(日本語の基礎)ができていなければ、心地よく働くことなんてできないでしょう。

それゆえに、常に彼らのお尻を叩き、頑張れと言ってきたのですが。…もちろん、そういう能力(これの大半は忍耐力、と持久力。頭の良さだけではありません。とはいえ、頭のいい人は、だいたい好奇心も強いし、学ぶことが嫌いではないのです。だから努力もするし、集中力があるので、持久力もあることになるのです)のある人たちには、です。

すぐに疲れてしまう人は、集中力云々以前に、続かないのです。単語を覚えていくというのも、やり始めるやいなや、飽きてしまって、遊び始めます。まるで園児のようなので、笑ってしまうこともあるのですが、机について何かをしていくということが元来苦手なのでしょう。

こういう人の中には、何かの作業というか、体を使ってやる仕事に向いている人もいます。実際、「これやって」と仕事を頼むと、途端に生き生きとなる人もいます。この人はこういう勉強に向いていないのだなと可哀想になって来るのですが、彼らの国では、こういう人に向いた仕事、あっても、そこそこの給料がもらえるような仕事がないのです。

日本人は「職人さん」を大切にしますし、一つことに、何十年も倦まず弛まず続けられるという「能力」の持ち主であることで尊敬もします。その結果が、「金銭的なことに結びついておらずとも」です。

そういうことが、日本でできれば、自由だろうし、好きなことができるから一生懸命になれるだろうとも思うのですが、いかんせん、そういう専門学校は学費が高いのです。しかも中には一日中拘束される場合もあって、アルバイトの時間がとれません。時には卒業後、ビザの取りにくい場合だってあるのです。

もう少し融通が利いて、彼らが望み通りの仕事に就けるような専門学校に行けたらと思うのですが…。

日々是好日
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学生達の国へ行ったからといって、何かがわかる…というものでもないのですが…。

2017-11-07 08:28:37 | 日本語学校
晴れ。

空には、うっすらと白い月がかかっています。

だいたい、変ですよね。もう11月というのに、こんなお天気だなんで。

朝晩は多少冷えるにしても、午後の授業の時など、「暑い」という言葉が、学生の間から出てくるのですから。もっとも、そう言う学生達の服装を見てみますと、ダウンを着込んでいる者あり、半袖のTシャツの者あり…で、一体、どちらに揃えたらいいのか、全くわかりません。

彼ら(一年生)の習慣では、寒かったら、「半袖にダウンを着こむ」…で、中間がないのです。寒がり屋さんは「暑い、暑い」を連発しながらも、ダウンを脱いでしまうと…「寒い」ということになりかねませんから、いくら彼らに「暑い」と言われても、せいぜい窓を開けることくらいしか「協力」できません。しかも、窓を開けるにしても、半袖の人がそれによって害を被ってはなりませんから、小出しにして…開けていきます。

「着重ねを覚えてね」と言ってはみるものの、ちょっと難しいのかもしれません(いくら寒くても「靴下を穿くのが嫌」というのと同じ理由からなのでしょう。ゴワゴワして気持ちが悪いらしいのです)。

もっとも、日本には、昔から「十二単」をその頂点とする、季節毎の「色の組み合わせ(の美)」というものがあり、組み合わせには、結構うるさい人もいるので、ちょっと面倒。単に色の調和がとれていればいいというものでもない…らしいのです。日本人の習慣による「色の組み合わせ」などと言われてしまいますと…、日本人だって、途中で投げ出すしかありませんもの。

ただ、こちらが簡単に「それは、『秋の色』だね。きれいだね」などと言ってしまいますと、「いったい、それは何事?」などと、逆に問い詰められかねません。こちらはついつい習慣で言ってしまうだけのことなのですが、彼らにしてみれば、「そんなの、ちょっと変」というところなのでしょう。

だいたい、なぜそう感じてしまうのか、適当にこじつけて説明してみせることはできるものの、本当のところはどうなのか、私だとてわかりませんもの。もしかしたら、「秋はこんな感じ、こんな色」と、遺伝子に組み込まれているのかもしれません。それぞれの季節毎に、そう感じさせる色があり、そのときに、そういう色でなかったら、違和感を覚えてしまうのです。本当のところ、ただそれだけのことにすぎぬのです、これも、考えてみれば、面白い。

