日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「あなたはどんな人でしょう」

2019-11-28 08:50:12 | 日本語学校

曇り。ほんの微かに、雨が降っているような降っていないような…。

今日も、寒い。

「サクラ(桜)」が黄葉をし始めたと思ったら、いつの間にか、もうかなり散っていました。散り始めていても、実際、葉がぎっしりついていますから、それとは感じられないものなのですが、すきま風がそのまま通り過ぎていきそうなほど、減っていました。

さて、学校です。

学生に、「あなたはどんな人だと思いますか」と性格を訊いてみると、だいたいが答えられない。中には「そんなこと考えたこともない」とか、「進学に関係があるか」等と言い出す始末。次の段階に行く前に、一度自分を省みる(整理する)という機会をこれまで与えられていなかったのでしょう。全く自分のことを考えたことがないのです。「真面目な方かな」とか、「静かです」とかですら、出てこない。

それでも、押していったり、じっと答えるまで待っていたりすると、向こうが耐えきれなくなって何か言い出すのですが、それも、たいてい、「自画自賛」に終始してしまう。いいことばかりになってしまうのです。自分を見つめて短所を自覚するという作業ができないのです。ほんの少しでもいいのですけれども。そして、答えは「私は、いつも困っている人を助けてあげる」とか、「貧しい人に食べ物とかお金とかをあげている」とかいったもの…。それは、性格かな。多分、彼等の裡では、それは「性格」になるのです。

「困っている人を助けてあげるのが好きだ」という学生に、「あなたは、できることが多いと思うか、それともできないことの方が多いと思うか」と尋ねると、「何でもできる」と答える。…なんでも…?

「何でも」と言ったが、具体的に言うと、何を指しているかと訊くと、「荷物を持ってあげる」とか、「アルバイトでどうしていいか判らなくて困っている人に、いろいろ教えてあげる」とか言う。本当に優しくていい人なのです、彼。

何かを人にしてあげて、喜んでもらえると嬉しくなってしまう。「優しいね。でも、自分の中には弱さはないだろうか」と訊くと、黙って考えてから、「そう、自分は強くはない」と言う。じゃあ、もう少し考えてごらんと言って一人作業をさせておく。

「貧しい人を助けている」と言う学生に、「どうやって助けるのか」と聞くと、「お金や食べ物をあげる」という。「そのお金はあなたのお金か、それとも」と聞くと、「えっ?」という顔をしてこちらを見る。「施しは美徳だ」という世界の住人で、彼からは、相手を「同じ人間」として見ているような感じがしないのです。自分は一段上にいて、そこから相手に施してやっているという気分しか窺えない。それでいいのか。

それは、「施しをした分、見返りをもらっているのでしょう」。何に、あるいは誰にそれを「与えられて」いるのか。それは宗教的なものかもしれないし、あるいは自己満足という類いのものかもしれない。相手はそれで喜ぶのかと訊くと、喜ぶという。

おそらく、日本人とは別世界に住んでいて、その通りの目で日本で暮らそうとしているのです。

「施し」をすれば、もらった方は、傷つきます。プライドも傷つくし、馬鹿にするなという気分にもなる。ボランティアでホームレスの人たちに、食べ物を配ったり、暖かいものを渡したりする人たちが、心を砕いているのは、どういう仕方をしたら、相手の心が傷つかずにもらってくれるかということ。

おそらく、「貧しさの度合い」が、彼我では全く違うのでしょう。「施し」を受けねば死んでしまう人たちが山のようにいて、そこでは「プライド」なんて贅沢品。「奪ってでも食べなければ死んでしまう」。そういう世界から来ているから、喜々として「施しはいいこと」と言えるのでしょう。

どうして「施し」をするのかという点から考えていかなければ、自分の中に潜んでいる「優越感」や「不平等性」というのが見えてきません。だいたい、そういうことができる「身分」かと、日本人なら思ってしまうでしょう。

日本では、(こういう学生に対しては)まず、働け。働いて、自らの力で生活できるようになってから(人様の迷惑にならない存在になってから)、できることを少しずつしていったらいい。それができる世界でもあるのです、日本は、まだ。

