クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ジョリヴェの<ピアノ協奏曲>

2005年06月14日 | 作品を語る
前回語ったアンドレ・プレヴィンの名前から、20世紀フランスの作曲家アンドレ・ジョリヴェが連想されたので、今回はそのジョリヴェの代表作と言ってよいであろう、<ピアノ協奏曲>を中心に少し語ってみたいと思う。

この曲には昔、ちょっとカッコいい標題が付いていた。<赤道コンチェルト>である。しかし今は、かつての植民地政策を想起させるからという理由でこの標題は外されて、単にアンドレ・ジョリヴェの<ピアノ協奏曲>とだけ言うようになっているようだ。これは、エドガー・ヴァレーズに師事したという野心的な作曲家のバーバリズム志向を如実に示した傑作で、初演時にはストラヴィンスキーの<春の祭典>以来の騒ぎを起こしたと伝えられている。ストラヴィンスキーの回想によると、<春の祭典>初演の時は、客席のパニック騒乱もものかはで、指揮者モントゥーはまるで「ワニのように図々しい背中を見せながら」平然と演奏を続けたそうだが、ジョリヴェ作品の初演では、客席からのブー!やピー!に耐えられなくなった指揮者ガストン・ブーレが客席の方に振り返って、「批判は、曲が終わってからにしておくんなまし!」みたいなことを叫んだそうだ。いいなあ、こういう話。その場に居合わせてみたかったぞ。

第1楽章: アフリカ
第2楽章: 極東
第3楽章: ポリネシア

各楽章についたこれらのタイトルが何とも魅力的だが、内容もかなり野蛮でよろしい。ただ、ジョリヴェ作品をまだお聴きになっていない方のために誤解の無いように申し上げておきたいが、彼の作品は所謂バーバリズム志向を打ち出した物が多いと言っても、レブエルタスやレイフスといった、「そこまで、キレちゃうかあ?」というような音楽はやっておらず、言わば、“洗練された野蛮”みたいな相貌を示すものである。だから、あまりハチャメチャなものを期待なさらないでいただきたいと思う。

とは言いつつも、この<ピアノ協奏曲>で聴かれる荒々しさには抗い難い魅力がある。「ピアノってのはなあ、本質的に打楽器なんじゃあ」とでも主張しているような、ごついコンチェルトである。当時のフランスの聴衆が激しいショックを受けたのも、無理はない。美しいメロディなど、薬にしたくもないのである。ひたすら、ごついのである。この作品を私が初めて聴いたのは、フィリップ・アントルモンのピアノ独奏に、作曲者ジョリヴェ自身が伴奏指揮を受け持ったソニー盤のLPであった。あの真っ赤なジャケット・デザインは今でも、鮮明に記憶に残っている。ただ、当時の感想を正直に言うと、アントルモンのピアノにはもう少し野蛮な味が欲しかったし、ジョリヴェが指揮するオーケストラにも、もう少しキリリとした締まりが欲しいと思ったのであった。(※今聴き直したら、また違った感じ方をするかも知れないが・・。)

少し前にEMIから、ジョリヴェの主だった作品を収めたCDセットが発売されたので、早速買って聴いてみた。これは、二枚組のアルバムである。一枚目には件(くだん)の<ピアノ協奏曲>のほか、<フルート協奏曲>、<トランペット協奏曲第2番>、他が収められ、二枚目には<フランス組曲>、<ラプソディ>、<12の楽器のためのデルフォイ組曲>などといったものが収録されている。いずれも1950年代になされたモノラル録音だが、音質は鮮明なので全く不満はない。

一枚目の方ではやはり、<ピアノ協奏曲>が最も聴き栄えがする。リュセット・デカヴのピアノ独奏に、先頃他界した現代音楽の名指揮者エルネスト・ブールが伴奏指揮を務めている。オケはシャンゼリゼ劇場管弦楽団。私個人的にはソニー盤よりも、モノラルというハンディはあるものの、こちらEMI盤の演奏の方が好きである。まずピアノ・ソロが凄い。第1楽章、ピアノ登場の部分からいきなり強靭な打鍵を聴かせてくれるし、その後も多彩な表現力を縦横に駆使して、この曲のバーバリズムを見事に音にしている。第3楽章後半の狂騒ぶりも素晴らしい。ブールの指揮がまた、非常に引き締まっていて緩まず、くっきりした輪郭とがっしりした造形感を曲に与えている。見事な仕上がりである。このCDを入手なさった方は、アンプのボリュームをやや大きめにしてお聴きいただけたらよろしいかと思う。