色彩学というものがあります。数十年前に流行って、随分本もでていたのですが、今はどうかしらん。その中に、各民族毎の色の感じ方、色数の違いなどを基に、心理学と関連させて研究していくものがありました。わりと面白くて、ちょっと嵌まったこともあったのですが。。

とはいえ、こうグローバル化が進んでしまいますと、いったいどれが我々の「色」であり、どれが「外来」のものであるのかなんて、わからなくなっています。

ただ、その地の自然は存在していますから、とどのつまりは、その地の河川草木、大地の色、その地での空の色が、その地に住んでいる者たちの「原風景の色」というか、「根幹の色」なのでしょう。同じ「空の青」であっても、砂漠地帯の空の「青」と、水蒸気の多い、水を含んだような日本の空の「青」とは違いますもの。それから導き出される感性というのも、違って当然…なのでしょう。

学生達を相手にしていますと、この人達が生まれ育った大地を見ずして、なにも語れないなと思うことが、少なからずあります。もちろん、「その地へ行った、見た」からといって、その地の人たちへの理解が深まるかというと、そんな単純なものではないのですが。

人は、その地によって生まれ、育まれているのだというのが、何となくわかる…ような気がする。ただ、それだけのことかもしれません。

日々是好日
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晴れ。アタフタとした毎日が続いています。

2017-11-06 08:44:27 | 日本語学校
晴れ。

土・日が晴れだと、何だか騙されたような気になってしまうのは、10月に長雨が続いたせいでしょうか。2週続きで台風が来ていましたし…。しかしながら、10月というのは、体育の日があることからもわかるように、かつて、運動会の時期だったのです。晴れて然るべきであるのです。もっとも、これも過去の話になってしまったような感もなきにしもあらず…ですが。

空き地がすっかり無彩色になってしまいました。空き地いっぱいに広がっている「エノコログサ(狗尾草)」が枯れて揺れているからか、この色、一色になってしまったかのよう…。寒々しい風景が広がっています。その空き地を囲むかのように、黒っぽいコートを着た人の列が駅へと続いています。時々、抑え気味のオレンジ色のセーターが見えたりするのですが、だいたいはもう秋から冬の色に移っています。

もう、霜月ですから、背を丸めて歩いていてもおかしくはない。

ただ、今日のように青空が広がっていて、しかも風がないと、どこか清々しい気がしてきます。喰われ残りの「渋柿」の赤を捜してみたくなります。…残念なことに、この辺りには「カキ(柿)」がなくて、あれは夏みかんでしょうか、大振りの「黄」が点在しているだけ。

さて、学校です。

アタフタとしている(毎年このころになると、おそらく学校というものは、皆、こうなのでしょう)私たちに比べ、おっとりと構えている二年生も、中にはいるのです、もう11月になっているというのに。これは何も自信があるからというのではなく、よく判らないからなのですが。まず第一に自分のレベル(日本語における)がわからない(校内で試験を何度もしていますし、日本語能力試験なども受けて、結果が出ているというのに)。これから何を勉強したいのかもよくわからない。

知り合いが行っている学校の名を挙げても、その人の(昨年の日本語の)レベルと自分のレベルが違うと言うことがわからない。「無理でしょう」と言うと、「でも、友達だから」と答える。

友達の何々さんが合格しているから、自分も合格出来ると思っている…。こういう人は毎年何人か出てきます。それは「関係ないのだ」ということが、なかなかわからないのです。だいたい、わかったころには(専門学校の)入試はほぼ終わっていて、そういう人が入れそうなところは残っていない…。

日本の学校教育(義務教育)について、いろいろと批判があることはよく判っていますが、だいたい中学校を出るころには、おそらくはもっと前から、自分の「学校におけるレベル」というのはだいたいわかるものなのです。学年一斉の試験が年に何度もありますし、それ故にこれはまあまあだけれども、あれはちょっと…というのは、概略わかっている。だから(進学に際して)レベルをちょっと下げた方がいいとかいう考え方があることもわかる。

それが、全く通じない人たちというのもいるのです。

これはある社会に於いては当然のことで、それゆえに自分を貶める必要がないという意味では素晴らしいこと。ところが、日本などへ来てしまうと、それが障害になってしまうのです。

