まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~隼人塚に歴史ロマンを感じる

2024年02月02日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのアプローチとして、都城から吉都線~肥薩線を直通するローカル鈍行に揺られ、終点の隼人に到着した。時刻は15時半を回ったところ。

この日(1月27日)の宿泊は、日豊線で1駅東の国分である。一方、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの最初の目的地である第43番・法城院は日豊線で1駅西の加治木の駅前にある。この日のうちに1ヶ所回ってしまうのもいいし、そのまま早めに国分のホテルにチェックインしてゆっくりしてもいい。ちょうど大相撲初場所が14日目、ここ隼人や国分がある「霧島」がそのまま四股名になっている大関・霧島の綱取りの可能性も残されている。

いったん改札の外に出る。駅名にもなっている「隼人」といえば、古代の日本において南九州に住んでいた人たちで、薩摩隼人、日向隼人などという呼び方もあるし、「熊襲」とセットで呼ばれることもある。いずれも、大和朝廷に反抗した人たちとして描かれるイメージだが、「はやと」という読みは、「隼人」、「勇人」など、男の子の名前でも見かける。私の知人にもいる。

そんな中、駅の近くに「隼人塚」というのがあるそうで、ちょっと行ってみることにした。隼人を祀ったスポットだろうか。加治木の法城院には翌日行く時間を設けているし、大相撲もテレビで幕内後半戦くらいは観られそうだ。駅にコインロッカーがあったので荷物を預け、線路際を歩く。

最初の踏切を渡ったところ、ショッピングセンターに接して広場がある。見たところ、地元の人も憩う公園かというところだが、その一角に塚があり、五重の石塔が並ぶ。そしてその四隅に石像が立っている。案内板によると、これらの石塔や石像は発掘調査の後、平成になって修復・復元されたもので、四隅の石像は四天王だという。

その奥に隼人塚史跡館がある。発掘~復元の様子が紹介されているが、「まずはこちらへ」と、隼人についての案内コーナーに通される。

南九州に居住していた隼人は、海幸彦の末裔と称していたという。また南九州といえば熊襲と呼ばれた人たちもいたが、熊襲の末裔が隼人を名乗ったという説もあれば、同じ南九州でも熊襲が球磨川沿いを中心とした肥後あたりの人たち、そしてそれより南の薩摩や日向を拠点としたのが隼人だともいわれている。

大和朝廷の側、いわゆる教科書的立場から見れば、大和朝廷は熊襲や隼人を平定して中央の律令体制に組み込み、現在の日本につながる体制を築き上げた・・となるのだが、一方で熊襲や隼人の側から見れば、ヤマトの連中が侵略してきて我々を支配するようになった・・という見方にもなる。地方の博物館、歴史館などに来ると、1300年以上前のことだが征服された、支配された側の視点での展示が見られることがたまにあり、面白い。

大隅の隼人は国府を襲撃する反乱を起こしたが、1年半ほどの戦いの後、大伴旅人により平定される。これにより、大和朝廷の南九州支配が確立することになった。

さて、先ほどの隼人塚だが、その反乱で戦死した隼人たちを弔うものだったのかな。発掘調査等の結果、平安時代の正国寺の前身として造られた寺院跡というのが有力のようだが、わざわざ「塚」という言葉が残されている以上、地元の人たちは隼人を英雄視して、後世まで敬ったものと思われる。

展示室に入ると石仏が出迎える。そのうち一体は首が落ちた状態で保存展示されており、一瞬「廃仏毀釈の影響か」と思った。今回の札所めぐりの後半で触れるつもりだが、明治初め、鹿児島県といえば廃仏毀釈が徹底して行われ、一時、寺院そのものがすべて姿を消したこともあるほどだ。もっとも、これらの石仏が廃仏毀釈で破壊されたものでないにしても、寺そのものは現在残っていないようだ。

中央の歴史から見ればとっくの昔に表舞台から消えた隼人だが、こうして地名にも残るし、先に触れたように、男の子の名前にもつけられている。歴史のロマンというのかな・・。

駅に戻り、16時34分発の国分行きに乗車。

国分という駅名からして、この辺りがかつての大隅国の中心だったところである。鉄道でいえば現在は日豊線のみの駅で、鹿児島中央からの普通列車の多くは国分までの運転である。また、かつての国鉄時代には志布志からの大隅線が走っていた。

この日は駅から少し歩き、霧島市役所の近くにある「ホテルネクステージ」にチェックイン。飲食店街にも近いところである・・・。

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