ギリシャ出身の名指揮者ディミトリ・ミトロプロス(1896~1960)。若きレナード・バーンスタインが登場する前の時代に、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務めていた人だ。実は私にとって、この人は本当に長いこと縁のない指揮者だった。LP時代に出回っていた録音の数がもともと多くなかったということもあるが、「この名曲は、他の演奏家を先に聴いた方がいいなあ」と、いつもレコード購入の候補から外される指揮者の一人だった。例外的に、ジノ・フランチェスカッティの独奏によるラロの<スペイン交響曲>とか、サン=サーンスの<ヴァイオリン協奏曲第3番>とかの名演には親しんでいたけれども、それらはいずれもヴァイオリン・ソロの素晴らしさによって輝いている名盤であって、別に伴奏指揮者がミトロプロスでなきゃいけないなんて理由はどこにもなかった。当時のCBSソニー系ならオーマンディ、バーンスタイン、あるいはジョージ・セルといった人たちがいたわけだから、彼らが振ったって、それなりの名演になっていたのは間違いないのである。それやこれやで、はっきり言ってしまえば、ミトロプロスという人はいてもいなくても、どっちでもいいような指揮者だった。
しかし、私がかつて持っていたそのような認識は、この何年かの間に大きな変化を遂げてきている。名指揮者が生前、ライヴを中心に遺してくれたオペラ演奏の中に、非常に優れた物が次々と見つかってきたからである。(※勿論、聴く側のこちらに「自分が成長したことによる余裕」みたいなものが出て来て、オペラに限らず、彼のユニークな演奏を味わえるだけの感性が育ったという要素もあるとは思う。)―という訳で、これから何回かに分けて、私がこれまで実際に聴いてきたミトロプロスのオペラ録音についての感想文を、順に書いていくことにしたいと思う。今回はまず、A・ベルクとA・シェーンベルクの作品から。
―ベルク : 歌劇<ヴォツェック> (1951年4月12日・ライヴ)
このオペラの全曲録音としてはおそらく最も古いもので、現在はこれよりもっと鮮やかな名演、もっと精緻な名演、あるいはもっと音の良いディスクを、他にいくらでも見つけることができる。それゆえ、<ヴォツェック>を初めて聴く人のためのファースト・チョイスには成り得ないが、その歴史的な価値は決して低くない。いかにもこの指揮者らしい仄暗い音色が、作品の雰囲気によくマッチしている。私がとりわけ気に入っているのは、第2幕第5場に入る部分での演奏だ。夜の兵舎で、「俺、眠れないんだよ」と、ヴォツェックがアンドレスに呼びかけるシーンの、すぐ手前。ここは合唱団の声ともども、音楽にやたら不気味なムードが漂う。その独特の気持ち悪さは最高である。勿論それ以外にも、鋭くパワフルな響きを随所で聴くことができるので、将来冴えたリマスターが行なわれたら、今よりもっと高く評価されるようになる可能性も十分あると思う。
歌手たちの出来は、当時のレベルで考えれば、まあまあのところだろう。マリー役のアイリーン・ファーレルはいかにもライヴらしい熱演を聴かせるし、鼓手長のフレデリック・ヤーゲルも立派。大尉を演じるジョゼフ・モルディーノの声も、役柄のイメージどおり。ただ、ヴォツェックの役は後に優れた歌手達による名演が続々と出てくるので、ここで歌っているマック・ハーレルという人には、ちょっと平凡な印象しか残らない。
