日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

学校の「ラン(蘭)」の花まで満開です。どっさりと花をつけています。ちと重たげなほど。

2022-03-31 08:06:03 | 日本語学校

晴れ。

気がつかぬうちに、台所の「ラン」の花が満開になっていました。あふれんばかりです。鉢を変えたほうがいいのではないかしらんと思えるほどに。しかしながら、見ていると、実際、「ラン」というのは華やか花ですね。華やかというか、目出つ、派手、すごい花です…。しかも、隣に置かれている別の種の「ラン」にも蕾がついています。これまたどっさりと。桜だけじゃない、み~んな、急にやってきたようです。今年はなんという春だろう。

さて、学校です。

一昨日、「JLPT」の申し込みで、写真が必要なのだと、その旨を告げると、初めて受験する二人のうちの一人が、写真を撮るのはいつなのかと聞く。「今週中だと思うけれども…。その時は前日に言うから」と答えると、途端にいい顔になって「はい、いい服を着て来ます」。

写真は首から上だけだから、服は関係ないと言うと、如何にも残念そう。コロナ禍ではあり、現在、なかなか「パシッ」と決めて遊びに行ける所がないので、ちと欲求不満気味かな。きっとおしゃれして、いろいろな所へ行きたいのでしょうねえ。毎日が保育園と学校と家で終わっているようですから。

国にいれば、彼らは大家族で生活しているとのことですから、のんびりと子育てし、おしゃれしてどこかに行くのも普通のことだったでしょう。それが、異国の地にいることとて、自分たちだけで子育てしなければならないし、日本語も学ばねばならぬとなっている。…冗談じゃない…、どうしてこんなに忙しいと思いたくなるのも、まあ宜なるかな。時々というか、前は週に何回も疲れて休むということもありましたし…。慣れないことで参っていたのでしょう。先日、「もっと早く日本語を習っておけばよかった…」と、ポツリと言っていましたし。

日本に来たばかりの頃は、「あっちにも行こう」、「こっちにも行こう」で、楽しく過ごしていたのでしょう。コロナがまだ入って来ていなかったのかもしれません。ところが、コロナ禍が一年、二年…と続き、おまけに子どももできた。すると、子どもの世話に明け暮れるという生活になってしまう。そのうち、保育園へやる頃になった。すると、はて、困った。日本語がわからない…しかも、相手には英語が通じない…、日本語を勉強しなければ…。そこで、初めてどうして前に日本語を勉強しておかなかったのだろう…となったのでしょうね。

二人のうちの一人は、前に少しばかりこの学校に通っていたのですが、来られなかった2年ほどの間に、消えてしまったものが少なくはないようです。ヒアリングと会話は、だれでも現地にいる間に伸びるのもですが、問題は文字ですね。読み書きができなくなっている。

一人は来日前に「ひらがな」は勉強したことがあるそうなのですが、書き方が違う。注意すると「国の先生はこう書いていた…」。この学校でも「ひらがな」は勉強していたはずなのですが、やはり最初に入れられたもののほうが強く印象に残っているようで、書かなくなれば、それは水面下にあったもののほうが頑丈ですから、どんどんせり上がってくるというのは自然の理。しかたがない、やり直しですね。

漢字を覚えるにしても、東アジアの人間は別にして、どうしても「『手』と『目』を動かせ」が理解できない(やっと少しずつわかってきたようですが。なにせこれができないと漢字は覚えるのに無駄と思えるほどの時間がかかる)。いかに早くこれを得心させられるかが大切なのです。

勿論、高卒の留学生たちは別です。国で「N5」に合格できなければ申請が通りませんから。そこは向こうの学校でも漢字は「N5」までは教えてくれています。形や筆順はともかく、書いたことがあるし、読んだこともある。

ところが、普通の家族滞在や仕事などで来ている人はそうではないのです。だいたい日本のことなんて「車」くらいしか知らないのです。来日することになって初めて、意識する。意識しても日本はやはり遠いのです。桜とか富士山とか、着物とか…せいぜいが、そんなもの。文字なんてだれも意識しませんから。まして学び方なんて。

日本人が外国を旅行して、市場などで「安いよ」とか「日本人」、「おいで」「こっち来て」とか耳にして、発音のいいのにびっくりしたりするのも、彼らは耳から学んで、口に出すという学び方に長けているからのことで、学ぶのに「手」と「目」なんて論外の世界なのです。

まず、(留学生には必要ない)このやり方がわかるまでにかなりの時間を要します。最初は無駄だなと思っていたのですが、それでは覚えられないのです。「遠回りこそが近道」で、仕舞っていた「篆字(車は車の形をしていますし、酒は入れ物の形をしていますし)」をごそごそと出してきたり(でも、すぐやめてしまいました。こっちで、その都度書いたほうが速い)。

「N4」までの漢字ができていなければ、「N3」の漢字なんてムリですから、多少遠回りでも、読みと書きが覚えられるまでは、繰り返したほうがいいのでしょう。とはいえ、「N3」の読解に入って初めて、漢字が覚えられていなければ、試験に合格できないということがわかるのでしょうね。ただ頑張っているのはよくわかるのです。やり方が変えられないだけなのです。…とはいえ、これが一番大切なんですけれども。

