去る6月14日に、名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニが亡くなったらしい。享年91との由。今回は臨時追悼記事として、このイタリアの名指揮者について少し、思い出しがてら語ってみたい。
わざわざ「思い出しがてら」と付け足して言ったりするのは、何だか心理的な距離感みたいなものを感じさせる言い方かも知れないが、そんな言葉が出てきたのには訳がある。正直なところ、晩年のジュリーニの演奏に私はあまりシンパシーを感じることが出来ず、結果的に疎遠な感じになっていたのである。時折、FM放送で流れた巨匠晩年のライヴを聴くことはたまにあったものの、そのスロー・テンポの音楽にはいつも、「ついていけまっしぇん」というマイナスの印象だけを持つような有様だったのだ。
そう言えば、いつだったか、彼がウィーン・フィルと録音したブラームスの<交響曲第1番>(G)が、やはりFMで紹介されたことがあった。これがまた申し合わせたように遅いテンポで、その深い譜読みが微に入り細にわたって、重箱の隅々までほじりまくっている上に、それをまたとことんまで噛んで含めて、聴く物を折伏(しゃくぶく)しにかかるような演奏だったので、聴き終えた時にはすっかりくたびれてしまった記憶がある。やはり私にとって、ジュリーニ晩年の演奏は、「しんどくて、ついていけまっしぇん」だったのである。
しかし、こうしてその訃報に触れてみると、やはり一抹の寂しさみたいなものを感じる。この人の若い頃からの永い盤暦を辿ってみると、当然の事ながら数多くの名演奏が含まれてくるのだが、さて私はその中のどれほどを聴いたものかと振り返ると、とても「熱心なファンでした」などと自己申告出来るようなレベルではない事を痛感する。数多く遺された巨匠の名演奏のうち、私が聴いたのは雀の涙ほどと、正直に言っておくのが後難を避ける賢明な態度かも知れない。そんな事情から、今回は私が聴いてきた(あるいは、視聴してきた)ものの中からいくつかだけを選んで、感想や思い出を述べるにとどめたいと思う。
私が初めて聴いたジュリーニのレコードは、シカゴ響との<新世界より>(G)だった。オーケストラの鳴りっぷりに圧倒されてしまったのを、今でもよく覚えている。「この曲の民族色や抒情性といった部分はとりあえず捨てて、とことん純器楽的に構築した演奏」という観点から見たら、今でもこれは数ある同曲録音の中でも上位を争えるものではないかと思う。シカゴ響が後にショルティの指揮で<新世界より>を出したときに、ある評論家が、「これで、ジュリーニ盤も影の薄いものになった」などと書いているのをどこかの音楽雑誌で見た時は、随分心外な思いがしたものである。「ショルティなんかの無機質すっからぺー演奏と、一緒にするなよ」と思った。今こうして、ジュリーニが帰らぬ人になってみると、やはりこのシカゴ響との<新世界より>が、何よりも最初に懐かしく思い出されるのである。
ジュリーニが同じシカゴ響と録音したグラモフォン盤では、ムソルグスキー(ラヴェル編曲)の<展覧会の絵>も豪演だった。どこまでも厳しく引き締まった音でありながら、それでいて音楽のスケールがやけに大きいのだ。ジュリーニの指揮にあっては、「小人」も「巨人」になる。しかし何と言っても、「バーバ・ヤガーの小屋」から「キエフの門」に至る、あの終曲。初めて聴いた時は本当に驚いたものである。当時64歳ぐらいだったジュリーニの気迫と統率力も見事だったが、シカゴ交響楽団というオーケストラも凄い。個性的名演に事欠かない管弦楽版<展覧会の絵>の中でも、これほど豪壮に凝縮された演奏も珍しいと思う。
他にも、ステレオ初期に録音されたヴェルディの<レクイエム>(EMI)や、いくつかの協奏曲録音に於ける堂々たるサポートぶりなど、まだまだ触れておくべき名演はあるのだが、ここでオペラ分野に話を進めてみたい。ジュリーニは、あのドイツの名指揮者ルドルフ・ケンペと同様に、若い頃は歌劇場での仕事を中心に行なっていたが、やがてコンサート活動や録音の方に力のポイントを移していった人である。先頃ネット通販サイトを見て、1950年代を中心にしたジュリーニ若き日のオペラ・ライヴ盤が今どれぐらい出ているものかと調べてみたら、まあ、随分たくさん見つかってちょっとびっくりした。発掘音源が相当数、出ている。これには驚いた。