ところで、歌劇<ヴォツェック>というのは、非常に名演奏に恵まれたオペラだと思う。私が学生時代に初めて購入した全曲盤は、カール・ベームのグラモフォン盤LPだった。当時の私はこの作品をまともに把握できるレベルではなかったが、フィッシャー=ディースカウの精緻な歌唱の凄さや、どしんとした手ごたえを持つベームの指揮ぶりなどは、今でもそれなりによく覚えている。ブレーズのソニー盤を聴いたときは、その明晰な響きに驚いた。ただ、ちょっと明るい光を当て過ぎて、曲自体が持っているはずの暗いムードをだいぶ薄めてしまっているような印象も受けた。映像付きで鑑賞したアバドのウィーン・ライヴは、もうこの作品がすっかり古典の名作になっていることを実感させた。主演のグルントヘーバーについては、当ブログで随分前に独立したトピックで語ったことがある。この方、こういう異形の役どころをやらせたら抜群の歌手である。一方、オーケストラの厳しいサウンドが極北に達していたのが、ケーゲル盤。歌手陣は他の名盤より落ちるが、指揮の凄みという点では、これが随一だと思った。そう言えば、つい昨年(2008年)、ブルーノ・マデルナの指揮による映画版のDVDを買って視聴した。歌手陣もオーケストラもとりあえず水準に達しているかな、というぐらいの演奏だったが、映像のインパクトが最高だった。北ドイツのどこかでロケーション撮影を行なったものと考えられるが、その寒々とした風景、じと~っとした裏通りの空気感、そしてリアルな人物描写。前衛的な演出よりも写実的な描写を好む(私のような)鑑賞者にはぴったりの、大変素敵な映像ソフトであった。
―シェーンベルク : モノドラマ<期待> (1951年11月18日・ライヴ)
激しいオーケストラ演奏を背景にして、一人の女の尋常でない精神状態が延々と語り出される恐ろしい作品。概要は、以下のとおり。
{ 月明かりの下、一人の女が森の中に入って行く。彼女は今、いなくなった恋人を探している。暗いところで何かが自分に触れたと言っては驚き、動物らしきものが動いたと言ってはおののく。それでも、女は闇の中を歩き続ける。体のあちこちに擦り傷ができて、白いドレスがところどころ赤く染まる。やがて女は、何かにつまずく。かがんで確かめてみると、それは恋人の死体。その手にキスをし、女は動かぬ相手に語りかける。続いて、彼女は自分の恋人を奪った別の女のことに思い至り、憎い相手をののしり始める。・・・夜明けが近付き、東の空が白んでくる。少し離れた場所に目をやって、女はうれしそうに叫ぶ。「ああ、あなた、そこにいたのね。探してたのよ」。 }
この異様な名作に、ミトロプロスは凄い演奏会の録音を遺している。1951年のニューヨーク・フィル・ライヴだ。暗い音色と鋭い響き、そして急き立てられたような速いテンポによって、作品が内蔵する狂気と戦慄が異常な迫力で抉り出されている。ソプラノ独唱はドロシー・ダウという人で、私にはちょっと馴染みがないが、当ライヴを聴く限りで言えば相当な力を持った歌手のようである。はじめから終わりまで、やたらなハイ・テンションで演奏が進む中、この人はまったく疲れを見せない。それどころか、後半に向かってどんどんパワー・アップしていくほどなのである。持続する緊張感と激越な表現を強靭な声がしっかりと支えていく、その様子はまさに圧巻の一語だ。なお、現在超廉価で入手できるArchipelの24ビット盤CD(ARPCD0093)には、ヤッシャ・ハイフェッツとミトロプロス&ニューヨーク・フィルが共演したシベリウスの<ヴァイオリン協奏曲>(1951年・ライヴ)が併録されていて、これがまたかなりの豪演。特に、第1楽章が凄い。
さて、ついでの話ながら、私がこれまでに聴いたことのあるモノドラマ<期待>の録音としては、他にシノーポリ盤とレヴァイン盤がある。この機会に、それら2点についての感想文も書き添えておこうと思う。
●ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管、他 (1989年4月録音・フィリップス盤)
