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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

ブログ13周年、リヒテルのラフマニノフとチャイコフスキー

2017年10月31日 | 演奏(家)を語る
2017年10月31日。今日は当ブログの誕生日。これで、満13歳となった。早いものだ。更新ペースは極めてゆっくりしたものになっているが、これからもできるだけ長く続けていきたいと思う。

さて、今月は最高にご機嫌なCDを購入した。スヴャトスラフ・リヒテルのピアノによるラフマニノフの<ピアノ協奏曲第2番>とチャイコフスキーの<ピアノ協奏曲第1番>、他を収めた1枚である。ラフマニノフはクルト・ザンデルリンク指揮レニングラード・アカデミック・フィルハーモニー交響楽団との共演で、1959年2月18日の録音。そしてチャイコフスキーは、同じオーケストラをエフゲニ・ムラヴィンスキーが指揮した1958年7月24日の録音である。(※これら両大曲の間に、ラフマニノフの<前奏曲集>op32~第9、10、12番も収録されている。こちらは1960年12月26日に、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われた演奏。)

リヒテルのラフマニノフと言えば、ヴィトルド・ロヴィツキの伴奏指揮によるグラモフォンの初期ステレオ盤が夙(つと)に有名だが、全曲を聴き終わった後に残る感銘(あるいは、衝撃度)は当ザンデルリンク盤の方が遙かに上。第1楽章出だしの重々しいムード、演奏時間7分過ぎぐらいから始まるピアノ・ソロによる豪快なクライマックス、あるいは第2楽章で聴かれる叙情味といったあたりは、グラモフォン盤でもそれなりに堪能できる。しかし最後の第3楽章になると、ザンデルリンク盤でのリヒテルはちょっと信じられないような演奏を展開してくる。その音は極めて重厚で剛毅なソノリティを持つ物でありながら、一つ一つの音符を鮮やかに鳴らしきっていく指捌きは(あの才媛アルゲリッチさながらに)どこまでも滑らかで軽やか。もう、人間業とは思えない。聴いていて腰が抜けそうになる。

ザンデルリンクの指揮も、アグレッシヴ。第1楽章最初のテーマをまるで軍隊行進か何かのようにドッシン、ドッシンと刻むあたりから早くもユニークな世界を構築し始めるが、第2楽章(の、特に後半)ではピアノともどもしっぽりと秋雨に濡れ、終楽章では鬼神と化したかのようなピアニストの独奏をパワフルに支える。これは大変な豪演である。聴く人によってはいささか荒っぽい演奏に感じられてしまうかもしれないが、グラモフォン盤のロヴィツキが平凡な伴奏に終始していると不満に思っていた当ブログ主には、こういう演奏こそがまさに待望されたものであった。

ムラヴィンスキーと共演したチャイコフスキーも圧巻で、カラヤンと録音したグラモフォン盤の演奏よりもずっと出来が良い。原因がカラヤンの高圧的なフォーマットにあったのか、それとも何か他に理由があったのかは定かでないが、グラモフォン盤でのリヒテルは今ひとつノリが悪く、控えめに言っても、「ちょっとピアノが渋すぎるんじゃないの」という印象を強く与えるものだった。それがこのムラヴィンスキーとの共演盤では、大ピアニストの本領発揮。豪快無比なフォルティッシモから、メランコリックな内面をしっとりと紡ぎ出すピアニッシモまで、聴く者の期待を存分に満たしてくれる。同曲におけるアルゲリッチの名演を堪能しつつも、「もっとロシア的というか、ごつい響きのピアノを聴きたいなあ」と感じておられる方に、当リヒテル盤はかなりピッタリくるのではないだろうか。