その当時のライヴ盤でおそらく最も名高いのは、国内盤も出ているヴェルディの<ラ・トラヴィアータ>だろうか。マリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、エットレ・バスティアニーニ(※「エットーレ」と後ろを伸ばすのは間違いなので、ご注意!)主演による1955年のスカラ座ライヴだ。カラスの声がひたすら嫌いな私も、このCDは“おさえ”として持っている。
さて、1970年代の最後から’80年代前半にかけて、どんな心境の変化があったのかはわからないが、ジュリーニはヴェルディのオペラをいくつか全曲録音した。<リゴレット>、<ファルスタッフ>、そして<トロヴァトーレ>といったあたりである。これらの作品はどれも有名な人気作なので、他にも優れた演奏の記録はたくさんあるが、ジュリーニの録音はどれを取っても一度は聴いておく価値のある、個性的な名演ばかりである。
ここに挙げた3つの中では、<ファルスタッフ>が演奏としては一番聴きやすいかも知れない。アメリカのロサンゼルス・フィルを起用しての録音なので、ミラノやウィーンの歌劇場オーケストラみたいな響きは期待できないが、彼らなりに健闘していると思った。ジュリーニの表現自体も、あとの2つに比べると随分付き合いやすいものに聴こえる。レナート・ブルゾンのタイトル役は、かつてのゴッビのような強烈な歌唱に比べると、何だか上品に聴こえるかも知れないが、これも名唱の一つと言ってよいのだろう。
一方、歌手陣が断然豪華なのは、<リゴレット>。これは、ウィーン・フィルとの録音だ。カプッチッリ、ドミンゴ、コトルバシュ、ギャウロフといった当時のベスト・メンバーが揃って、見事な歌の饗宴を聴かせる。録音のとり方も、歌手たちの声の方に重点が置かれているような印象がある。ただ、有名な「女心の歌」の伴奏などで特に強く感じるのだが、録音のとり方とは別に、ジュリーニの指揮はちょっと抑制が効き過ぎていると言うか、渋すぎるのではないかと思われる嫌いがなくもない。ジュリーニの<リゴレット>は同曲の代表的名演の一つではあるが、それは指揮者よりも歌手達の力による部分の方がずっと大きいだろうというのが、私の率直な感想である。
<トロヴァトーレ>は、指揮者ジュリーニのユニークな解釈が最も旗幟鮮明に打ち出されたものと言ってよいだろう。非常に遅いテンポ設定によって、この作品が持つドロドロとした情念みたいなものを鮮烈に描き出して見せた。オーケストラは、聖チェチーリア音楽院管弦楽団。ただし歌手陣には、はっきり言って出来不出来がある。(※ジュリーニの表現世界に沿わせながら、最もよく歌えていたのは、マンリーコ役のドミンゴ。逆にファスベンダーのアズチェーナは、歌に穴が開きそうなギリギリの歌唱だった。)ジュリーニの<トロヴァトーレ>に対する聴き手側の評価は、賛否が分かれると思う。例えば、かつてのフルトヴェングラーの<ドン・ジョヴァンニ>について、「この作品が内蔵する恐怖と戦慄を、大指揮者が深く抉り出した」という面を高く評価する人は絶賛した。しかし、「この作品はドラマ・ジョコーゾでもあり、様々な側面を持つものなのだから、恐怖という一側面だけをことさらに強調するのは疑問だ」と感じる人は首をかしげた。ジュリーニは、<トロヴァトーレ>という作品が持つ「復讐心や呪わしい運命に裏打ちされた、暗い情念の世界」という部分を拡大して示したのだが、そこを高く買うか、首をかしげてしまうか、やはり分かれるところだろうと思う。
最後に、巨匠の生前の雄姿を偲ぶ縁(よすが)となる映像記録のお話を付け加えて、今回の記事を締め括りたいと思う。ジュリーニの映像記録が全部でいくつ遺されているのかはわからないが、私がこれまでに視聴出来たのは、とりあえず3種。ミケランジェリとの<皇帝>、晩年のホロヴィッツとのモーツァルト、そして1981年にプロムスでライヴ収録されたロッシーニの<スターバト・マーテル>である。