これは何と言っても、ジェシー・ノーマンの名唱が聴き物。歌詞のディクションが細やかで、“非常に知的な名演”という印象を与える。息をひそめた囁き声から激烈な叫び声まで、テキストの内容が深く吟味されており、説得力十分。また、やたら歌いすぎることなく、語りの雰囲気をよく残していることにも好感が持てる。メトのオーケストラも、いつになく(?)精妙な響きを聞かせる。勿論、レヴァインの指揮ゆえに、ここ一番での爆発力も申し分なくパワフルだ。音色はやや明るめで、後述するシノーポリ盤よりも鋭い感じがあるが、上記ミトロプロス盤の異様な迫力にはさすがに及ばない。演奏時間は32分36秒で、これがほぼ標準なのではないかと思われる。なお、当盤は長い第4場に細かいトラック番号分けがなされていて、CDの作りとしても大変親切なものになっている。
●ジュゼッペ・シノーポリ指揮ドレスデン国立歌劇場管、他 (1996年5月録音・テルデック盤)
ソプラノ独唱のアレッサンドラ・マークは、いくぶんメゾに近い肉厚な声の持ち主。この録音の前年、バレンボイムの指揮によるR・シュトラウスの<エレクトラ>全曲録音(テルデック盤)に参加し、クリソテミスを歌っていた。今回取り上げている<期待>の歌唱について言えば、かなりオペラティックな歌い方をしているように感じられる。このCDを聴いていると、何か現代オペラの一場面みたいなものを鑑賞しているような気分になってくる。ただ、これは確かに力演だし、「よくやっているなあ」とは思えるものの、聴き終えた後に残る手ごたえは、案外それほどでもない。自ら作曲もし、現代物を得意としたシノーポリの指揮はさすがに精緻なもので、「これは難曲でも何でもなく、普通の古典の名作ですよ」とでも言っているかのような余裕が感じられる。わめかず、騒がずの大人の構え、とでも言えようか。(※この点については、併録されたルイザ・カステラーニとの<ピエロ・リュネール>も同様。)ドレスデンのオーケストラということも関係してか、上記2種のCDで聞かれるようなアメリカ的な鋭い音はここにはないし、テルデックの音のとり方も、どちらかと言えば、“柔らか志向”が強いようである。演奏時間は33分40秒ほどで、この点でも、どこかゆったりとしたものが感じられる。逆に言えば、上記ミトロプロス盤の演奏時間が正味27分40秒であるというのが如何に凄いことか、ここで改めて実感されるとも言えるだろう。いずれにしても、ミトロプロスの<期待>は最強(と言うか、最恐?)である。
―次回は、私が指揮者ミトロプロスを高く評価し直すきっかけとなった2つのヴェルディ・オペラについて。
しかし、私がかつて持っていたそのような認識は、この何年かの間に大きな変化を遂げてきている。名指揮者が生前、ライヴを中心に遺してくれたオペラ演奏の中に、非常に優れた物が次々と見つかってきたからである。(※勿論、聴く側のこちらに「自分が成長したことによる余裕」みたいなものが出て来て、オペラに限らず、彼のユニークな演奏を味わえるだけの感性が育ったという要素もあるとは思う。)―という訳で、これから何回かに分けて、私がこれまで実際に聴いてきたミトロプロスのオペラ録音についての感想文を、順に書いていくことにしたいと思う。今回はまず、A・ベルクとA・シェーンベルクの作品から。
―ベルク : 歌劇<ヴォツェック> (1951年4月12日・ライヴ)
このオペラの全曲録音としてはおそらく最も古いもので、現在はこれよりもっと鮮やかな名演、もっと精緻な名演、あるいはもっと音の良いディスクを、他にいくらでも見つけることができる。それゆえ、<ヴォツェック>を初めて聴く人のためのファースト・チョイスには成り得ないが、その歴史的な価値は決して低くない。いかにもこの指揮者らしい仄暗い音色が、作品の雰囲気によくマッチしている。私がとりわけ気に入っているのは、第2幕第5場に入る部分での演奏だ。夜の兵舎で、「俺、眠れないんだよ」と、ヴォツェックがアンドレスに呼びかけるシーンの、すぐ手前。ここは合唱団の声ともども、音楽にやたら不気味なムードが漂う。その独特の気持ち悪さは最高である。勿論それ以外にも、鋭くパワフルな響きを随所で聴くことができるので、将来冴えたリマスターが行なわれたら、今よりもっと高く評価されるようになる可能性も十分あると思う。