今回買ったMINUET RECORDS盤(428421)は2016年プレスという比較的新しいCDで、24ビット・リマスターが施されている。そのおかげかどうか、音が意想外に良い。1950年代末という古い記録ではあるのだが、これぐらいの音で聴けるなら、よほどオーディオ的に厳しい注文をつけたがる人以外は普通に楽しめるのではないかと思う。(※そう言えば、リヒテルとムラヴィンスキーの共演によるチャイコフスキーはかつて国内盤が一つ出ていた。それが今回のCDと同一音源なのかどうかはもう確認できないが、あれは酷いCDだった。やたらこもったような貧弱な音で、一回聴いただけでイヤになり、即中古売却してしまった。あれも帯かジャケットに「24ビット」と書いてあったような気がするが、はっきり言って、ハイ・ビット化の効果は殆ど感じられなかった。)

まあ、とにもかくにも、このCDで聴かれる演奏の凄さ。世評の高いグラモフォン盤に今ひとつ満たされない思いを抱き続けてきた当ブログ主にとって、これはまさに“干天(かんてん)の慈雨”とも言えるような逸品との出会いであった。

―今回は、これにて。
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解散総選挙2017、オイストラフのチャイコフスキー(1957年)

2017年09月30日 | 演奏(家)を語る
2017年9月。小野寺防衛大臣、河野外務大臣を擁した改造内閣が好評だったにもかかわらず、ある意味“突然”といった感じの、衆議院解散宣言。やはり、朝鮮半島有事が近いのか。だとしたら、野党がガタガタになっている今、選挙で国民の信を得て政権基盤をしっかりさせておこうという判断は正しい。しかし安倍総理の口から出たのは何故か、消費税増税。「税の使い道を変更しようと思うのですが、どうでしょう」という問いかけ。その真意がどこにあるかはわからないが、選挙に打って出る上で、おそらく一番出してはいけない物を出してきた。消費税増税。元々総理に敵対的だった勢力は勿論のこと、当ブログ主のような「基本的には、安倍政権支持」という賛同者までも突き放すような、最悪の提言。厳しい結果が予想される。しかし野党側も、小池新党の出現で今やカオスの極み。ほとんど闇鍋状態。来月22日の投票結果は果たして、どういうものになるのだろうか。

さて、音楽の話。今月、オイストラフのヴァイオリン独奏によるチャイコフスキーの協奏曲CD(MEL CD 10 02261 プレス2014年)を聴いた。これを買ったのは何ヶ月か前だったが、その時に実は、ちょっとした勘違いがあった。随分昔、LPレコードの時代に、オイストラフとコンドラシンが共演したチャイコフスキーの協奏曲演奏を聴いてひたすら圧倒された記憶が今も強く心に残っていて、今回のCDをネット通販サイトで目にした時、「あ、良いもの見つけた。この二人のチャイコフスキーって、土俗感むき出しで凄かったんだよな。あれは録音がメチャ悪かったけど、新しいCDなら音質改善されて、少し聴きやすくなっているかも」と思い、(たまたまそれがセール特価になっていたこともあり)、速攻でポチったのだった。

聴いてみて、ありゃりゃ・・。これは全く別の演奏であると、即座に判明(苦笑)。まずもって、音が良すぎる。w 決して大げさでなく、大ヴァイオリニストが弾いているステージの、その一階席最前列に座っているような気分になる。生々しい音。オイストラフのチャイコフスキーについては、ロジェストヴェンスキーやオーマンディと共演した録音等も昔聴いたけれども、今回のCDほどにヴァイオリン独奏がオンマイクで克明に記録された音源はちょっと珍しいんじゃないかと思える。オイストラフならではの恰幅の良い美音と闊達な表現に、息を詰めて全曲聞き入ってしまった。その意味でこれはオイストラフ・ファン必聴の音源とも言えそうなのだが、その一方で、かなりがっかりさせられたのがオーケストラ伴奏。先日改めて調べ直してみたら、かつてLPで当ブログ主を吹き飛ばしてくれた豪演は多分1958年のライヴで、オケはモスクワ・フィル。今回聴いた演奏は1957年(※日付けまでは不明)の録音で、オケはソヴィエト国立交響楽団(当時)。これら両録音でのコンドラシンの指揮ぶりはちょっと、同じ人とは思えないほどに違う。この57年盤はノリが悪いというか、全体的にどうも覇気が感じられない。オケが引っ込んだような録音であることも影響して、とにかく聴く者の気持ちを盛り上がらせてくれない。本来なら最もワイルドに燃え上がってくれるはずの第3楽章、ここが特に不満。独奏の見事さと、当時のメロディア音源としてはおそらく最高の部類に属する音質を誇りながら、消極的なオーケストラ伴奏が少なからず興をそぐ結果となってしまっている。惜しいなあ、これ・・。