私が観たこの3つの中では、ロッシーニ作品の映像が最も感銘深いものだった。ミケランジェリとの<皇帝>もなかなか良かったが、やはりロッシーニの壮大な声楽作品の方がジュリーニに合っている。実際、ここでのジュリーニは水を得た魚の如く、極めて熱っぽい演奏を聴かせてくれるのだ。細かいアンサンブルのことを言えば、この公演の後に同じ顔ぶれで録音されたグラモフォン盤の方が、全体にしっかりしている。しかし、ここにはライヴならではの感興と熱気がある。4人の独唱者について言うと、アルトのルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニと、バスのルッジェーロ・ライモンディが良い。特に、ヴァレンティーニ=テッラーニの声と歌唱は絶品である。ソプラノのカーティア・リッチャレッリも熱唱だが、安定感の点でやはりグラモフォン盤の方が上だろう。テノールのダルマシオ・ゴンザレスは明らかに、グラモフォン盤の方が良い。この日はやや不調だったように聴こえる。
しかし、何よりもこの映像、ジュリーニの指揮姿がアップになる時が一番楽しい。いろいろな発見があるのだ。映画スターのクリント・イーストウッドを思わせる風貌と、すらりとした長身。そして意外なのは、この巨匠のバトン捌きがかなり単調な事。両手の上下動と、しゃくりあげ動作がほとんどを占めている。それでも、リハーサルがしっかり出来ているのか、楽員たちにしっかりとニュアンスが伝わっている。また、随所で合唱団と一緒になって歌詞をなぞっているらしく、口がパクパク動いたりする。第8曲、第10曲のような力強い音楽の箇所では、両目をかっと見開いて見せたりする。こんな風に、ジュリーニが生のステージでどんなアクションを使う人なのか、それがつぶさに見て取れるのは何とも嬉しい。(※今回私は、この<スターバト・マーテル>の映像をあらためて視聴し、巨匠を追悼したのだった。)
ちなみに、このコンサート映像、画像は美しいカラーだが、音声の方は高品位ながらモノラルである。しかし、こうして“今は亡き人”になられてしまうと、これなどもつくづく貴重な記録になったなあと思う。勿論、私がまだ観ていないだけで、他にも良い物はたくさんあるのだろうけれど・・。
ジュリーニ先生、ありがとう。 どうぞ、安らかに・・。
わざわざ「思い出しがてら」と付け足して言ったりするのは、何だか心理的な距離感みたいなものを感じさせる言い方かも知れないが、そんな言葉が出てきたのには訳がある。正直なところ、晩年のジュリーニの演奏に私はあまりシンパシーを感じることが出来ず、結果的に疎遠な感じになっていたのである。時折、FM放送で流れた巨匠晩年のライヴを聴くことはたまにあったものの、そのスロー・テンポの音楽にはいつも、「ついていけまっしぇん」というマイナスの印象だけを持つような有様だったのだ。
そう言えば、いつだったか、彼がウィーン・フィルと録音したブラームスの<交響曲第1番>(G)が、やはりFMで紹介されたことがあった。これがまた申し合わせたように遅いテンポで、その深い譜読みが微に入り細にわたって、重箱の隅々までほじりまくっている上に、それをまたとことんまで噛んで含めて、聴く物を折伏(しゃくぶく)しにかかるような演奏だったので、聴き終えた時にはすっかりくたびれてしまった記憶がある。やはり私にとって、ジュリーニ晩年の演奏は、「しんどくて、ついていけまっしぇん」だったのである。
しかし、こうしてその訃報に触れてみると、やはり一抹の寂しさみたいなものを感じる。この人の若い頃からの永い盤暦を辿ってみると、当然の事ながら数多くの名演奏が含まれてくるのだが、さて私はその中のどれほどを聴いたものかと振り返ると、とても「熱心なファンでした」などと自己申告出来るようなレベルではない事を痛感する。数多く遺された巨匠の名演奏のうち、私が聴いたのは雀の涙ほどと、正直に言っておくのが後難を避ける賢明な態度かも知れない。そんな事情から、今回は私が聴いてきた(あるいは、視聴してきた)ものの中からいくつかだけを選んで、感想や思い出を述べるにとどめたいと思う。
