八月も最後の1日。子供の頃は「明日から学校…という一日」。友達に会えるのが待ち遠しい…だけでは終わらないのが子供の夏休み。夏休みの宿題という重い荷が…。それを何年も繰り返していたわけですから、大したことのない子供でしたね。まあ、それも、今となっては、どこか、懐かしい…。
今朝は、空が染まっていませんでした。東の空は、一面、雲に覆われ(実際は白い雲でした)、光の「ひ」の字も見当たらない。そして、風は…涼しいのです。この涼しさを感じ取ったのか、虫の声が草むらから聞こえて来ます。勿論、お日様が顔を出すと、さあ、選手交代、蝉声です。今朝は合唱とまでは行かず、ポツンポツンと、ソロで演奏です。時々、「ジリジリ」とか、「ワアッシ、ワアッシ」という声も聞こえてきましたから、他の種類の蝉もいたのでしょう。
さて、昨日、入管に行ってきました。入管には随分前に一度行ったきり。道を詳しく聞いていたので、頭の中ではわかったと思っていたのですが、実際に歩くとなると、そうは行かないのです。品川駅に着くとすぐ、そばにいた駅員さんに「東口」を聞き、改札口では「バス停」を聞き、それでも反対側に歩いて行ってしまい(そこで、どうもおかしいぞと思ったのです)、ちょうどそばに立っていた、腕に「警視庁マーク」をつけた女性警官に聞き、やっとバス停にたどり着くことができました。
面白いことに、この中で、一番親切だったのは、警視庁のマークをつけていた女性。ちょっと怖そうかなと思いながらも、背に腹はかえられぬと聞いたのですが、彼女は「あらあ、反対ですよ。あっちを見て。向こう側に行ってください」という風に、実に和やかで人間的。でも、考えてみれば、駅員さんは聞かれすぎていて、どうしても事務的になってしまうのでしょう。
バス停の近くではちゃんと矢印がありましたから、大丈夫だったのですけれど。いえ、その「近く」に行くまで、ちょっと迷ったかもしれません。実際は、私の後ろから走ってきた人がいたのです。その人が猛ダッシュで階段を駆け下りて行ったので、思わずその先を見ると、入管行きのバスが止まっていた…。それでヨチヨチと階段を下りていったのです。まず乗れてホッとしました。あとはバスが連れていってくれますから。
この学校から出したのは、全部で六人です。三人が中国から、そしてベトナム一人に、スリランカが二人です。中国とベトナムからの人は大丈夫でしたが、スリランカの二人は落ちていました。
戻って一分もせぬうちに中国から電話です。合格を伝えると直ぐに手続きに入ったようです。そして一昨日「私のお姉さんは大丈夫でしょうか」と電話してきた、妹さんに電話です。「お姉さんは通りましたよ」。うれしそうな明るい声で、「よかった」。彼女の声は本当にいい。そばにいる人を力づけ、心を明るい方向へ持っていってくれるような声です。天性のものなのでしょうが、それにお人柄が加わって、おっとりとした品のいいものにしているようです。
そして、しばらくしてからスリランカから電話。だめだったと伝えると、「そうですか」と言って、後からの連絡を待つとのこと。おそらくはだめかもしれないと予想していたのかもしれません。今度はスリランカは出ないようだという噂があちこちか出ていましたから。でも、もし、真面目で勉強をしたいという学生だったら、本当に残念なのですけれども…。
何年も前のことになるのですが、スリランカからはノーパスのようにどんどんビザが出ていた時期がありました。勿論、勉強を一生懸命した人もいましたが、中にはどうしてここに来ちゃったんだろうと、私たちの方がため息をつきたくなるような人たちもいました。
私たちにため息をつかせるような人たちでも、学校に来ることは来るのです。そしてちゃんと席について勉強しているかのようなふうを装うこともできるのです。でも、書くのは「ひらがな」がやっとでした(スリランカ人はヒアリングがいいので、直ぐに話せるようになります。ただ、それで終わりなのです)。漢字は専門学校に進む時に、やっと学校の名前と住所が書けるようになったくらい。