日々是好日
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また「JLPT]申し込みの頃になりました。

2022-03-29 08:37:54 | 日本語学校
曇り。

「花冷え」で、「花曇り」。「花」はつけども、どちらの言葉も、あたりをぼんやりとさせてしまいますね。満開になったばかりの桜の花も、どこかしら、はかなげに見える。…昨日は、もうちょっとどうにかなっていたのですけれどもね。

昨日の午後、卒業生三人が、式のDVDの受け取りやら、ビザの変更の書類書きやら、何かかにかで、やってきました。

高校生になった一人は、従兄弟と一緒にやってきて、これから「桜の写真を撮りにあちこちへ行くのだ」と言う。「漢字は毎日書いていないと忘れるよ」と脅すと、「漢字は勉強します、明日からね」と、にこにこと笑いながら、風のように去って行きました(う~ん、余裕がある)。が、残りの二人はかなり往生していました。

一人は、大切な書類を一つ忘れたそうで、ちょっと頑張っていましたが、直に「また来ます」と帰って行き、もう一人は、書いたはいいけれども、鉛筆書きしていないところに○をつけてしまって、やり直し。「はあ」と、ため息をつきながら、例の如く書き直していましたが、4時頃、「帰ります」と来た。…やっぱりなあ、続かない。

「オリエンテーションって何をするの」と聞くので、「大学生活に必要なことを、いろいろと説明してくれるから、きちんとメモをとっておかなければだめだし、わからなかったら聞くんだよ」と言うと、「日本人も来るの」と不安げ。「これからは日本人の中に君たち外国人が入るのだから、少数者になる。日本人の友だちを作るのはとても大切なこと。わからなかったら、線を引いておいて、隣に座っている日本人に聞きなさい」…。こう言ったは言ったが、後でハタと「あれれれれ、今はコロナ。すぐ隣に座るってことはないよなあ」。…困ったな、まあ、いいか。また来た時に聞くだろう…。

学生も適当なら、教師も適当です…こんなふうに二年を過ごしてきたような…。

さて、三人が去った「Bクラス」、現在は「Aクラス」ということになっていますが、全員揃っても、六名。大学院に属している一人は、1,2週に一回は来られませんし、一人は週3しか参加できません。それに残りのうち、一人が今年大阪へ引っ越すことになったと言いに来ました。「いつか、はっきりわからないところにちょっと困っている。わからないから七月の日本語能力試験は申し込めない」という。「どちらかに申し込んでおいて、違っていたら、そっちに行けばいい、新幹線もあるし」と言うと、「ムリ~」と言う。

そうですね。卒業文集の中に、彼女は、電車で迷ったことがあったと書いてあったっけ。ご主人と一緒の時は、わかりやすい、スイスイ行ける。電車ってかんた~ん」と思っていたそうだが、いざ一人でとなると、何が何だかわからず、あっち行き、こっち行きして、もう嫌だとなったと言う。

「羮に懲りて膾を吹く」と言えば、確かにそうなのだけれども、私とて、そっち(彼女側)の部類。気持ちはよくわかります。そりゃあ、一人でとなると、嫌だろうなあ。

ということで、そろそろ「JLPT」の申し込みの候となりました。旧「Cクラス」は、二人とも、「N4」を申し込みたいと言っています。それまでにどうにか漢字を覚えるには、「手だよ」「目だよ」をもう少し徹底させたいと考えていますが。

「N4」で終わりなら、今のままでもいいのですが、「N2」までやりたいとなると、ちょっと、今のままではね。「読めない」ことになりますから。…週一の「漢字のテスト」、その時だけ合格できても、結局は、役には立ちませんから。

日々是好日
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金曜日は、式の翌日と言うことで、皆さん、お疲れの様子でしたね。

2022-03-28 07:52:43 | 日本語学校
晴れ。

たった二日の間に、世の中は変わるものですね。カーテンを開けると、ベランダの「ハナカイドウ(花海棠)」の蕾が濃く色づいている。道を走ると、あっちもこっちも「サクラ(桜)」でいっぱい。学校に着くと、台所の「ラン(蘭)」の花まで華やかに開いている。

「世の中は三日見ぬ間の桜かな」

「散る」と「咲く」とでは、話は全く逆ですけれども、まあ、そういう気分です。急に春になったような。土日とワクチンの熱やら何やかやで苦しんだその後に、パアッと明るくなったような。

さて、学校です。

金曜日の在校生は、…もっとも、卒業式に参加した旧「Bクラス」の面々ですけれども。疲れが見えました。聞くと、みんなで、式後レストランに行って、カラオケに行って、公園へ行って、散歩して…と、何が先で何が後やらわからぬような言い方ですが、どうも楽しかったらしい。これだけは一緒。で、今日は疲れている…らしい。

いつも真面目で、きちんと答えられている学生が、ダラダラしている。おまけに、的外れな答えを出してくる。で、聞くと、あっちからもこっちからも、ピーチクパーチクと返事が返ってきた。一人だけはアルバイトが休みなくて参加できなかったらしいけれども。

まあね。一年に一回くらいだからしょうがないか、で、金曜日はなすこともなく終わり。今日はどうなることやら。

日々是好日
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昨日は、「卒業式」でした。きれいなスーダンの民族衣装を来た二人は、ちょっと大人っぽく見えました。男子学生もパリッとしていましたよ。

2022-03-25 08:14:10 | 日本語学校
晴れ。

上天気です。昨日は「卒業式」でした。

現在、この学校の学生は全部で13名。数は少ないのですが、国数は多く、9カ国

スーダン、ベトナム、スリランカ、パキスタン、ネパール、インド、ウズベキスタン、イラク、コロンビア。このうちのスーダン人二人、ベトナム人一人が卒業し、国数は八つになります。

