前回の続きで、マスネの歌劇<タイス>。今回は、その後半部分の内容。
〔 第2幕第2場 〕 タイスの邸前の広場
夜明け前。アタナエルとタイスの二人。「信仰の道に入ります」と決意を語るタイスに、アタナエルは尼僧院のある方向を示す。そして、「世俗の垢(あか)を捨て去るために、そこへ行く前に邸も財産もすべて焼き払うのだ」とタイスに厳しく命じる。
変わって、ニシアスが仲間たちとパーティ騒ぎをしている場面。ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の音楽が次々と流れる。そこへ、質素ななりをしたタイスを連れてアタナエルが登場。「彼女は神の子に生まれ変わった」と居合わせた者たちに告げる。驚き怒った人々がアタナエルに向けて石を投げつけるが、やがてタイスの邸から炎が上がるのを目にして、皆呆然となる。タイスの決意がただならぬものであることを知ったニシアスは、いきなり金貨をばら撒いて人々の注意をそちらに向け、二人をその場から逃がしてやる。
(※この第2幕第2場の冒頭では何とも異国情緒溢れるメロディが流れて、「気分はエジプト」にさせてくれるのだが、これがいわゆる“異国オペラ”のお約束。別に本物のエジプト音楽を使う必要はなく、なんかそれっぽいね、でいいわけである。w 主役二人のやり取りに続くニシアスたちのディヴェルティスマンでは、まさに絢爛豪華な音楽が展開。ダイナミックな前奏曲、手拍子に乗って流れるエキゾティックな旋律、優雅な舞曲と爆発的な舞曲、さらにはポンキエッリの『時の踊り』を思わせるような一節等、作曲家の充実した筆が冴えわたるところ。)
(※金貨をばら撒いてタイスとアタナエルの二人を逃がすニシアスに、私はちょっとカッコイイものを感じるが、今回採りあげているマゼール盤で同役を歌っているニコライ・ゲッダはまさに圧巻。オーケストラと合唱の大音響が轟く中、彼は際立った存在感を示す。ほとんど、主役の二人を食ってしまっているほどだ。)
〔 第3幕第1場 〕 砂漠の中のオアシス
照りつける太陽。激しい疲労を訴えるタイス。彼女の白い足から血が流れているのを見て、アタナエルは傷口に唇を寄せる。目的地となる尼僧院を指差してタイスを励ますと、アタナエルは井戸の水を汲みに行く。「あの方は厳しいようでも、親切な方」と、タイスは幸福を感じる。ほどなくしてアタナエルが水と果物を持ってくると、タイスは喜んでのどを潤す。やがて、尼僧院長アルビーヌ(Ms)と修道女たちが現われ、二人を迎える。彼女らにタイスを託したアタナエルは、「これで、私の使命は果たされた」と安堵するが、「さようなら、永遠に」というタイスの言葉を耳にした瞬間、彼は愕然とする。「永遠に・・もう会えない?」。
(※このオペラの場合、主役男女の特殊な関係性から、一般的な意味での「愛の二重唱」は求められない。しかし、この砂漠の場面では、ささやかながら、それらしきデュエットを聴くことができる。ちょっと貴重なシーンである。)
(※第3幕第1場の最後、「永遠に、さよならだって?」と、愕然とする思いを吐露するアタナエルの歌の背景に、あの『瞑想曲』の美しい旋律が流れる。で、これがまた、実に切なそうに流れる。どうやらこの名旋律は、単に「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心」を描いているだけでなく、アタナエルの煩悩や身悶えをも表しているようである。このあたりは、全曲を聴いてこそ感じ取れる部分であろう。やっぱりオペラは全曲よね、である。 )
(※今回参照しているマゼール盤では、シェリル・ミルンズがアタナエルを歌っている。ゲッダの名唱、シルズの熱演に比して全体にいまひとつの印象をもたらす彼ではあるが、この場面での歌唱は大変に素晴らしい。泣き声混じりの歌い方が見事ツボにはまって、非常に強い感銘を与える。)
〔 第3幕第2場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋
放心状態のアタナエルが帰ってくる。「タイスの魂を救ったが、私は彼女の虜になってしまった」と、彼は長老パレモンに告白する。若き修道士に神の加護を祈り、長老は立ち去る。やがて、一人になって眠りについたアタナエルは、闇の中でタイスの幻影を見る。彼に甘い誘惑の言葉をささやいて、幻は消える。しかしその後、「タイスが天に召される」という女声合唱が響き、天使たちに囲まれるタイスの姿が見えてくる。「タイスが死んでしまう!会いたい!彼女がほしい」と、アタナエルは半狂乱になって外へ飛び出していく。
(※かつてアタナエルを誘惑したタイスの幻影と嬌声、それに続く天上の女声合唱、そして我を忘れて外へ飛び出すアタナエルの疾走と、この第3幕第2場は短いながらもダイナミックな場面展開を持っている。音楽的には、アタナエルが狂ったように走り出す場面でのたたきつけサウンドが迫力満点。)