もっとも、もう少ししたら、そうは言っていられなくなるかもしれませんが。

日本では、まだ、施しを求めて人に手を差し出したら、「終わり」みたいな感覚が誰にでもあるのです。だれであれ、同じ、対等であるという認識が、ギリギリの線まであるのです。ですから、ボランティアの人にしてから、その一線を重んじ、相手を大切に思いながら、活動を続けているのでしょう。それを崩したら、人間としての尊厳が失われてしまう、立ち直れなくなってしまうのではないか。強い人であればあるほど、そうされた時の自分を思い、ためらってしまうような気がします。

人に頼らずに済むなら、ギリギリまでそうしていきたいと、おそらくたいていの日本人はそう思っているのでしょう。そして、できるならば、目に見えない形で、相手に負担を与えない(助けられているという負い目を感じさせない)ような形で、人助けをしたいと…。

こういう機微がわかるかなあ…。

日々是好日
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暦の上では、冬でも、こういうのは「秋の長雨」と言った方がいいのかしらん

2019-11-27 08:20:49 | 日本語学校

曇り。時々、チラチラと小雨。

ずっといいお天気が続く…と思っていたら、強力な台風の襲来。かと思っていたら、また好天、しかも20度前後の日々が続く…なんじゃこれはと思っていたら、やっと「秋の長雨」。これは秋の長雨なんでしょうねえ…ただ、秋とは言いましても、暦の上では晩秋…いえいえ、「立冬」も「小雪」も過ぎています。もう冬です。よくわからない季節が続いています。

とはいえ、寒いですね。秋の長雨などと興がってはいられません。この辺りも、今、9度くらいで、日中、上がっても11度くらいにしかならないとか。一日中、こんな感じなのでしょうか。

というわけで、教室でも、例年の行事、「紅葉狩り」が話題になり始めています。

「Bクラス」の女子学生。「この学校はいいです」と言う。「そうですね。皆、勉強してくれるし、学校に来てくれるし、いい学生達がいるから、いいクラスになっています」と、さりげなく返事をしていると、違うと言う。

んん。優しい先生がいませんかとチラっと見て言うと、彼女の言わんとしていたのは、「そうではなくてェ」、月に一度、あるときは月に2度、課外活動があるからというらしい。

友達の学校は一年に一回か二回。なのに、ここの学校はよく連れて行ってくれる。とても楽しいと言う。

そうか。まあ、そう言われると、嬉しいことは嬉しいのですけれども、勉強の事を言って欲しかったな。

皆を連れて行った時、電車の中とか、目的地目指して歩いているとき、あるいは参観している時などに、本音が聞かれることがあるのです。悩みを言ってくれることもあれば、アルバイト先や母国での面白い話を話してくれることもあります。

教室の中では、来日後半年くらいは、それほど言葉も達者ではありませんし、ややもすれば、勉強の話ばかりということになってしまい、こういう話はなかなかしようにもできないのです。

こういう「課外活動」というのは、教師側からは、「アルバイトと勉強だけの生活に潤いを」ということだけでなく、彼等のことを知ることができる貴重に時間でもあるのです。

ただ、学生はこれを「課外『学習』」とは見ていませんね。「旅行」というのはまだ許せるとしても、中には「今度はいつ『遊び』に行きますか」なんて聞く輩もいる。「博物館」に行ったのに、「遊び」なんて言うのですから。

寮の同室者でも、また同じクラスの学生達でも、学校では(寮でも、アルバイトや授業時間が違うと)なかなか自由なおしゃべりを楽しむことができないので、こういうのがあるとホッとできるからなのでしょう。

で、次は「日本語能力試験」が終わった翌日の「紅葉狩り」。

すると、その「日時」で、また一悶着。「12月の1日」と誰かがうっかり言ってしまうと、すかさず「試験はどうするの」と突っ込みが入る。言われた者がハッとしていると、「試験を受ける人は受ける、遊びに行く人は遊びに行く。私は試験を受けるからね」。私が睨んで「遊びじゃない」と言うと、慌てて「旅行、旅行」と言う。すると、後ろの学生が「『旅行』じゃなくて、えーっと、ケーン、ケーン」と前回言われた単語で答えようとする、が、思い出せない。私には狐語としか聞こえないのに。はたと思いついた一人が「『見学』だあ」。

「心にもないことだから、出てこないのだ。『遊び』とばっかり思っているでしょ。勉強だからね(もっとも、「紅葉を見ながら楽しんで欲しい。日本の生活を豊かなものにして欲しい」というのが私達の本音ですから、深追いはしません)。行くのは2日、8時45分集合、場所はいつも通り行徳駅」