私が初めて聴いたジュリーニのレコードは、シカゴ響との<新世界より>(G)だった。オーケストラの鳴りっぷりに圧倒されてしまったのを、今でもよく覚えている。「この曲の民族色や抒情性といった部分はとりあえず捨てて、とことん純器楽的に構築した演奏」という観点から見たら、今でもこれは数ある同曲録音の中でも上位を争えるものではないかと思う。シカゴ響が後にショルティの指揮で<新世界より>を出したときに、ある評論家が、「これで、ジュリーニ盤も影の薄いものになった」などと書いているのをどこかの音楽雑誌で見た時は、随分心外な思いがしたものである。「ショルティなんかの無機質すっからぺー演奏と、一緒にするなよ」と思った。今こうして、ジュリーニが帰らぬ人になってみると、やはりこのシカゴ響との<新世界より>が、何よりも最初に懐かしく思い出されるのである。
ジュリーニが同じシカゴ響と録音したグラモフォン盤では、ムソルグスキー(ラヴェル編曲)の<展覧会の絵>も豪演だった。どこまでも厳しく引き締まった音でありながら、それでいて音楽のスケールがやけに大きいのだ。ジュリーニの指揮にあっては、「小人」も「巨人」になる。しかし何と言っても、「バーバ・ヤガーの小屋」から「キエフの門」に至る、あの終曲。初めて聴いた時は本当に驚いたものである。当時64歳ぐらいだったジュリーニの気迫と統率力も見事だったが、シカゴ交響楽団というオーケストラも凄い。個性的名演に事欠かない管弦楽版<展覧会の絵>の中でも、これほど豪壮に凝縮された演奏も珍しいと思う。
他にも、ステレオ初期に録音されたヴェルディの<レクイエム>(EMI)や、いくつかの協奏曲録音に於ける堂々たるサポートぶりなど、まだまだ触れておくべき名演はあるのだが、ここでオペラ分野に話を進めてみたい。ジュリーニは、あのドイツの名指揮者ルドルフ・ケンペと同様に、若い頃は歌劇場での仕事を中心に行なっていたが、やがてコンサート活動や録音の方に力のポイントを移していった人である。先頃ネット通販サイトを見て、1950年代を中心にしたジュリーニ若き日のオペラ・ライヴ盤が今どれぐらい出ているものかと調べてみたら、まあ、随分たくさん見つかってちょっとびっくりした。発掘音源が相当数、出ている。これには驚いた。
その当時のライヴ盤でおそらく最も名高いのは、国内盤も出ているヴェルディの<ラ・トラヴィアータ>だろうか。マリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、エットレ・バスティアニーニ(※「エットーレ」と後ろを伸ばすのは間違いなので、ご注意!)主演による1955年のスカラ座ライヴだ。カラスの声がひたすら嫌いな私も、このCDは“おさえ”として持っている。
さて、1970年代の最後から’80年代前半にかけて、どんな心境の変化があったのかはわからないが、ジュリーニはヴェルディのオペラをいくつか全曲録音した。<リゴレット>、<ファルスタッフ>、そして<トロヴァトーレ>といったあたりである。これらの作品はどれも有名な人気作なので、他にも優れた演奏の記録はたくさんあるが、ジュリーニの録音はどれを取っても一度は聴いておく価値のある、個性的な名演ばかりである。
ここに挙げた3つの中では、<ファルスタッフ>が演奏としては一番聴きやすいかも知れない。アメリカのロサンゼルス・フィルを起用しての録音なので、ミラノやウィーンの歌劇場オーケストラみたいな響きは期待できないが、彼らなりに健闘していると思った。ジュリーニの表現自体も、あとの2つに比べると随分付き合いやすいものに聴こえる。レナート・ブルゾンのタイトル役は、かつてのゴッビのような強烈な歌唱に比べると、何だか上品に聴こえるかも知れないが、これも名唱の一つと言ってよいのだろう。
一方、歌手陣が断然豪華なのは、<リゴレット>。これは、ウィーン・フィルとの録音だ。カプッチッリ、ドミンゴ、コトルバシュ、ギャウロフといった当時のベスト・メンバーが揃って、見事な歌の饗宴を聴かせる。録音のとり方も、歌手たちの声の方に重点が置かれているような印象がある。ただ、有名な「女心の歌」の伴奏などで特に強く感じるのだが、録音のとり方とは別に、ジュリーニの指揮はちょっと抑制が効き過ぎていると言うか、渋すぎるのではないかと思われる嫌いがなくもない。ジュリーニの<リゴレット>は同曲の代表的名演の一つではあるが、それは指揮者よりも歌手達の力による部分の方がずっと大きいだろうというのが、私の率直な感想である。