留学生として日本へ来た。そこで同じように勉強しても、語学の分野ではどうしても人に伍していけない。かといって勉強するかというと、そうでもない。だいいち、そういう習慣も気持ちもない。進学さえなければ、「(日本語は)難しいからできません」とニコニコしながら、言い訳していれば済むことかもしれませんが、残念なことに「進学するための試験」というのがある。合格出来なければ、帰国せねばならないというのに、何の手も打たずに、国にいるときと同じように過ごしている。

これは、いくら、こちらがヤキモキしてもどうにもなりません。四六時中、見張っているわけにもいきませんし、授業中スマホを取り上げても、だからといって勉強するものでもないのです。一年生のときから、口を酸っぱくして、「勉強しないと、来年大変だよ」と言っても、そして実際に大変になっている人を見せても、我がこととは思えないようなのです。…だからのんびりしている。おっとりと構えていられるのでしょう。

こういう人たちの国(社会)というのは、カンニングが習慣になっているようです。見る方も見せる方も罪悪感というのはないのです。「努力すればいい点を取れるし、努力しなければそれなり」というのがなければ、なにも必死になってやる必要がないのかもしれません。

日々是好日
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好きなことであったら、「言葉の壁」は存在しないも同じことです。

2017-11-02 08:27:15 | 日本語学校
晴れ。

遙か彼方の青空が透けて見えるような淡い淡い雲が浮かんでいます。朝晩は冷えるものの、今日も昼には20度を超えそうです。

黄葉が始まると、途端に、「この樹の名は何だったかしらん」と困ったりする。樹の名前というのは本当に覚えにくい、聞いてもすぐに忘れてしまう。漢字の名とその樹自体とが結びつかないのです。

樹の名に詳しい友人達と山里や東京近郊の野山を歩いていたときには、「これは何々」、「あっちは何々」とよく教えてもらったりしたものですが、場所が変わるともうだめ。わからなくなってしまいます。ということで、せっかく、美しく黄葉している樹々の名前も、この近辺のものはわからない…。

わかるのは花をつけたことのある樹だけ。…で、桜の樹です。

花をつけていたときも、風が吹くとハラハラとまるで雪のように散っていくのですが、それでも、樹にはまだまだ大量の花が残っているように見えました。まるで花が離れていったことなど知らぬげに立っているのが憎らしいほどに、平然として。

黄葉になってもそう。地にはかなりの葉が落ちているというのに、まだまだ、しっかり葉を付けているように見えるのです。立体的だからか(奥がある)、枝が幾重にも重なっているからか、いろいろなことを考えているのですが、それでも葉がすっかり姿を消すときは来る。そういうのも、なぜか不思議に思えてくるのです。

もしかしたら、今年は「紅葉狩り」の時期が少し早まるかもしれません。そして、うまくいけば、今年こそ、「イチョウ(公孫樹)」の黄葉と「モミジ」の紅葉を同時に見ることができるかもしれませんね。

さて、学校です。

やりたいことはあるけれども、それを教えてくれるという専門学校は(学費も入学金も)高すぎる。また受験したけれども、最初の学校に失敗してしまった。そんな理由で、やる気を失った…かに見える学生がチラホラ出ています。

最初から勉強していなければ、失敗しようがすまいが関係なく、どこか入れるところはないかと、割り切って捜していけるのでしょうけれども。そうではないだけに、なかなか復帰できない。しかも、彼らは、まだ帰りたくはないのです。

で、とんでもないところを捜してきたりする。そこを卒業して、後、どうするのか、わからないようなところです。

興味がある、あるいはそれを勉強したかったというのなら、話は別ですが、とにかく手頃なところで入れればいいからという気持ちで(願書を)持って来ているのがありありとわかる。そんなところでの二年間をどう過ごすつもりなのかと聞いても、「わからない…」と言う。目先のことしか考えられなくなっているというのはわかるのですが、それでも、まだ早すぎる…。

千葉県でも、少しずつ外国人の受け入れを考えているような専門学校が増えているのですが、彼らの経済的状況というのを理解してくれているところは少なく、「(この専門は)勉強したいのだけれども…」と学生達は二の足を踏んでしまう。なかなか行きたいとは言えないのです。

外国人に慣れている専門学校は、学費の払い方などを考慮していますし、なかには二年分の勉強を3年にし、学生達がアルバイトをしやすいように考えてくれているところもあります。