<トランペット協奏曲第2番>では、主役のトランペットがミュート・カップを多用して、ポワ~ンポワ~ンとひょうきんな音を出すのが特徴的だ。また、トランペット協奏曲の第1番と称されることもある<トランペットとピアノ、弦楽器のための小協奏曲>では、指揮者としてお馴染みのセルジュ・ボドが見事なピアニストぶりを披露している。(※ものの本によると、この作品は1948年にパリ音楽院のコンクール課題曲として発表されたものらしいのだが、これを見て応募者25人のうち10人が棄権してしまったとか。ジョリヴェせんせー、あんまり酷なことすんなよなあ。w )一方、<フルート協奏曲>や<弦楽のためのアンダンテ>では、暗く沈むような曲想がジョリヴェ音楽の別の側面を見せている。

二枚目に収められた作品群からも、面白い響きが随所で聴ける。例えば、<フランス組曲>の第1曲冒頭で聴かれるドシャクシャ音。なるほど、師匠がエドガー・ヴァレーズだったというのが思いっきりうなずける。あるいは、<デルフォイ組曲>の第5曲もそうだ。ただ、ヴァレーズ師匠と違うのは、ジョリヴェの音楽は野放図な大音響までには発展せず、言うなれば、どこかスマートに荒っぽいという点である。<ラプソディ>では原始主義的なリズムが多用されているが、楽器の分離はすっきりと風通しよく、洗練された色彩を感じさせるものに仕上がっている。これがジョリヴェ・サウンドの基本、という感じがする。<デルフォイ組曲>の第6曲「ディオニュソスの快楽」は、どこか古代の日本を思わせるような楽想で、「あれっ?」と思われる方も出て来ようかと思う。いずれの曲も、幾分マニア志向の強いものかも知れないが、楽しいアルバムである。殆どの作品をジョリヴェ自身が指揮しているが、出来栄えはまず立派なものと言ってよいだろう。

参考までに、このEMIの二枚組に入っていないジョリヴェの傑作に、4楽章からなる<打楽器協奏曲>(1958年)というのもある。これは大野和士&ザグレブ・フィルの演奏でCD化されており、こちらでも優れた演奏が聴かれる。タイトルの通り、各種の打楽器が活躍するゴキゲンな作品だ。ドラム連中が暴れてくれる第1楽章でまず、つかみはオ~ケ~!w ピアノとヴィブラフォンが活躍する第2楽章のムードはまさに、ジャズ。ドラム、トランペット、クラリネットといった顔ぶれが賑やかに鳴り交わす最後の第4楽章も、舞曲風と言うよりはジャズっぽい感じ。但し、全体を通じて聴かれるソノリティはやはり、洗練された粋なバーバリズムの音楽なのだ。所謂“爆裂系”というのとは、一線を画している。

CDに付属の解説書によると、ジョリヴェにとって好ましい音楽材料というのは、師であったヴァレーズの激烈な音響、ジャズ及びその淵源としてのアフリカ音楽、ストラヴィンスキーの原始主義、ベートーヴェンの力強い音楽、さらには素朴な生命力が感じられるという理由で、ルネサンス期の巨匠達の音楽、等等、雑多を極めているとのこと。そういう混沌世界にこそ生命がある、というのがジョリヴェ哲学らしいのである。

まあ、この何ともラタトゥイユ(=ratatouille ごった煮)な味わいこそが、ジョリヴェ音楽の真骨頂ということになるのだろう。
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アンドレ・プレヴィン

2005年06月11日 | 演奏(家)を語る
周知の通り、アンドレ・プレヴィンは実に多芸多才な音楽家である。指揮者としてもピアニストとしても優秀で、さらに若い頃に携わっていた映画音楽畑での仕事やジャズ・ピアニストとしての活動、あるいはクラシック系作曲家としての仕事等も含めると、本当に幅広い分野にわたって大活躍してきた人である。N響との共演も好評だったので、日本のクラシック・ファンの多くにとって、かなり親しみのある存在であるとも言えるだろう。その業績のあまりの豊富さから、この人について手短に要領よく語るなどということは、どうも出来そうにない。

そこで今回のトピックでは、この人の名演奏・名録音をやたら列挙して語るのではなく、ある重要な側面に焦点を絞った話をしてみたいと思う。すなわち、私の目に映る限りでの、プレヴィンの最高の美質についてである。