面白いことに、漢字を書くように言えば、10回でも20回でも、それこそ100回でも、書くのです。けれども覚える気が全く無いのでしょう、書くのがマルにバツであっても三角であっても同じであったような気がします。言われたからするだけだったのでしょう。それで、今では、漢字を指導する時に、以前にも増して、一字一字の意味を教え、意味を考えろと諄く言うようになった気がします。日本人はどこかしら、書けば覚えられると思い込んでいるような気がします。一万回書いても、覚える気が無い人は覚えられないのです。とはいえ、この人達が悪い人たちというのではないのです。私たちから見ると、勉強する年齢(たぶん、彼らは23か24が境目なのでしょう。それより若ければどうにかなるかもしれませんが、それ以上だと、「勉強よりも「生活、人生」の方に目が向いてしまうようなのです)を超えているかなという感じ、あくまでこれは「精神的」な部分においてなのですが。
あの頃、スリランカの学生が交通事故を起こして亡くなってしまうという痛ましい事件がありました。その時の彼らの団結力のすごさには、本当にびっくりしました。事故を起こした学生に近い人の中から、一人の学生が中心になって、必要なお金を集め、遺体を祖国に運んでいったのですが、これは彼らにしてみれば、だれかがやらねばならないこと。勿論、皆が皆、彼のように出来るというわけではないでしょう。けれども、中心になってやるということは、あまり割のいい役目ではありません。それにもかかわらず、やり遂げたわけで、その時に教室の中では窺い知ることの出来ない、彼のリーダーシップと責任感の強さを感じました。
それまではごく普通の学生で、しっかりしているとは思いましたが、あそこまでできるとは思っていませんした。かれが全部の責任を負ってやってしまうと、また以前のように皆の中に埋没してしまったのですが。
日本にいて、漢字交じりの文章が読め、書けるということも、その人にとっては、才能の一つでしかないのです。人間には言語の他にも様々な才能、そして能力を生み出している資質というものがあり、それは、何事かことが起こらない限り、他の人にはわからないことなのかもしれません。
勉強しないし、出来ない人が多かった、当時のスリランカの学生の多くは、私たちにとって悩みの種でしたし、ああいう事件は二度と起こしてはならないことですが、あれがあって初めて、私たちにわかったことがあったのです。しかし、どうしてこういうことができる人たちが、ダラダラと戦争と続けたり、国を発展させていけないのでしょうね(スリランカはだめ、発展なんて出来ない。政府が悪いとよく耳にします)。そこには、個人の資質とは全く無関係な別の問題があるような気がするのですけれども。
ここまで書いてきて、思わず、笑ってしまいました。よく、欧米の友人から、日本人もそう言われるのです。「東北大震災の時にも感じたことだけれども、以前から、どうして日本人は一人一人優れているのに、政治は子供みたいなのだ」と。わかりません。多分、日本人は優れていないのでしょう。だからああいう政治家しか選べないのです。制度が悪いと言って、制度をいじったことがあったけれども、ますますひどくなったみたいだし。もしかしたら、今の制度というのは日本人に合わないのかもしれません。いわゆる欧米式の民主主義で世界を席巻できるかというとそうでもないのでしょう。ただ、日本人は、今、自分たちの姿を正確に掴めなくなっているから、自分たちにあった政治体制を作り出せないでいるのかもしれません。
江戸期には、薩摩に代表される若衆宿や、名主を始めとする村組織、最後には制度疲労を起こしていたものの、幕府の組織などがありました。村組織などもしっかりしたものが、すでに、初めて農民が数十年も自治をしたという室町期からあったのでしょう。むろん、民主主義とは相容れない部分も多々あるのでしょうが、それでも、数百年から千年以上をかけて作り上げられてきた、日本の風土にあった体制を基に、欧米の、参考にすべきものは参考にして、じっくりと作り上げていけば、いつかは、日本人が、日本という島で、幸せに暮らせるようになるのかもしれません。
それに、鎖国をしていた江戸末期の方が、異国の情報を正確に得ていたような気がするのです。それに、その頃の方が、責任感のあるプロの政治家がいたような気もするのですから不思議ですね。多摩地方の豪農たちを始め、庶民も、政治に対する関心が強く、また明治、大正時代でも、案外、井戸塀政治家がいたようですし。
