もう、「暮春」とも、「晩春」とも言えなくなっています。寒さともやっと縁が切れそうなです。
今日は朝から風が強く、お向かいの真鯉も緋鯉も子鯉も矢車のカラカラという音と共に風に翻っています。
「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し 口先ばかりではらわたはなし」
大きな口をぱくりと開けて、風を身体に通しながら、大きく身体をくねらせて舞っている、吹き流しの鯉を見るにつけ、このことわざが思い出され、何となくおかしくなってきます。
そういえば、「江戸っ子の生まれぞこない 金を貯め」っていう川柳もありましたっけ。今は、そうもいきますまいが、かつては「江戸っ子は 宵越しの銭は持たぬもの」と相場が決まっていました。もっとも、当時でも、そういう人は、そうせざるを得ない環境に、生い育ったが故に、そうなったのでしょうが。
さて、先週の土曜日、卒業生の結婚式に行ってきました。行ってみると、彼がいた頃の教員仲間も尾道から来ていましたし、(この学校を卒業後)彼と同じ大学に通っていたバングラデシュの卒業生も来ていました。それに大学の恩師という方にもお会いし、お話を伺うことができました。
実は、結婚式が終わり、披露宴への移動というところで、卒業生に気がついたのです(前日まで沖縄へ出張していたのだそうです)。すっかり貫禄がつき(太っただけではありません)、三年という歳月の重みを感じてしまいました。それに、日本国中だけでなく、アジアをも駆け回っているという話に、思わず「ほう」。
結局は、やはり大学へ行った方が、いいのでしょう。二人とも大学で、初めて自分を発展させていくことができたようですから。日本語学校にいる間は、否応なく、とにかく、(知識技能を吸収すべく)道具たる日本語を学ぶしかなかった。言語方面の獲得が得手な者はいいけれども、そうではない者にとって、漢字などは苦痛でしかなかった…はずです。まして漢字交じりの文章を読み解くなどは。
学びたいものがあって、日本へ来たからには日本語を習得せねばならぬという、それだけのために日本語学校にいた学生には、(この学校にいた大部分の時間は)才能に則って翼を広げる機会も場所もなかったと言った方がよかったでしょうし。
もちろん、ただ大学へ行けばいいというわけではありません。それには、四年間という時間だけではない何かが、働いていたことでしょう。大学で学べるもの、見聞できるもの、そして出会い、縁をも含めて。これらが、四年間という時間の下で、ゆっくりと熟成されていったのかもしれませんし。これは、彼らが考えている以上に大切であったと思います。
披露宴での、彼らの立ち居振る舞い、おそらくは能力の表し方にしても何にしても、そのまま、日本の会社で働いている、普通の日本人の中にあっても、少しも遜色もないし違和感もなかったのです。それを見て、なぜか、不思議だなと思ってしまいました。
日本語学校には、母国の大学を出てやって来ている学生もいます。中には、(日本語学校)卒業後、そのまま日本の会社に就職する人もいます。そんな人達とも違うのです。彼らは(日本の)大学を卒業してわずか三年しか経っていないのに、本当に違和感がないのです。かといって、自分を抑えている、無理に合わせているというのとも違うのです。そのまま、素直に、自分らしく、翼を拡げたり、閉じたりしているように見えるのです。
もしかしたら、大学入試で苦労した後、大学での試験、様々な行事、そして就活などを通して身に付けていったものが基盤になっているからかもしれません。バングラデシュから来た彼は、確か以前30社くらいを受けたと言っていましたし。
そのどれもが、彼らの「肥やし」となり、未来を切り開いていく上での「土壌」となり、そして、日本の大地で生きていく、今の姿になっていったのでしょう。摩擦はあっても、それが時には大きな軋みとなっても、そんなことはこの地に生まれて育ってきた日本人だってあることですから、別に彼らだけの問題ではないのです。それが感じ取れるほど、多分、これまでには、いろいろなことがあったとは思いますが。
卒業生の、その後(大学を卒業し、就職してからの)を見て、なぜかより一層、大学を勧めるぞという思いを強くしてしまいました。もとより、無理だと思われる人には勧めはしませんが。アルバイトもこなしながら、休むことなく学校に来て、勉強している人は特別なことをしなくても、自然に日本に通用するようになっていくものであると、本当にそう思うのです。
