初期の村上春樹長編作品を研究的に。

2022-01-10 18:51:22 | Weblog

「職業としての小説家」という、

村上春樹さんが5年くらい前に出版した、少し自伝っぽい本を読みなおしていて、

彼の

小説デヴュー当時の話、というか

生涯初めての小説「風の歌を聴け」を書き始めた時の話が面白くて。

 

それによれば、当時の彼は

”「何も語ることがない」というところから始めるしかない、と思った”

というようなことを言っていて、すごく意外だった。

何かを表現する、という時に、そんな風に思う人は多いのではないか。

しかーし。

春樹さんがそう言っていることを、そのまま真に受けられない、という部分もある。

 

「風の歌を聴け」という小説は、一見、重いテーマなどないように見えるのだが、

その実、

巧妙に隠されている事実、というか、エピソードがある。

例えば・・・「僕」がどんなことでも回数、というか、

数字的に数えなければ気が済まない、という奇妙な癖に取りつかれてしまう。

そして・・・・・その背後に一体、何があったか。

どうして「数を数える」のを止めてしまったのか?

他にもそのことを示唆する部分はいろいろ、ある、というか、

よく読めば実は、

ほとんどすべてのことが「ある出来事」を起点に語られる。

それは、

いかにも何でもない、というようにさらっと語られる「恋人の自死」だ。

すごくわかりにくいけど、わざとわかりにくくしてあるけど、これがコアだ。

 

そして二作目の長編「1973年のピンボール」では

「直子」という名前も登場して、

冒頭から全編、その「自殺した恋人」である「直子」の影で、作品全体が覆われている。

最後に再会するピンボールはもちろん、「直子」だ。何の説明もないが。

 

そして三作目の長編、「羊をめぐる冒険」で、ついに「直子」から離れて、

自由な創作の世界に突入する。この小説はすごく面白いし、多様だし、

独自の「痛み」の感覚も、ある。切ないのだ。

ミステリアスだし、サービス精神にあふれてるし・・・すごく好きだ。

 

そして

次の長編作品「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は

村上春樹の長編最高傑作といわれている。僕も実にそう思う。

で、「直子」から離れたか?と思いきや、さにあらず。

この作品内の「世界の終わり」という内的世界を創りだしたのは

実は他でもない、「直子」であるのだ。

未発表の中編「街と、そのその不確かな壁」を(部分的にでも)読むとわかる。

(・・・・間違えた。「街と、その不確かな壁」は未発表ではなく、単行本未収録なのだ。)

だから

「世界の終わり」部分の図書館の女の子に少し、「直子」の面影があるかもしれない。

御多分に漏れず僕も、この長編が一番好きだ。何度読んでも愛おしい。

 

 

そしてそして運命の、というか、 大・ベストセラーになった

「ノルウェイの森」にいたって、作者はついに、

真正面から「直子」、そして彼女の自死に向き合う。痛々しい話だ。

「ノルウェイの森」には実際の奥さんである、

「陽子」さんとしか思えないキャラクターも「みどり」という名で、

準・主役として出てくる。

そして彼女が希望となって、話は終わる。

これは結構、赤裸々な話・・・・・なのである。そうとしか読めない。

でも哀しすぎて、僕はこの小説、あまり好きではない。

「直子」の視点から見ると、全然「救い」がない・・・・・・・・・・・。

まあ、とにかく。

 

 

 

だから、つまり、初期の春樹さんは、全然「何も語ることがない」という

精神状態ではなかった・・・・のではないか?というのが僕の推測だ。

 

 

「ノルウェイの森」以降は、もう「直子」の影は作品に出てこない。

作家・村上春樹はそこに至って初めて、

「もう語ることがない」という境地に達したのではないか?

 

初期・中期の作品に比べて、

「ねじまき鳥」も、「カフカ」も、「1Q84」も、「騎士団長」も、

どうしてもコアが薄い・・・気がする。

「痛み」の感覚がない、というか。

 

こんな勝手なこと言うのはどうか?と自分でも思うが、

 

「ノルウェイの森」以降の先品は、読み返しを、あまりできない・・・というか

読み返していないのだ、3回、せいぜい多くて5回読み返したくらいか。

初期三部作と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に関しては、

僕は、

20回以上、それぞれを読み返している。

何度読み返しても飽きないし、「痛み」の感覚も消えない。

 

「ダンス、ダンス、ダンス」はその中間に属する。

読み返しがいがあるし、面白いし、「痛み」の感覚も、いつまでも健在だ。

「ダンス、ダンス、ダンス」に「直子」は登場しないにもかかわらず。

 

 

ということで結論。

村上春樹の初期には「語りたいこと」

もっと言えば「語るべきこと」が、確実にあった・・・・・と思う。

「直子」は、実在していたのだ。

そしてその存在が作家・村上春樹が創作に向かう巨大なエンジンであった。

本人が自覚していたかどうか?は、ともかく。

想像でしかないのだが「風の歌を聴け」を書いていてそのことに気付いて、

だからこそ、そのことをあんな風に巧妙に隠して

作品の中に織り込んだのではないだろうか。

そうせざるを得なかった・・・・・のではなかろうか。

 

 

僕は時々、このことを考えていて、

どうしても誰かに話を聞いて欲しかったのだ。

 

本当は、春樹さん作品を、何度も読んでるような人と、

現実世界で語り合いたかったのだが、まあしょうがない。

 

こんな「場」があることに感謝。

コメント
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