広島近郊に広がる広島新四国八十八ヶ所霊場。2021年から広島の町歩きを兼ねて始めている。
前回、第2番である大竹市玖波にある法泉寺を訪ねた。その時、玖波駅で降りるのが初めてということで駅周辺をぶらつき、穏やかな港やかつての西国街道の景色を見たのだが、その時旧街道沿いの一角に「長岡省吾顕彰碑」というのを見つけた。広島平和記念資料館の初代館長で、被爆直後の広島に入り、被爆した建物の瓦礫や石などの収集を行った人物である。その思いが、爆心地の特定であったり、現在の平和記念資料館の礎になったということを初めて知った。
ちょうど、被爆75年の企画展として、平和記念資料館にて2月23日まで長岡省吾の足跡を紹介しているという。せっかくの機会なので行ってみようと思い、コロナ対策での休館明けの2月11日に訪ねてみた。
平和記念公園。まずは原爆慰霊碑に向かう。昨年広島に来てから訪ねるのは初めてである。
そして資料館へ。現在は開館が再開されているがコロナ対策として入館制限を行っていて、時間帯ごとの事前予約が必要とある。もっとも、事前予約がなくても入館者数が定数に達するまでは整理券を配布する形で入場は受け付けており、個人で訪ねる分には当日行っても問題なさそうだ。
平和記念資料館を訪ねるのも何年かぶりだが、2019年に展示内容が全面的に更新されてからは初めてである。
その本館は、「被爆の実相」として、「人への被害」を中心とした展示に変わっている。被爆者の視点で8月6日を描くとして、写真、遺品、絵の展示を中心としている。照明も落とし、見学者が静かに遺品と対面することで、声なき声を感じ取り、当事者意識を持ってもらおうという狙いがあるという。
遺品そのものはもちろん以前からも展示されていたが、その説明を補うためにさまざまな造作物やパネルが設けられていて、結果として雑然とした印象を与えているのではという声があったそうだ。そのため、リニューアルに当たっては説明は最小限として、遺品、遺族の声そのものに焦点があたるようにしたという。
続く東館は原爆に関する情報を中心として紹介している。どういう経緯で広島に原爆が投下されたのか、またその威力がどのようなものだったとか学術的なことはこちらで知ることになる。本館と東館でテーマを明確に分けているとのこと。
そして、今回の企画展である。「礎を築く-初代館長 長岡省吾の足跡」。
長岡省吾は地質学者、広島文理科大学(現在の広島大学)の教授で、8月6日は山口県で調査を行っていたが、被爆の翌日に広島に入り、変わり果てた街の様子を見てその実態を明らかにすることを決意した。当初は一人で瓦礫や瓦を集めていたが、その信念に少しずつ協力する人も現れた。
その収集資料をもとに、1949年に「原爆参考資料陳列室」、そして1950年に「原爆記念館」が開館された。ただ当初は運営資金も乏しく、長岡自らが資料の調査から展示物の制作、来館者の対応にあたっていた。一方で、被爆した人々が身に着けていた衣類や、生活用品なども提供されるようになった。
そうして長岡が奮闘していた頃、平和記念公園の整備も進められ、1955年に丹下健三デザインの平和記念資料館が完成した。長岡は初代館長に迎えられた。1961年に退職したが、その後も長岡の信念、思いは資料館に託され、現在にも受け継がれている。現在では2万点を超える遺品が保存されており、展示スペースで展示されているのはそのごくごくわずかである。
こうした事業が一人の人物の熱意から始まったと初めて知った。
なお、長岡省吾の事蹟、そして平和記念資料館が現在の展示方法に至った経緯について、ミュージアムショップで『広島平和記念資料館は問いかける』(岩波新書)という一冊を購入した。著者の志賀賢治氏は資料館の前の館長で、現在の展示方法を導入した方である。被爆の記録、記憶をどのように伝えることにしたのか語られており、現在読み込んでいる途中である。
さて、この日は広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きのため、大竹に向かうことにしていた。その前段で、いったん平和公園まで出たわけである。バスで西広島駅に移動して、山陽線に乗る。その記事は次にて・・・。