クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

フランツ・グルントヘーバー

2005年02月16日 | 演奏(家)を語る
わずか二つのライヴ映像を観たに過ぎないのに、それだけで私には一生忘れられないような印象が残っているドイツの名バリトン歌手、フランツ・グルントヘーバーについて今回は少し語ってみたい。ケーゲルを語った記事の中で触れたベルクの歌劇<ヴォツェック>から、この人のことが思い出されて、材料不足も承知の上でどうしても語ってみたくなったのである。

1950~60年代、あるいは70年代になされた録音を中心にオペラを聴いている関係で、私はそれ以降の新しい世代のオペラ歌手たちのことは、あまり知らない。グルントヘーバーについても、多くを語るほどの材料は全然持ち合わせていないというのが、正直なところである。しかし、たった二つのライヴ映像、すなわちアバドの指揮によるウィーンでの<ヴォツェック>と、セーゲルスタムの指揮によるサヴォンリンナ音楽祭での<さまよえるオランダ人>というわずか二つの作品だけで、この歌手は私に対して、ある特別なイメージをしっかりと植え付けてくれたのである。

ハリウッド・スターの一人にロバート・デ・ニーロという名優がいるのは、皆様ご存知のことと思う。『ゴッドファーザー partⅡ』の中で若き日のヴィトー・コルレオーネを演じて絶賛され、一躍スターダムにのし上がった人だ。それから後の活躍と、今ある地位に至るまでの道のりについては、私などよりはるかに詳しい映画ファンの方が大勢おられることと思う。そのデ・ニーロ氏について、ある映画評論家が昔おもしろい事を書いていた。「デ・ニーロという俳優はどこかいびつな人間とか、何かが欠けているような人間を演じた時に、最高の輝きを放つ人だ。これといった歪みのない健全な人間を演じると、この人はあまり面白くない」というような論調の記事であった。当時は『タクシードライバー』が封切られた頃だったか、もう少し後だったか、いずれにしてもずいぶんと古い話ではある。しかし、順不同に『ケープ・フィアー』『ファン』『フランケンシュタイン』といった作品を思い返してみると、当時のその人の記事は結構いいところを衝いていたようにも思える。勿論、名優デ・ニーロがそんなステレオタイプに収まる程度の人じゃないということは十分承知した上で、敢えて、この名優のかつてのイメージにちなんで、「オペラのデ・ニーロ」とでも呼んでみたくなる人こそ、今回話題にしているフランツ・グルントヘーバーなのである。

まずアバドの指揮で歌ったウィーンでの<ヴォツェック>だが、この人の容貌自体が(こう言っては失礼ながら)、この作品のfreakish な主人公のイメージにぴったり。勿論、声や歌唱の点でもバッチリである。映像つきで鑑賞できたという要素も手伝って、他の指揮者による同作品の名盤に出演している歌手たち以上に、グルントヘーバーのヴォツェックは私に鮮烈な印象を残している。ベーム盤で主演していたF=ディースカウの緻密で完璧な歌唱や、ケーゲル盤でのアダムのような端正な歌の造形による実直な人物像とも違う、もっと庶民的で朴訥な人物像を打ち出しながら、疎外された人間の哀れな姿を描き出していた。その点からすれば、タイプ的にはブーレーズ盤で歌っていたワルター・ベリーに少しイメージが近いかなという印象である。

しかし、そのヴォツェック以上に、グルントヘーバーの声と容貌が最高に似合っているfreakこそ、<さまよえるオランダ人>のタイトル役であった。随分前にNHK-BSで放送されたサヴォンリンナ音楽祭での上演ライヴ(1989年7月)で、この人が主役のオランダ人を演じていたものを観て、私はもう吹っ飛び返るほどの衝撃を受けたのである。と言っても、「そのライヴを視聴する気になった直接の理由は、指揮者セーゲルスタムの方にあった」というのが正直なところではある。当時はセーゲルスタムも今ほどには知られておらず、私もその名をいくつかの外盤CDを通して目にし始めていたばかりという状況であった。セーゲルスタムという指揮者がどんな音楽をやる人なのか知りたくて、当ライヴを視聴したというわけである。だから、グルントヘーバーについては殆ど気にもかけず、正直なところさほど期待もせずに件(くだん)のライヴ映像に触れたのだった。そしたらまあ、それが強烈だったわけである。

