まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第2回中国四十九薬師めぐり~備中高梁城下町(城は出てきませんが・・)

2021年07月30日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師の薬師院の参詣を終え、少しだけ備中高梁の町歩きとする。備中松山城まで上るのは取り止め、どこかで見学というのもいいかなと思う。武家屋敷、商家の通りを一回りして帰宅することにしよう。

備中松山城が築かれたのは鎌倉時代、秋庭氏の手による。当初から高梁川を前にした天然の要害だったことだろう。戦国時代には三村氏、毛利氏らがこの城をめぐって争い、毛利氏の手中となった。その後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、備中高梁は幕府の直轄となり、小堀正次を代官として置いた。その正次の子が、さまざまな庭を作ったことでも知られる小堀遠州である。

現在の城下町の元は小堀遠州が築いたといってもいいだろう。その中心と言えるのが頼久寺で、こちらも城かと思うくらいの石垣を有している。今回は省略したが、枯山水の庭園も小堀遠州の代表作の一つとして知られている。

伯備線の線路に沿って歩くと、石火矢町の通りに出る。小堀遠州が整備した城下町を受け継いだのが新たに設けられた備中松山藩の藩主池田氏、水谷氏である。資料館として開放している屋敷もあれば、現在も地元の方が住んでいる屋敷もある。この一帯も「男はつらいよ」のロケ地になったところで、寅さんのポスターも貼られている。

前の記事から「男はつらいよ」に触れているが、正直、このシリーズ映画をじっくり観たわけではない。ただ、シリーズを通して日本のさまざまな原風景、懐かしいと言える人々が登場し、それも多くのファンに親しまれる理由の一つというのは確かである。全国のロケ地を紹介するガイドブックや、実際に全国を訪ねた人の旅行記、ブログなどもさまざま出ている。

その後、水谷氏に跡取りがなかったために改易、その際に幕府から備中松山城の受け渡しを命じられたのが赤穂藩で、実際に出向いたのは家老の大石良雄、そう、忠臣蔵の大石内蔵助である。

武家屋敷から一段下った通りにあるのが商家群。高梁川の水運を利用した高瀬舟で栄えた家も多い。高瀬舟は伯備線が開業する昭和の初めまで現役で活躍していたそうだ。

そのうちの一つ、池上邸が商家資料館、無料休憩所として開放されている。江戸中期に小間物屋を始め、後に高瀬舟の水運や醤油製造などで財を成した商家である。

こうした町屋がしばらく続く。

このあたりをぐるりと回り、備中高梁駅に戻る。昼食がまだだが、早くもここで折り返しとして、駅前のコンビニで飲食物を仕入れて、13時02分発の特急「やくも14号」に乗る。381系の4両編成で、座席もそこそこ埋まっている。この特急車両に乗ることができるのもあと何年だろうか。

倉敷で下車して、そのまま山陽線に乗る。すると外は雨が落ちて来た。スマホで雨雲の動きを見ると、備中高梁にも雨雲がかかっていた。備中松山城まで行っていたら雨に遭っていたことだろう。

この日(18日)は呉線の三原~竹原間が8日の大雨の影響で運休、代行バスが運行していた(21日から全線運転再開)。

糸崎からそのまま乗り続け、西広島に到着。自宅には17時前に着いた。この日は大相撲名古屋場所の千秋楽で、結びの白鵬対照ノ富士の全勝対決に何とか間に合いそうだ・・・。

コメント    この記事についてブログを書く
« またまたまたまた大阪に緊急... | トップ | 第3回九州西国霊場めぐり~お得なチケッ... »

コメントを投稿