―今回は、これにて。
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いろいろと大変だった8月。マルケヴィチ&ワルシャワ・フィル

2017年08月30日 | 演奏(家)を語る
2017年8月30日。今月はいろいろ、大変だった。先月の31日に右足の小指を柱にド突いて、ぎゃああ!それから今日に至るも、まだ痛みが消えない。そして今月中旬は、8月と思えないような記録的な長雨。1階和室の井草敷きがカビだらけになって、ぎゃああ!全部はがして、大掃除。今なお、敷物は縁側に立てかけたまま。その他、ネット・モデムの不調やら何やら、いろいろと面倒の多い1ヶ月だった。

音楽CDも殆ど聴けずじまいだったが、今月はちょっとマニアックな物を買って聴いた。イーゴリ・マルケヴィチがワルシャワ・フィルを指揮した、1962年のライヴ録音である。ストラヴィンスキーの<春の祭典>、チャイコフスキーの<ロミオとジュリエット>、そしてブリテンの<管弦楽入門>が収められている。ここで聴ける<春の祭典>は複数遺されたマルケヴィチの“春祭(はるさい)”録音の中でも、際立つ爆演として名高いものだ。実際聴いてみると、なるほど噂に違わぬものがある。ただ惜しいことに、オーケストラが下手くそ。完全に水準以下。出すべき所でちゃんとした音が出せない管楽器。妙に音を外す弦楽器。技術レベルが、かなり低い。これがもう少し上手なオーケストラで、これだけの発狂(笑)演奏が行われていたら、間違いなく当ブログの記事ネタになっていたことだろう。ということで、当CDに収録された3曲の中では、チャイコフスキーの<ロミオとジュリエット>が結果的に一番楽しめる物となった。一言で言うと、これは非常に表現主義的なチャイコフスキー。上記“春祭”と同じアプローチによる爆裂型の演奏で、「おおっ、凄いな」と思わせる箇所が随所に出てくる。オケの技術的な問題もストラヴィンスキーの難曲ほどには気にならず、指揮者の鋭い感性が聴き手にビシビシと伝わってくる佳作だった。

―忙しい日々が続く。今回は、これにて。
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修理不能となったMDプレイヤー、プレートルの「バッカナール」

2017年06月28日 | 演奏(家)を語る
2017年6月。長年愛用してきたフルコンポ・サイズのMDプレイヤーが、故障。入れたディスクを読み込めなくなった。いわゆるピックアップの寿命である。メーカーの修理窓口にTELをし、恐る恐る(?)訊いてみた。「今でも、このMDプレイヤーは修理が利きますか」。回答は予想通り。MDは完全に生産が終了しており、ピックアップ部品の在庫も全く無いと。結論、修理不能。がっくりきた。ああ、一つの時代が終わったなと。

さて、CDの話題。ジョルジュ・プレートルの指揮によるサン=サーンスの歌劇<サムソンとデリラ>全曲を、先頃購入した。EMI盤の初期CDで昔持っていて、当時は特に「バッカナール」の豪演に思いっきりはまり、そこばかり何度も何度も繰り返して聴いたものだった。(その後、中古売却。)老匠の追悼記事でこの名演に言及したことがきっかけとなり、また、最新CDの値段が安いこともあって、久しぶりに買い直してみたのだった。やはりという感じで、これもEMI音源を元にしたWarnerロゴのついたCDである。そして、どういういきさつがあってのことかはわからないが、この商品にはEratoのロゴも付いている。

