先日ケーゲルを語った中でオルフの<カルミナ・ブラーナ>に言及したので、今回はこの人気作についていくつか語ってみたいと思う。
今はそれほどでもなくなったが、昔はオルフの<カルミナ・ブラーナ>が大好きで、随分といろいろな演奏を聴きあさったものである。そんな中にあって、私はよく「バーンスタインがこの曲をやったら、面白いんじゃないかなあ。あのヘビー級サウンドでドンガラガッシャン、ドンガラガッシャンやったら凄いことになるんじゃないか?」なんて、しょうもない夢想を抱いていたものだった。しかし、現実的には、バーンスタインが<カルミナ・ブラーナ>をやったという話は、実演でも録音でもついぞ聞いたことがない。おそらくソニーに保管されている若い頃の未発売秘蔵品の中にも、オルフ作品の録音は一つもないんじゃないかと思う。
「何でかなあ、残念だなあ」などと果てしなく能天気だった私も、今はその理由らしきものを突き止められたような気がしている。実は今回のタイトルに掲げたセリフこそ、バーンスタインその人の言葉なのだ。これはある音楽雑誌のインタビューに、晩年のバーンスタインが応じた時のやり取りの中に見られる言葉である。残念ながら、どういう所にナチズムの臭いを嗅ぎ取っていたかという説明まではなされていなかったが、とにかく彼の言葉によれば、「オルフはね、ナチなんだよ。ナチズムの音楽」だったのだ。しかし、政治イデオロギーや用語の定義に必ずしも明るくない私には、自信を持った解釈が出せない。こういうことかなあ、と推測めいたことを少しばかり試みるのがせいぜいだ。
<カルミナ・ブラーナ>という作品は娯楽性が優勢な曲で、しつこいリズム・オスティナートも音楽として楽しめる範囲に収まっているように感じられるのだが、一般にあまり演奏されることのない他の作品には、各演奏者が全体の中で同じ作業をひたすら繰り返し、部品として奉仕することを余儀なくされるものが多い。鼻につくのは、そのあたりだろうか?いずれにしても、白ロシア系ユダヤ人の血筋を持つリベラリストのバーンスタインが、ナチズムの臭いを感じるような音楽などやるわけがないだろう、ということなのだ。
さて、そういったデリケートな問題はさておき、無邪気にこの作品を趣味として楽しもうとCD選びをする場合、あまたある名盤の中でどれを好むかという話になったら、これはもう、人それぞれのお好み盤が続々と挙げられることになるだろう。
評論家たちの「ベストCDはこれだ!」みたいな投票企画があると、いつも第一位(か、それに準ずる高位)を取るのがオイゲン・ヨッフムの指揮によるグラモフォン盤だが、私はこのヨッフム盤は好きではない。つまらないからである。たしかに、<カルミナ・ブラーナ>という曲を初めて知ろうという方には良いと思う。歪みのない曲の姿をつかめるから。しかし、このあまりに実直真摯な、まるで教科書の模範朗読みたいな楷書体の演奏は、私には退屈で仕方ないのだ。三人の独唱者(ヤノヴィッツ、F=ディースカウ、シュトルツェ)がまた、皆さん揃って学校の先生方みたいな模範的歌唱を披露して下さる。頭が下がります。立派です。でも・・つまんないんです。
そんな落第生(?)の私は、プレヴィン、ムーティ、ドラティ、レヴァイン、小澤、サヴァリッシュ&N響(※TVでオン・エアされたもの)、デュトワ、そしてマータ(※ズビン・メータではなく、エドゥアルド・マータ)、あるいは前回語ったケーゲル等いろいろな演奏家の録音を渉猟する旅に出た(?)のだったが、その中で誰よりも一番、私にギャハハでイヒヒの快楽を与えてくれた演奏は、若き日のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス先生の指揮によるEMI盤のそれであった。この人は、若い頃の録音に傑作が多い。特にファリャの<三角帽子>(EMI)と<恋は魔術師>(L)あたりは、私の感覚では定評あるアンセルメなどのはるか上を行く、最高無類の名演である。そしてオルフの<カルミナ・ブラーナ>もまた、スペインを代表する名指揮者の、若き日の輝きを記録したかけがえのない名盤の一つであると思うのだ。