すると、また一人が、「2日はディズニーじゃないの」とか言い出す。と、「ディズニーに行ったら、次の日から冬休み。そんなに早く休みになりたいの」と言われてしまう。だいたい責められるのは決まっている。男子を女子が責める。定型です。こういうときは、黙って見ているに限ります。また、見ていると、みんな二十歳を超えているのに、だんだん子供同士のやり取りのように思えてくる。聞いているうちに笑えてくる。最後はみんなで笑って終わり。

時間があるときは、勉強だけでなく、こういうのも楽しいですね。

日々是好日
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「寒かったり、暖かかったり」から、「寒かったり、寒かったり」になるのでしょうか。

2019-11-26 08:28:47 | 日本語学校

曇り、時々霧雨。

寒かったり、暖かかったりのお天気が続いています。学生達も帰りが夜になる者あり、また早朝になる者ありで、体調の管理がなかなか行き届かないようです。とはいえ、「日本語能力試験」も、今度の日曜日ということですから、勢い、こちらとしても「試験が終わるまでは、風邪をひくな。終わってから、風邪をひけ」などと、酷い叱咤激励をせざるを得ないことになります。

ただ、学生達には、この「酷さ」は直線的には伝わらないようで、ニコニコ笑って、「はい、はい」と言ってくれるのですが、これは、喜ぶべきか、はたまた、がっくりくるべきか、迷うところなのですが。

ただ、先の金曜日で、こちらの「追い詰められた」感は終了しました。学生もでしたでしょうが、私もでした。昨日の月曜日は、忙しいことは忙しかったのですが、どこやら心の余裕が出てきたような気がします。あとは、決められたように、こちらが忙しがれば済むこと。まだあと三人、お尻を叩き回さねばならない人が残っているのです。

先々週から先週と、慌ただしい毎日が続きはしたのですが、それでも毎日授業に行っていますと、大笑いするやら、心が和まされるやら、そんな機会が多々あり、その都度、ホッとして、流されがちな自分を取り戻していたような気がします。

まだ大学受験を済ませていない人のうち、素直で子供のようなネパールの学生が一人いるのですが、先週また、彼、幾度か笑わせてくれました。そのうちの一番は、「煙突」の話からでした。

「煙突」の説明をちょっとしてから、北欧の家の絵を描き、そこに「煙突」を付け足したのです。そして「『初級』の教科書で、サンタクロースが出てきたでしょ。覚えていますか(もう一年ほども前のことですが)」。だいたい、覚えていると言うので、「サンタクロースはトナカイの橇に乗って、家々の煙突から贈り物を届ける」と言い、その時「煙突の中へ入ります」とか何とか言ったのです。

すると、彼、一見、無表情に見えるけれども、実は、心の内では、真剣に頭のネジがそれなりに回っているという例の表情で、じっと私の顔を見るのです。そこで、「わかりますか」と確認しますと、「わかる。わかる。でも、先生、煙突の中へ入るの?」…思わず、「へへへへへ、入ります」と言ってしまいました。すると、「そうですか。へえ…。煙突の中ねえ」…本気にしちゃった…。

他のネパール人の学生が、サンタクロースはお話だとか言って、大騒ぎ。けれども、この素直な学生、先生が言うのだから本当だと「信じた」ようで、「でも、先生、空を飛ぶんでしょ」…へへへへへへ、空も飛びます。今度はみんなが一斉に、「違う、違う」。

それでも、彼、真面目な顔で私を見つめています。

申し訳ないことながら、ああ、面白かった。後で、からかわれていたことがわかって、最後には向こうも、ニヤニヤしていましたけれども。

あんまり、こちらが言うことを真に受けるので、だんだんと「小学生さん」から「幼稚園さん」、そして時々「保育園さん」と呼んでしまうことがあるのですが、この「素直さ」は得がたいもの。これがそのまま真っ直ぐに育っていけるような世の中、日本だといいのですが。

時々は「用心しなさい」、「人に騙されないようにしなさい」と言うのですが、言っている当の私が、またこのようにからかってしまうのですから、やってられないよというところでしょうか。

先だっても、新興宗教の人たちだと思うのですが、外国人を狙って勧誘を図る人たちがいると言うので、注意するように話をした時のこと。引っかかるとしたら、この学生とねらいを定めて、聞いてみると、やっぱり。来日後1か月も経たぬうちに引っかかっていた…。

