ブルーノ・ワルターが録音に遺した<大地の歌>を巡るお話、その第2回。番号は前回からの通しで、4番からとなる。
4. (1952年5月17日・ライヴ) VPO パツァーク、フェリアー
この音源については、TAHRAというレーベルから出ているCDを何年か前に買った。これは前回語ったデッカのスタジオ録音が終了した直後、そのすぐ翌日に行なわれた演奏会のライヴである。(※5月18日のライヴだと主張する説も一部にあるらしいのだが、ここではCDジャケットの表記に従う。)当然ながら、基本的な解釈や表現にデッカ盤との大きな差異はない。にもかかわらず、両者から得られる印象は随分と違ったものになっている。以下、楽章ごとに順を追いながら、当ライヴ盤の特徴を見ていきたい。
第1楽章を聴き始めると、演奏の雰囲気がやはりデッカ盤によく似ていることをまず感じる。ただし、音質は明らかにスタジオ録音よりも劣るので、う~ん、と首をかしげる。録音のバランスにも偏りがある。このライヴでは、歌手たちの声がオン・マイクで大きくとられている反面、オーケストラはやや引っ込み気味になっているのだ。そうすると、これはスタジオ盤にはやはり敵わない音源かなと、ふと思う。オーケストラのアンサンブルも、粗いようだ。しかし、曲が進むに連れてだんだんとエンジンが暖まり、ライヴ演奏ならではのノリみたいなものがはっきりと出て来る。
第2楽章。フェリアーさんのご登場である。相変わらず見事だ。私の感想としては、ここでの演奏はデッカ盤と“どっこい、どっこい”のいい勝負。甲乙つけ難い。敢えて違いを言えば、より良く練り上げられたスタジオ録音に対し、このライヴでは粗めながらもメリハリの効いた演奏が行なわれている、という感じになるだろうか。
第3楽章では、デッカ盤を凌ぐいかにも実演らしいパツァークの力唱が聴かれる。録音が歌手の声にオン・マイクでとられているので、そのような印象が一層強まるようだ。オーケストラについては、上記の第2楽章とほぼ同じことが言える。響きは粗めだが、表現にメリハリがあって、ライヴらしい感興に満ちている。
第4楽章は、テンポの速さがまず特徴的。馬に乗った若者たちが出て来る中間部の激しい盛り上がりは、こちらのライヴの方がデッカ盤よりも上だろう。荒っぽいアンサンブルも、ここでは場を得ているし、それに続く活発な歌も、スタジオ盤でのどこか落ち着いちゃったような演奏よりずっと熱気がある。他の楽章でも感じられるのだが、当ライヴ録音の魅力の一つは、デッカ盤にはない思い切った表情付けが随所に見られることだろう。
第5楽章でのパツァークもやはり、このライヴのほうが力強くて好感が持てる。デッカ盤での歌唱は、(特に、その後半部分で)何だかくたーっと力が抜けちゃったような感じだった。ここでは、聴衆を前にしての緊張感からか声の支えがしっかりしており、歌詞もしっかりと歌いこまれている。
最後の第6楽章。これは大変な名演である。と言っても、出だしから前半部分については、例によってオーケストラが少し引っ込んだ録音なので、オン・マイクで記録されたフェリアーの生々しい歌声を中心に味わうことになる。しかし、中間部のオーケストラ間奏曲に入ると、いよいよただごとでない音楽世界が現出する。〔14:14〕や〔19:00〕で聴かれる低弦の凄みなど、完全にデッカ盤以上だ。〔18:02〕では、ワルターのうなり声。1936年の演奏も、特に第1楽章で彼のうなりがしきりに聞かれたが、指揮者の意欲ばかりが先走っていた太古ライヴと違って、ここではオーケストラが見事に応えている。時折耳にする金管楽器の音程外れなど、取るに足らない小さな問題である。聴く側もこのあたりから、おおっ、と身を乗り出す状況になる。そこからさらに凄いのは、間奏曲に続いて始まるフェリアーの歌唱だ。ここでの彼女の歌には、まさに“絶唱”という言葉こそが相応しい。深みのある声と豊かな表現力、そして雄大と言ってもいいほどのスケール感。そこにライヴならではの緊張感も加わってくるから、聴く者はただひたすら圧倒されるばかりである。少なくとも、今回採りあげているワルターの7種の録音の中で、終楽章に関してこれ以上の名唱を他に見つけ出すことは全く不可能であると言ってよい。
5. (1953年2月22日・ライヴ) NYP スヴァンホルム、ニコライディ
上記4.のすぐ翌年に記録されたワルターの<大地の歌>ライヴ。当時フェリアーはまだ存命だったが、あと半年後に癌で世を去ることになる不世出のアルト歌手はもはや、ステージに立って<大地の歌>をやれるようなコンディションではなかったろう。ここで歌っているエレナ・ニコライディという歌手にはちょっと馴染みがないが、かなり健闘している。この人にはフェリアーのような豊かな声量や表現力はないものの、名指揮者ワルターとの共演ということで発奮したのか、本当に精一杯の力演を聴かせている。時折声がヴィブラート気味に震えるのが気にならなくもないが、歌唱のひたむきさは買いたい。