演奏の特徴を一言でいえば、重心のどっしりした音とがっちりした造形感を持った“ドイツ的な演奏”の殆ど対極にあるもので、徹底的にラテンの感性を前面に押し出しながら、もう臆面もなく鳴らしまくったド派手な<カルミナ>というところである。ピアノからフォルテまでのダイナミック・レンジの広さがまず相当なものなので、アンプのボリューム加減に最初は戸惑う。また、ゆったりした部分とガンガンたたみこむ部分のテンポの伸び縮みが、これまた奔放自在なので、ついていくのが疲れる演奏でもある。しかし、この豊かな表現と原色の絵の具を撒き散らしたような派手な色彩による音の絵巻は、聴いていて実に楽しい。そしてついに第2部のクライマックス In Taberna quando sumus に至って、聴く者は阿鼻叫喚の絶叫快楽に遭遇することになる。「そ、そこまでやるか?」と笑ってしまうほどの超引っ張りアゴーギクに、粘るシンバルのバッシャーーンが加わって、これはもうギャハハの大笑いである。ここまでやってくれたらもう、言うことなし。絶賛の拍手を送りたい。
ソプラノ独唱で若き日のルチア・ポップが参加しているのも、うれしいポイントだ。彼女の歌唱自体について言えば、後のサヴァリッシュ&N響のライヴにヘルマン・プライとともに参加したときの方がより円熟した名唱を聴かせてくれていたが、ここでの若々しさにもまた違った魅力がある。このCDは現在EMIアンコール・シリーズに入っていて、大変安い値段で買えるようになっている。音質も初期プレス盤のしゃりついたキツイ音に比べて、ずっとすっきりして聴きやすいものに改善されている。楽器の分離も良くなった。私にしてみれば、買い直しただけの価値はあった。
当演奏が評論家先生たちの「ベストCD投票」みたいなもので第何位とかに選ばれるようなことは、おそらく今後ともないだろう。が、もし私が選者の一人だったら、該当するページの下段の囲み記事として、「私だけの、この一枚」みたいな感じで一筆書かせてもらいたいCDではある。
【2019年3月17日 追記】
フリューベック・デ・ブルゴスの<カルミナ・ブラーナ>~“ In Taberna quando sumus ”
この記事を投稿してから、14年。上に書いていたことと今の心境で少し違うところがあるとすれば、数年前に24ビット盤で聴き直して以来、ヨッフムのグラモフォン盤を少し見直したというところか。まあ、少なくとも、悪く言って貶すものじゃないよなという感じである。それにしても、YouTubeの音で聴いてさえ鮮烈無比な、フリューベック・デ・ブルゴス盤の威力。これはやはり、ただ事ではない(笑)。
今はそれほどでもなくなったが、昔はオルフの<カルミナ・ブラーナ>が大好きで、随分といろいろな演奏を聴きあさったものである。そんな中にあって、私はよく「バーンスタインがこの曲をやったら、面白いんじゃないかなあ。あのヘビー級サウンドでドンガラガッシャン、ドンガラガッシャンやったら凄いことになるんじゃないか?」なんて、しょうもない夢想を抱いていたものだった。しかし、現実的には、バーンスタインが<カルミナ・ブラーナ>をやったという話は、実演でも録音でもついぞ聞いたことがない。おそらくソニーに保管されている若い頃の未発売秘蔵品の中にも、オルフ作品の録音は一つもないんじゃないかと思う。
「何でかなあ、残念だなあ」などと果てしなく能天気だった私も、今はその理由らしきものを突き止められたような気がしている。実は今回のタイトルに掲げたセリフこそ、バーンスタインその人の言葉なのだ。これはある音楽雑誌のインタビューに、晩年のバーンスタインが応じた時のやり取りの中に見られる言葉である。残念ながら、どういう所にナチズムの臭いを嗅ぎ取っていたかという説明まではなされていなかったが、とにかく彼の言葉によれば、「オルフはね、ナチなんだよ。ナチズムの音楽」だったのだ。しかし、政治イデオロギーや用語の定義に必ずしも明るくない私には、自信を持った解釈が出せない。こういうことかなあ、と推測めいたことを少しばかり試みるのがせいぜいだ。
<カルミナ・ブラーナ>という作品は娯楽性が優勢な曲で、しつこいリズム・オスティナートも音楽として楽しめる範囲に収まっているように感じられるのだが、一般にあまり演奏されることのない他の作品には、各演奏者が全体の中で同じ作業をひたすら繰り返し、部品として奉仕することを余儀なくされるものが多い。鼻につくのは、そのあたりだろうか?いずれにしても、白ロシア系ユダヤ人の血筋を持つリベラリストのバーンスタインが、ナチズムの臭いを感じるような音楽などやるわけがないだろう、ということなのだ。
さて、そういったデリケートな問題はさておき、無邪気にこの作品を趣味として楽しもうとCD選びをする場合、あまたある名盤の中でどれを好むかという話になったら、これはもう、人それぞれのお好み盤が続々と挙げられることになるだろう。