ところが、この学生一人だけではなかった。芋づる式にズルズルと出てくるわ、出てくるわ。ネパールの男子学生、皆、引っかかっていました。彼等「楽しかった。大丈夫」と言いはするのですが、それは知らないから言えること。とんでもない集団だっているのです。それは、とても危険なことで、絶対に知らない人についていってはだめだと言い、知らない人が来たら、学校の先生のところに行くように言いなさいと、それだけは約束したのですが。わかったかなあ…。

それを、聞いたときは、実際、慌てましたね。まあ、無事だったからここに今現在いるのですけれども。車で知らないところに連れて行かれ、帰りは自分たちで帰れということで、電車代をもらって帰ったと言うのですが、まだ電車の乗り方も何もわからない頃のこと、二人ずつ行ったそうですが、大変だったでしょうね。「知らない人に付いていってはだめと言ったでしょ」と言っても、その注意している言語がわからないし、当然のことながら、その危険さも理解できない。

「日本はいい国です」なんて言って、「大丈夫です」と反対に私を慰めにかかるのです。宗教団体の中には、本当に世界の平和、心の平和を目指している人たちもいるのでしょうけれども、そうではない人たちも、日本にはいた…この事実だけは教えておかねばなりません。日本は、天国でも何でも無いのです。彼等と同じような人が溢れ、同じようなことが起こる。人間なんて考えることは皆同じ。日本だけ、いい人が溢れているなんて事はありありません。様々な人がちが、いろいろな目的を以て世を渡っていこうとしているのが人の世。これはどこでも変わりがないのです。

この事実がわかるのは、アルバイトを始め、幾たびか嫌な思いをし、腹を立て、それでも我慢していかねばならぬ事があると思い定めてからでしょう。それまでは、両親の庇護の下、乳母日傘で暮らしていた人たちです。突然に、人を信じるなと言われても困るだけですね。言う方が悪いのかもしれません。

とはいえ、この2週間、いろいろな事がありました。

まあ、今は、7月に「N3」に合格出来なかった人達が無事に合格出来るように、準備をさせ(ただ、もう進学先が決まってしまうと、どうもそれで満足してしまって、なかなかピシッとは参りません)、また「N2」を受ける人たちは、何人かがぎりぎりでいけるかどうかという感じなのですが、この人たちも、何やら真剣みが足りないような…。彼等、どうも、「N3」に合格したら、それでバンザイとでも思っているような…そんな感じがしないでもない…。「N1」グループはよほどの事がない限り大丈夫でしょうけれども。

日々是好日
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「10月生が揃いました」「明日は、皆で『国立科学博物館』に参ります」

2019-11-14 07:55:44 | 日本語学校
小雨。

2日続いて、見事なお月様を見ました。いつもより大きい…、いつもよりもきれい…。涼やかなお月様でありました。やっと「秋になった…」ような心持ちがして、落ち着きました。忙しいことは忙しいのですが…毎日。でも、もう11月も半ばを過ぎようとしていますのにね。こんなんでいいのでしょうか。

「そはいふものの」、今日、朝は暖かく、昼は暑く、夕から夜にかけては冬になる…とのこと。夜はグッと寒くなるといいますから、また「風引きさん」が増えると困ります。

そして、明日。明日は、皆と一緒に「国立科学博物館」へ参ります。

さて、学校です。

昨日、やっと10月生が揃いました。成田に着いて、一昨昨日、学校に来たはよかったのですが、次の日である一昨日、どうも寒さにやられたらしい、疲れて熱まで出たとのこと。大気が不安定というか、寒かったり、暖かかったり…、この暖かいというのも、寒いからと厚着をした上でのこと、暖かさを通り越して、暑い…と言った方がいいようなそんな案配でありましたから、よけい体には応えますよね。

日本人でも体調を崩す人もいるくらいですから、30度で涼しいなんていっている国から来た人は尚更でしょうね。

しかしながら、昨日は元気な顔を見せてくれ、少しずつこの日本のお天気にも慣れていってもらいたいものです。

そして、話は変わって、一昨日の「模擬試験」。7月に「日本語能力試験」の「N3」に失敗した人のうち、何人かは力が余っていたのでしょう、どうも試験にそれほど必死に取り組んでいるようには見えなかった…。「N2」に合格した人たちの方が、「あと、ちょっと…」という感覚というか手応えを感じているようで、必死になっています。当方の答え合わせの時も、つい力が入ってしまったのですが、その「力の入れよう」もクラスによって変わってきます。