早速、「バッカナール」の部分を聴く。音の印象が随分違う。各楽器の定位や分離がすっきりして聴きやすいものとなり、表情の細かい変化も良くわかるようになった。しかし同時に、かつてのEMI盤から出ていた豪快なパワーや派手な色彩感みたいなものは明らかに減衰し、良くも悪くも“お上品な音”に変わっている。ある意味、いかにもエラートっぽい音の作りと言えなくもない。A・ボールトの一連のボックス・セットでも感じられたことなのだが、Warnerのロゴが付いた旧EMI音源のCDは、往年の演奏イメージをかなり変えてしまうものが多い。それが聴く側にとって良い変化なのか、あるいはそうでないのか、まだ何とも言いきれないところではある。が、当ブログ主個人の感想としては、「あれれ、こんなだったかなあ」と戸惑うパターンの方が多いということは、正直に申し上げておかねばならない。プレートルの指揮による歌劇<サムソンとデリラ>(特に、「バッカナール」)は今でも同曲を代表する名演ではあるが、当ブログ主の古い記憶にある音とは少しばかり違った物になっているようだ。

―というところで、今回はこれにて。
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ロストロポーヴィチ、LSOのショスタコーヴィチ/交響曲第5番

2017年05月30日 | 演奏(家)を語る
2017年5月。今月、とても印象的な名演のCDを聴いた。ロストロポーヴィチがロンドン交響楽団を指揮した、ショスタコーヴィチの<交響曲第5番>である。前回トピックにしたチャイコフスキーはロストロ先生が指揮者としてのキャリアを始めた初期の録音だったが、今回のショスタコーヴィチは2004年7月7~8日に行われた演奏会のライヴ音源。指揮のレベルが桁違いに向上している。

第1、第3楽章で聴かれる静謐(せいひつ)な音にはただならぬ緊張感が漂い、聴く物の息をひそめさせる。当ブログ主は聴きながらふと、ムラヴィンスキーの初来日公演ライヴ(Altus盤)を思い出した。演奏の性格は両者だいぶ違ってはいるのだが、そこに記録された“張りつめた空気”みたいな物が何か共通点を感じさせるのだ。また、楽器間で音の引き渡しをする際の細やかなディミヌエンドなど、EMIのチャイコフスキー録音では殆ど見られなかった丁寧な表現も見られ、ロストロポーヴィチの指揮者としての成熟ぶりが随所に窺われた。

最後の第4楽章でパワー全開の大爆発を見せるところは、ワシントン・ナショナル響とのグラモフォン盤と同様。当ロンドン・ライヴでは(特に後半部分で)かなり遅いテンポが取られ、非常に重々しい表情付けが行われている。今では偽物確定となったヴォルコフの『証言』以来、この曲の解釈の一つとして一定の地位を確保している「強制された歓喜」みたいなものを意識したのだろうか。いずれにしても、この終楽章に込められた演奏家の熾烈な意志には本当に圧倒させられる。

CDの音としては、さすがに2000年代に入ってのDSD録音ということで、アナログ時代のようなヒス・ノイズがない。各楽器の音も細やかに、良く捉えられている。しかし一方で、(会場となったバービカンの音響も関係してのものなのか)、音があまり豊かに響き渡る感じがなく、ステレオ装置の再生音も前に伸びてこない。他のレーベルで言えば、エラートかDENONにあたりによく見られがちな傾向の音。なので第1、第3楽章のピアニッシモ、そのひそやかな響きをじっくり堪能しようとしてアンプのボリュームを大きくしておくと、最後の第4楽章で近所迷惑なほどの(笑)大音響が轟くことになる。まあ、良くも悪くも、ダイナミック・レンジの広い録音ということではあろうけれども、デッカなどの派手な音、前にガンガン出てくる鮮明な音を好む当ブログ主としては、ちょっと不満の感じられるCD音ではある。

―「忙中閑あり」での、今月の投稿。短い物ではあるが、今回は、これにて。
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