小さな学校でもこれだけ国の数が多いと言うことは、それだけの数の文化があるということ。これは弱みでもあるし、強みでもある。自分と違う考え方をする人たちと、若いうちに出会えるというのは、今はそれほどのことはなくとも、将来、きっと何かの役に立つ。全く、人生、無駄なことは何一つないのです。特に、人間関係でですね。「何言っているかわからないよ」というのが少なくなるでしょう。

立場は同じ(日本語を学ぶという上では、同じ学生)、しかも、母国では、ある程度不足のない生活をおくっており、そのままの考え方で異国の地へ来ますから、不満があった場合、高飛車な発言が多くなってしまう…という人も少なくはない。相手に合わせない、というか、合わせられないのです。自分の母国での生活が基準になっていますから、そのような物言いをしてしまい、相手がそれに対して不快感を持っていることに気付けない。「おかしいな」というのが、なかなか出てこないのです。あるのは、自分の思うとおりにしない相手に対する憤懣ばかり。

それが、こういう小さな学校の一教室で、異なった文化同士が、角突き合わせているのですから、「ああ言えば、こう言われる」、「ああ言われれば、こう言い返す」を繰り返しているうちに、仲間になっていく…のかもしれません。目的は、「いっしょ」なのです、日本語を学ぶと言うこと。皆が最後に頼るのは、この分野における評価だけです。金の有無、身分などは何の関係もない。それを振りかざしたって、日本人は屁とも思わない。

特にこの一年は、学生の数も少ないということもあって、互いの関係が濃密であったと思います。聞くところによると、学校の外でも集まって楽しんだことがあるとか。これらの経験を糧に、これからの日本での生活を楽しんでもらえるかもしれません。

卒業式は、例年よりも10日ほど遅いのですが、ぎりぎり間に合いました。高校進学の学生が、最後まで勉強するように…と目論んでいたのですが、どうも最後の授業の日は、「最後だから、勉強したくない」という声にかき消され、サイクリングのビデオを見せてしまいました。

日本にはきれいなところがたくさんあります。道もいい。四季折々の風物、風景が彼らを楽しませてくれることでしょう。何よりいいのは、他国を旅行している時に、時折、感じさせられてしまう「罪悪感」を、日本ではあまり感じずに済むということ。

それは「貧しさを見る」が故に来るというものでも、「身の丈に合わない暮らしを求めての不満」を聞いて起こるというものでもないのです。そういう「戦い」の面が全くないことからくる、ある種の「やるせない」というようなものなのかもしれません。

日本では「身の丈にあった暮らし」というのは、悪い意味では全くなく、いい意味で使われます。が、その時必要なのは、その人が「身の丈」を知っていると言うことと、ある程度の生活ができているということなのでしょう。「まあ、自分はこの程度の者だから、これくらい(の生活)でしょうがないかな」くらいに感じて「おしまい」。で、それなりに穏やかに暮らしていけるのですが、そうではない国も多いのです。

「自分の実力はこんなものではないのに、どうしてこういう生活をせねばならぬのか。あんな馬鹿な奴らが親のコネなどで、豊かな生活ができているというのに」「チャンスを奪われている自分はこれからも、死ぬまでこう言う生活をしていかなければならないのか」といった滾るような思いがあれば、どうにかなるであろうにと思えるのに(多分、そういう国の人はどうにもならないのでしょうけれども、まだ救われるような気がするのです)、そこに住んでいる人は「宿命」めいた捉え方をし、その人とは全く関係ないところで決められてしまった「運」だと言います。これが辛い。そういう話を聞いてしまうと、いくら美しい場所にいても、楽しめるものではありません。嫌でも、その中に捉えられてしまう。

旅行というものは、本来、気分転換や楽しみ、普段の自分からの解放など様々な目的でなされるものなのであって、行って罪悪感だけ持って帰るというのは辛いことです。つまり、行った場所で、そういう楽しみを享受できる自分に対する「罪悪感」を感じずに済むならそれに超したことはないのです。

日本を旅するということは、旅本来の目的に沿った気分でいられるという面では、楽です。生活がかなり厳しい人たちでも、あまりそれを表に出すことはありませんし、特に、田舎では皆自分の家や土地を持っていますから、いよいよとなれば、そこに引きこもり、ふるさとの自然の中に閉じこもればいい。

中国人の学生が、以前、バス旅行をしている時、「これが田舎か。これは別荘じゃないのか」と叫んだことがありました。中国人学生の頭の中には、彼らの国と同じく、田舎というのは薄汚れた地方で、インフラなど何も整っていない未開の地みたいな印象があったのかもしれません。日本人が田舎暮らしにあこがれるというのも理解できなかったでしょうし、引っ越しが楽にできる(別に大仰な手続きなどいりません)ということも理解できなかったのでしょう。

そう叫んだ彼も、既に日本に住んで久しく、日本人のように、一軒家がいいとか、山や川があるところがいいなどと思っているのでしょうね。

さあ、卒業生たちは今日からリモートでオリエンテーションが始まったり、渡された宿題に悩まされたりするのでしょうね。本当に「がんばれ、がんばれ」です。しかしながら、そう言うと、「ああ」とため息をつくだけの人もいましたから、これも難しい。