テノールは、セット・スヴァンホルム。また出た。よほどワルター先生のお気に入りだったのかな。しかし、私はやはり、この人には耐えられない。傍若無人な大声と、がさつで乱暴な歌い方。第1、第3楽章は何とかこらえて聴き通すも、第5楽章に入るとついに、こちらの我慢も限界を超える。「がなるのも、いいかげんにしてくれ!もう頭がいてえよ」である。ワグナーの上演なら、これで良かったのだろうが・・。
一方、ワルターの指揮ぶりは、ここでもさすがである。いや、さすがどころか、今回採りあげる7種の中でも、オーケストラ・パートの充実ぶりに関してはトップ・クラスの出来栄えと言ってもよいぐらいだ。指揮者に気迫がみなぎっているのがよく伝わってくる力演である。全体に速めのテンポ設定がなされているのも、そのような印象を強める一因になっているようだ。音質も、この年代のライヴ録音としてはかなり良い。ふとステレオ録音じゃないかと錯覚するような、広がり感みたいなものさえある。この音源は現在Archipelという廉価レーベルから非常に安く出ているので、お値段的にも求めやすい。
(PS) カスリーン・フェリアーの人柄と、歌曲アルバム
ここで、おまけの話を一つ。デッカの名プロデューサーだったジョン・カルショー氏の著作『レコードはまっすぐに』(学習研究社)の154ページに、名歌手フェリアーの人柄を偲ばせるエピソードが一つ紹介されている。それを短く編集して書き出してみると、大体次のような感じになる。
{ サヴォイ・ホテルで行なわれた晩餐会には各界の名士が招待されたが、フェリアーもそこに名を連ねていた。・・・パーティの終了後、賓客たちは皆ハイヤー、タクシー、あるいはロールスロイスのような高級車に乗って、めいめい帰途についた。フェリアーが私のところへやってきて、こんなことを言った。「ねえ、2シリング6ペンスだけ貸してくれない?これから地下鉄で帰りたいんだけど、お金を持たずに出てきちゃったのよー」。彼女はそういう人だった。 }
カルショー氏はさらに、「フェリアーの音楽的才能は、一番無作為に近いものだった」と同書に書いている。彼女が示した作為性のない歌唱は相当数の歌曲録音に遺されているが、私はまだ、そのうち僅か2枚のCDしか聴けていない。その極めて狭い範囲から、まずシューマンの歌曲集《女の愛と生涯》を代表的な名唱として挙げておきたい。深みのあるアルトの声と驚くばかりに幅広い表現力を駆使して、彼女はこの曲の多様な内容を見事に歌いつくしている。而してなお、そこには頭で考えたようなわざとらしさがなく、歌が限りなく自然体なのである。同じCDに収められた他の歌曲の中では、シューベルトの<ミューズの子>が特に良かった。そこでは太い声の名歌手が思いがけず軽やかに歌っていて、何とも言えず楽しかった。
もう1枚のCDに収められた曲の中では、ブラームスの《4つの厳粛な歌》がユニーク。これはマルコム・サージェントが編曲したオーケストラ伴奏版で、なお且つ歌詞が英語で歌われているという珍品である。基本的にはドイツ語の歌詞をピアノの伴奏で歌ってほしいと思う作品だが、フェリアーの深い声と真摯な歌唱には独特の魅力が感じられる。
(※ところで、《4つの厳粛な歌》という重々しい歌曲集は、男女を問わず、低くて暗い声を持つ歌手にやはり似合っているような感じがする。例えば同じバリトンでも、F=ディースカウやテオ・アダムのような明るめの声より、ハンス・ホッターみたいな深いバス・バリトンの声。ちなみに、ホッターさんは名手ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で、この歌曲集を1951年にスタジオ録音している。当然モノラルだが、このホッター盤【EMI】を聴いていると、「やっぱり、この曲はこういう声で聴くのが一番ぴったり来るなあ」と思う。これは全体にわたって優れた歌唱が堪能出来る名盤だが、特に第3曲「おお、死よ」は圧巻だ。声の迫力もさることながら、そこに漂う空気には崇高ささえ感じられるのである。同じCDに併録されたバッハの<カンタータ BWV82>やブラームスの単独歌曲集ともども、これはリート歌手としてのホッターさんが遺してくれた最良の遺産の一つであろう。)
―次回もう一度だけ、ワルターのマーラー<大地の歌>。残った2種類についてのお話。