才人プレヴィンの最高の美質とは何か。それは何を措いてもまず、「合わせ物の達人」としての側面にあると私は思う。指揮者としてもピアニストとしても、この人は他の誰かと合わせた時にこそ、余人には及びもつかない最高の腕前を見せてくれるのだ。オーケストラの合わせ物、つまり協奏曲録音の多い人としては、オーマンディやバーンスタインの名も挙げられるが、その巧さにかけて、このプレヴィンに肩を並べられる人はちょっといないんじゃないかと思えて仕方がないのである。敢えて有力候補を挙げるなら、今は亡きキリル・コンドラシンぐらいじゃないか、という感じなのだ。様々なご意見があろうかとは思うけれども、どうも私にはそんな風に感じられるのである。勿論この人の音楽性から、「ベートーヴェンやブラームス等の協奏曲はちょっと、どうかな」と思われる部分もなくはないが、アシュケナージやパールマン、あるいはチョン・キョンファたちと組んでの一連の協奏曲録音は(個々の独奏者への好き嫌いは分かれるかも知れないが)、いずれも名演奏の誉れ高いものばかりであった事は間違いない。

プレヴィンの卓越した名伴奏家ぶりを如実に示した最たる好例として、グリーグの<ピアノ協奏曲>をちょっと挙げてみたい。いずれも少し前の時代のものだが、若きラドゥ・ルプーと共演したデッカ盤、そして晩年のアルトゥール・ルビンシュタインと行なったRCAでの映像収録盤である。この二つに共通してプレヴィンが伴奏指揮を受け持っていたのだが、この両者を聴き比べれば、その大きな違いに誰もがびっくりする筈である。ピアノ演奏が全然違うというのは、簡単に想像がつくと思う。若き日のルプーは清冽なリリシズムをもってピアノの音をキラキラと輝かせ、巨匠ルビンシュタインはゆったりとした構えから、訥訥と語り出すような滋味豊かな音楽を聴かせている。

しかし、それぞれのピアニストの個性に合わせて、まるでカメレオンのように体の色を変えてみせるプレヴィンの芸こそ瞠目に値するものだと、私は感じるのである。先述のオーマンディは、誰と組んで何をやっても、鳴らす音は基本的にオーマンディ節だった。だが、プレヴィンは違う。ルプーのキラキラしたピアノには、涼しげなオーケストラ・サウンドとすっきりしたテンポをもって合わせ、巨匠ルビンシュタインの大らかなピアノには、ゆったりしたテンポで、暖かい響きをオケから引き出して合わせる。目隠しテストでこの二つの演奏を聴き並べて、どちらも同じ人が伴奏指揮をしていると言い当てられる人が、果たして何人いるだろうか?それぞれの独奏者の個性や美質を最大限活かせるように、自らの体の色を変えて添い合わせる、そのプレヴィンの芸の見事さに私はつくづく敬服してしまったのである。

前回語ったシャンカールの<シタール協奏曲>のような、言わば異色の作品にも自然と合わせていけたのは、やはりプレヴィンのこのような美質あってのことだったんじゃないかという気がするのである。勿論、「何にでもチャレンジしましょう、何でも録音しちゃいましょう」というロンドン響のような柔軟なオーケストラがいてくれたからこそ実現した、という側面もあるとは思うが・・。(※横道にそれるが、録音数の多さや取り扱うレパートリーの広さに於いて、ロンドン響ってのは、ひょっとして世界一なんじゃないだろうか。)

ピアニストとしてのプレヴィンにも、ひょっとしたら同じような事が言えるかも知れない。室内楽のピアノ・パートを受け持った時や他のピアニストと共演した時に、やはりこの人一流の合わせ芸が披露されるみたいな・・。ただ正直なところ、私は室内楽・器楽曲の分野は疎いので、自信を持ったセリフは何も言えない。一つ思いつく例として、ラローチャと共演したモーツァルトの<二台のピアノのための協奏曲K.365>及び<ソナタK.448>(RCA盤)あたりは、モーツァルト・ファンの間ではどう評価されているのだろう。ラローチャのピアノは美しいものの、かなり煌(きら)びやかで、モーツァルトにはちょっとキツイかなと私などには思えてしまうのだが、そこにプレヴィンはもったりとまろやかなピアノの音色で合わせる。この合わせの巧さについては、高い評価を贈っていいんじゃないかと思えるのだが・・。

絶妙な呼吸でラローチャに合わせているのは、<K.365>でも<K.448>でも同じである。しかし特に、<協奏曲K.365>の第3楽章で、プレヴィンの音色がまるでカメレオンのようにラローチャ・トーンと一体化して聴こえる時があるのだ。「え、今弾いているのは、どっち?」という感じになるのである。これはもう、合わせ芸の極致ではないだろうか。