政治家の数が少なければ、皆もそれなりに選ぶのでしょうが、数が多いと、言葉は悪いけれども、味噌も糞も一緒ということになってしまいます。まあ、これはどの職業においてもそうでしょうけれども。
日々是好日
今朝は、空が染まっていませんでした。東の空は、一面、雲に覆われ(実際は白い雲でした)、光の「ひ」の字も見当たらない。そして、風は…涼しいのです。この涼しさを感じ取ったのか、虫の声が草むらから聞こえて来ます。勿論、お日様が顔を出すと、さあ、選手交代、蝉声です。今朝は合唱とまでは行かず、ポツンポツンと、ソロで演奏です。時々、「ジリジリ」とか、「ワアッシ、ワアッシ」という声も聞こえてきましたから、他の種類の蝉もいたのでしょう。
さて、昨日、入管に行ってきました。入管には随分前に一度行ったきり。道を詳しく聞いていたので、頭の中ではわかったと思っていたのですが、実際に歩くとなると、そうは行かないのです。品川駅に着くとすぐ、そばにいた駅員さんに「東口」を聞き、改札口では「バス停」を聞き、それでも反対側に歩いて行ってしまい(そこで、どうもおかしいぞと思ったのです)、ちょうどそばに立っていた、腕に「警視庁マーク」をつけた女性警官に聞き、やっとバス停にたどり着くことができました。
面白いことに、この中で、一番親切だったのは、警視庁のマークをつけていた女性。ちょっと怖そうかなと思いながらも、背に腹はかえられぬと聞いたのですが、彼女は「あらあ、反対ですよ。あっちを見て。向こう側に行ってください」という風に、実に和やかで人間的。でも、考えてみれば、駅員さんは聞かれすぎていて、どうしても事務的になってしまうのでしょう。
バス停の近くではちゃんと矢印がありましたから、大丈夫だったのですけれど。いえ、その「近く」に行くまで、ちょっと迷ったかもしれません。実際は、私の後ろから走ってきた人がいたのです。その人が猛ダッシュで階段を駆け下りて行ったので、思わずその先を見ると、入管行きのバスが止まっていた…。それでヨチヨチと階段を下りていったのです。まず乗れてホッとしました。あとはバスが連れていってくれますから。
この学校から出したのは、全部で六人です。三人が中国から、そしてベトナム一人に、スリランカが二人です。中国とベトナムからの人は大丈夫でしたが、スリランカの二人は落ちていました。
戻って一分もせぬうちに中国から電話です。合格を伝えると直ぐに手続きに入ったようです。そして一昨日「私のお姉さんは大丈夫でしょうか」と電話してきた、妹さんに電話です。「お姉さんは通りましたよ」。うれしそうな明るい声で、「よかった」。彼女の声は本当にいい。そばにいる人を力づけ、心を明るい方向へ持っていってくれるような声です。天性のものなのでしょうが、それにお人柄が加わって、おっとりとした品のいいものにしているようです。
そして、しばらくしてからスリランカから電話。だめだったと伝えると、「そうですか」と言って、後からの連絡を待つとのこと。おそらくはだめかもしれないと予想していたのかもしれません。今度はスリランカは出ないようだという噂があちこちか出ていましたから。でも、もし、真面目で勉強をしたいという学生だったら、本当に残念なのですけれども…。
何年も前のことになるのですが、スリランカからはノーパスのようにどんどんビザが出ていた時期がありました。勿論、勉強を一生懸命した人もいましたが、中にはどうしてここに来ちゃったんだろうと、私たちの方がため息をつきたくなるような人たちもいました。
私たちにため息をつかせるような人たちでも、学校に来ることは来るのです。そしてちゃんと席について勉強しているかのようなふうを装うこともできるのです。でも、書くのは「ひらがな」がやっとでした(スリランカ人はヒアリングがいいので、直ぐに話せるようになります。ただ、それで終わりなのです)。漢字は専門学校に進む時に、やっと学校の名前と住所が書けるようになったくらい。