歌手たちの出来は、当時のレベルで考えれば、まあまあのところだろう。マリー役のアイリーン・ファーレルはいかにもライヴらしい熱演を聴かせるし、鼓手長のフレデリック・ヤーゲルも立派。大尉を演じるジョゼフ・モルディーノの声も、役柄のイメージどおり。ただ、ヴォツェックの役は後に優れた歌手達による名演が続々と出てくるので、ここで歌っているマック・ハーレルという人には、ちょっと平凡な印象しか残らない。
ところで、歌劇<ヴォツェック>というのは、非常に名演奏に恵まれたオペラだと思う。私が学生時代に初めて購入した全曲盤は、カール・ベームのグラモフォン盤LPだった。当時の私はこの作品をまともに把握できるレベルではなかったが、フィッシャー=ディースカウの精緻な歌唱の凄さや、どしんとした手ごたえを持つベームの指揮ぶりなどは、今でもそれなりによく覚えている。ブレーズのソニー盤を聴いたときは、その明晰な響きに驚いた。ただ、ちょっと明るい光を当て過ぎて、曲自体が持っているはずの暗いムードをだいぶ薄めてしまっているような印象も受けた。映像付きで鑑賞したアバドのウィーン・ライヴは、もうこの作品がすっかり古典の名作になっていることを実感させた。主演のグルントヘーバーについては、当ブログで随分前に独立したトピックで語ったことがある。この方、こういう異形の役どころをやらせたら抜群の歌手である。一方、オーケストラの厳しいサウンドが極北に達していたのが、ケーゲル盤。歌手陣は他の名盤より落ちるが、指揮の凄みという点では、これが随一だと思った。そう言えば、つい昨年(2008年)、ブルーノ・マデルナの指揮による映画版のDVDを買って視聴した。歌手陣もオーケストラもとりあえず水準に達しているかな、というぐらいの演奏だったが、映像のインパクトが最高だった。北ドイツのどこかでロケーション撮影を行なったものと考えられるが、その寒々とした風景、じと~っとした裏通りの空気感、そしてリアルな人物描写。前衛的な演出よりも写実的な描写を好む(私のような)鑑賞者にはぴったりの、大変素敵な映像ソフトであった。
―シェーンベルク : モノドラマ<期待> (1951年11月18日・ライヴ)
激しいオーケストラ演奏を背景にして、一人の女の尋常でない精神状態が延々と語り出される恐ろしい作品。概要は、以下のとおり。
{ 月明かりの下、一人の女が森の中に入って行く。彼女は今、いなくなった恋人を探している。暗いところで何かが自分に触れたと言っては驚き、動物らしきものが動いたと言ってはおののく。それでも、女は闇の中を歩き続ける。体のあちこちに擦り傷ができて、白いドレスがところどころ赤く染まる。やがて女は、何かにつまずく。かがんで確かめてみると、それは恋人の死体。その手にキスをし、女は動かぬ相手に語りかける。続いて、彼女は自分の恋人を奪った別の女のことに思い至り、憎い相手をののしり始める。・・・夜明けが近付き、東の空が白んでくる。少し離れた場所に目をやって、女はうれしそうに叫ぶ。「ああ、あなた、そこにいたのね。探してたのよ」。 }
