まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第1回中国観音霊場めぐり~第1番「西大寺」その1

2019年06月21日 | 中国観音霊場

赤穂線に揺られて西大寺駅に到着。ここから目指すのは中国観音霊場の第1番札所の西大寺である。

西大寺といえば「はだか祭り」としても知られる西大寺会陽がある。メインイベントは例年2月の第三土曜日に行われる宝木(しんぎ)争奪戦で、裸にまわしを締めた男衆が本堂内陣の御福窓から投下された宝木を奪い合うものである。日本三大奇祭の一つとされていて(こう書くと残りの二つはどこかとか、そもそも西大寺会陽は三大奇祭に数えられるのかというのがまた問題になる)、毎年大勢の参加者が集まる。

駅前のロータリーには宝木を奪い合う男衆の像が建つ。会陽の様子はYouTubeにも多くの動画がアップされているし、西大寺のサイトにも画像がたくさんあるのでご覧いただけるとよいが、まあすごいわ。あれだけの男たちが本堂の舞台でもみくちゃになっているし、本堂の外にも多くのまわし姿が取り巻いている。そのすさまじさ、毎年担架で運ばれる人も出るし、10年あまり前には群衆の下敷きになって亡くなった人もいたそうだ。

会陽の宝木は天井の御福窓から2本投下され、それを奪い合うわけだが、個人が野次馬気分で参加して簡単に取れるものではない。エントリーじたいは個人単位でも、何なら当日飛び入りでも可能だが、怪我防止のため腕時計はおろか眼鏡も着用禁止である。眼鏡がかけられないという時点で私などは参加できない。まあ多くの参加者はまわし姿になることや境内でもみくちゃになって参加することそのものを楽しんでいるようだが、毎年本気で宝木を取ろうというグループも多く参加するそうだ。そうしたグループは綿密な作戦を立て、事前のシミュレーションも行うなどして臨むのだとか。毎年1月に行われる西宮戎神社の福男選びの競走にも共通するものがあるかな。

寺に参詣の前に、駅から歩いた水路沿いにある西大寺文化資料館に行ってみる。岡山を中心に店舗を持つ百貨店の天満屋(現在は女子のマラソン、駅伝の強豪としても知られる)を創業した伊原木家の旧邸宅にあり、敷地内の衣装蔵を1979年に地元の西大寺愛郷会に寄贈したものである。それ以来、西大寺地区に関する資料の保存・展示を行っている。この建物が日曜日のみ公開のため、今回の中国観音霊場めぐりを日曜日に行ったわけだ。

係の人に迎えられ、記帳して中に上がる。やはり見所は会陽に関するもので、かつての宝木や護符も展示されている。古くは江戸時代のものもある。

宝木を取ったら立会人(現在は商工会議所)の元に持ち込まれ、福男に認定されるそうだが、昔はその辺の似たような棒切れを持ち込む不正もあったそうだ。そのため現在は宝木を切り出した際にわざと切れ込みを入れておき、それと凹凸を合わせて本物かどうか判定するとのこと。また福男は自分に福が訪れるというよりはむしろ、商店街や施設を回るなどして人々に福を授ける役目がある。これも、西宮戎神社の福男にも通じるところだ。

西大寺の本堂には会陽の様子を描いた絵馬が奉納されているが経年で見にくいため、資料館には絵馬を撮影したパネルがある。江戸時代のものらしいが、境内の男衆のエネルギッシュな様子が伝わってくる。また他には昔の生活道具や、元は呉服屋が発祥の天満屋の帳場の展示もある。西大寺の歴史の一端を学ぶことができるスポットだった。

資料館から西大寺の参道を歩き、仁王門に着く。中国観音霊場の1番札所の標札も掲げられている。いよいよ、巡拝が始まる。

仁王門をくぐるとまずは三重塔が出迎えてくれ、その奥に本堂が建つ。境内がガランと、中途半端に広く感じるのはやはり会陽の会場だからだろうか。

本堂に対面する形でスタンドがある。会陽では有料の観覧席となり、宝木を奪い合う様子を格闘技でも観戦するかのように見守ることができる。2月だから熱燗でもやりながら宝木投下までの時間を楽しむのも面白そうだなと勝手に想像する。

