曇り。
うっすらと雲がかかり、時折薄日が射してきます。
先日の「皇居散策」は、暑かった。「二重橋」の辺りで、「ハア、ハア」いっているスリランカの男子学生がいました。まだ、ほんのとば口でしたのに。彼らはこんなに歩いたこと、なかったんでしょうね。もとより、こんな彼らでも、半年ほどもアルバイトをすると、もう少し体がしっかりしてくると思いますが。
インド圏の人たちは、男女を問わず(実は、最初、女性だけだと思っていたのです。国で外出ができないという事情から、少し歩くとへばってしまうのは)、体力がない人が間々見受けられます。
きっと、小中学校でも、そして高校でも(イギリス式ですから、彼らはあまり「高校である」という認識がないのですが。まあ、聞けば判りますけれども…。中学校程度の知識で、あとは、名ばかりの専門しかわからない…。日本だったら、テレビをぼんやり見ていても得られる知識というものがあるのですが)、体育とか遠足とかいうのは、ないのでしょうね。
運動していたと言いましても、友達と、遊ぶくらいのものかもしれませんし…、それに、体力がなくても、それで仲間に馬鹿にされると言うこともないのでしょうし。
前途多難ですね。アルバイトが始まってしまえば、それだけで、体力を使い尽くしてしまうということにもなりかねませんし…。下手をすると、それで、授業中は、耐えきれなくて眠ってしまうということにもなりかねませんし…。真面目そうに見えるだけに、ちょっと不安です。
さて、学校です。
「でした」や「ました」が入ってくると、「どうして、前のことに『た』がつくのか」ということが「理解」できなくて、固まってしまう人が出てきます。
「なぜか」と私に問われても、判りませんし、よしんば、判っているとしても、それをタイ人にはタイ語で、スリランカ人にはシンハラ語で、バングラデシュ人にはベンガル語で、ベトナム人にはベトナム語で、フィリピン人にはタガログ語で、インド人にはヒンディ語で、彼らにわかりやすく説明できることなんてできませんもの。
最初は、「こうです。覚えます」でやるしかないのです。
ホワイトボードに、「時間の横線」を引き、「未来に向かって」のところを矢印で印をつけ、それから、「今」のところに印をつける(まあ、「今」の時間を聞いて、それを書いてもいいのですが)。そこに、わかりやすいように、ちょっと長めに縦線を引いて、区切り、「『今』より前には『た』をつける。『今』より後、そして『いつも』の時は、『た』をつけずにそのままにしておく」でよしとするしかないのです。また、それでいいと思います。言葉なんて、説明不能・理解不能のものですから。合点が行ける理屈なんて、そんじょそこらにころがっているわけではないのです。
判らないと言う人は「なぜ、そうなるのか」がわからないのであって、それに拘泥してしまうと、次に進めなくなることさえあるのです。「これが、『わからない。どうしょう』」となって。けれども、理屈なんて判らなくたっていいのです、使えさえすればいいのですから。
「た」をつけるということは、すでに「知っている」のです。あとは、自然に使えるようになります。ただ、それは「慣れ」であって、「理解」の領域のことではないのです。
だから、「どうして」と問われても、「こういうときには、『た』をつけます」と言って、不安そうな顔をしている学生には、「大丈夫」と安心させ、「すぐに慣れますよ」とでも言っておけばいいのです。
「日本語は難しくないんだ」というふうに、苦手意識をつけさせないことが一番大切で、それを、変に説明し始めると、却ってこんがらがってしまい、簡単なことまで難しく感じるようになってしまいます。まずは、安心させ、そうして、一週間、二週間も経てば、「入れた」当座は、「なぜ、なぜ」と言っていた人まで(毎日来てそういう練習をしていれば)、自然に、言えるようになってきます。
本当にそうなのです。一ヶ月前まで、「どうして『た』をつけるのだ。意味が分からない」と、天下大事みたいに「わあ、わあ」騒いでいた学生まで、今では素知らぬ顔で、「昨日、言いました」なんて言っているのですから。
日々是好日
