年末年始特番などと言いながら、もう2月の下旬。どこが年始だ?^^;)しかしようやく、それも終点。今回の特番を締めくくるのは、大指揮者ブルーノ・ワルターである。昨2006年というのは、このワルター先生の生誕130周年だったらしい。数ヶ月前に『レコード芸術』の特集記事を見て、「あら、今年って、そうだったの」という感じだった。たまたま昨年、私は彼が指揮した<大地の歌>のライヴCDを2枚ほど買ったので、これがちょうど良い題材になりそうである。
ワルターが録音に遺したマーラーの<大地の歌>は、有名なデッカとソニーの両スタジオ盤のほかに、ライヴの音源が何種類かある。全部でいくつあるのかまでは分からないが、ここからの記事はとりあえず、私が持っている7種類の音源を録音年代順に並べ、それぞれについての自由な感想文を書いていくという形にしてみたい。
1. (1936年5月24日・ライヴ) VPO、 クルマン、トルボルイ
1936年のライヴ録音ということで音質は推して知るべしだが、年代の割には良い音だと思う。第1楽章の冒頭から指揮者のうなり声らしきものが、フゥン、フゥンとしきりに聞こえる。かなり力が入っているようだ。楽章ごとに見ると、最後の第6楽章が他よりも良いように感じられる。出だしの暗い迫力など相当なものだし、タイム・カウンター〔13:08〕での低弦も不気味で良い。全体的にはまだ荒削りな印象が強く、後年聴かれる円熟味やスケール感といった要素には欠けるものの、さすがに“曲への理解が深い人”といった風格は十分に伝わってくる演奏である。
ここで歌っている2人の歌手については、どちらかと言えば女性歌手ケルステン・トルボルイの方が少しましなように思う。決して感銘深い歌唱を聴かせてくれているわけではないが、当時としては、これでまあまあ上出来だったのではないだろうか。一方、テノールのリチャード・クルマンという人はちょっとなあ、という感じだ。訛りのあるドイツ語には目をつぶるとしても、第1楽章でオーケストラとずれてしまう場面があったり、第3、第5楽章では声がひっくり返ったり、あるいは歌がヘロヘロになったりと、どうもよろしくない。
2. (1948年1月18日・ライヴ) NYP、 スヴァンホルム、フェリアー
これについては、ドキュメント・レーベルから出ているCDを昨年(2006年)購入した。ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた演奏会とのこと。ワルターが、夭折の名アルト歌手カスリーン・フェリアーと共演したライヴである。と言っても、御両人が揃った<大地の歌>はこれの前年、つまり1947年にエジンバラ音楽祭で既に実現していたらしいので、当ライヴが初顔合わせというわけでもなかったようだ。ちなみに、そのエジンバラ・ライヴでテノール独唱を務めていたのはピーター・ピアーズ。この時は、終楽章のコーダで感極まったフェリアーが声に詰まり、最後のewig(=永遠に)を一部歌えなくなるという出来事があったらしい。終演後、そのことを詫びるフェリアーに対して、「我々が皆あなたのような芸術家なら、誰でもあそこで涙にくれたでしょう」と、ワルターは逆に彼女を讃えたと伝えられている。
閑話休題。この1948年ライヴもCDの音質としてはまだまだのレベルだが、演奏について言えば、さすがに上記の’36年盤よりもワルターの指揮にスケール感が出てきている。また、力の入れぬき加減というか、音楽の呼吸みたいな物もかなり自然な感じになっている。指揮者の変化と成熟が、明らかに見てとれる演奏だ。
テノール独唱のセット・スヴァンホルムについては、彼が歴史的なワグネリアン・テナーの一人であったことをじゅうじゅう理解しつつも、当作品での歌唱を私はあまり高く買うことが出来ない。率直に言ってしまうと、この人の歌は聴き疲れがするのだ。「英雄的で、逞しい歌」というより、「がさつで、乱暴な歌」に聞こえてしまうのである。一方のフェリアーは、好感度が高い。次の3.以降の録音に比べると、まだそれほどの深みやスケール感は獲得していないが、豊かな声を活かした自然体の歌唱にはまた独特の良さがある。