4. (1952年5月17日・ライヴ) VPO パツァーク、フェリアー
この音源については、TAHRAというレーベルから出ているCDを何年か前に買った。これは前回語ったデッカのスタジオ録音が終了した直後、そのすぐ翌日に行なわれた演奏会のライヴである。(※5月18日のライヴだと主張する説も一部にあるらしいのだが、ここではCDジャケットの表記に従う。)当然ながら、基本的な解釈や表現にデッカ盤との大きな差異はない。にもかかわらず、両者から得られる印象は随分と違ったものになっている。以下、楽章ごとに順を追いながら、当ライヴ盤の特徴を見ていきたい。
第1楽章を聴き始めると、演奏の雰囲気がやはりデッカ盤によく似ていることをまず感じる。ただし、音質は明らかにスタジオ録音よりも劣るので、う~ん、と首をかしげる。録音のバランスにも偏りがある。このライヴでは、歌手たちの声がオン・マイクで大きくとられている反面、オーケストラはやや引っ込み気味になっているのだ。そうすると、これはスタジオ盤にはやはり敵わない音源かなと、ふと思う。オーケストラのアンサンブルも、粗いようだ。しかし、曲が進むに連れてだんだんとエンジンが暖まり、ライヴ演奏ならではのノリみたいなものがはっきりと出て来る。
第2楽章。フェリアーさんのご登場である。相変わらず見事だ。私の感想としては、ここでの演奏はデッカ盤と“どっこい、どっこい”のいい勝負。甲乙つけ難い。敢えて違いを言えば、より良く練り上げられたスタジオ録音に対し、このライヴでは粗めながらもメリハリの効いた演奏が行なわれている、という感じになるだろうか。
第3楽章では、デッカ盤を凌ぐいかにも実演らしいパツァークの力唱が聴かれる。録音が歌手の声にオン・マイクでとられているので、そのような印象が一層強まるようだ。オーケストラについては、上記の第2楽章とほぼ同じことが言える。響きは粗めだが、表現にメリハリがあって、ライヴらしい感興に満ちている。
第4楽章は、テンポの速さがまず特徴的。馬に乗った若者たちが出て来る中間部の激しい盛り上がりは、こちらのライヴの方がデッカ盤よりも上だろう。荒っぽいアンサンブルも、ここでは場を得ているし、それに続く活発な歌も、スタジオ盤でのどこか落ち着いちゃったような演奏よりずっと熱気がある。他の楽章でも感じられるのだが、当ライヴ録音の魅力の一つは、デッカ盤にはない思い切った表情付けが随所に見られることだろう。
第5楽章でのパツァークもやはり、このライヴのほうが力強くて好感が持てる。デッカ盤での歌唱は、(特に、その後半部分で)何だかくたーっと力が抜けちゃったような感じだった。ここでは、聴衆を前にしての緊張感からか声の支えがしっかりしており、歌詞もしっかりと歌いこまれている。
最後の第6楽章。これは大変な名演である。と言っても、出だしから前半部分については、例によってオーケストラが少し引っ込んだ録音なので、オン・マイクで記録されたフェリアーの生々しい歌声を中心に味わうことになる。しかし、中間部のオーケストラ間奏曲に入ると、いよいよただごとでない音楽世界が現出する。〔14:14〕や〔19:00〕で聴かれる低弦の凄みなど、完全にデッカ盤以上だ。〔18:02〕では、ワルターのうなり声。1936年の演奏も、特に第1楽章で彼のうなりがしきりに聞かれたが、指揮者の意欲ばかりが先走っていた太古ライヴと違って、ここではオーケストラが見事に応えている。時折耳にする金管楽器の音程外れなど、取るに足らない小さな問題である。聴く側もこのあたりから、おおっ、と身を乗り出す状況になる。そこからさらに凄いのは、間奏曲に続いて始まるフェリアーの歌唱だ。ここでの彼女の歌には、まさに“絶唱”という言葉こそが相応しい。深みのある声と豊かな表現力、そして雄大と言ってもいいほどのスケール感。そこにライヴならではの緊張感も加わってくるから、聴く者はただひたすら圧倒されるばかりである。少なくとも、今回採りあげているワルターの7種の録音の中で、終楽章に関してこれ以上の名唱を他に見つけ出すことは全く不可能であると言ってよい。
5. (1953年2月22日・ライヴ) NYP スヴァンホルム、ニコライディ
上記4.のすぐ翌年に記録されたワルターの<大地の歌>ライヴ。当時フェリアーはまだ存命だったが、あと半年後に癌で世を去ることになる不世出のアルト歌手はもはや、ステージに立って<大地の歌>をやれるようなコンディションではなかったろう。ここで歌っているエレナ・ニコライディという歌手にはちょっと馴染みがないが、かなり健闘している。この人にはフェリアーのような豊かな声量や表現力はないものの、名指揮者ワルターとの共演ということで発奮したのか、本当に精一杯の力演を聴かせている。時折声がヴィブラート気味に震えるのが気にならなくもないが、歌唱のひたむきさは買いたい。