<トロヴァトーレ>は、指揮者ジュリーニのユニークな解釈が最も旗幟鮮明に打ち出されたものと言ってよいだろう。非常に遅いテンポ設定によって、この作品が持つドロドロとした情念みたいなものを鮮烈に描き出して見せた。オーケストラは、聖チェチーリア音楽院管弦楽団。ただし歌手陣には、はっきり言って出来不出来がある。(※ジュリーニの表現世界に沿わせながら、最もよく歌えていたのは、マンリーコ役のドミンゴ。逆にファスベンダーのアズチェーナは、歌に穴が開きそうなギリギリの歌唱だった。)ジュリーニの<トロヴァトーレ>に対する聴き手側の評価は、賛否が分かれると思う。例えば、かつてのフルトヴェングラーの<ドン・ジョヴァンニ>について、「この作品が内蔵する恐怖と戦慄を、大指揮者が深く抉り出した」という面を高く評価する人は絶賛した。しかし、「この作品はドラマ・ジョコーゾでもあり、様々な側面を持つものなのだから、恐怖という一側面だけをことさらに強調するのは疑問だ」と感じる人は首をかしげた。ジュリーニは、<トロヴァトーレ>という作品が持つ「復讐心や呪わしい運命に裏打ちされた、暗い情念の世界」という部分を拡大して示したのだが、そこを高く買うか、首をかしげてしまうか、やはり分かれるところだろうと思う。
最後に、巨匠の生前の雄姿を偲ぶ縁(よすが)となる映像記録のお話を付け加えて、今回の記事を締め括りたいと思う。ジュリーニの映像記録が全部でいくつ遺されているのかはわからないが、私がこれまでに視聴出来たのは、とりあえず3種。ミケランジェリとの<皇帝>、晩年のホロヴィッツとのモーツァルト、そして1981年にプロムスでライヴ収録されたロッシーニの<スターバト・マーテル>である。
私が観たこの3つの中では、ロッシーニ作品の映像が最も感銘深いものだった。ミケランジェリとの<皇帝>もなかなか良かったが、やはりロッシーニの壮大な声楽作品の方がジュリーニに合っている。実際、ここでのジュリーニは水を得た魚の如く、極めて熱っぽい演奏を聴かせてくれるのだ。細かいアンサンブルのことを言えば、この公演の後に同じ顔ぶれで録音されたグラモフォン盤の方が、全体にしっかりしている。しかし、ここにはライヴならではの感興と熱気がある。4人の独唱者について言うと、アルトのルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニと、バスのルッジェーロ・ライモンディが良い。特に、ヴァレンティーニ=テッラーニの声と歌唱は絶品である。ソプラノのカーティア・リッチャレッリも熱唱だが、安定感の点でやはりグラモフォン盤の方が上だろう。テノールのダルマシオ・ゴンザレスは明らかに、グラモフォン盤の方が良い。この日はやや不調だったように聴こえる。
しかし、何よりもこの映像、ジュリーニの指揮姿がアップになる時が一番楽しい。いろいろな発見があるのだ。映画スターのクリント・イーストウッドを思わせる風貌と、すらりとした長身。そして意外なのは、この巨匠のバトン捌きがかなり単調な事。両手の上下動と、しゃくりあげ動作がほとんどを占めている。それでも、リハーサルがしっかり出来ているのか、楽員たちにしっかりとニュアンスが伝わっている。また、随所で合唱団と一緒になって歌詞をなぞっているらしく、口がパクパク動いたりする。第8曲、第10曲のような力強い音楽の箇所では、両目をかっと見開いて見せたりする。こんな風に、ジュリーニが生のステージでどんなアクションを使う人なのか、それがつぶさに見て取れるのは何とも嬉しい。(※今回私は、この<スターバト・マーテル>の映像をあらためて視聴し、巨匠を追悼したのだった。)
ちなみに、このコンサート映像、画像は美しいカラーだが、音声の方は高品位ながらモノラルである。しかし、こうして“今は亡き人”になられてしまうと、これなどもつくづく貴重な記録になったなあと思う。勿論、私がまだ観ていないだけで、他にも良い物はたくさんあるのだろうけれど・・。
ジュリーニ先生、ありがとう。 どうぞ、安らかに・・。