ともあれ、これからも楽しい毎日でありますように。

日々是好日

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「うん、地理と理科、数学は何とかなりそう。知識も増えた」だって。楽しい高校生活を過ごしてね。

2022-03-16 08:35:01 | 日本語学校
曇り。

曇っていても、もう寒さは感じられません。「サクラ(桜)」の季節がもう間近に迫っています(東京は3月18日だったかしらん、開花日は)。今朝、「レンギョウ」の花を見かけました。ほんの小さな花が何輪かしかまだ咲いていなかったのですけれども。…ここで思わず、「モモ(桃)」と「サクラ(桜)」とどちらが先だったっけ?なんて考えてしまいました。

勿論、どちらも「早咲き」、「遅咲き」がある…とはいえ、「上巳の節句」は「桃の節句」とも言うし、あれは「立春」の前日だから…「モモ」の方が先と見てもいいのかしらん。でも近所の「モモ」は「サクラ」が散った頃、咲いていたような気がするし…。

いやあ、これは悩んでも詮無いこと…考え出したら気になってくる…。まあ、どっちでもいいか、きれいなんだから…なんて考えているうちに、忘れ物に気がついた。

冬眠から覚めたばかりの「熊さん」状態になってから、かなり経っています。一つだけならまだましなのですが、二つ目がどうもいけない。二つ目が来ると一つ目を忘れ、三つ目が来るとその二つ目すら忘れてしまう。脳の中に入れる分量が決まっているようで、メモをとっても、そのメモすらどこに置いたか忘れてしまう。

困ったものです。教科書や宿題を忘れた学生を叱れない。「ま、しょうがないか。そういうこともあるものな」などと考えてしまう。もとより、こちらの方はそうは行きません。それゆえに、ここにいる間は、以前にも増して準備が必要と言うことになる。調べるにしても心持ちが違う。笑って「ど忘れだ」など、気休め的なことは、自分には言えないのです。

さて、学校です。

高校に入ることになった学生は、この学校にいる間に、かなり自信を取り戻してきたようです。そりゃあ、そうですよね。もともと頭が悪いわけではない。それなりの向上心もあるし、負けん気もある。けれども、(日本では)漢字がわからなければ、文章が読めないわけで、それが全部に影響してしまう。どの教科にしても「教科書」があり、それを読めないことには点が取れないのです。それで、嫌気がさしていた。自分の思うところの自分と、(日本での)現実の自分とのギャップにです。こんなはずじゃないというのがずっと続いていたのでしょう。

ある程度漢字がわかり、勘がついてくると中学校の時の数学にしても、かなりの点が取れてくる。地理にしても読み進めていくと、ルビを振りながら質問してくる。大学に合格した方(二人の授業です)は、直に飽きてきたけれども、彼女の方は面白くなってきたらしい。今は「うん、(高校に入っても)数学や地理、理科は、何とかなりそうだ」などと言ってくれる。そういう気持ちになってきたということがうれしい。…ただ「現国」は辛いでしょうね。そういうレベルにはいけませんでしたから、一年ちょっとではね。

まずは、よかった、よかったです。こういう気持ちで積極的に高校生活を送ってくれたら、高校生活も楽しくなるでしょうし、多分、日本にいることが無意味だなどとは思わないで済むでしょう。

高校課程くらいの知識や技能があれば、後は自分次第です。知りたいことができたら、自分で調べればいいし、学校だってあります。道は拡がっていくものです。中学校くらいで終わってしまうと、自分で切り開いて行くにはかなり過酷になってくる。それに、機会も減ってくるでしょうから。

日々是好日
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漢字が少しでも書けると、どうもうれしいらしい。まだまだ道は長いのだけれども…。

2022-03-15 08:35:38 | 日本語学校

小雨。

「小糠雨」…なんとなく、春の季語のような感じがするから不思議。ちょっと甘ったるいような雰囲気があるような。「霧雨」は、音の響きもきついし、「秋」の季語と、以前、習ったような…。

今朝も降っているかいないか、わからないような雨。降っていないと思っていたのに、自転車を漕ぎ出すと、傘を差している人がちらほら目につく。意識すると、…かすかに、雨を感じるような。それは、雨の冷たさか、はたまた雨のにおいからか。

さて、学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」の花も、かなりくたびれてきたような状態になっています。学生たちも、皆、マスクをしていますからね、「いいにおいでしょう」走りの春を味わえ…と言っても、それこそそれは無理というもの。誰もいない時に、マスクを外してみてねくらいが関の山。これが例年ですと、歩いていても漂ってきますから、すぐにわかるのですが。

学校では、卒業式の準備がやっと本格的になっています。コロナのせいでというか、留学生が来られそうになったおかげで、あたふたと急かされている人をよそ目に、こちらは今まで通り、日々の授業に追われるだけ。

二人だけのクラスが二つあって(留学生のように、ドーンと「まとまって来る」というわけではありませんから)、そのうちの一つは、『みんなの日本語(Ⅱ)』の、半ばほどになっているので、新しく来る人たちと一緒に学ぶということにはならないでしょう。それに、二人だけですから、彼らに合わせだ授業、つまり変則的にやらざるをえない部分も少なからずあるのです。

最初は、幼児を抱えていることだし、生活上のことをおりおりに入れながら、授業を進めていこうとしたのですが、なにせ、休まざるをえないことが多く、なかなか思ったようにはできませんでした。休みが多くなると復習に力点を置かねばならなくなるのです、家ではそう勉強に時間を割くこともできないということで。