面白いことに、漢字を書くように言えば、10回でも20回でも、それこそ100回でも、書くのです。けれども覚える気が全く無いのでしょう、書くのがマルにバツであっても三角であっても同じであったような気がします。言われたからするだけだったのでしょう。それで、今では、漢字を指導する時に、以前にも増して、一字一字の意味を教え、意味を考えろと諄く言うようになった気がします。日本人はどこかしら、書けば覚えられると思い込んでいるような気がします。一万回書いても、覚える気が無い人は覚えられないのです。とはいえ、この人達が悪い人たちというのではないのです。私たちから見ると、勉強する年齢(たぶん、彼らは23か24が境目なのでしょう。それより若ければどうにかなるかもしれませんが、それ以上だと、「勉強よりも「生活、人生」の方に目が向いてしまうようなのです)を超えているかなという感じ、あくまでこれは「精神的」な部分においてなのですが。
あの頃、スリランカの学生が交通事故を起こして亡くなってしまうという痛ましい事件がありました。その時の彼らの団結力のすごさには、本当にびっくりしました。事故を起こした学生に近い人の中から、一人の学生が中心になって、必要なお金を集め、遺体を祖国に運んでいったのですが、これは彼らにしてみれば、だれかがやらねばならないこと。勿論、皆が皆、彼のように出来るというわけではないでしょう。けれども、中心になってやるということは、あまり割のいい役目ではありません。それにもかかわらず、やり遂げたわけで、その時に教室の中では窺い知ることの出来ない、彼のリーダーシップと責任感の強さを感じました。
それまではごく普通の学生で、しっかりしているとは思いましたが、あそこまでできるとは思っていませんした。かれが全部の責任を負ってやってしまうと、また以前のように皆の中に埋没してしまったのですが。
日本にいて、漢字交じりの文章が読め、書けるということも、その人にとっては、才能の一つでしかないのです。人間には言語の他にも様々な才能、そして能力を生み出している資質というものがあり、それは、何事かことが起こらない限り、他の人にはわからないことなのかもしれません。
勉強しないし、出来ない人が多かった、当時のスリランカの学生の多くは、私たちにとって悩みの種でしたし、ああいう事件は二度と起こしてはならないことですが、あれがあって初めて、私たちにわかったことがあったのです。しかし、どうしてこういうことができる人たちが、ダラダラと戦争と続けたり、国を発展させていけないのでしょうね(スリランカはだめ、発展なんて出来ない。政府が悪いとよく耳にします)。そこには、個人の資質とは全く無関係な別の問題があるような気がするのですけれども。
ここまで書いてきて、思わず、笑ってしまいました。よく、欧米の友人から、日本人もそう言われるのです。「東北大震災の時にも感じたことだけれども、以前から、どうして日本人は一人一人優れているのに、政治は子供みたいなのだ」と。わかりません。多分、日本人は優れていないのでしょう。だからああいう政治家しか選べないのです。制度が悪いと言って、制度をいじったことがあったけれども、ますますひどくなったみたいだし。もしかしたら、今の制度というのは日本人に合わないのかもしれません。いわゆる欧米式の民主主義で世界を席巻できるかというとそうでもないのでしょう。ただ、日本人は、今、自分たちの姿を正確に掴めなくなっているから、自分たちにあった政治体制を作り出せないでいるのかもしれません。
江戸期には、薩摩に代表される若衆宿や、名主を始めとする村組織、最後には制度疲労を起こしていたものの、幕府の組織などがありました。村組織などもしっかりしたものが、すでに、初めて農民が数十年も自治をしたという室町期からあったのでしょう。むろん、民主主義とは相容れない部分も多々あるのでしょうが、それでも、数百年から千年以上をかけて作り上げられてきた、日本の風土にあった体制を基に、欧米の、参考にすべきものは参考にして、じっくりと作り上げていけば、いつかは、日本人が、日本という島で、幸せに暮らせるようになるのかもしれません。
それに、鎖国をしていた江戸末期の方が、異国の情報を正確に得ていたような気がするのです。それに、その頃の方が、責任感のあるプロの政治家がいたような気もするのですから不思議ですね。多摩地方の豪農たちを始め、庶民も、政治に対する関心が強く、また明治、大正時代でも、案外、井戸塀政治家がいたようですし。
政治家の数が少なければ、皆もそれなりに選ぶのでしょうが、数が多いと、言葉は悪いけれども、味噌も糞も一緒ということになってしまいます。まあ、これはどの職業においてもそうでしょうけれども。
日々是好日