あともう一つ、プレヴィンがピアノを受け持ってウィーンの管楽器奏者達と共演したモーツァルトの<ピアノと管楽器のための五重奏曲K.452>を、かつてFM放送で聴いたことがある。その時も見事な演奏だなあと感じ入ったのだが、如何なものだろうか。まあ、こんな一つ二つの例だけをもって結論めいたものをひねり出そうというのは、いささか無理があるかも知れないが、一つの見方としては成り立つんじゃないかと思えるのである。
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<シタール協奏曲>

2005年06月08日 | 作品を語る
前回、「タン・ドゥンの<マルコ・ポーロ>には、インドの民族楽器シタールも出てくる」といったような事を書いたので、今回のトピックは、そのシタールを主役にした協奏曲作品にしてみようと思う。インドの名シタール奏者にして作曲家でもあるラヴィ・シャンカールが、<シタールと管弦楽のための協奏曲>という非常に興味深い作品を書いている。<シタール協奏曲第1番>がプレヴィン&LSOと、そして<第2番>がメータ&LPOと、いずれもシャンカール自身のシタール独奏によってEMIに録音されている。<第1番>だけのCDもあるが、両方を収めた二枚組の廉価盤セットもある。<第1番>、<第2番>とも使われる打楽器群(=各種の太鼓類、マリンバ、鈴等)はかなり共通しているが、それぞれの曲想はかなり違うものになっている。

<第1番>は、全体の演奏時間が約40分ほどの曲である。第1楽章は14分20秒ほどだが、まず前半、シタールの独奏による「基調演説」みたいなソリスティックな部分が長く続いてから、オーケストラとの掛け合いに入る。そして、後半の残り約6分ぐらいのところから、音楽が勢いを得てくる。太鼓やムチ、ハープに各種管楽器と、音色もカラフル。オーケストラが充実した響きを聴かせて、力強く終わる。

第2楽章は、6分ほどの短いラメント風の音楽だ。オーケストラの低弦部が活躍するが、トライアングルや鈴の音も大変印象的である。残り2分40秒ぐらいのところから、シタールが活躍を始める。曲も加速して盛り上がり、アタッカで第3楽章へ進む。

第3楽章は、3分30秒ほど。各種の管楽器が入れ替わりに登場して、色彩感を演出する。この楽章もやはり後半からシタールが登場して、リズミカルなアレグロへ進む。

第4楽章は、約15分40秒ほど。第1楽章と同様に、まずシタールが基調演説。この楽章に入ると、かなりティンパニ等の太鼓群が激しく荒れてくれるので楽しい。やはり曲の真ん中あたり、残り7分ぐらいのところから、音楽が加速を始める。ラストにさしかかると、第1楽章の主題が回帰していよいよ終曲がきたことを実感させる。終わり方は、ハチャトリアンの<ヴァイオリン協奏曲>にちょっと似ていて、ダダダダーッ!と締める。終楽章のコーダでは、「シタールという楽器は、ここまで出来るんだぞ」みたいなヴィルトウォジティの誇示が行なわれているように感じられる。シャンカールがシタール奏者としての矜持を示した、といった感じの圧倒的な終曲である。また、全体を通して各楽章とも、「ゆったりした前半部」と「加速する後半部」で概ね構成されているという印象がある。

<第1番>は、やはり一作目ということで、いろいろな意味で作曲者の意気込みのようなものがよく出ていると思う。実際、後述する<第2番>よりも圧倒的に<第1番>の方がシタールに主導権があって、いかにもシタールが主役の協奏曲という感じに仕上がっている。それゆえ私は、<第2番>よりも、こちらの<第1番>の方が作品としてはずっと好きである。

<第2番>は総演奏時間が約52分という、かなり長大な作品。しかし、<第1番>以上に楽器編成などが賑やかになっている割に、音楽自体はむしろ渋い印象を与えるものになっている。マリンバの他にハープ、さらにタンバリン等、楽器の色彩感が豊かになった分、逆にシタール独奏は控えめになっているし、曲想も内省的な面が強くなっているように思える。またある意味では、<第1番>の時よりも西側に接近した音楽になっているという面もあるかも知れない。伴奏指揮がインド出身のズビン・メータなので、いかにも適役というイメージが持てるのだが、演奏自体は思いがけずおとなしいと言うか、かなり控えめな姿勢を通しているように感じられる。曲自体の性格から来るものかも知れないが・・。