週に2,3日休まれると、次はもう一度ということになる。なんと言っても二人だけですから。すると来ていた一人はちょっと嫌ですよね。それで二人それぞれの苦手な箇所を選んでおき、片方が来られない時にはそっちをやったりする。あるいは漢字を中心にしておいたりする。あるいは会話に時間を割く。まあ、いろいろ考えておかねばなりません。これが10人ほどもいると、休んだところは放課後に個別に見るか、授業の時に、復習をちょっと長めにやっておくというくらいで流していけるのですけれども。

とはいえ、留学生たちの時とは違い、漢字をきっちり覚えておかねば後が大変ということがなかなか理解できないようで、ちょっと困っています。真面目で勉強してくれはしているのですが、「手で覚える」というのが難しいのでしょう。考えながら覚えなくてはすぐに忘れてしまいます。覚え方も一緒に口ずさみながらやってはいるのですが。

留学生たちの時は、週一の漢字テストで「満点」をとる人が大部分だったのですが、二人はそうはいきません。ぎりぎり合格がほとんどです。こちらの記録も毎回とると言うよりも、合格した時だけ記すということにしてしまいましたし。…とはいえ、これだけ書けると喜んでくれているので、不満を言ったら罰が当たるかもしれません。

「N3」の勉強を始めるまでは、それは「お預け」なのでしょう。

日々是好日
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「なぜ避けられるのかわからない」という時もあり。文化や習慣からかなあ。相手に訊くのも一つの方法だけれども…。

2022-03-09 08:46:12 | 日本語学校
晴れ。

三人の卒業生のうち、二人の行き先は決まり、もう一人は結果待ちという時期になりました。

行き先が決まるまでは、まず勉強あるのみでした。つまり12月の「日本語能力テスト」が終わるまではその対策であり、それぞれ進学先への受験対策でありました。態度や言葉遣いなどを注意するにしても、面接上のことが大半で、それ以外では、それほど言っては来ませんでした。

一応、日本語学校でありますから、日本語の習得が主であることは勿論なのですが、それ以外にも、これまでも、気になるところは、少しずつ小出しに注意しては来ていました。互いに慣れるまでは、「う~ん、そう言わない方がいいなあ。こういう言い方ではどうかなあ」といった感じで。

ただ、文化というか習慣というか、つまり、見えない部分、日本語を教えるだけでは伝えられない部分というのは、なかなかに「いつ言うか」、「どれだけ言うか」ということが難しい。

人によっては、こちらの言い方次第で、「(この人は私のことを)嫌っているんだ」と思い込まれたり、あるいは、「何で(私のようなすぐれた人間が)言われなければならないのか(かなりの自信家もいるのです)」と、向かっ腹を立てられたり。つまり、こういう注意はいわゆる「余計なこと」なのです。言わなくて済むものなら、言わない方がいいに決まっています。彼らにしても(人生という)路上で、都合上、たまたま寄っただけの場所に過ぎないのですから。

ただ、人によっては、かなりの年数、日本にいることになりそうな人もいます。日本で働きたいという人や、お子さんの友達やその親御さんら、また学校と関係を持たざるをえない人…。

外国人に馴れている私達にしても、ちょいと問題だなと思えるような行動や態度、言い方であれば、大半の日本人にとっても受け入れがたいのではないかとも思えるのです。

もとより、人それぞれですから、それを面白いと感じて、親しくなれるということもあるでしょう。が、それは多分、いわば奇遇であり、あまり期待しない方がいい。

と言うことで、言い時を考えます。本人がよほど困って悩んでいて、こちらの考え方を受け入れられるであろう時か、実際、本当に、こちらの目に余った時。

勿論、普通の日本語が通じない相手に日本語で言うこともできませんから、ある程度、日本語での説明が聞き取れるようになってからですし、数ヶ月にわたる日本での生活の中で、少しばかりであろうとも、日本人に対する理解や感覚、知識があるであろうと思われてからです。

そして、言うにしても、言っても大丈夫な相手だけです。

「そういう態度や言い方をしない方がいい」と注意されるのが苦手な民族や国民もいるのです。初めての人の時には参りましたが、それから用心しながら見ていると、共通項で括られる。つまり、これは国民性であるなと思わされたのです。

ということで、留学生の場合は、最後の年の一月から三月くらいが山場であり、在日の人の場合は、…これはまちまちですね。ただ彼らの場合、向こうから訊いてくることの方が多いようです。留学生ではなく、生活者ですから、「(んんん、これは)変だ」とか、「(こうされた)意味がわからない」とかいう場面に出くわすことも多いのでしょう。

日々是好日
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「くどうなる 気短になる 愚痴になる 思いつくこと 皆古うなる」

2022-03-08 08:11:42 | 日本語学校

小雨。

まだ降っていない、まだ降っていないと、ぐずぐずしているうちに、降り出してしまいました。ちょっと失敗です。早くから起きていたのに。

雨を見て、大喜びで飛び跳ねるのは、犬と子供。傘を振り回しながら飛び出すのは子供。狸穴にこもってしまうのは年寄り。

これしきの小糠雨でも、見ると、出るのが億劫になってしまいます。いや、雨は嫌いではないのです。雨の日など、軽やかに歩けるものなら、外に出たい。とはいえ、最近、二度ほど自転車で転んでいますから、人様の迷惑になってはと思うと、どうも腰が引けてしまいます。

