人を見定めること

2021年09月28日 15時30分13秒 | つれづれなるままに
今朝のニュース。コロナ禍で高3、中3の子供達(親まで)が内申書を気にしてる。特にONLINE授業が出席なのか欠席なのか、そんなレベルのことまでが心配の種になってるとのことだった。実際全国統一されてるわけじゃなく、自治体で多少の違いがあるらしいんです。そうなるとピリピリしてる当事者は気になりなすわね。
このニュースを聞いて、「変だよな」と感じ、「本来の姿を考え、やり方変えたらいいんじゃないか」と考えたんです。それが以下。
まず、見定められる立場になって。 僕は人生のところどころで自分以外の他者から評価され、見定められるのはいいことだと考えてる。それは本人にとって刺激だし、自分を客観的に見る大事な機会だと思うからだ。具体的に高校受験、大学受験、入社試験が代表格だろうが、そんなに悪いものじゃないよ。僕みたいに努力しなかった人間には苦痛だったけどね。それに向かって励んだ人の中には「さっこのオレをどう評価するか?」と前向きに捉えてた人もいたはず。
次は見定める側の立場になって。これも本来の姿に返って考えれば見定める側の主体で考えればいい事。「こんなオレでどうだ」と評価を求めてきた人をこちら側の価値基準に則って〇×を付ければいいことじゃないですかね。当然なぜ×なのかは説明できないとまずいとは思いますが。評価する側が確固たる基準を持っていれば、それは難しいことではないはずです。
補足ですが、選ぶ側の価値基準に「一定の学力」が入ることもいいと思います。不公平ではないし、使い方には一考が必要だが、むしろ公平じゃないですかね。
さて、こんなスッキリしてる話なのに現実には「歪み」があるんですよ。何か? 
上に書いた評価する人、評価される人以外にもう1人評価者(事前評価者)がいるんですよ。この人の存在、役割が歪みの大本だと思うのです。それは例えば中学の、高校の先生です。評価される側の人が最終評価者の前に出る前に最終評価者の価値基準を知らない、むしろ社会的公平にのみ心砕く評価者がいることです。そしてそこに公平たらん制度がまた複雑に介在してます。
そしてこのシステムを長く続けてきた中で最終評価者は己の基準が怪しくなって行き、ますます事前評価者にたよるようになってきた。自分が苦労しなくて済む というのもあっただろうな。 そして作られてきたのが現在の見定め方法なんじゃないでしょうか。
コロナ禍だろうが、大津波で高校生活がボロボロだったとしても、
「おれはこうだ。こんな努力してきた。このオレでどうだ。採用してみるか。」の気概と
「よーし、そんな君の人間力をうちの基準で評価してやろうじゃないか」という気概の
ぶつかり合い それが公平な社会的評価なんじゃないだろうか。

ついでにですが、今朝のニュースでこんなことも言ってました。
学校での出欠日数の定義には「出席」「欠席」「忌引きによる欠席」があるんだそうです。知ってました? 
ONLINE授業日を「忌引きによる・・・」としてる学校もあるとか。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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いやぁ…………………… (kanou37)
2021-09-28 19:00:43
事前評価者か………子供たちは一年ですごく変わっていくし、われらの時代の方が、まだよかったよねえ。あんまり過去の評価が過ぎると、成長部分を見落としてしまうかもなあ………利口者たちが込み入った制度を作り続けている気がします。
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Unknown ()
2021-09-28 20:39:58
kanou37君 「込み入った制度」が必要な時代なんだよな。人はそれぞれの価値観を持ってる。それが堂々と風切って歩く時代になっちゃったから、ぶつかりも多くなった。だからありとあらゆるケースの仕切りをつけなきゃいけないんだろうね。「謙虚」でぶつかりを減らす方向は消えちゃった。
制度優先で「見定め」られるんじゃ生きづらくない。やり過ぎると(すでにそうなってるかも だけど)個性なんて潰される。これしか認めない、それ以外は×の世になっちゃうぜ。
制度に走るより、諸所の価値判断を「本来の姿でやる」方向に戻すことを考えたほうがいい局面は多いと思うが。
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