<第2番>ではまず、第1楽章の始まりが面白い。まるでバーンスタインが書いた曲みたいな、アメリカっぽい音の風景なのである。その後シタールが出てくると、「ああ、インドだな」となるのだが、この導入部には、ちょっとびっくりさせられる。マンハッタンあたり(と言っても、私は行ったことないのだが)を歩いていて、ふと小さなアパートが目にとまってちょっと覗いてみたら、インド人が座って自国の音楽をやっていたみたいな感じで始まるのである。

第2楽章、第3楽章ともユニークで、単純な曲の姿が把握できないのが特徴と言えば言えるだろうか。例えば第3楽章など、静かなアダージョ楽章の雰囲気で始まるので、こちらもその態勢で瞑想ムードにでも入ろうかとくつろいでいると、突然チャッコッ、チャッコッとあのレブエルタスの音楽みたいなリズムが始まって舞曲っぽくなってきたりするので、こちらはズルッときてしまう。

最後の第4楽章の出だしも、変。ウィンド・マシーンを持ち込んでいるらしく、いきなりピュヒューッ、と風の音が出てくるので、びっくりさせられる。何故ここで風が吹かなきゃいけないのでしょうか?よくわかりません。それやこれやで、どうもこちらの<第2番>は、シタールをフィーチャーした一種の“交響的幻想曲”と捉えるのが案外当たっているのかも知れない。楽典がわかる人もここでは理屈を抜きにして、その流れと展開に身をまかせてしまうのが正解なんじゃないかと思う。

ところで、今回の記事の推敲をしながらちょっといくつかの関連サイトを、参考に見させていただいたのだが、そこで面白い事実を一つ教えられた。シタールの演奏にいつも添い合わせるインドの小太鼓は、タブラというらしい。普通、大小二つのセットになっているのだそうで、インド人の専門奏者が叩くと、20種類ぐらいの違った音色が出せるものだとか。ところが、この<シタール協奏曲>でしきりに鳴っている太鼓はタブラではなく、ボンゴという似て非なる別の楽器らしいのである。深く考え始めるときりがなくなってしまいそうだが、シタールにいつも添え合わせるタブラではなく、敢えて異質なボンゴを採用したシャンカールの意図は何だったのだろうか。インドと西洋の響きの融合を目指して、より西側的なボンゴを、一種のインターフェイスとして選んだということなのだろうか。このあたりはさすがに私には何とも言えないし、わからない部分である。

(PS)

前回まで二回に分けて語った「水音の系譜」だが、あれからまた一つ思い出したものがある。三善晃の音楽詩劇<オンディーヌ>である。ここで聴かれる水音は電子楽器による合成音なのだが、第2部の「船唄」の背景に聴かれる水音と、ポウルとベルタルダの二人が舟遊びしながら話す場面で聴かれる水音は、何だか本物っぽい。やはり電子楽器の音なのだろうが、実によく出来ている。この作品についてはしかし、また違った話の流れの中で、いつか改めて語ってみたいと思う。オンディーヌ(=ウンディーネ)の物語は、それ自体が独立した一つのシリーズになり得るからだ。
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タン・ドゥンの三作品~水音の系譜・2~

2005年06月05日 | 作品を語る
前回からの続きで、クラシック音楽作品に於ける「水音の系譜・2」と題して、今回は現代中国の作曲家タン・ドゥンについて、私がこれまでに聴いて知っている3つの作品を取り上げて語ってみたい。即ち、<ゴースト・オペラ>(1994年)、<マルコ・ポーロ>(1997年)、<TEA~茶経異聞>(2002年)である。いずれの作品も、作曲家の「水、ないしは水音」に対する強いこだわりが率直に表現されたものばかりだ。勿論、<新・マタイ受難曲>等もこの系譜に入れて語られるべきものだとは思うが、現段階では未聴のため見送らせていただかざるを得ない。その点は、ご海容賜りたいと思う。

<ゴースト・オペラ>がまず、いきなり水音のピチャンパチャンから始まる。何と言っても、「水の中で、バッハとお坊さん達とシェイクスピアが出会う」というシュールなコンセプトで始まる作品なのだ。私が聴いたCDは日本語解説のないものだったので、自信を持った内容解説は出来ないのだが、常にこの世に存在する水、石、金属、紙といった具体的な事物は未来を、使われる楽器としての弦楽四重奏とピパ(=中国琵琶)は現在を、そしてバッハ、僧侶たち、シェイクスピア、さらには古い時代の民謡といったものは過去を象徴するものとして位置付けられているようだ。作品の最初と最後が、具体的な水の音。そしてその狭間で、様々な音の要素が響き合い、交錯する。あるいは、“融けあう”とでも言うべきか。タン・ドゥンの音楽思想の基本みたいなものが、約36分ほどの演奏時間の中に集約されているようだ。紙をパタパタ、カサカサ鳴らす音も、両手に持った石をカチカチカチカチ鳴らす音も、堂々たる楽音として取り入れられている。