CDとしての問題点は、特に第2楽章で聴き手を悩ませる大きなノイズ。録音マイクのすぐ脇で揚げ物でも始めたのか、ハンバーグでも焼き始めたのか、ヂリヂャワ、ヂリヂャワ、ヂリヂャワと盛大な“油料理サウンド”が発生するのだ。第2楽章は普通、静かで寂しいムードが聴く者の内省を促すのだが、当CDでは調理場の熱気が伝わってくるようだ。w このノイズは第3楽章で少し小さくなるものの、まだしばらく持続する。そして第4楽章に入るとようやく料理も終わって(?)、静かに音楽に浸れるようになる。
演奏も、この第4楽章が出色の出来栄え。フェリアーの歌も悪くないし、何よりワルターの指揮が感興豊かだ。馬に乗った若者たちが登場する中間部では、ちょっと他の録音では聞けないような強烈なシンバルの炸裂がある。さらに、そこから始まる生き生きとした歌は、歌手も指揮者もノリノリでやっているのがよく分かる。モノラル音声というハンディはあるものの、これが大変な力演であることはしっかりと伝わってくる。
3. (1952年5月15、16日) VPO パツァーク、フェリアー
思いっきり有名な、デッカのスタジオ録音。年代からして当然モノラルだが、音質はさすがに優秀である。1952年でこの音ならもう、最高と言ってもいいだろう。演奏についても、“<大地の歌>の不滅の名盤”としてすっかり評価が定まっている。これについてはLPレコードの時代から本当に数多くの文章が書かれてきたが、ほめている内容の物がほとんどだったと思う。批判的な文章を見つけ出す方がむしろ、大変な気がする。とりあえず当ブログでは、それらの中から特に強く私の印象に残っている文例を2つほど並べてみることにしたい。
{ パツァークのテノールは声のなさがかえってプラスとなっていて、ちょっと聴くと楽天的なようであるが、実ははなはだしくニヒルであり、人間のはかなさと弱さを極限まで表現しつくす。・・・少なくとも「大地の歌」に関するかぎり、これ以上の名唱は考えられない。 }
これは、宇野功芳氏が『名指揮者ワルターの名盤駄盤』(講談社)の中でお書きになっていた文章だ。実を言うと、昔このデッカ盤を初めてLPで聴いた時の第一印象は、「何だ、このテノールは?へったくそーっ」だった。ご多分にもれず(?)、私も<大地の歌>については、ワルターのソニー・ステレオ盤から入ったクチである。そこで聴き慣れていたE・ヘフリガーの端正な歌唱が、同曲テノール・ソロの基本的イメージとして刷り込まれていたのだ。だから、パツァークの変な声と歌い方はとにかくショッキングだったのである。何故こんな物が絶賛されるのか、まるで理解できなかった。そこに大きな手がかりを与えてくれたのが、上記の宇野評論だった。「なるほどねえ。声のなさがかえってプラス・・、そういう捉え方もあるんだなあ」と、当時の私にとっては思いもかけなかったような、全く新しい見方が得られたのである。
{ フェリアーのドイツ語は明らかに冠詞を言い間違えたりしていて、かなり気になる。ドイツ語が分かる人には、耳障りだったのではないかしら。 }
元の本がないために必ずしも正確な表記にはなっていないが、これは吉田秀和氏が『レコード芸術』(だったと思う)に昔お書きになった文章の一部である。ドイツ語のミスを聞き取るとは、さすがに吉田センセーだなあと感服した。後の詳しい部分は残念ながら忘れてしまったが、当ワルター盤に対して珍しく批判的な言辞を並べておられたのが非常に新鮮だった。ところが!その何ヶ月か後、「いや、先だっては恥ずかしいことを書いた。・・・これは天下の大名盤なのである」などと、氏は自ら前言を撤回してお詫び訂正するような文章を書いていたのである。何だよ、引っ込めるなよー。せっかく鋭い指摘に基づいたネガティヴな意見が読めたと、こっちは喜んでいたのに。「ワルターのデッカ録音は世評が高いようだが、私には疑問である。まずフェリアーのドイツ語に違和感を持つ」という感じで、しっかりと言い通してほしかった。それだって、立派な見識ではないか。
最後になったが、私が今このデッカ盤について思うところをごく手短に書いておきたい。当スタジオ録音でワルター先生が目指したのは、「後々の時代にまで長く聴き継がれていく、永遠のスタンダードたる名演」だったのではないかと思う。であればこそ、細部まで神経の行き届いた極めて完成度の高い演奏になったわけだし、古典的な造型感の中にキッチリと全曲がまとめられた名演に仕上がったのであろう。逆に言えば、この名盤には、思い切った大胆な表現みたいな物はほとんど見当たらない。こういうタイプの名演に、“踏み外したスリル”を求める方がそもそもお門違いなのだろうが、ふと、「そういう要素も、ちょっと欲しいかな」などという贅沢な不満を感じてしまったりもするのである。