膝が悪くなり始めの頃は、これもできない、あれもできない、できないことばかりだとイライラしていたのですが、それももう慣れてきて、できたらびっくり…の段階。だと、思っていたのに、今度は「年」です。できないことはまだまだたくさんあったのですねえ、嫌になる。日に日にというと、何ですが、できないことが増えてくる。思えば、以前はあれもできていた。不満に思っていた自分が恥ずかしい。

どうも、あれですね。

「くどうなる 気短になる 愚痴になる 思いつくこと 皆古うなる」

本当にそう。学生に対して、心しておかねば。  

相手がわかっていないのではないかと、諄くなるのが一番悪い。それが、しつこくなるのがもっと悪い。偉そうに上から目線で声を上げたりするのはもっと悪い。

三方面(多くても、三つの例で)から攻めてみて、だめだったらすっと身を引いておくというやり方が、おそらくは双方共に幸せなのでしょう。言葉なんて、いずれできるようになるものです、ある程度は。「初級」内容ほどのものは、放って置いても、大丈夫。

だいたい、一ヶ月前の内容なんて、振り返ってみれば、「かんた~ん」と、思わず声を上げてしまえるようなものなのですから。

学校では系統立てて習う…系統立ててというと、ちと恥ずかしい。漢字なんてちょっと「あれれ??」と思えるようなものもあるのですが、そこはそれ、習う方が大人ですから、知らん顔でこちらに合わせてくれます。

ただ、今のクラスは留学生ではないので、最初の頃は、「これはどういう意味だ」とか、「こういう時にはどう言ったらいいのか」といった生活に関する質問が多かった。それに、どうも日本語は簡単であると認識(誤解)しているようで、半年で「N3」などと言ってきたりする。「非漢字圏」の人たちには、「漢字かな交じり」の文章を読むことの面倒臭さが、なかなかわからないようなのです。

そこは簡単に、「はい」と、「N3」読解問題集を見せれば、が~んと通じるのですが、そこに至るには、一ヶ月ほどもかかるでしょうか。その前は何が何だかわからないので、見せても無駄なのです。おそらく「N5」から「N4」の漢字を練習し始めて、そして週一のテストをしてみて初めて、覚えることの面倒さがわかる…のかもしれません。

まずは、「N4」ですね。「一歩一歩やっていきましょう」というのが、やっとわかり始めたようで、教科書中心にもって行けるようになりました。どうも少しできるようになると、「お話ししたい」となるのが「非漢字圏」の人の特徴のようで、これが困りもの。能力試験とか、時間とかが関係なければ、別に文句はないのですけれども。

「読み」の大切さ、読んでいくための「文字」の大切さというのは、厄介な漢字を使ってきた人間にしかわからないことなのかもしれません。

日々是好日
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「産業革命」の頃の人も、明治期の「文明開化」が叫ばれていた頃の人も、こうだったのかしらん。

2022-03-07 08:21:22 | 日本語学校
晴れ。

うっすらと白い雲が浮かんでいます。風がないせいか、寒さは感じません。そういえば、春なんですね。

コンピューターはもちろんのこと、スマホもいじれません。いじれないから言うわけではないのですが、科学技術の進歩は廃棄物の増加と足並みを揃えているような気がします。すぐに古くなってしまう機器。

以前は洗濯機や冷蔵庫、テレビ、エアコン…。続々と新しいのが出てくる度に思っていたものですが、今はその比ではありません。テレビも古いのは見られなくなっていく。見えればいいやくらいに思っていたのに、もう使えない。電話も家電で十分と思っていたのに、携帯が出てきて、携帯でいい、どうせやり方がわからないからと思っていたのに、携帯は使えなくなっていく…。ノートパソコンもどんどん新しいのが出てきて、出てくるだけでなく、少し古い型のはもう使えなくなっていく。「ウイルスに感染するよ、無防備だからなあ」とか「もう修理できない」って言われても、何がどうしてなのかがわからない。

一番いいのは、「君子危うきに近寄らず」なんでしょうけれども、最低限でも扱わざるをえない…ことも少なからず。なにせ便利ですから。

以前は、非漢字圏の学生たちのために新出漢字の筆順から入れて作っていたのですが、だいたいは間違っていないにしても、用心のため、いちいち調べていたのです。図書館の本を見たり、学校にあるものを参考にしたりして。それがいつの間にか、コンピュータで調べられるようになっている。それどころかスマホでもわかるようになっている。こっちで、手間暇かける必要はなくなった。

そう思っていると、仮想現実とか仮想空間、メタバースだのアバターだのが出てきた。リモートと聞いても、「ああ、我関せずだなあ」で知らん顔していたら、その間に世界はどんどん、あろうことか、何が何だかわからない世界へ進んでいる。

けれども、もう人間の世界、生き物の世界のことでは無くなっていますね。

人は現実に会ってこそ、「なんぼのもんになるんじゃ」と喚きたくなっても来る。そんな空間で会って、話して、なんとなくでも、その人のことがわかるもんですかね。…希薄な世界です。

何も言わずとも、(現実に)居ればそれなりのものを人は感じ取れ、何となくでも掴めるものなんでしょうが。それが、代替の人間ですもんね。おまけに空間も作れるそうな。そんなもん、自分で絵に描いてしまえばよかろうに。そこにあって、自分自身も、その中に居るような気になっているようなのが怖い。