2002年10月に、東京サントリー・ホールで世界初演が行なわれた<TEA~茶経異聞>は、ある意味で、<ゴースト・オペラ>に集約的に盛り込まれていたタン・ドゥンの音楽理念をさらに拡大敷衍したものと言えるかも知れない。これは上演時間約1時間50分という大きな作品で、<ゴースト・オペラ>にはなかった本格的なドラマ・ストーリーを具えている。

第1幕: 水 火

最初の場面は、出家して僧となっている日本の元皇子・セイキョウが、弟子達と問答する京都の寺。照明効果によって透明な光彩を放つボウルの中にたっぷりと水が入っている。その水を担当の奏者が、手でピチャパチャ、ピチャパチャ鳴らしたり、逆さ向きにしたコップを使ってチャポン、カポン鳴らしたりする。あるいは、透明な水筒に入れた水をバシャバシャ揺すって鳴らす音も使われる。やがてセイキョウが、出家を決意するに至った10年前の出来事を回想し始めるところから、ドラマ本編が始まる。

唐の時代の中国。日本の皇子・セイキョウが唐の皇女・ランに求婚するためにやってくる。しかし、ランの弟である唐の皇子は、セイキョウを好ましく思っていない。セイキョウの優れた歌のセンスに皇帝が感心していると、巫女が登場して、「伝説の『茶経』を持っているというペルシャの皇子が、馬1000頭と交換して欲しいと来ていますが、どうしますか」と、皇帝に問いかける。

皇帝は興味を示すが、その息子である唐の皇子は、『茶経』なら自分がすでに手にいれて持っていると一冊の本を提示してみせる。しかしセイキョウは、「それは偽物だ。私は、『茶経』を書いた茶の神・陸羽に直接会ったことがあるから、わかる」と主張。結局、セイキョウと唐の皇子は、それぞれの命を賭けてどちらが正しいかを競うこととなる。第1幕の最後は、やはり水音。そして、次の第2幕の展開を予告するような紙のパサパサ音で締めくくられる。

第2幕: 紙

茶の神・陸羽に会うために、セイキョウは愛し合うランとともに旅に出る。第2幕では、ランの歌が圧倒的なシェアを占める。やがて二重唱に発展して、「茶を育てるは難しく、摘むはさらに難しく、味わうは何より難しい」という、この作品のテーマ面での重要モチーフが歌われる。

紙を手でちぎる音、オーケストラのメンバー達が一斉に手元の譜面をバサッ、バサバサッとめくる音、天井から吊るした掛け軸状の長い紙を太鼓のバチで叩く音、あるいは、舞台上の男たちが両手から下げた短冊状の紙をパサパサと揺する音、など様々な紙の音を縦横に駆使している。

第3幕: 陶器 石

「茶の神・陸羽はすでに、世を去りました」と、その娘の陸が、セイキョウとランに伝える。諍いを始める恋人同士の言葉のやりとりを聞いて、陸は父から預かった『茶経』を渡すべき人たちが来たと確信し、ランに本を手渡す。管弦楽が緊迫した音楽を展開する一方、舞台脇に並べられた大きさの異なる陶器を叩く音が連続する。これはちょっと、ガムランを思わせるような音響である。

ランの弟である唐の皇子が、そこへ姿を現す。ランを間に挟んで、セイキョウと唐の皇子の激しいやり取りが展開される。ついに始まってしまった二人の剣戟に巻き込まれて、ランは命を落としてしまう。ここでは両手に石を持った人たちがカチカチカチカチ・・・と石をぶつけ合う音を鳴らし続ける。やがて現われた父・皇帝の、嘆きの歌。思いがけない運命の暗転に愕然とし、出家を決意するセイキョウ。石を打つ音が続く。

舞台が暗くなると、ボウルの水にシャワーを注ぐ音が響く。そして場面は最初に戻って、京都の寺。僧セイキョウが佇む。コップを使った水の音が響く。セイキョウの独白。「茶を育てるは難しく、摘むはさらに難しく、味わうは何より難しい。・・・茶!茶!・・・魂を映す鏡」。やがて舞台が闇に包まれて、水音が響く中、静かに劇が終わる。