肩幅の張った堂々たる体躯を真っ黒い革ジャンパーのような衣装で包み、長い黒髪も伸びるがままのザンバラ髪。端正などとはお世辞にも言えない顔に濃いひげをたくわえた、異様とも言うべきその風貌。そこへさらに迫力を加える、やや血走ったような鋭い目。これこそ、永遠に呪われて世界の海をさまよう幽霊船の船長の姿である。この人間離れした(?)風貌がまず、最高であった。それでいて、年齢的には決して老け込んでいない様子なので、「ああ、これならゼンタとの恋愛もまだ現役でいけそうだな」なんて思わせてくれるあたりもポイントが高い。(※ご本人がこの記事を翻訳して読んだら怒り出してしまうかもしれないが、私はほめ言葉のつもりで書いている。)

さらにうれしいことに、その声と歌唱もまた外見を裏切ることなく、迫力満点だったのだ。ドスの効いたバス・バリトンの声で、暗い宿命にうめくオランダ人の苦悩を堂々と歌い出してくれていた。(※逆に、ベームのバイロイト・ライヴで主演していたトマス・スチュアートは、ジャケット写真に見られる風貌こそ素晴らしかったが、声と歌唱については不満が大きかった。同様にクレンペラー博士のEMIスタジオ録音盤でのテオ・アダムも、歌唱の立派さは文句なしに最高の部類に属するものだったのだが、残念ながら、声質が少し明るすぎる印象を私は受けてしまった。)いつか再びこの映像を視聴し直すチャンスがあったら、歌唱についてはまた違った感じ方をするかもしれないが、少なくともあの衝撃的な風貌から受けたインパクトは、一生変わらないと思うのである。

ちなみに、当サヴォンリンナ・ライヴでゼンタの役を演じていたのはヒルデガルト・ベーレンスで、ダーラントはマッティ・サルミネンだった。しかし、グルントヘーバーのオランダ人がとにかく鮮烈だったので、その二人の歌唱がどの場面でどうだったかなんて、今はほとんど覚えていないような有様である。一方、セーゲルスタムの音作りについては、十数年経ってしまった今でも辛うじて記憶に残っている特徴がある。この指揮者が作った音は、ベームのような引き締まった鋼のような音像とは、ある意味で対極にあるような、重ねに重ねた分厚いサウンドだった。しかしクレンペラー盤で聴かれる、がっしりとした底光りのするような重厚さともまた違うもので、少し理屈っぽく言えば、「柔らかくて薄い音の層を幾重にも精妙に重ねた結果として、大きな厚みになった」というようなイメージを持たせるものである。聴く人によって好悪が分かれるかも知れない個性的なワグナー・サウンドだった。(※ただ、これはあくまで十数年前に聴いた時の印象を思い出して言っているに過ぎず、今後聴きなおすチャンスがあったらまた違った感じ方をするかもしれないのは、グルントヘーバーの歌唱について述べたことと同様である。)

そんな訳で、グルントヘーバーさんご本人からは、「俺だっていろんな役をやってんだから、他のもちゃんと聴いてから物を言ってくりくり」なんてクレームをつけられてしまうかもしれないのだが、上記二つの圧倒的な“異形”の映像に深い感銘を受けた私としては、どうも、「オペラのデ・ニーロ」という一風変わったネーミングを(勿論、賞賛の意を込めて)、この人につけて差し上げたくなるのである。

(PS)

先述の通り、私は今の歌手達の活躍状況には疎い人間なので、グルントヘーバーさんが今現在どんな状況でおられるのかについては、全く情報を持っていない。しかし、もしまだバリバリ活躍中で、新しいレパートリーにも意欲的という状況でおられたら、是非ともマルシュナーの歌劇<吸血鬼>のルトフェン卿をやっていただきたいなあと思う。私が廉価で入手したフリッツ・リーガーの指揮によるライヴ盤では、吸血鬼をローラント・ヘルマン(※アルノンクールの指揮によるモンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>映像盤で、太陽神アポロを演じていたのを観たことがある)がやっていて、その人もまあまあ悪くないと思った。しかし、この役はやはり、グルントヘーバーさんがやってこそ一番ハマるんじゃないかと思えて仕方ないのである。本家(?)のデ・ニーロさんがフランケンシュタインの怪物をやってくれましたから、この方には是非、吸血鬼をやっていただきたいなあなんて思うのである。この際だから台本を改ざんして、「ルトフェン卿が月の光を浴びて、最後にまた甦えっちゃいました」という形で幕が下りるのも、今っぽくていいんじゃないかなあ。なんて、それはまあ、冗談ですけど・・。

【2019年2月22日 追記】

グルントヘーバーが歌う「オランダ人のモノローグ」~サヴォンリンナ音楽祭(1989年)より

この記事を投稿してから、14年。上に書いていたことを裏打ちしてくれる映像が、「ようつべ」で見つかった。これは約30年ぶりに見るものとなるが、やっぱり凄い・・。


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