みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

無になった人の遺骨

2021-11-13 10:14:38 | 自分史
死んだら「無」だから、お墓のことは遺族の勝手に任せていいのかも知れない。
しかし、自分の遺骨が墓石の下に閉じ込められるのを想像すると、あまりにも不本意だ、と思ってしまう。
第一、私には、先祖代々の墓とか、入るべきお墓が無い。

当地の小さな山寺に「樹木葬」(散骨)の受入れ用地が整備されたので、私は生前予約した。5年ほど前のことだ。

亡父の遺骨は、行き場が無くて、隣県の納骨堂に預けられっぱなしだった。
亡父は死んだのだから、「無」の筈なのだが、ロッカーのような小さな空間に閉じ込められている遺骨のことを思うと、何だか可哀そうでならなかった。

私が生前予約している樹木葬の地へ、亡父の遺骨を散骨しよう・・・  私の体がまだ何とか動く内に。
先の夏の終わりに決意して、他の遺族の了解も得て、お役所から「改葬許可証」を交付してもらった。
隣県の納骨堂から亡父の遺骨を引き取ったときは、安堵して、不覚にも涙がこみ上げた。亡父は「無」なのに。



樹木葬(散骨)するまで暫くの間、当庵内に安置している。遺骨の前に座ると、亡父に関する記憶が働いて、昔のことが様々に思い出されて、胸が一杯になる。
遺骨の前に飾っている小さなお地蔵さん2体は、親友の手作り。 お地蔵さんと一緒に亡父も微笑んでいるような錯覚を覚える。