作曲順からすれば話が前後することになってしまったが、残った<マルコ・ポーロ>については、輸入廉価盤のCDを買った関係で対訳がない。また、妙に哲学的な短い解説も何を言っているのかよくわからない、というのが正直なところである。しかし、この作品に登場するキャラクターにやはり、「水」がいる。タン・ドゥン自身の指揮による全曲盤CDでは、スーザン・ボッティという女性歌手が担当。1997年の香港返還を記念して、中国政府の委嘱から作曲されたというこの<マルコ・ポーロ>ではむしろ、東西の様々な音の素材が“ごった煮”風に盛り込まれているという点が、何よりも印象的である。当作品についての話は、今回その部分に焦点を当ててみたいと思う。

開始部は思いっきり京劇風にパーンパ、パオーンパォン、パーンパ、パオーンパォンと始まるのだが、続くPiazzaでは、イタリア語によるオペラ・アリア風の歌〔トラック4〕や、ちょっとイギリス音楽に聴かれるようなハーモニーを持つ合唱、そしてグレゴリオ聖歌〔トラック8〕などが聴かれる。あるいは、後の<茶経異聞>でも確認出来る子音s音への作曲者のこだわりも、〔トラック13〕で聴かれる。Seaの最後の方では、エドガー・ヴァレーズ的な爆裂サウンド。CD1枚目の方だけでも、かなり雑多な音楽素材が活用されているのがわかる。

さらにCDの2枚目に入ると、登場する音の素材は一層絢爛たるものになる。Desertでは、インドのシタールが登場(※背後で鳴っているのはガムランのような音なのだが、ひょっとしたら上述の<茶経異聞>と同じく、大小の陶器が並べられているのかも知れない。)〔トラック3〕。続くHimalayaでは、チベット・ホルンというのだろうか、凄い低音の管楽器がブボーブボーと吹き鳴らされる〔トラック5&6〕。その終わりの方に来ると、何とモンゴルのホーミーまで出てくる〔トラック7&10〕。これがウィ~ミユ~と始まると、何だかもう異次元世界だ。<ゴースト・オペラ>でも活用されていたピパ(=中国琵琶)も登場する〔トラック9&19〕。さらに「時空の書:秋」に進むと、マーラーの<大地の歌>の第5楽章が引用されて登場。ただし、原曲と違ってここでは女声が中心に歌詞を歌う〔トラック14〕。歌手達の声楽パートにも、中国風の高音メリスマから、叫び声、うめき声、大笑いする声等、もう奇天烈(きてれつ)と言ってもいいぐらいの表現がいくつも要求される。何とも恐れ入ってしまう作品である。(※後の<茶経異聞>ではこの種の奇声は殆ど鳴りをひそめて、ぐっと聴きやすいものに変っているが。)

最後に一点、忘れずに付け加えておきたいのは、作曲家タン・ドゥンの名指揮者ぶりである。今回並べた3つの作品は、すべてタン・ドゥン自身が指揮しているのだが、<ゴースト・オペラ>のようなやり直しの効くスタジオ録音は当然ながら、<茶経異聞>のような大掛かりな作品のライヴでさえ、しっかりと統率してみせる。これは立派なものだと思う。作曲家としての才能と指揮者としてのそれは、周知の通り、別物である。作曲家が自作を振れば必ず名演になるとは限らない。しかしタン・ドゥンの場合は、自作自演がそのまま決定的名演になっている。これは大したものである。

ここで二回にわたってご紹介してきた例のほかにも、この「水音の系譜」に入ってくるような作品は、きっとまだ何かあろうかと思う。が、とりあえず今回は、このあたりということで・・。
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<雨の樹>~水音の系譜・1~

2005年06月01日 | 作品を語る
前回語ったレイフスの爆裂音楽<バルドゥル( Baldr )>から最後のrをアルファベットでしりとりして、今回は武満徹の<Rain Tree(=雨の樹)>。それに続いて、クラシック音楽作品に聴かれる水音の系譜みたいなものについて、少し話を進めてみたい。火山の噴火で熱い思いをした後は、お水でちょっと冷やしましょうという趣向である。

