みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

人生の意味

2021-08-31 13:00:20 | 仏教
信心は持ち合わせていないけれど、親鸞聖人を慕う気持が強い私は、明圓寺(石岡市真家)の法話会に時々参加するのが楽しみだ。講師は青蓮寺(常陸太田市東連地町)の前住職:藤井智氏。深い話を優しく、聴聞者の心に寄り添って語ってくださる。ところがコロナ禍で、法話会の中止が続いていて、やむを得ないことながら残念でならない。

先日、藤井智氏からお手紙を頂いた。氏ならではの丁寧な自筆に、お心が感じられて有難かった。
この手紙の中で、藤井智氏の法友(=仏法の友)であり詩人でもある「のら公」さんの存在を教えて頂いた。

先ず、のら公さんの自己紹介の詩から

    『のら公』

犬も歩けば 棒に当たる
当たって弾ける 心地良さ
十方衆生
当たるも ご縁
当たらぬも ご縁


何だか読んで楽しくなる詩ですね。

次は、やや長い詩です。


    『人生の意味』

何のために 生きているのか
何のために 生かされているのか
何のために ・・・・・・

しかし
人生に意味などなかった
意味は 後からちゃんと ついてくるのだから
そう思った時
今ある”生”を ただあるがままに
生きていれば よいのだと
気づかされた

誰かに喜んでもらおうと
励んでいると 苦しくなります
好きになってもらおうと
尽していると 悲しくなります
認めてもらおうと
頑張っていると 不安になります

こうして一人
見えない壁に 向きあっていると
自分が切なく 空しくなります
些細なことに こだわり
人を責め 自分を責め
世の中を蔑んでしまいます

あ~・・・ どうしようもない
救いようのない 私です
なのに
すでに 救われていたのです
私は 器用には 生きられません
でも
心の中に 宝物を 持っています
”キラッ”と光る
宝物を 持っています

無条件で 生きてゆこう
自然のままに
風にそよぐ木の葉のように
大海原を渡る鳥のように
そして 大空に浮かぶ雲のように



人生に意味は無い、と私も思う。人生に意味を見出そうとするのは、まさしく無意味だと思う。
今ある”生”を ただあるがままに生きるしかない、と思う。
誰かに喜んでもらおうと励むと苦しくなるし、好きになってもらおうと尽すと悲しくなるし、認めてもらおうと頑張ると不安になる・・・確かにそうだと思う。
そうして、人を責め、自分を責め、世の中を蔑んでしまう・・・確かにそういうことがあると思う。

しかし、残念ながら私は、「すでに救われていた」という感覚を持ち合わせていない。持ち合わせてはいないけれども、ただあるがままに、自然のままに生きていきたい・・・とは思うのだ。

岡林信康が、新曲『復活の朝』で語っているような、人類が滅亡した後の、自然が復活した地球の朝のような感覚・・・そんな感覚で生き直すことを夢想した。