評論家たちの「ベストCDはこれだ!」みたいな投票企画があると、いつも第一位(か、それに準ずる高位)を取るのがオイゲン・ヨッフムの指揮によるグラモフォン盤だが、私はこのヨッフム盤は好きではない。つまらないからである。たしかに、<カルミナ・ブラーナ>という曲を初めて知ろうという方には良いと思う。歪みのない曲の姿をつかめるから。しかし、このあまりに実直真摯な、まるで教科書の模範朗読みたいな楷書体の演奏は、私には退屈で仕方ないのだ。三人の独唱者(ヤノヴィッツ、F=ディースカウ、シュトルツェ)がまた、皆さん揃って学校の先生方みたいな模範的歌唱を披露して下さる。頭が下がります。立派です。でも・・つまんないんです。
そんな落第生(?)の私は、プレヴィン、ムーティ、ドラティ、レヴァイン、小澤、サヴァリッシュ&N響(※TVでオン・エアされたもの)、デュトワ、そしてマータ(※ズビン・メータではなく、エドゥアルド・マータ)、あるいは前回語ったケーゲル等いろいろな演奏家の録音を渉猟する旅に出た(?)のだったが、その中で誰よりも一番、私にギャハハでイヒヒの快楽を与えてくれた演奏は、若き日のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス先生の指揮によるEMI盤のそれであった。この人は、若い頃の録音に傑作が多い。特にファリャの<三角帽子>(EMI)と<恋は魔術師>(L)あたりは、私の感覚では定評あるアンセルメなどのはるか上を行く、最高無類の名演である。そしてオルフの<カルミナ・ブラーナ>もまた、スペインを代表する名指揮者の、若き日の輝きを記録したかけがえのない名盤の一つであると思うのだ。
演奏の特徴を一言でいえば、重心のどっしりした音とがっちりした造形感を持った“ドイツ的な演奏”の殆ど対極にあるもので、徹底的にラテンの感性を前面に押し出しながら、もう臆面もなく鳴らしまくったド派手な<カルミナ>というところである。ピアノからフォルテまでのダイナミック・レンジの広さがまず相当なものなので、アンプのボリューム加減に最初は戸惑う。また、ゆったりした部分とガンガンたたみこむ部分のテンポの伸び縮みが、これまた奔放自在なので、ついていくのが疲れる演奏でもある。しかし、この豊かな表現と原色の絵の具を撒き散らしたような派手な色彩による音の絵巻は、聴いていて実に楽しい。そしてついに第2部のクライマックス In Taberna quando sumus に至って、聴く者は阿鼻叫喚の絶叫快楽に遭遇することになる。「そ、そこまでやるか?」と笑ってしまうほどの超引っ張りアゴーギクに、粘るシンバルのバッシャーーンが加わって、これはもうギャハハの大笑いである。ここまでやってくれたらもう、言うことなし。絶賛の拍手を送りたい。
ソプラノ独唱で若き日のルチア・ポップが参加しているのも、うれしいポイントだ。彼女の歌唱自体について言えば、後のサヴァリッシュ&N響のライヴにヘルマン・プライとともに参加したときの方がより円熟した名唱を聴かせてくれていたが、ここでの若々しさにもまた違った魅力がある。このCDは現在EMIアンコール・シリーズに入っていて、大変安い値段で買えるようになっている。音質も初期プレス盤のしゃりついたキツイ音に比べて、ずっとすっきりして聴きやすいものに改善されている。楽器の分離も良くなった。私にしてみれば、買い直しただけの価値はあった。
当演奏が評論家先生たちの「ベストCD投票」みたいなもので第何位とかに選ばれるようなことは、おそらく今後ともないだろう。が、もし私が選者の一人だったら、該当するページの下段の囲み記事として、「私だけの、この一枚」みたいな感じで一筆書かせてもらいたいCDではある。
【2019年3月17日 追記】
フリューベック・デ・ブルゴスの<カルミナ・ブラーナ>~“ In Taberna quando sumus ”
この記事を投稿してから、14年。上に書いていたことと今の心境で少し違うところがあるとすれば、数年前に24ビット盤で聴き直して以来、ヨッフムのグラモフォン盤を少し見直したというところか。まあ、少なくとも、悪く言って貶すものじゃないよなという感じである。それにしても、YouTubeの音で聴いてさえ鮮烈無比な、フリューベック・デ・ブルゴス盤の威力。これはやはり、ただ事ではない(笑)。
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