現実と夢との区別がつかなくなった人は何でもしますもん。痛みも悲しみも感じることはありませんから。

人は人たるものをなくしてしまうのではないのか…実際こういう面でもリテラシーって何じゃとも思ってしまいます。

とはいえ、年を取って不自由になってくると、買い物に行くのも億劫になってくる。それくらいなら、何とかなっても、行政の方から「ワクチンの申し込みはコンピューターでしてください」とか、「これからの手続きはコンピューターでしてください」とか言われると、もう万歳状態。こういう人間に使い方云々を教えてくれる老人用のコンピューター教室っていうのを行政は準備すべきではないのかしらん。準備できないのなら、近場に何々があるよ、そこで勉強したらくらいは言ってええんじゃないかしらん。基本だけなら半年くらいでどうにかなるでしょうし。

わたしなんざ、困っていますから、行きますよ、すぐに。そうすれば、こういうことが起きる度に右往左往する自分(行政側)たちにとっても楽になると思うのですけれどもね。

話は変わりますが、リモートでの授業のことです。日本人同士であったら、どうにかなるにしても、外国人に、しかも、日本語がほとんどわからない外国人に、その上、彼我に共通言語がない場合、どうやってできるのでしょうね。コンピューターが準備できない人も、電力事情が様々である国もあるというのに。

授業の最初は、見てからの、互いの探り合いから始まると言ってもいい。相手がどういう人か、またどの程度を望んでいるのか、それに対して自分はどういうやり方でやればいいのか。教員の方では、まず、それを探る。学生の方は、この教員はどういう雰囲気かくらいでしょうね、甲羅を経た人は別でしょうけれども。そういう人は教員のレベルを見ますから、侮れない。

ともかく、コンピューターというものに、疲れています。100年分が一日に圧縮されているような、そんな気のする毎日です。

日々是好日

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「ボケ(木瓜)」の花が咲いていました。

2022-03-03 08:32:55 | 日本語学校
晴れ。

昨日、帰りに「ボケ(木瓜)」の花が咲いているのを見つけました。まだ数輪でしたけれども。

「ボケ」の花は、本当に長く咲き続けます。山里に行っていた頃、「一ヶ月前にも咲いていたのに、まだ咲いている」と驚かされたことがありました。

こういう土地は土がとても健康的で、というと変ですかね。地味が肥えていると言った方がいいのかもしれませんが、花数も茎の太さも、そんじょそこらの庭のものとは比べものになりません。もっとも、一番驚かされたのは、山で見た「ハギ(萩)」でしたね。あれが私の見知っていた「ハギ」かと驚いたくらいでしたもの。

で、「ボケ」の花です。このあたりのものは、気の毒なくらいひっそりと咲いていました。注意して見なければ気がつかないくらいに。ところが、空き地で見つけた「ホトケノザ(仏の座)」ときたら、いわゆる雑草といわれるものの生命力というのは、やはり大したものです。太やかに、そして如何にも逞しく咲いていました。人もそうなのでしょうけれど。

さて、学校です。

大学入試の時の「自己アピール」のことですが、実は、おそらくは自分では書けないだろうと思い、それなりにこちらがまとめていたのです(もちろん、数ヶ月間、互いに話し合っています)。そして、「どうかな。問題があったら、また書き直すけど」と言って渡したところ、俄然、やる気が出たらしく、「いいけれども、自分で書きたい」と言い出したのです。

そして、あれほど「書けない、わからない」とぶつぶつ言っていたのに、翌日それなりにまとめて持ってきました。見ると、「んんん、どうしてここで急にこんなことが出てくるのだろう」とか、「流れがどうも変」とかいうところがいくつか出てきたのですが、本人の弁では、「そこは譲れない」。で、とにかく、つじつま合わせをし、それなりにまとめてみたのです。なにせ、字数も足りませんから。けれども、どこか牽強付会。本人はこれでいいと、それなりに満足げ。でも…、まあいいか。本人がいいというのだし。

学校ではきちんと言えた(暗記できた)のですが、やはり試験当日は遅刻(電車を間違えたり、バスから降りて反対に走ったりして)したこともあり、緊張したらしい。あれほど数秒足りないとか文句を言っていたのに、3分どころか、かなり忘れて出てこなかったらしく、2分すれすれだったらしい。本人曰く、2分ちょっと…。

ただ、私も考えたのです。彼女が忘れたと言っていたところの大半は、私がつじつま合わせに付け足したところ。全部言えなかったとしても、彼女が自分で考えたところは言えている。やはり本人の思惟に任せ、妙なつじつま合わせはやらない方がいい。

もちろん、これは彼女なりに考えることができ、それを不十分でも日本語で言えたから言えることで、何も考えたり、日本語に置き換えたりできない人であれば、それはどうにもできないことなのですが。

考え方というか、流れですね。例えば別の言語で文章を書いた時、「なんかここ、おかしい」とか、「ここでもう一言追加した方がいい」とか、あるいは「この文は要らないよ」とか、言われることはあるでしょう。

多分、個人でというよりも、民族的なもの、つまり読み慣れている日本語の文章、或いは会話で、培われているわけですから、別の言語で書かれた文章を読み慣れている人から見れば、その流れはおかしいと言うことになってしまうのでしょう。