日々是好日
今日は朝から風が強く、お向かいの真鯉も緋鯉も子鯉も矢車のカラカラという音と共に風に翻っています。
「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し 口先ばかりではらわたはなし」
大きな口をぱくりと開けて、風を身体に通しながら、大きく身体をくねらせて舞っている、吹き流しの鯉を見るにつけ、このことわざが思い出され、何となくおかしくなってきます。
そういえば、「江戸っ子の生まれぞこない 金を貯め」っていう川柳もありましたっけ。今は、そうもいきますまいが、かつては「江戸っ子は 宵越しの銭は持たぬもの」と相場が決まっていました。もっとも、当時でも、そういう人は、そうせざるを得ない環境に、生い育ったが故に、そうなったのでしょうが。
さて、先週の土曜日、卒業生の結婚式に行ってきました。行ってみると、彼がいた頃の教員仲間も尾道から来ていましたし、(この学校を卒業後)彼と同じ大学に通っていたバングラデシュの卒業生も来ていました。それに大学の恩師という方にもお会いし、お話を伺うことができました。
実は、結婚式が終わり、披露宴への移動というところで、卒業生に気がついたのです(前日まで沖縄へ出張していたのだそうです)。すっかり貫禄がつき(太っただけではありません)、三年という歳月の重みを感じてしまいました。それに、日本国中だけでなく、アジアをも駆け回っているという話に、思わず「ほう」。
結局は、やはり大学へ行った方が、いいのでしょう。二人とも大学で、初めて自分を発展させていくことができたようですから。日本語学校にいる間は、否応なく、とにかく、(知識技能を吸収すべく)道具たる日本語を学ぶしかなかった。言語方面の獲得が得手な者はいいけれども、そうではない者にとって、漢字などは苦痛でしかなかった…はずです。まして漢字交じりの文章を読み解くなどは。
学びたいものがあって、日本へ来たからには日本語を習得せねばならぬという、それだけのために日本語学校にいた学生には、(この学校にいた大部分の時間は)才能に則って翼を広げる機会も場所もなかったと言った方がよかったでしょうし。
もちろん、ただ大学へ行けばいいというわけではありません。それには、四年間という時間だけではない何かが、働いていたことでしょう。大学で学べるもの、見聞できるもの、そして出会い、縁をも含めて。これらが、四年間という時間の下で、ゆっくりと熟成されていったのかもしれませんし。これは、彼らが考えている以上に大切であったと思います。
披露宴での、彼らの立ち居振る舞い、おそらくは能力の表し方にしても何にしても、そのまま、日本の会社で働いている、普通の日本人の中にあっても、少しも遜色もないし違和感もなかったのです。それを見て、なぜか、不思議だなと思ってしまいました。
日本語学校には、母国の大学を出てやって来ている学生もいます。中には、(日本語学校)卒業後、そのまま日本の会社に就職する人もいます。そんな人達とも違うのです。彼らは(日本の)大学を卒業してわずか三年しか経っていないのに、本当に違和感がないのです。かといって、自分を抑えている、無理に合わせているというのとも違うのです。そのまま、素直に、自分らしく、翼を拡げたり、閉じたりしているように見えるのです。
もしかしたら、大学入試で苦労した後、大学での試験、様々な行事、そして就活などを通して身に付けていったものが基盤になっているからかもしれません。バングラデシュから来た彼は、確か以前30社くらいを受けたと言っていましたし。
そのどれもが、彼らの「肥やし」となり、未来を切り開いていく上での「土壌」となり、そして、日本の大地で生きていく、今の姿になっていったのでしょう。摩擦はあっても、それが時には大きな軋みとなっても、そんなことはこの地に生まれて育ってきた日本人だってあることですから、別に彼らだけの問題ではないのです。それが感じ取れるほど、多分、これまでには、いろいろなことがあったとは思いますが。
卒業生の、その後(大学を卒業し、就職してからの)を見て、なぜかより一層、大学を勧めるぞという思いを強くしてしまいました。もとより、無理だと思われる人には勧めはしませんが。アルバイトもこなしながら、休むことなく学校に来て、勉強している人は特別なことをしなくても、自然に日本に通用するようになっていくものであると、本当にそう思うのです。
日々是好日