この異様な名作に、ミトロプロスは凄い演奏会の録音を遺している。1951年のニューヨーク・フィル・ライヴだ。暗い音色と鋭い響き、そして急き立てられたような速いテンポによって、作品が内蔵する狂気と戦慄が異常な迫力で抉り出されている。ソプラノ独唱はドロシー・ダウという人で、私にはちょっと馴染みがないが、当ライヴを聴く限りで言えば相当な力を持った歌手のようである。はじめから終わりまで、やたらなハイ・テンションで演奏が進む中、この人はまったく疲れを見せない。それどころか、後半に向かってどんどんパワー・アップしていくほどなのである。持続する緊張感と激越な表現を強靭な声がしっかりと支えていく、その様子はまさに圧巻の一語だ。なお、現在超廉価で入手できるArchipelの24ビット盤CD(ARPCD0093)には、ヤッシャ・ハイフェッツとミトロプロス&ニューヨーク・フィルが共演したシベリウスの<ヴァイオリン協奏曲>(1951年・ライヴ)が併録されていて、これがまたかなりの豪演。特に、第1楽章が凄い。
さて、ついでの話ながら、私がこれまでに聴いたことのあるモノドラマ<期待>の録音としては、他にシノーポリ盤とレヴァイン盤がある。この機会に、それら2点についての感想文も書き添えておこうと思う。
●ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管、他 (1989年4月録音・フィリップス盤)
これは何と言っても、ジェシー・ノーマンの名唱が聴き物。歌詞のディクションが細やかで、“非常に知的な名演”という印象を与える。息をひそめた囁き声から激烈な叫び声まで、テキストの内容が深く吟味されており、説得力十分。また、やたら歌いすぎることなく、語りの雰囲気をよく残していることにも好感が持てる。メトのオーケストラも、いつになく(?)精妙な響きを聞かせる。勿論、レヴァインの指揮ゆえに、ここ一番での爆発力も申し分なくパワフルだ。音色はやや明るめで、後述するシノーポリ盤よりも鋭い感じがあるが、上記ミトロプロス盤の異様な迫力にはさすがに及ばない。演奏時間は32分36秒で、これがほぼ標準なのではないかと思われる。なお、当盤は長い第4場に細かいトラック番号分けがなされていて、CDの作りとしても大変親切なものになっている。
●ジュゼッペ・シノーポリ指揮ドレスデン国立歌劇場管、他 (1996年5月録音・テルデック盤)
ソプラノ独唱のアレッサンドラ・マークは、いくぶんメゾに近い肉厚な声の持ち主。この録音の前年、バレンボイムの指揮によるR・シュトラウスの<エレクトラ>全曲録音(テルデック盤)に参加し、クリソテミスを歌っていた。今回取り上げている<期待>の歌唱について言えば、かなりオペラティックな歌い方をしているように感じられる。このCDを聴いていると、何か現代オペラの一場面みたいなものを鑑賞しているような気分になってくる。ただ、これは確かに力演だし、「よくやっているなあ」とは思えるものの、聴き終えた後に残る手ごたえは、案外それほどでもない。自ら作曲もし、現代物を得意としたシノーポリの指揮はさすがに精緻なもので、「これは難曲でも何でもなく、普通の古典の名作ですよ」とでも言っているかのような余裕が感じられる。わめかず、騒がずの大人の構え、とでも言えようか。(※この点については、併録されたルイザ・カステラーニとの<ピエロ・リュネール>も同様。)ドレスデンのオーケストラということも関係してか、上記2種のCDで聞かれるようなアメリカ的な鋭い音はここにはないし、テルデックの音のとり方も、どちらかと言えば、“柔らか志向”が強いようである。演奏時間は33分40秒ほどで、この点でも、どこかゆったりとしたものが感じられる。逆に言えば、上記ミトロプロス盤の演奏時間が正味27分40秒であるというのが如何に凄いことか、ここで改めて実感されるとも言えるだろう。いずれにしても、ミトロプロスの<期待>は最強(と言うか、最恐?)である。
―次回は、私が指揮者ミトロプロスを高く評価し直すきっかけとなった2つのヴェルディ・オペラについて。
先日アマゾンでヴォツェックを見つけて、ちょうど買ったばかりです。
音が冴えないのは、まあ仕方ないですよね。