曇り。ほんの微かに、雨が降っているような降っていないような…。
今日も、寒い。
「サクラ(桜)」が黄葉をし始めたと思ったら、いつの間にか、もうかなり散っていました。散り始めていても、実際、葉がぎっしりついていますから、それとは感じられないものなのですが、すきま風がそのまま通り過ぎていきそうなほど、減っていました。
さて、学校です。
学生に、「あなたはどんな人だと思いますか」と性格を訊いてみると、だいたいが答えられない。中には「そんなこと考えたこともない」とか、「進学に関係があるか」等と言い出す始末。次の段階に行く前に、一度自分を省みる(整理する)という機会をこれまで与えられていなかったのでしょう。全く自分のことを考えたことがないのです。「真面目な方かな」とか、「静かです」とかですら、出てこない。
それでも、押していったり、じっと答えるまで待っていたりすると、向こうが耐えきれなくなって何か言い出すのですが、それも、たいてい、「自画自賛」に終始してしまう。いいことばかりになってしまうのです。自分を見つめて短所を自覚するという作業ができないのです。ほんの少しでもいいのですけれども。そして、答えは「私は、いつも困っている人を助けてあげる」とか、「貧しい人に食べ物とかお金とかをあげている」とかいったもの…。それは、性格かな。多分、彼等の裡では、それは「性格」になるのです。
「困っている人を助けてあげるのが好きだ」という学生に、「あなたは、できることが多いと思うか、それともできないことの方が多いと思うか」と尋ねると、「何でもできる」と答える。…なんでも…?
「何でも」と言ったが、具体的に言うと、何を指しているかと訊くと、「荷物を持ってあげる」とか、「アルバイトでどうしていいか判らなくて困っている人に、いろいろ教えてあげる」とか言う。本当に優しくていい人なのです、彼。
何かを人にしてあげて、喜んでもらえると嬉しくなってしまう。「優しいね。でも、自分の中には弱さはないだろうか」と訊くと、黙って考えてから、「そう、自分は強くはない」と言う。じゃあ、もう少し考えてごらんと言って一人作業をさせておく。
「貧しい人を助けている」と言う学生に、「どうやって助けるのか」と聞くと、「お金や食べ物をあげる」という。「そのお金はあなたのお金か、それとも」と聞くと、「えっ?」という顔をしてこちらを見る。「施しは美徳だ」という世界の住人で、彼からは、相手を「同じ人間」として見ているような感じがしないのです。自分は一段上にいて、そこから相手に施してやっているという気分しか窺えない。それでいいのか。
それは、「施しをした分、見返りをもらっているのでしょう」。何に、あるいは誰にそれを「与えられて」いるのか。それは宗教的なものかもしれないし、あるいは自己満足という類いのものかもしれない。相手はそれで喜ぶのかと訊くと、喜ぶという。
おそらく、日本人とは別世界に住んでいて、その通りの目で日本で暮らそうとしているのです。
「施し」をすれば、もらった方は、傷つきます。プライドも傷つくし、馬鹿にするなという気分にもなる。ボランティアでホームレスの人たちに、食べ物を配ったり、暖かいものを渡したりする人たちが、心を砕いているのは、どういう仕方をしたら、相手の心が傷つかずにもらってくれるかということ。
おそらく、「貧しさの度合い」が、彼我では全く違うのでしょう。「施し」を受けねば死んでしまう人たちが山のようにいて、そこでは「プライド」なんて贅沢品。「奪ってでも食べなければ死んでしまう」。そういう世界から来ているから、喜々として「施しはいいこと」と言えるのでしょう。
どうして「施し」をするのかという点から考えていかなければ、自分の中に潜んでいる「優越感」や「不平等性」というのが見えてきません。だいたい、そういうことができる「身分」かと、日本人なら思ってしまうでしょう。
日本では、(こういう学生に対しては)まず、働け。働いて、自らの力で生活できるようになってから(人様の迷惑にならない存在になってから)、できることを少しずつしていったらいい。それができる世界でもあるのです、日本は、まだ。
もっとも、もう少ししたら、そうは言っていられなくなるかもしれませんが。
日本では、まだ、施しを求めて人に手を差し出したら、「終わり」みたいな感覚が誰にでもあるのです。だれであれ、同じ、対等であるという認識が、ギリギリの線まであるのです。ですから、ボランティアの人にしてから、その一線を重んじ、相手を大切に思いながら、活動を続けているのでしょう。それを崩したら、人間としての尊厳が失われてしまう、立ち直れなくなってしまうのではないか。強い人であればあるほど、そうされた時の自分を思い、ためらってしまうような気がします。
人に頼らずに済むなら、ギリギリまでそうしていきたいと、おそらくたいていの日本人はそう思っているのでしょう。そして、できるならば、目に見えない形で、相手に負担を与えない(助けられているという負い目を感じさせない)ような形で、人助けをしたいと…。
こういう機微がわかるかなあ…。
日々是好日