大人になったら「漫画家」になろう、と思っていた時期が確かに、あった。
子供の頃のことである。
単に、引きこもりがちの子供だったので家の中で本を読んだり漫画を読んだり、
延々と絵を描いていたり・・・してたので、絵を描くのだけは上手かったからだ。
でも、ストーリーを考えるのは苦手だった。今でもだが。
ストーリーが考えられなければ漫画はかけない。
それでその後、高校卒業時には、そうだ、「デザイナー」とかいう奴になればいいじゃん、
それだったらストーリー要らないし、と思いつき(安易だ)、
(ベンキョーは徹底的に苦手だったから大学に行くなんて思いつきもしなかった)
親に頼んで大阪のデザイナー専門学校に入学させてもらった。アリガットゴザイマッス!
初めの一年くらいは、まじめにデザインの勉強をした。けっこう本気で、デザイナーになるつもりだった。
ヌ、ヌードデッサンの授業とかもあったんだぜ。アレは良かった。
しかし、デザインの世界はその時期、パソコンの登場で劇的変化している真っ最中だったのだ。
今思えば、ってことだ。当時は全然、そんなことわからない。
だから、デザイン学校であの時習った手仕事的な技術(レタリングとか、からす口の使い方とか)は現代においてはもう、
骨董品みたいなもので、誰も使ってないし今の学校ではそんなこと、教えてさえいないはずだ。
何もかもがコンピューターに飲み込まれてしまった。
それはともかく、
デザイン学校に行きながらも、高校で結成したバンドは続けていた。
そう、ランブルフィッシュである。でもこの頃の活動は割合、低調だったように思う。
でも「転機」が訪れる。夏休みに・・・・・
ヴォーカルの佐治と二人で行った、免許合宿である。場所は長野の小渕沢だった。
そこで、いろいろあって、僕は「バンドマン」になる、という一大決心をした。
何でもいいからとにかく昼間の仕事をしながら、バンドをやる。デザイン学校なんか行ってる場合じゃねえ。
そして、メインは仕事ではなく、バンド。でも別に、メジャーデビューが目標だったわけではない。
とにかく、本気でバンドをやる、という姿勢こそが大事だった。
そのために、それのために様々なことを「棒に振る」決心をしたのだ、あの夏に。
それで、その後はその時の決心通りに行動した。
仕事は、転々とした。ライヴで休みが取りにくかったりしたら、あっさり辞めたりしたから。
アメリカ村で古着屋の店員をしたり、
50CCバイクで画材の配達をしたり、
軽トラで配送もした。靴工場で働いたりしたし、
時計を売る仕事は、結構長くやった。
大型ダンプにも乗ったし。
そんな風に働きながら、バンドはずっと、やってきた。
そういう意味ではあの頃に決心したことに忠実に生きてきた、と言えなくもない。
気付いたら僕はもう「大人」で、
結局のところ、何になったのだろう?
むむむ・・「バンドマン崩れ」か。
そーゆーのってあんまりカッコ良くないが
まあ良し、としよう。
写真は、2019年の、著者近影(着ているのはROCAのTシャツ・黒ヴァージョンである)。
何というか、少しずつ顔が、老けてきた。それはそれで・・・・・そんなもんだろう。