まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第3番「光妙院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大竹の波切不動明王)

2021年02月17日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、山陽線で移動して、広島県の西の端にある大竹で下車する。

大竹は工業の町としての顔があって、ダイセル、三井化学、日本製紙といった工場群が並んでいる。JR貨物の駅も併設されていて、以前に広島で貨物の仕事をしていた時には、大竹、岩国から各地に化学用品や紙が大量に発送されていて、大竹、岩国発で関東方面を結ぶ列車も出ていたから余計にそう感じる。

ただ、プライベートでの目的地となると初めてである。今回は第3番の光妙院、第4番の薬師寺が目的地である。いずれもコミュニティバスの便でつながりそうだが、天候も穏やかだし、時間もあるので歩いていくことにする。

現在の駅舎はかつての国鉄型の建物だが、駅前の再開発として橋上駅舎、東西自由通路の建設が進められている。2023年度末までの完成を目指すという。

大竹駅前の商店街を通る。「スペイン通り」という名前がついているが、どういう由来があるのだろうか。駅前もそれほど賑わっている感じはなく、やはり店舗は国道沿いに集まっているようだ。

大竹中学校の前に、奉納の石柱で囲まれた石碑が建っている。何か由緒ある人なのかなと見てみると「朝池槌五郎」という名前がある。明治時代に大竹にいた棒術の達人だという。棒術は日本古来の武道の一つである。大竹では有名な偉人なのかな。

駅から歩いて30分ほどで、道から一本入ったところにある光妙院に到着。駅周辺の住所は新町、そしてこの辺りは元町とあるが、元々の大竹の中心はこの辺りだったのかなと思われる。

少し石段を上がる形で境内に入る。山門はなく、本堂の前には不動明王、役行者、理源大師聖宝の石像が建つ。像の前には護摩供のお焚き上げの場がある。実際にここで法要や祈祷も行われるようだ。光妙院は、真言宗の中でも修験道に近い醍醐派に属している。

境内の一角には、修験僧の姿をした石像が立つ。「開基 妙総大和尚」と書かれている。歴史上の人物なのかなと検索するが、該当する人は出てこない。そのはずで、光寺院の縁起は昭和の戦後のことである。

広島新四国、および光妙院のホームページによると、妙総和尚(この時は一般人)が重い病にかかり、1958年から7年もの間生死をさまようことがあったが、夢枕に波切不動明王が立ち、「今日より衆生済度のために導く」とのお告げがあった。7日の間夢枕の教えに帰依したところ、病気も全快した。この恩に報いるために1966年に醍醐寺で得度を受け、波切不動明王を本尊とした光妙院を開いたとある。

これまで札所といえば古い歴史を持つ寺が多く、真偽のほどはさておき、弘法大師が開いたとか、さかのぼって奈良時代の行基が開いたとか、いやいやもっと昔に聖徳太子が開いたとか・・そうした縁起に触れることが多い。その中にあって広島新四国には、はっきりと戦後の開創とわかるところも札所に入っているところもあるようだ。

まだ新しい本堂の外でお勤め。中にも入れるようで、実際に履物も何足か置かれているが、中からは談笑の声が聞こえてくる。法話か茶話会か、見知った人同士の集まりのように思える。そうした場にわざわざ入ることもないかなと思う。

本堂の手前に納経所がある。広島新四国の朱印を求めると、窓の外に箱が置かれていて、そこからセルフで取る仕組みである。これからは、書き置きの朱印がどこに置かれているのかを探すのも楽しみになるのか。

他にも十一面観音石像や弁財天堂があり、水行場、十三仏像プラス孔雀明王ならびに弘法大師像も並ぶ。小ぢんまりした境内ながらさまざまな仏が揃っている。

境内の入口側には護摩堂、そして四国八十八所のお砂踏みがある。

光妙院を開いた妙総大和尚が四国から土砂を持ち帰り、2002年に醍醐寺の僧たちと「三祖の灯」を掲げ、各札所の本尊の修法を施したものという。それぞれの札所の本堂の写真パネルが掲げられていて、私自身がかつて回った時のことを思い出しながら一回りする。

こういう寺もあるもので、来た甲斐があったなと思う。ここまで来れば次の第4番薬師寺も十分徒歩圏内で、もう少し先に進むことにする・・・。

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