「命」について。

2017-03-05 17:53:16 | Weblog




もちろん何度も何度も考えた事なのだが





「命」とは何なのであろう。



俺が思うのは・・・・・命にはどうして継続性が必須なのであろうか、ということだ。


ほんの何分か、酸素の供給が途絶えただけで、我々は死ぬ。

そして死んでしまったら、何をどうしたって(泣き叫んでも、大金積んでも)、もとには戻らない。

我々の身体は、命の宿らない物体と化す。

そして少しの時間を経て自己崩壊を始め、僅か何日かで朽ちてしまう。


命とは炎のようなものなのか。


でも消えた蝋燭は、再び火を灯せば炎が点く。

全く同じ炎に見えるのだけれど、あれは別物の命なのだろうか。


突飛な話だが

クルマという物体は、(例えば)宇宙人がらみたら生命体にしか思えないであろう、

という説を何かで読んだことがある。

だって

ガソリンという有機物を摂取して、それを体内で燃焼させて、行動する、移動する。

それは「生きてる」ことと、かなり近い。

だがクルマは

例えばガソリン切れで長いこと放って置かれても、

再びガソリンを入れてキーを回せば動き出す。


クルマは、我々のような執拗な継続性など、必要としないのだ。

それはやはり、「命」ではない・・・からなのか。



我々は絶えず息をして酸素を供給し、

食べる事で有機物を摂取し続けて、

水も、勿論絶やしてはいけない。

必須栄養素は数限りない。ビタミンB12が足りてないですよ、とか言われたり。


定期的に長い睡眠をとらなければならないし、


親の愛情だって、幼少期にはどうしたって必要だ。

誰かとコミュニケートすることも必要だし

学校に行ったり、仕事をしたり、社会参加も求められる。

税金を払ったり、選挙で一票を投じたり。

確定申告に行ったり、

お墓参りに行ったり。


挙句の果てに

誰か、全く知らなかった人を、何かの弾みに好きになってしまって。


愛情とか、それに相反する憎しみ(みたいなもの)を抱えながらそれでも我々は明日も

生きてゆく。




時には


友達の死を悼んだりしながら。



命とは何なのか?とか



考えたりしながら。














継続しなかった「命」に、

惜別の歌を。





今夜、磔磔 に行く皆さん、気をつけて。







我々とは




017年3月11日土曜日に


大阪の梅田の ムジカ・ジャポニカで会いたい。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする