まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第20回中国四十九薬師めぐり~第32番「向徳寺」(油谷湾をのぞむ楊貴妃の里)

2022年11月19日 | 中国四十九薬師

11月3日、中国四十九薬師めぐりは国道191号線・北浦街道を進む。

山陰線の阿川駅近くに「阿川ほうせんぐり海浜公園」がある。「ほうせんぐり」とはどういう意味かと思うが、砂浜の奥に穏やかな色の海が広がっている。夏は海水浴で賑わうことだろう。先ほどの角島大橋近辺もそうだが、響灘の海がきれいなのは水質なのか、海底の地質なのか。

ようやく下関市を抜けて長門市に入る。対岸に、向徳寺のある油谷半島が見える。地図によると半島の先端に近いほうにあるため、ぐるり回ってもまだまだ距離がありそうだ。

油谷半島に入り、丘の上に県道が続く。途中の案内標識には「川尻岬」と「楊貴妃の里」の文字が目立つ。

やがて小さな漁港が見え、県道はぐるりと回り込む。ちょうど「楊貴妃の里」がある二尊院が向かいにある。後から行ってみよう。

向徳寺に到着。境内の入口に差し掛かる。なお今回はクルマで来たが、本数は少ないものの長門市駅、センザキッチン方面を結ぶ路線バスもこの門前に停車する。ちょうどここからも油谷湾を見下ろすことができる。

向徳寺が開かれたのは江戸時代の初めで、長門市の大寧寺の鉄村玄鷲により開かれ、当時は向津庵という名前だった。明治時代に海徳寺と合併して向徳庵、そして昭和になって向徳寺に改称された。

山門をくぐると正面にデンと本堂が構えており、扉に手をかけると開いたので中に入る。すぐ前にセルフ式の朱印と、前後の札所の案内図が置かれている。

禅寺ということで本尊は釈迦如来で、薬師如来は隣の間に祀られている。江戸中期に別の寺から移されたそうだ。こちらでお勤めとする。

棟続きで納骨堂があるようで、お勤めをしているとちょうど寺の方か、あるいはお参りに来ていたかと思しきご老人がそちらから本堂にやって来た。「まだまだ暑いですね」と言われる。11月に入ったが、日中はまだまだ暖かい日が続いている。

境内はあじさいのスポットとして知られているそうだが、この時季は庭に特に見るものはなく、そのまま寺を後にする。

漁港を回り込んで、「楊貴妃の里」と名乗る二尊院に向かう。裏手の駐車場から境内に入ると、楊貴妃と玄宗皇帝の出会いの場である長安の華清池をモチーフにした小さな池(画像ではわかりにくいが、ハート型の掘られている)や、中国風の屋根を乗せた東屋がある。

小さな本堂の前に楊貴妃の石像がある。

二尊院は平安時代初期に伝教大師最澄により開かれたとされるが、現在では楊貴妃の伝説で知られている。楊貴妃は安禄山の乱により絞殺されたとなっているが、実はそこでは亡くならず、海を渡って日本に逃れたという伝説が昔からあったようだ。

楊貴妃の霊が夢枕に立ったことで玄宗皇帝は楊貴妃が亡くなったことを知り、阿弥陀如来、釈迦如来の二尊像を持たせた使者を派遣した。ただ、使者は楊貴妃がどこに漂着したかわからなかったので、京都の清凉寺に二尊像を預けて帰国した。その後、漂着したのが長門のこの地であることが分かったが、清凉寺は二尊像を手放すのが惜しくなり、同じ仏像を作らせてここで祀ることにした。

本堂でお勤めとする。幟には「南無楊貴妃大明神」とある。何でも大明神にしてしまうのが日本らしい景色である。

その後、楊貴妃の墓とされる場所に行ってみる。ちょうど油谷湾を見やる場所に建てられており、楊貴妃と侍女の墓が並んでいる。現在は婦人病封じ、安産、子育て、縁結びのご利益を求めてお参りする人も多いようで、楊貴妃を描いた絵馬も多数奉納されている。

この地は向津具(むかつく)と呼ばれ、また唐渡口という地名でもある。長門の国は古くから朝鮮半島、中国大陸とのつながりがあったとされており、仮に楊貴妃が東の海に逃れたとして、まったく当てずっぽうに漂着したわけでもないと考えられている。

こういう景色を眺めながら余生を過ごしたのかな。

これで中国四十九薬師めぐりとしては目的地に着いたことで、そろそろ帰途につくことにする。ただ、ここまで来たのだから元乃隅稲成神社に行ってみよう・・・。

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