テノールは、セット・スヴァンホルム。また出た。よほどワルター先生のお気に入りだったのかな。しかし、私はやはり、この人には耐えられない。傍若無人な大声と、がさつで乱暴な歌い方。第1、第3楽章は何とかこらえて聴き通すも、第5楽章に入るとついに、こちらの我慢も限界を超える。「がなるのも、いいかげんにしてくれ!もう頭がいてえよ」である。ワグナーの上演なら、これで良かったのだろうが・・。
一方、ワルターの指揮ぶりは、ここでもさすがである。いや、さすがどころか、今回採りあげる7種の中でも、オーケストラ・パートの充実ぶりに関してはトップ・クラスの出来栄えと言ってもよいぐらいだ。指揮者に気迫がみなぎっているのがよく伝わってくる力演である。全体に速めのテンポ設定がなされているのも、そのような印象を強める一因になっているようだ。音質も、この年代のライヴ録音としてはかなり良い。ふとステレオ録音じゃないかと錯覚するような、広がり感みたいなものさえある。この音源は現在Archipelという廉価レーベルから非常に安く出ているので、お値段的にも求めやすい。
(PS) カスリーン・フェリアーの人柄と、歌曲アルバム
ここで、おまけの話を一つ。デッカの名プロデューサーだったジョン・カルショー氏の著作『レコードはまっすぐに』(学習研究社)の154ページに、名歌手フェリアーの人柄を偲ばせるエピソードが一つ紹介されている。それを短く編集して書き出してみると、大体次のような感じになる。
{ サヴォイ・ホテルで行なわれた晩餐会には各界の名士が招待されたが、フェリアーもそこに名を連ねていた。・・・パーティの終了後、賓客たちは皆ハイヤー、タクシー、あるいはロールスロイスのような高級車に乗って、めいめい帰途についた。フェリアーが私のところへやってきて、こんなことを言った。「ねえ、2シリング6ペンスだけ貸してくれない?これから地下鉄で帰りたいんだけど、お金を持たずに出てきちゃったのよー」。彼女はそういう人だった。 }
カルショー氏はさらに、「フェリアーの音楽的才能は、一番無作為に近いものだった」と同書に書いている。彼女が示した作為性のない歌唱は相当数の歌曲録音に遺されているが、私はまだ、そのうち僅か2枚のCDしか聴けていない。その極めて狭い範囲から、まずシューマンの歌曲集《女の愛と生涯》を代表的な名唱として挙げておきたい。深みのあるアルトの声と驚くばかりに幅広い表現力を駆使して、彼女はこの曲の多様な内容を見事に歌いつくしている。而してなお、そこには頭で考えたようなわざとらしさがなく、歌が限りなく自然体なのである。同じCDに収められた他の歌曲の中では、シューベルトの<ミューズの子>が特に良かった。そこでは太い声の名歌手が思いがけず軽やかに歌っていて、何とも言えず楽しかった。
もう1枚のCDに収められた曲の中では、ブラームスの《4つの厳粛な歌》がユニーク。これはマルコム・サージェントが編曲したオーケストラ伴奏版で、なお且つ歌詞が英語で歌われているという珍品である。基本的にはドイツ語の歌詞をピアノの伴奏で歌ってほしいと思う作品だが、フェリアーの深い声と真摯な歌唱には独特の魅力が感じられる。
(※ところで、《4つの厳粛な歌》という重々しい歌曲集は、男女を問わず、低くて暗い声を持つ歌手にやはり似合っているような感じがする。例えば同じバリトンでも、F=ディースカウやテオ・アダムのような明るめの声より、ハンス・ホッターみたいな深いバス・バリトンの声。ちなみに、ホッターさんは名手ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で、この歌曲集を1951年にスタジオ録音している。当然モノラルだが、このホッター盤【EMI】を聴いていると、「やっぱり、この曲はこういう声で聴くのが一番ぴったり来るなあ」と思う。これは全体にわたって優れた歌唱が堪能出来る名盤だが、特に第3曲「おお、死よ」は圧巻だ。声の迫力もさることながら、そこに漂う空気には崇高ささえ感じられるのである。同じCDに併録されたバッハの<カンタータ BWV82>やブラームスの単独歌曲集ともども、これはリート歌手としてのホッターさんが遺してくれた最良の遺産の一つであろう。)
―次回もう一度だけ、ワルターのマーラー<大地の歌>。残った2種類についてのお話。
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