もう一昨年の話になるが、フルートを中心にして書かれた武満徹による室内楽作品集のCD、≪そして、それが風であることを知った≫(※ナクソスの廉価盤)が随分と売れたらしい。実は私も、その売り上げに貢献した一人だった。このCDには水をモチーフにして書かれた武満作品が揃って収録されていたのだが、私の場合は皮肉な事に、そこでの主役であったフルートが出てこない1曲である<雨の樹>が一番、気に入っていた。これはマリンバを中心とした3人の打楽器奏者のために書かれていて、雫(しずく)がしたたるような音の連続など、雨の音を抽象的に連想させてくれる曲だった。約12分半ぐらいの小品だが、特に前半6分間ぐらいが非常に良かった。何と言うのか、その「静けさに耳を澄ます」という感じがとても素敵だったのだ。私だけでなく、この曲をそういう感覚で楽しんでいるファンは結構多いのではないかなと思う。

この武満アルバムの中ではもう一つ、<ブライス>という曲も印象に残るものであった。と言うのはこれ、終わり間際に本物の水音(?)みたいなのが聴こえてきて、ハッとさせられるからである。20世紀以降のクラシック作品は、ミュージック・コンクレートであったり、各種のテープ音楽であったり、現実世界の生活音みたいなものを直に取り入れているものなどいくらでもあるわけだから、別段驚くようなことではない。とは言いつつも、このように思いがけないタイミングで出てくるとやはり、ちょっとびっくりさせられてしまう。そうすると、私などはふと思い出すのである。水の音を思いっきり具体的に使った日本人作品があったよなあと。

坪能克裕(つぼのう かつひろ)の<水の詩篇>である。もうそのまんま、「水の音を集めました」って作品だった。ピチャン、ピチャン、と水道の蛇口から垂れてくる水の音や、ジャボッ、ガボッ、と洗濯機でゆすぐ時の力強い水音、ゴゴーッ、と流し台か何かの排水口に水が引いていく時の音、そういったものを録音して集めた一種のテープ作品。私がFMでこれを聴いたのはもう、随分昔のことになる。当時、カセット・テープにエア・チェックして、結構面白がって繰り返し聴いたものである。坪能の作品は他にも、紙をモチーフにしたもの等いろいろあったはずだが、ネット通販サイトを眺めてみる限りでは、CD発売はされていない様子である。ちょっと寂しいが、まあ、CDを出してもこういうのは売れないかも知れない。

そういう訳で今回、武満徹の作品を基本ネタにして記事を書いてはみたのだが、正直に打ち明けると、私は決して武満作品のファンではなく、むしろ苦手に感じている方である。氏の作品は基本的に、音楽理論や楽典がわかる人、その専門家筋の人たちこそが理解できる種類のものなんじゃないかという気がする。<カトレーン>や、<鳥は星形の庭に下りる>あたりを聴いて、数字の4や5がそれぞれの曲の根底を成している要素だなんて言われても、それがわかるアマチュア・ファンなど現実に何人いるのだろう。例を挙げ始めたらきりがないが、この人の歌曲や映画音楽にも、私はあまり魅力を感じない。私ら“理論のわからん素人”はやはり、聴いて楽しいとか、感動するとか、そういった部分が価値基準になっていると思うし、それでいいんじゃないかと思う。「音楽理論的には、素晴らしい完成度を持つ作品なんだぞ」とか言われても、聴いて感じるものがなかったらやっぱりしょうがないのである。

数多くある武満作品の中で、私が割と好んでいる方だと言えそうなのは、琵琶と尺八が活躍する<ノヴェンバー・ステップス>と<エクリプス>の2曲ぐらいかも知れない。と言っても、それらの曲がよく理解できるからではなく、単に二つの和楽器が良い味を出しているから、という程度の理由である。あともう一つ付け加えるなら、<地平線のドーリア>ぐらい。それだって、ドーリア旋法がどういうもので、どういう点でこの作品は優れているとか、そんな事は何も分かってはいないのである。ただ、「あのトォーン・・と来る不思議な響きが好き」という程度のものなのだ。

(次回予告)

さて、現在活躍している作曲家たちの中で、上述の坪能氏が行なっていたような試みをさらに進めて、具体的な水の音(及び、その他の具体的な自然物の音)を楽音として作品に積極的に取り入れているのが、現代中国の作曲家タン・ドゥンである。と言っても、この人の作品で私が聴いたことのあるものは、僅か3作に過ぎない。即ち、<ゴースト・オペラ>、<マルコ・ポーロ>、そして<TEA~茶経異聞>である。いつか機会があったら、<新・マタイ受難曲>あたりも聴いてみたいとは思うのだが、現段階では上記の3作のみ。

―ということで次回は、「水音の系譜・2」として、3つのタン・ドゥン作品にちょっと触れてみたいと思う。
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