ワルターが録音に遺したマーラーの<大地の歌>は、有名なデッカとソニーの両スタジオ盤のほかに、ライヴの音源が何種類かある。全部でいくつあるのかまでは分からないが、ここからの記事はとりあえず、私が持っている7種類の音源を録音年代順に並べ、それぞれについての自由な感想文を書いていくという形にしてみたい。
1. (1936年5月24日・ライヴ) VPO、 クルマン、トルボルイ
1936年のライヴ録音ということで音質は推して知るべしだが、年代の割には良い音だと思う。第1楽章の冒頭から指揮者のうなり声らしきものが、フゥン、フゥンとしきりに聞こえる。かなり力が入っているようだ。楽章ごとに見ると、最後の第6楽章が他よりも良いように感じられる。出だしの暗い迫力など相当なものだし、タイム・カウンター〔13:08〕での低弦も不気味で良い。全体的にはまだ荒削りな印象が強く、後年聴かれる円熟味やスケール感といった要素には欠けるものの、さすがに“曲への理解が深い人”といった風格は十分に伝わってくる演奏である。
ここで歌っている2人の歌手については、どちらかと言えば女性歌手ケルステン・トルボルイの方が少しましなように思う。決して感銘深い歌唱を聴かせてくれているわけではないが、当時としては、これでまあまあ上出来だったのではないだろうか。一方、テノールのリチャード・クルマンという人はちょっとなあ、という感じだ。訛りのあるドイツ語には目をつぶるとしても、第1楽章でオーケストラとずれてしまう場面があったり、第3、第5楽章では声がひっくり返ったり、あるいは歌がヘロヘロになったりと、どうもよろしくない。
2. (1948年1月18日・ライヴ) NYP、 スヴァンホルム、フェリアー
これについては、ドキュメント・レーベルから出ているCDを昨年(2006年)購入した。ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた演奏会とのこと。ワルターが、夭折の名アルト歌手カスリーン・フェリアーと共演したライヴである。と言っても、御両人が揃った<大地の歌>はこれの前年、つまり1947年にエジンバラ音楽祭で既に実現していたらしいので、当ライヴが初顔合わせというわけでもなかったようだ。ちなみに、そのエジンバラ・ライヴでテノール独唱を務めていたのはピーター・ピアーズ。この時は、終楽章のコーダで感極まったフェリアーが声に詰まり、最後のewig(=永遠に)を一部歌えなくなるという出来事があったらしい。終演後、そのことを詫びるフェリアーに対して、「我々が皆あなたのような芸術家なら、誰でもあそこで涙にくれたでしょう」と、ワルターは逆に彼女を讃えたと伝えられている。
閑話休題。この1948年ライヴもCDの音質としてはまだまだのレベルだが、演奏について言えば、さすがに上記の’36年盤よりもワルターの指揮にスケール感が出てきている。また、力の入れぬき加減というか、音楽の呼吸みたいな物もかなり自然な感じになっている。指揮者の変化と成熟が、明らかに見てとれる演奏だ。
テノール独唱のセット・スヴァンホルムについては、彼が歴史的なワグネリアン・テナーの一人であったことをじゅうじゅう理解しつつも、当作品での歌唱を私はあまり高く買うことが出来ない。率直に言ってしまうと、この人の歌は聴き疲れがするのだ。「英雄的で、逞しい歌」というより、「がさつで、乱暴な歌」に聞こえてしまうのである。一方のフェリアーは、好感度が高い。次の3.以降の録音に比べると、まだそれほどの深みやスケール感は獲得していないが、豊かな声を活かした自然体の歌唱にはまた独特の良さがある。
CDとしての問題点は、特に第2楽章で聴き手を悩ませる大きなノイズ。録音マイクのすぐ脇で揚げ物でも始めたのか、ハンバーグでも焼き始めたのか、ヂリヂャワ、ヂリヂャワ、ヂリヂャワと盛大な“油料理サウンド”が発生するのだ。第2楽章は普通、静かで寂しいムードが聴く者の内省を促すのだが、当CDでは調理場の熱気が伝わってくるようだ。w このノイズは第3楽章で少し小さくなるものの、まだしばらく持続する。そして第4楽章に入るとようやく料理も終わって(?)、静かに音楽に浸れるようになる。