今年の4月にやって来た「Cクラス」では、ざっとしただけ、ゆっくりクラスの「Bクラス」では、「2度読む必要はない、ここを先に読め」的なテクニック、「Aクラス」では、単語の説明に終始するといった感じでしょうか。「N1」を受ける人達は、別に残してやるので、まあ、同じクラスで、それなりに聞いていてねという感じでした。

この「Aクラス」では、日本語のレベルに関して言えば、「N1」を受ける人以外はだいたい同じくらいと言ってもいいのですが、ただ、「7月」のテストで合格・不合格がはっきりと分かれてしまい、失敗した人たちは「N2」ではなく、「N3」を受けるように言ってあるので、「模擬試験」も、「級」が違っています。

とはいえ、授業は「N2」から「N1」レベルでしています。だいたい、それでも、ついてこられないことはないのです、「漢字」以外は。

答え合わせの時も、漢字を読んでやると、「ああ、それなら、知っていた」。どうも、漢字が読めなくて、それとはわからなかったらしい。まあ、「非漢字圏」の人たちですから、しようがないといえばしょうがないのでしょう。尤も、口に出してそうとは言いませんが。

明日は「本番前」のわずかな息抜きの1日です。楽しんでくれるといいのですが。

日々是好日
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専門学校の入試がだいたい終わったら、今度は大学の入試が待ち受けています。

2019-11-11 08:38:43 | 日本語学校

曇り。

明け方、雨が降っていたようでしたが、家を出るときには、雲の切れ間から青空が除いていました。それが、今ではもう、一面の灰色の雲に覆われています。大気が安定していないとのこと。雷様がお出でになるかも、突風が吹くかも。いやはや、10月は異常気象による(…これを異常気象とよぶべきか否かはわかりません。スパコンで予測されていた未来が早まったということなのでしょう)被害が相次いでいたから、皆悪い方、予測不能という言葉がついつい脳裏をよぎってしまうのかもしれません。ちょっと、怖いですね。

天気予報なるモノをそれほど重要視していない学生達に、スマホでできるだけ見て確かめてから、家を出るようにと注意を促してやらねばなりません。折ある毎に、言いはしているのですが、なかなか「習慣」とまでには至らないようです。

さて、学校です。

昨日が終わったことで、なんとなくホッとしています。しかし、ホッとしてばかりもいられず、あっちに手をかけている間に、もう一方の連中がノホホンとなっていました。「受けると言うことは、落ちる可能性もあるということ」というのが、よくわかっていないのです。

「先生、私だけじゃない。同じ国の人も受けるって。よかった。よかった」…そりゃあ、2人とも合格すれば、「よかった、よかった」でしょうけれども。「その人は…つまり、日本語のレベルは?」「とても上手」いかにも嬉しそうに言う学生には気の毒ながら、「じゃあ、その人が合格して、君の方がだめかもね」「ハッ……」

受ければ、合格すると思っている…。オープンキャンパスで、お客さん扱いされたことが、どうも、「来てくださいね」と(向こうから)頼まれたくらいに思っているのではないか。

もちろん、そう解釈せずに、きちんと相手を見てくる学生もいます。そういう学生は、こちらが資料を渡せば、それなりに読んできますし、自分なりにできることはやって来る。それ以外にも、自分で調べてきて、「こういうモノがいるらしい」とか、「あの関係のモノも見ておきたい」なんて言ってきます。だから、こちらは手を添えてやればいいだけ。放っておいても、懸命に勉強しますから。

ところが、その反対に、大学の先生に持ち上げられて、その気になってしまい、そのための準備(勉強)というものが等閑になってしまうこともあるのです。そんなんじゃ、入れたとしてもやっていけないだろうと思うのですが、そこまでの想像力というかそういうものがないのです。

母国では、「ああいう人だって大学に入っている」というところの「ああいう人」というのは、彼等が思うに「普通の人」です。もちろん、大学の数が少なくて、「入る」のが大変な国もあります。が、反対に、大学の「支店」みたいなのが、あっちにもこっちにもゴロゴロあって、ある程度の資産があれば、皆、大卒になれるという国もある。

私達にとっては、母国でのことは関係ないのです。今現在、知識欲があるかどうか、好奇心があるかどうか、探究心があるかどうか、つまり学ぶ気があるかどうかが大切なのです。私は何々大学を出ていると言っても、知識欲も好奇心も探究心もない、つまり「過去の栄光」にしがみついているだけの者には、「申し訳ないが、私は手伝えない」としか言いようがありません。