さてここまで会陽、はだか祭りを中心に触れてきたが、西大寺の寺としての歴史にも触れておく。関西で西大寺というと、奈良にある近鉄のターミナル駅のイメージが強いが、寺としては岡山の西大寺のほうが名高い。

その奈良時代、周防国に藤原皆足姫という女性がいて、観音菩薩を篤く信仰していた。ある日、姫のところに一人の仏師が宿を求めてやってきた。姫は泊めるかわりに香木を差し出して観音像を彫ってほしいと頼んだところ、仏師は「仏像が出来上がるまで部屋を覗いてはいけない」と言って部屋に籠った。

ある日姫が部屋の前を通ると何やら話し声がするので、ふと部屋を覗いた。そこでは仏師と仏像が問答をしていたが、仏師は姫が約束を違えたとして外に走り去る。姫が押し止めてどこのお方かと訊ねると、仏師は「大和の長谷が仮の住まいだ」と言い残して姿を消した。大和の長谷とは観音信仰の象徴でもある長谷寺のことで、姫は「仏師は長谷寺の観音の化身だった」と思い、彫られた観音像を舟に積んで大和を目指した。

舟は吉井川まで来たところで停泊したが、出発しようとして動かなくなってしまった。そこで観音像を降ろすと舟は楽に動いた。これは観音様の思し召しとしてお堂を建てたのが、西大寺の発祥とされている。

その西大寺だが、当初は「犀戴寺」という字だったそうだ。長谷寺で修行していた安隆上人の夢のお告げに「吉井川にある観音堂を修復するように」というのが出て、上人がその通り備前に向かったところ、犀の角を持った仙人に遭遇した。そこでこの犀の角を安置するよう告げられ、その場所に観音堂を移した。犀の角を戴く寺だから「犀戴寺」と称したが、後に朝廷の祈願文から「西大寺」とした。

会陽のはだか祭りは今から500年ほど前に始まったとされている。修正会の結願の日に参詣者に御札を授けたところ、人々が殺到して奪い合いになったため、身の自由を得るために裸になったのが起こりという。それが水垢離を取るのと合わさり、今のような祭りの形になっていった。

その本堂に上がる。はだか祭りであれだけの人間がもみくちゃになるのだからもう少し広いのかと思っていたがそこまででもない。本尊は秘仏の千手観音で、賽銭箱に真言と延命十句観音経の文言が書かれたプレートがある。まずはお勤めとする。

何やら昔の旅姿の一行が、ガイドの案内を受けている。そうした体験でもあるのだろうか。

上には巨大な絵馬が掲げられている。先ほど資料館で撮影版を見た、会陽の様子を描いた絵馬の現物である。確かに絵は見づらい。

宝木を投下する御福窓もある。宝木は何せ2本しかない。それを大勢で争うのだが、そもそもこの本堂の中でそれを待つことじたいが熾烈な争いではないかと思う。

・・そんなに会陽が気になるなら、自分が一度参加してその様子を記事にすればいいのでは?と言われるだろうが・・・。

本堂の中にある納経所で中国観音霊場初めての朱印をいただく。購入したのは専用の折れ本式の納経帳で、各ページには札所の由緒やご詠歌も記載されている。また本尊の御影ももれなくついてくる。綴じ込み式の朱印と本尊御影がセットで保存できるバインダーもあるのだが、まあ、御影の保存は別に考えようか。

話が長くなる中、これでまずは西大寺をお参りとなった。ただ中国観音霊場第1番西大寺、実は境内にはもう一体、中国観音霊場として由緒ある観音像がある。そちらにも手を合わせることに・・・。

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