だれでも、好きなことを学びたいし、それを生かした仕事が日本で出来るなら、そうしたいのです。

専門学校に進むにしても、当初は言葉の壁があるでしょう(母語の関係ですぐに覚えられる人と、ヒアリングに時間がかかる人などがいる)。けれども、好きなことであったら、それが(専門的で)難解なものであっても、すぐにわかるようになるものなのです。ですから、好きなこと、勉強したいことが学べるような専門学校に進学できた学生については、私たち、少しも心配していないのです。

「好きこそものの上手なれ」。日本語学校にいて、「N3」の「文法」だの、「読解」だの、「漢字」だの、自分たちの生活に関係のない(と思われる)ものを勉強していくよりも、ずっと早く身につくでしょうし、理解できることでしょう。なにせ、本人が覚えたい、理解したいと思っていることなのですから。

日々是好日
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「面接」の練習は、必要です。自分を振り返るためにも。

2017-11-01 09:03:40 | 日本語学校

晴れ。

はや「霜月」となりました。もう「師走」を目前に控え…すぐに新たなる年の初めが始まる…と、なるのでしょうけれども、実際には、まだまだ11月です。

学生達と「面接」の練習をしているとき、いやでも「どうして」を繰り返さなければならないことがあります。受験を控え、この「どうして」を通して、過ぎ来し方を見つめ直すという必要があるのです。ここで一皮剥けなければ、多分ずっと同じ…、多分。

「どうして日本語を勉強したのか」そして、「どうして日本に留学しようと思ったのか」。

この二つの問いかけは、とても大切です。

少なからぬ学生は、「わからない」とか、「みんなが行ったから」とか、「家族が行けと言ったから」などと答えます。けれども、ここで手を抜いてはだめで、そうでない場合が多いのです。

「どうして日本?」「日本に来る前に日本のことを知っていたか」「それはどこで」「誰との話で」…。

いろいろと聞き方はあるでしょうが、学生が一言でも言えば、必ずそこから引き出せるものがあるはずです。そして、本人が「ああ、そうだったんだ」という表情を見せた時、「じゃあ、まとめてみよう」と、締めるのです。まとめるのはこちらでもいいし、本人でもいい。

もちろん、逃げて逃げて逃げまくる学生もいます。疲れていたり、面倒だったりするのでしょうし、こういうことを考えた習慣がない、また、考えるような教育を受けたことがないからという場合もあります。全ての国が、日本のような教育環境にあるわけではないのです。

「適当なことを言って済ましてしまえばいい。適当に誤魔化しながら、今迄楽しくやって来た。ここでもそれでやっていけるだろう」というわけです。けれども、一つでもここでまとめておかないと、実際の面接の時に、「適当な姿勢」というのものは透けて見えるものなのです。一度真剣に考えてみるということは、とても大切なことなのです。

誤魔化し続けようとすれば、それは当然のことながら、最後には言葉に詰まってしまう。それで、「どうでもいいです」などと言ってしまう。こちらの時間も無制限にあるわけではないので、可能な限りですが、それでも問い詰めていきます。

自分を少しでも振り返って考えることが出来なければ、何年日本にいようと、フラフラと流されてしまうだけ。自分の国にいたときのように過ごしていれば、何のために辛い思いまでして、ここにいるのかわからない。特に、毎日学校へ来て、それなりに働いて、お金をもらって…で、満足している人はそう。たとえ、そうであっても、そのために来たのだということを、自分に確認しておく必要があるのです。

面接の練習の時に、「先に日本に行った友達が、お金をたくさんもらっていた。だから、日本に行ってお金を稼ぎたいと思った。でも、これでいいの?」と言った学生がいました。それで、いいのです。人はどうしても現実的なものに惹かれてしまいます。「自分の国と比べて、日本の方が給料が多くもらえる。それに惹かれて来て、今、頑張っている」で、十分素晴らしいことなのです。

留学の目的がはっきりしている学生(大学で学びたいものがある)は、問えばすぐに答えが返ってきます。必要なのは、「それから」「それで」という相手を促すような言葉だけ。時々(気がつかずに保っている)彼のの引き出しを開ける手伝いをすればいいだけです。
一度しめると、日本に来てからの一年あまり、2年近くまとめることが出来て、次へ進むことができるものなのです。その自由度が増すのです、何か新しいことに迎えるような気がするからなのでしょうか。

日々是好日
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