まず、本人が足らざるを知るだけの知力も胆力もなければ、どうしようもないのです。いくら「私は頭がいい」と思っていても、「アルバイトでしか通用しないレベルの日本語」で、日本の会社でやっていけるのかと言いますと、まず、やっていけない。大学で、先生の話がわかるかと言いますと、まず、わからない。専門用語云々だけでなく、文法という骨組みを習得しておかねば(枝葉は後でどうにでもなるのです)、相手の話がわからないのです。これは相手に判ることです。数回会えば、誰にでもわかるし、信頼できない相手となって、終わりです。

先週、少々、きつい「ハッパ」をかけておきました。「きちんとできないのなら、専門学校も視野に入れておけ」と言っておきましたから、少しは「はっとなった」かしらん。今週からは彼等中心にやっていくことになるでしょう。まず、入れたとしても、それからがありますからね。簡単に考えて、テキトーにやるようだと、大学の先生にしても困ってしまうでしょうから。

日々是好日

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「立冬」。「異文化」。

2019-11-08 08:36:45 | 日本語学校

晴れ。

とうとう「立冬」になったようです。毎年の事ながら、今朝も「お天気の時間」に、「今日は、立冬です」と何度も言われていましたから、それくらい、今年の秋は短かったということなのでしょう。改めて、気づかされた…とでも言うかのように。

「お天気」の世界では、「冬」は12月、1月、2月らしいのですが、…ということは、晩秋になるのか…。気持ちとしては、やっと「秋」という感じなのですが。

さて、学校です。

「異文化」というのは、厄介で、彼我共に気づかず、自分たちなりの認識の、その前提の下で、勝手に話を進めていたりすることがある。当然、話は平行線です。しばらく経って気づけば、まあ、いい方。数年経ってから、「アァ、あの時のあれは、これだったのか」と気づかされることだってよくあることなのです。

ネパールの学生との話です。

山の話です。「今は、紅葉・黄葉がきれい」とか、「若い頃は1人でも登っていた」とか、そんな日本の山の話をしても、どこか乗ってきません。そのうちに、「山は危ない」という感じの話になっていきました。彼等は彼等で「ネパールの高山」を思い浮かべ、私は私で、「東京近辺の1000メートルにも満たないような山」を思い浮かべしていたのですから、話が噛み合わないのも宜なるかな。

まず、樹木の有無です。「樹はない」。どちらかといえば、屹立した厳しい山の姿が彼等の頭の中に浮かんでいるよう。それから、「山には毒蛇がいる。たくさんいる。危ない」。日本の山にも「ヘビ(蛇)」はいますが(神様として祀られている場合も少なくない)、ヘビが苦手の人以外はそれほど怯えるということはないでしょう。

あれやこれの後で、私が「600メートルくらいの山だから、その日の朝に出て、電車に乗り、山に着いてのんびりしても、夕方には戻れる」と言ったところで。「????」。

「山」の定義が彼等とは全く違っていたのです。だから「鶍の嘴の食い違い」で、私の意図するところ、つまり「暇だったら近くの山に遊びに行ってごらん」が、そのままには通らなかった…。

日本にも、登るに厳しい山はたくさんありますが、皆が、物見遊山かたがた行けるようなところも少なくないのです。私としては「この学校を出て、専門学校なり大学なりに入り、日本人の友達ができたら、近場に共に行ってみることも可也」くらいの気持ちで言ったのですが、言えば言うほど空回りしているのが、わかってきて、我ながらどう収めようと困っていたのです。…なるほど、それで、乗らなかったのですね。

後で、皆で、コソコソ言っているので、注意して聞いていると、どうも「それは山じゃない、丘だ」くらいのことを言っていたらしい。まあ、そうでしょうね。500メートルの土の塊を山というのは、彼等から見れば、「へっ」と言うところなのでしょう。

まあ、前も「ヘビ」で何を連想しているかというと、私は普通の日本の「ヘビ」であり、ベトナムやスリランカ、インド、ネパールはそれぞれ、毒蛇だったり、大蛇だったりして、同じように「ヘビは怖い」でも、全く頭に思い描いているものが違っていたというようなことがありましたし。