うっすらと雲がかかり、時折薄日が射してきます。
先日の「皇居散策」は、暑かった。「二重橋」の辺りで、「ハア、ハア」いっているスリランカの男子学生がいました。まだ、ほんのとば口でしたのに。彼らはこんなに歩いたこと、なかったんでしょうね。もとより、こんな彼らでも、半年ほどもアルバイトをすると、もう少し体がしっかりしてくると思いますが。
インド圏の人たちは、男女を問わず(実は、最初、女性だけだと思っていたのです。国で外出ができないという事情から、少し歩くとへばってしまうのは)、体力がない人が間々見受けられます。
きっと、小中学校でも、そして高校でも(イギリス式ですから、彼らはあまり「高校である」という認識がないのですが。まあ、聞けば判りますけれども…。中学校程度の知識で、あとは、名ばかりの専門しかわからない…。日本だったら、テレビをぼんやり見ていても得られる知識というものがあるのですが)、体育とか遠足とかいうのは、ないのでしょうね。
運動していたと言いましても、友達と、遊ぶくらいのものかもしれませんし…、それに、体力がなくても、それで仲間に馬鹿にされると言うこともないのでしょうし。
前途多難ですね。アルバイトが始まってしまえば、それだけで、体力を使い尽くしてしまうということにもなりかねませんし…。下手をすると、それで、授業中は、耐えきれなくて眠ってしまうということにもなりかねませんし…。真面目そうに見えるだけに、ちょっと不安です。
さて、学校です。
「でした」や「ました」が入ってくると、「どうして、前のことに『た』がつくのか」ということが「理解」できなくて、固まってしまう人が出てきます。
「なぜか」と私に問われても、判りませんし、よしんば、判っているとしても、それをタイ人にはタイ語で、スリランカ人にはシンハラ語で、バングラデシュ人にはベンガル語で、ベトナム人にはベトナム語で、フィリピン人にはタガログ語で、インド人にはヒンディ語で、彼らにわかりやすく説明できることなんてできませんもの。
最初は、「こうです。覚えます」でやるしかないのです。
ホワイトボードに、「時間の横線」を引き、「未来に向かって」のところを矢印で印をつけ、それから、「今」のところに印をつける(まあ、「今」の時間を聞いて、それを書いてもいいのですが)。そこに、わかりやすいように、ちょっと長めに縦線を引いて、区切り、「『今』より前には『た』をつける。『今』より後、そして『いつも』の時は、『た』をつけずにそのままにしておく」でよしとするしかないのです。また、それでいいと思います。言葉なんて、説明不能・理解不能のものですから。合点が行ける理屈なんて、そんじょそこらにころがっているわけではないのです。
判らないと言う人は「なぜ、そうなるのか」がわからないのであって、それに拘泥してしまうと、次に進めなくなることさえあるのです。「これが、『わからない。どうしょう』」となって。けれども、理屈なんて判らなくたっていいのです、使えさえすればいいのですから。
「た」をつけるということは、すでに「知っている」のです。あとは、自然に使えるようになります。ただ、それは「慣れ」であって、「理解」の領域のことではないのです。
だから、「どうして」と問われても、「こういうときには、『た』をつけます」と言って、不安そうな顔をしている学生には、「大丈夫」と安心させ、「すぐに慣れますよ」とでも言っておけばいいのです。
「日本語は難しくないんだ」というふうに、苦手意識をつけさせないことが一番大切で、それを、変に説明し始めると、却ってこんがらがってしまい、簡単なことまで難しく感じるようになってしまいます。まずは、安心させ、そうして、一週間、二週間も経てば、「入れた」当座は、「なぜ、なぜ」と言っていた人まで(毎日来てそういう練習をしていれば)、自然に、言えるようになってきます。
本当にそうなのです。一ヶ月前まで、「どうして『た』をつけるのだ。意味が分からない」と、天下大事みたいに「わあ、わあ」騒いでいた学生まで、今では素知らぬ顔で、「昨日、言いました」なんて言っているのですから。
日々是好日