まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第5番「報恩院」~近畿三十六不動めぐり・3(二つの北向不動尊)

2017年09月26日 | 近畿三十六不動
生国魂神社の境内を抜けて千日前通に出る。地図上では、これから行く報恩院は通りの向かいにあるが、ここは車道に塞がれている。一度谷町九丁目の交差点まで向かい、そこで渡る。これで天王寺区から中央区に入る。

千日前通の1本北の通りを進む。この辺りは飲食店が入るビルもあればラブホテル、マンションもあって雑然としている。その中に寺院の屋根瓦も混在している。

周りをビルに囲まれた中、「近畿三十六不動」「おおさか十三仏霊場」「摂津国八十八所」という看板が塀に掛けられている。ここが報恩院。境内としては実に小ぢんまりとしていている。

報恩院は江戸時代前期の寛文年間に良遍上人の手で、上町台地の良い場所を選んで北向不動尊を安置したのが始まりとされている。ちょうど谷町九丁目から難波方向への下り坂の途中に位置している。

その後、明治初期の廃仏毀釈で一度廃れ、明治から大正にかけて再興された。しかし大阪の大空襲で寺は焼かれる。ただその中でも北向不動尊の像は残った。被災数日して僧侶や壇信徒の手で焼け跡を整理し、再び祀られた。

その北向不動尊とは門をくぐるとすぐにご対面である。彼岸ということで花も多く供えられている。私が行った時にはちょうど一人の男性が北向不動尊の真ん前で手を合わせていた。不動尊に水をかけた後、長く、かつ真剣に手を合わせている。日頃から不動尊への信仰が篤いように見える。私も割り込むわけにいかず、終わるまでその後で待つ。

不動尊の後には相生の樟というのがある。北向不動尊と同じ時期に植えられ、枝葉もよく繁っていたそうだが、これも空襲で焼けた。それでも今も枝を伸ばしているとは、生命力というのか、不屈の精神を感じる。

その樟の後ろ側にもう1体、黒ずんだ仏像が祀られている。実は空襲で焼けた北向不動尊はこれである。北向ではなく南向だが、これも歴史を伝えるものである。見た感じ正面の北向不動尊よりも穏やかな表情に見えるのは、江戸時代の作風なのかもしれないが、廃仏毀釈や大阪空襲といった激動を乗り越え、今は北向の座を後継者に譲った楽隠居のようにも見える。

・・・とここまで、北向、北向と書いてきたが、なぜ不動明王が北を向くのだろうか。先ほど訪ねた四天王寺や清水寺では、不動明王は西や東を向いていた。そこをあえて「北向」とつけるのはどういう意味があるのだろうか・・・。これは三十六不動をめぐる中で見つけていきたい(んなもん、寺の人に訊いたら一発でわかるやろ・・・というのはなしで)。

「先代」の北向不動尊の向かいが納経所で、ベルを鳴らして寺の人を呼び、近畿三十六不動の書き置きの朱印入りの紙をいただく。なお、これは帰宅して気づいたのだが、日付を書いてもらった紙の下から、もう1枚「北向不動尊」と書かれた紙が出てきた。これらは朱印や筆書の位置がまったく同じだったので、専用用紙は書き置きではなく印刷物だったことがわかる。ありがたみが薄れそうに思うが、それを言っても仕方がない。それよりも紙が2枚出てきたのは、今は南向となった「先代」の北向不動尊の分かな・・・?と勝手に解釈する。

さて、報恩院の境内に入った時から読経の声が続いている。彼岸の法要で、僧侶が7~8人、壇信徒らしき人が20人ほど、境内にて各種の経典を唱えている。観音経もあれば各仏の真言もある。締め?が般若心経の繰り返しというやつ。壇信徒ではないのでその輪には入れないが、後ろの方から手を合わせる。そうした中を、隣の千日前通では右翼団体の街宣車が軍歌を大音量で流しながら走り抜ける。街角の寺院らしいひとこまかな。それにしても、故説般若波羅蜜多~いざゆけ日本男児~♪と妙につながってしまうのは、耳がどうかしているのかな。

さて、報恩院まで来たところでこの日の近畿三十六不動めぐりはここまで。次に行くところを例によって?くじ引きとサイコロのアプリで決める。近畿三十六不動めぐり最初の出走表は・・・

1.大津(円満院)

2.豊中宝塚(不動寺、中山寺)

3.竹田(不動院)

4.山科(岩屋寺)

5.天川村(龍泉寺)

6.醍醐(醍醐寺)

京都方面が多いが、最初からさまざまあるなというところ。なお、醍醐寺が出た場合は、朱印は下醍醐でいただくとしても、お参りするのはあくまで上醍醐となる。麓から片道1時間の行程が待つ。そんな中でエイヤッとスマホをなぞって出たのは・・・「5」。えっ、いきなり天川村って・・・。

どうやら、境内の片隅にいたこのオッサン・・・もとい役行者が存在感を出したかな。天川村の龍泉寺は、大峯山への修験道の玄関口である。不動尊めぐりと修験道めぐりは結構リンクしているところがあるようだが、いきなり近畿三十六不動でもっとも山深い札所に行くことになるとは・・・。

これで報恩院は終わりとするが、道を挟んだ向かいに高津宮の鳥居がある。せっかくなので最後にお参りする。この位置関係だと、報恩院は高津宮の神宮寺の役割もあったのかなと想像する。

高津宮は仁徳天皇を祀る神社だが、上方落語でも古典の舞台として出てくる。中でも知られるのが「高津の富」だろうが、境内に「高津の富亭」というのがあるのにうなった。参集殿を利用して不定期に寄席を開いているという。これは初めて知った。ちょうど打ち出しのタイミングで、参集殿からぞろぞろ客が出てきたところだった。客同士の会話から、結構常連さんも多いようだが、ここもまたいつか訪ねてみたいと思った。

この後は難波まで歩き、とある店でのどを潤す。彼岸の中日、この後は四天王寺で日想観ではないかというところだが、曇りの天気は変わりないだろうと打ち止めとする。まずは街角の寺院めぐり、次は山奥の修験道ということで、近畿三十六不動めぐりもまた関西のさまざまな表情が見られるかなと楽しみである・・・。
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