それから「オオカミ(狼)」の話の時も、日本では失われた動物という意味で言っていたのですが、ネパールの女子曰く、「庭に来る」。私、「そんなこと、聞いたことがない!」と思わず叫んでしまったのですが、彼女にしてみれば、私達の「イノシシ(猪)」くらいの感覚で、どこにでもいるから、別に言うようなことでもなかったのでしょう。

それに、海のないネパールのこと、海の生物には疎く、「アザラシ」がわからない。写真を見せても、泳ぐ姿を見せても、1人だけ最後まで、まだ、「これはなんという魚ですか」と言う者がいた…。「だからァ、魚じゃない!」…、もっとも数人はわかってくれて、彼等の言葉で説明していましたけれども。

『初級』のうちなら、「モノ」を見せ、日本語の名前を告げることもできます。しかし、それが終わり、次の段階に入ってくると、彼等は彼等の世界での言葉に置き換えて理解していくわけですから、日本人の私とはいろいろな意味で、そのものに対する考え方や認識の違いから、齟齬が生じてしまうというのは、避けられないこと。

同じ「教育」と言っても、取り巻く環境も違えば考え方も違う。一応、留学できると言うことで、彼等の社会では、中ほどに位置する人たちで、あることはあるのですが、それでも、違いは大きい。話だけでわからぬ場合は、写真を見せたり、DVDを見せたりして理解の助けとする場合もあるのですが、いつもそれができるわけでもない。時もが限られているのです。彼等の想像力に任せてしまうことも、残念ながら、ある。

「留学試験」にしても、「N3」「N2」「N1」の読解にしても、「これは無理だなあ。いわゆる正解は出ないわ」と思われるときがある。筆者の主張、おそらく日本人なら、たいていの者がそう考えてしまうであろうことも、「彼等なら、全く反対に捉えてしまうであろう」と思われるときもあるのです。

日本人も(おそらくどこの国の人も、自国の言葉で)文章を読むときには、読みながら自分で答えを出していきます。筆者の主張に沿う場合もあるし、その反対の場合もある。それが最初から反対の先入観を以て読んでいけば、当然のことながら、四択で悩んでしまう。時には答えがないということにもなる。

「文章に沿って考えろ。先入観で考えるな」とは言いますが、無理な場合も、時にはあるのです。

また、そういう時期が近づいています。数年前、こんなことがありました。その「読解文」の説明をしているときのことですが、筆者の意見が文中にははっきり書かれていなかったのです。けれども、その四択で選ばねばならない。その時、スリランカの学生が、「おかしい。そうなるはずがない」となかなか納得できず、説明に苦労したことがあったのです。私には、彼の考え方もわかりました。けれども、日本人のいわゆる共通認識であろう「AはBである」の下で、その論は進められていたので、やはり、答えとしては彼のモノは受け入れらなかったのです。とはいえ、その認識を共有できなければ、それは理解ができないのも当然。こういうときは、ちょっと困りますね。それに、日本人の私としては、こういう考え方があること自体、彼等から言われるまで気がつかぬこともあるのです。

まあ、出たとこ勝負でやるしかないこともありますから、しょうがないですね。

日々是好日

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もう落ち葉の季節になりました。

2019-11-07 08:52:39 | 日本語学校
晴れ。

青空、秋晴れ。朝夕はめっきり寒くなってきました。それと共に、紅葉が…と言いたいところですが、路肩には、激しい秋風にもぎ取られたか、自ら散ってきたのか、あるのは、落ち葉、落ち葉、落ち葉。

葉の色が変わっていたのに、こちらが気づく前に黄葉し、落ちていたかと思われるような落ち葉の山です。もうそうなのですね、一応、「霜月」ですのも。

さて、「神無月」は忙しかった。あっという間に過ぎたような、そんな月でありました。もっと9月にまとめてやっておけばよかった…。それなりに早め早めに、手は打っておいたつもりだったのですが、それ以上に追い立てられのです。それに、その時になれねば、できないことも多々あり、思うようには参りませなんだ。…残念。

で、「11月は」と申しますと、もう、今、お尻に火がついています。それに気がつかない学生のお尻にも、火をつけてやらねばと思うのですが、なかなかもらってはくれません。特に困るのが、日本語のレベルから言えば中間層の人達。