演奏も、この第4楽章が出色の出来栄え。フェリアーの歌も悪くないし、何よりワルターの指揮が感興豊かだ。馬に乗った若者たちが登場する中間部では、ちょっと他の録音では聞けないような強烈なシンバルの炸裂がある。さらに、そこから始まる生き生きとした歌は、歌手も指揮者もノリノリでやっているのがよく分かる。モノラル音声というハンディはあるものの、これが大変な力演であることはしっかりと伝わってくる。
3. (1952年5月15、16日) VPO パツァーク、フェリアー
思いっきり有名な、デッカのスタジオ録音。年代からして当然モノラルだが、音質はさすがに優秀である。1952年でこの音ならもう、最高と言ってもいいだろう。演奏についても、“<大地の歌>の不滅の名盤”としてすっかり評価が定まっている。これについてはLPレコードの時代から本当に数多くの文章が書かれてきたが、ほめている内容の物がほとんどだったと思う。批判的な文章を見つけ出す方がむしろ、大変な気がする。とりあえず当ブログでは、それらの中から特に強く私の印象に残っている文例を2つほど並べてみることにしたい。
{ パツァークのテノールは声のなさがかえってプラスとなっていて、ちょっと聴くと楽天的なようであるが、実ははなはだしくニヒルであり、人間のはかなさと弱さを極限まで表現しつくす。・・・少なくとも「大地の歌」に関するかぎり、これ以上の名唱は考えられない。 }
これは、宇野功芳氏が『名指揮者ワルターの名盤駄盤』(講談社)の中でお書きになっていた文章だ。実を言うと、昔このデッカ盤を初めてLPで聴いた時の第一印象は、「何だ、このテノールは?へったくそーっ」だった。ご多分にもれず(?)、私も<大地の歌>については、ワルターのソニー・ステレオ盤から入ったクチである。そこで聴き慣れていたE・ヘフリガーの端正な歌唱が、同曲テノール・ソロの基本的イメージとして刷り込まれていたのだ。だから、パツァークの変な声と歌い方はとにかくショッキングだったのである。何故こんな物が絶賛されるのか、まるで理解できなかった。そこに大きな手がかりを与えてくれたのが、上記の宇野評論だった。「なるほどねえ。声のなさがかえってプラス・・、そういう捉え方もあるんだなあ」と、当時の私にとっては思いもかけなかったような、全く新しい見方が得られたのである。
{ フェリアーのドイツ語は明らかに冠詞を言い間違えたりしていて、かなり気になる。ドイツ語が分かる人には、耳障りだったのではないかしら。 }
元の本がないために必ずしも正確な表記にはなっていないが、これは吉田秀和氏が『レコード芸術』(だったと思う)に昔お書きになった文章の一部である。ドイツ語のミスを聞き取るとは、さすがに吉田センセーだなあと感服した。後の詳しい部分は残念ながら忘れてしまったが、当ワルター盤に対して珍しく批判的な言辞を並べておられたのが非常に新鮮だった。ところが!その何ヶ月か後、「いや、先だっては恥ずかしいことを書いた。・・・これは天下の大名盤なのである」などと、氏は自ら前言を撤回してお詫び訂正するような文章を書いていたのである。何だよ、引っ込めるなよー。せっかく鋭い指摘に基づいたネガティヴな意見が読めたと、こっちは喜んでいたのに。「ワルターのデッカ録音は世評が高いようだが、私には疑問である。まずフェリアーのドイツ語に違和感を持つ」という感じで、しっかりと言い通してほしかった。それだって、立派な見識ではないか。
最後になったが、私が今このデッカ盤について思うところをごく手短に書いておきたい。当スタジオ録音でワルター先生が目指したのは、「後々の時代にまで長く聴き継がれていく、永遠のスタンダードたる名演」だったのではないかと思う。であればこそ、細部まで神経の行き届いた極めて完成度の高い演奏になったわけだし、古典的な造型感の中にキッチリと全曲がまとめられた名演に仕上がったのであろう。逆に言えば、この名盤には、思い切った大胆な表現みたいな物はほとんど見当たらない。こういうタイプの名演に、“踏み外したスリル”を求める方がそもそもお門違いなのだろうが、ふと、「そういう要素も、ちょっと欲しいかな」などという贅沢な不満を感じてしまったりもするのである。
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