少なくとも、彼女にはそれがあり、それが他者のものを受け入れられなかったと言うことなのでしょう。一面頑固とも言えるでしょうが、それはとても大切なことで、それが何もない人(つまりある種の事柄や、自分に対する表現力を養われてこなかった人)を見てきた人間から言いますと、「よっしゃ」と言えるほどのものなのです。

何事かによらず、自分の意見があり、それを臆せず言えるということは、それだけで大したものなのです。もっとも、最初、彼女に足りなかったのは「わからない」「知らない」ということでしたけれども。…今はちゃんと言えます。知らなかったと言うことがわかったのでしょう。

日々是好日 
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今年の「ひな祭り」は、去年したから、いいか。で、中止です。

2022-03-02 08:20:00 | 日本語学校
晴れ。

無風状態といってもいいかも。うっすらと青が拡がり、いかにも「桜花」に似合いそうな青空が拡がっています。「ウメ(梅)」は花が開ききって、次の「モモ(桃)」の開花を待つといった態ではありますが、私が待っている、ご近所の「モモ」の花はまだ全く咲く気配すらない。二月がかなり寒かったので、少々用心深くなっているのかもしれません。明日は「桃の節句」というのに。

現「Bクラス」は、大半(と言いましても、全部揃っても9人ほどですが)が昨年の2月くらいから始めた人たちということで、「ひな祭り」も「ひな人形」作りも経験しています。で、今年は、これをすっ飛ばそうということになりました。

例年は、後半の時間(90分)を使い、色紙で「ひな人形」を作って台紙に貼って、「はい、『お持ち帰り』」ということになっていました。髪の毛に凝る人たちが多い年もあれば、顔に凝る年もあり、年ごとに違っていましたし、男雛や女雛の服の色合いに民族性が表れ、「これはお内裏様でしょ」なんて(間違えて)言ってしまい、変な顔をされたりすることもありました。自分自身の先入観の強さに、ハッとさせられ、この違いがなかなかに面白かったのですが、今年はしょうがないとは言いながら、ちと残念ですね。

コロナ禍で留学生が来られないと言うことで、現在、「留学生のための学校」ではなく、「ご近所さんに日本語を教える学校」となっています。というわけで、昨年は春休みも夏休みもなし。年末年初は、いつも通り休みましたけれども、今年も春休みはなしで、とにかく勉強中心のカリキュラムということになっています。

今の学生たちは、「在日の人たち」ということで、日本語のみならず、日本についてもほとんど知らなかった…という人たちが多く、つまり、大半が日本語がほぼゼロだったのです。よくても「ひらがな」が書ける程度でしょうか。そのせいか、日本語について、留学生たちとは違った見方をしている人が多く、最初はちょっと困りました。普段は留学生に埋もれているので、向こうだけが焦っていたのかもしれません。その場合はもう一度やり直しという事になりました。四半期毎にクラスができるので、それもできたのです。

「漢字圏」やモンゴル系、それからインド圏の一部の民族の人たちは別ですけれども、「外国語なんて簡単。日本語も簡単」と思って学校に来て、少し学ぶ裡に愕然となる…という場合が少なくないのです。

「近隣国の言語、或いは他民族の言語が数種できる。だから、日本語だって『お茶の子さいさい』だろう」と思ってやってくるのです。在日の人たちですから、「適当に話せればいい。買い物くらいができればいい」という人たちも、以前はかなりいました。「初級の前半」くらいでお手上げになるのです。動詞の活用が大変なのでしょうね、そのあたりで落ちていく。

ところが、最近はちょっと違うのです。現「Bクラス」の人たちも「N3」合格で終わりかなと思ってみていたのですが、それが来なくなったのは一人だけ。それも本当は続けて勉強したいのだけれども…諸般の事情があってそれができないと、はなはだ残念そうでした。

現「Cクラス」(クラスと言いましても、二人だけですし、コロナ禍ということで、授業は「Bクラス」の半分、つまり90分だけです)でも、まだ「初級」も終わっていないのに、七月には「N3」を受けたいと言われ、慌ててしまったくらいです。

もちろん、無理ですと言い、「N3」の漢字やら文法の本を見せて納得してもらいましたけれども、どうも「初級」の間は、「非漢字圏(ベトナムは除きます」の人たちは、「聞ける・話せる」で、「自分はうまい」と誤解してしまい、「試験なんて簡単」と思い込んでしまう傾向があるようなのです。

早く「初級」を終え、「N3」に入りたいのですけれども、この「Cクラス」はお子さんが小さいこともあり、「やれ、保育園が休園になった」「やれ、夫が病気になった」とか、様々な理由で、長い時は一週間、そうでなくとも、一週間全部出られたという時の方が少ないのです。当然のことながら、復習に時間をかけざるをえず、大変さの方へはなかなか至れません。しかも、日本での生活にわからないことも少なくないようで(それは当然でしょうが)、「こういう場合はどう言ったらいいのか」などと、こちらがリーダーシップを取れない時も多いのです。

なにせ、二人ですからね、これが10人程度でもいれば、「あとで」とも言えるのですが、しかも、二人に共通していること(困っていること)も多く、日本語を教えるだけとはいかないのです。

けれども、試験を受けたいのであれば、「日本で暮らしていく上で」を少々犠牲にしても、勉強の方に重心を置くべきでしょうね。読むのはそんなに簡単じゃないのです。週毎の漢字テストでも、毎回「100点」をとっているというわけではないことですし。

日々是好日
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