レベルがある程度ある学生は、自分の日本語能力というものに、10月には気づいて、必死になり始めるものなのです。これも夏休みや9月に入ってからの大学訪問が効いているからなのでしょう。「漢字圏」の学生ならいざ知らず、「非漢字圏」の学生で、「日本留学試験」の「日本語」の試験に350点以上とか、380点以上でなければ、(大学)試験も受けられぬというのは、かなり厳しい。言われて、ショックを受けたようです。いくら「去年、いくつかの大学見学に行っておけばよかった」と言われても、そのころにはまだ彼自身海のものとも山のものともついていなかった…。で、無理だった。

「漢字圏」の学生と「非漢字圏」の学生とを区別して考えてもらえないものかとも思うのですが、大学側にしても、また受け手である外国人の側からしても、点でバッサリと切った方が「公平感」があると言うことなのでしょう。

同じ中国人学生にしても、「来日して、普通の日本語学校で日本語を『N5レベル』から勉強して、それから大学を受験する者」と、「中国で、既に高校段階から、日本と同じ教科を日本語で受けてきた者」との差はあります。それでも、高得点を出せる者もいるわけですから、一概には、確かに無理とは言えません。

で、普通の「非漢字圏」の学生のうちの、中間層ですが、これが本当に大変。母国で受験に失敗したり、一度か二度、苦い汁を飲んできた者は、それなりに頑張れるのですが、それがない人たち、これが一番困る。

彼等の国では、これまで本を読むことなど強制されたこともなかったし、まして、文を書けなんて「非情な」ことを言われた経験もなかった。教室に座って、教師が言ったことを覚えた者が勝ち。そんな経験しかない。それでも自分なりに考え、手際よく仕事ができる者は少なくないのですが、こちらが「どうして」と畳みかけ、考えさせようとしたり、あるいは、自分の経験を書いてみるように言った途端、「石と化して」しまう。固まって何もできなくなるのです。

ペラペラ話すことはできても、それは、いわゆる「おしゃべり」でしかない。

「おしゃべり」と、それなりの長さ(せいぜい400字です)の「文章」を書くことは違うのですが、それが、今になって初めてわかった…らしいのです。

「初級」や「言語習得に時間がかかる人たち」なら、わかります。「『おしゃべり』のようなものでもいい、まず書くこと」から始め、それが卒業まで続くということもあります。なぜなら、まず「字を書く」、それを「嫌がらない」という習慣を身につけさせる必要があるからです。それをしておかないと、「私は」を、いつまで経っても「わたしわ」と書いてしまうし、「本を持ちます」も「ほんおもちます」となってしまうのです。

それと、「大学へ行きたい」とか、「N2」の試験を受けるような学生とは違うはず。始めの頃は、母語で書いてからとやっていました。「石」さんと対するよりもそっちの方が楽ですから。

もちろん、母国語で書いているものの(母語の)レベルは私にはわかりませんが、それを「おしゃべり」で私に伝えている限りでは、「論旨」というものは全くない。「あれ」を言ったかと思うと、「これ」に話は移り、「これ」のことかと思って聞いていると、「あれ」になったり、突然無関係な「もの」が登場したりする。さっき「いい」と言っていたのに、どうして言っているうちに、「悪い」となるのかと質すと、「あれっ」と小首を傾げたりする。

「おしゃべり」なのです。会話では、相手とのやり取り次第で、「主張が変わる」こともあるでしょう。それと同じで、考えているうちに(多分、自分とのやり取りで)、変わってしまったのでしょう。一応、やり取りできただけでもいいかとも思うのですが、それでは文章として成立しません。…困ったなあ。

「まずは、種を探し、箇条書きにして書いておく。単語だけでもよし」と言ってはあるのですが、単語一つを書くとすぐに「おしゃべり」が頭の中で始まるらしく、どうしても長々と「文章」を書いてしまう。で、結局、何が言いたいのか、こちらには伝わらない。

もちろん、「文章の種」だけを書くのは難しいことです。けれども、単語だけであったら、書けるはずというのが私の考えでした。ですから、その都度、「長く書くな。一語でいい」というのを口を酸っぱくして言わねばならなくなる。

でも、だめですね。生まれてからずっと「おしゃべり」の国で育ってきているわけですから、急に「引き算で文を書け」と言われてもできるわけがない。言いたいのに、言わないでおくというのができないのです。

まだ、あと1か月ほど忙しい日が続くことでしょう。彼等の視線から「先生、(頭から)角が生えている」と言われているような気がするのですが、もともと角はあるのだ。しばらくは叱咤激励(激励???本当???と言われそうですが)の日々が続きそうです。

日々是好日
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