〔 第3幕第3場 〕 修道院の中庭
木陰に横たわるタイス。修道女たちの祈りの歌。尼僧院長アルビーヌが、これまでの3ヶ月間にわたるタイスの祈りと贖罪(しょくざい)の日々を回想する。やがて駆けつけたアタナエルに彼女は、タイスの死期が近づいていることを告げる。タイスとアタナエルの再会。アタナエルからの熱烈な愛の言葉も、もはやタイスの耳には入らない。真の安らぎを得た喜びを歌い、神の名を呼びながら、タイスは静かに息を引き取る。その亡骸にすがりつきながら、アタナエルは苦悶の叫びをあげる。
(※この最終場の冒頭で再び『瞑想曲』の旋律が流れるが、それは途中から変容を遂げ、あたかも浄化の音楽のように聞こえてくる。タイスとアタナエルの最後の出会いの場も、この名旋律が美しく効果的に彩る。)
(PS) アナトール・フランスの『舞姫タイス』
娼婦が聖女となるタイスの物語は、10世紀にドイツのとある修道女によって書かれたものらしい。それが後に作家アナトール・フランスの詩(1867年)となり、さらに小説(1890年)になったのだそうだ。小説の方は現在数種の日本語版が出ているが、今私の手元にあるのは、白水社刊『舞姫タイス』(アナトール・フランス著 水野成夫・訳)である。
原作を読んでみると、オペラの台本からカットされた部分、逆にオペラの方だけに見られる場面等、当然のことながら、いくつかの相違点が見つかる。中でも特に大きく違うのは、タイスを信仰に導きながらも自らは迷いに堕ちてしまう修道士の設定である。オペラに登場する青年僧アタナエルは、原作ではもっと歳のいったパフニュスという名の人物。彼はなんと、24人もの弟子たちを抱える立派な修道院長さまである。本稿の締めくくりとして、同書巻末の解説(堀江敏幸氏によるもの)から、この原作とマスネ歌劇との関連に触れた箇所の周辺を、抜粋・編集して書き出してみることにしたい。
{ 結論から先に言えば、これは少年の日の純愛に近い肉体への憧憬を、最後の最後まで見誤っていた冴えない男の片思いにほかならず、ほんとうはすぐにも抱きたい気持ちを、知識と信仰の枷(かせ)で押さえつけていただけの、悲しき恋愛譚なのである。
・・・この誉れ高き修道士が、タイスの幻影のまえに、あるいは本物のタイスのまえに、いつ屈するか。物語の興趣はそこに尽きると言っていい。周知のように、淫蕩の陰に隠れていた踊り子の聖性と、恋を知ったあわれな修道士の堕落のうち、前者をより美しく、後者をより若々しくすれば、マスネが作曲した3幕のオペラになる。・・・現在『タイス』といえばむしろマスネの作品であり、原作者の影はきわめて薄い。「わが幸薄き踊り子を、あなたはもっとも抒情的なヒロインのひとりに高めて下さった」と、アナトール・フランスはマスネに礼を述べているほどだから、翻案には何ほどかの真実が正確に転写されていたのだろう。
しかし、・・・マスネの歌劇には、身悶えするたびにパフニュスの額にうかびあがり、掌をじっと湿らせる、なまぐさい汗の臭いがない。これに対して、アナトール・フランスは、屁理屈の展開に力を注ぎつつ、パフニュスとともにしっかり汗をかいている。宗教の教義と理性のフィルターを通過してにじみ出る汗を、いっしょに味わっている。美しい二重唱では再現できない、むさ苦しいまでの粘液感がある。・・・だとすれば、読者もまた、それに倣うべきではないか。途中から一挙に聖性をまとっていった舞姫にではなく、彼女に惚れた男の掌の脂汗のごとき欲望に寄り添ってこそ、このおどろくべき仮想情痴小説は真価を発揮するに違いない。 }
―以上で、歌劇<タイス>は終了。という訳で(←何が?)、次回もマスネのオペラ。第2幕第1場の終わり部分で狂ったように笑い出すタイスの姿から、ふと連想された作品を採りあげてみることにしたい。
〔 第2幕第2場 〕 タイスの邸前の広場
夜明け前。アタナエルとタイスの二人。「信仰の道に入ります」と決意を語るタイスに、アタナエルは尼僧院のある方向を示す。そして、「世俗の垢(あか)を捨て去るために、そこへ行く前に邸も財産もすべて焼き払うのだ」とタイスに厳しく命じる。
変わって、ニシアスが仲間たちとパーティ騒ぎをしている場面。ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の音楽が次々と流れる。そこへ、質素ななりをしたタイスを連れてアタナエルが登場。「彼女は神の子に生まれ変わった」と居合わせた者たちに告げる。驚き怒った人々がアタナエルに向けて石を投げつけるが、やがてタイスの邸から炎が上がるのを目にして、皆呆然となる。タイスの決意がただならぬものであることを知ったニシアスは、いきなり金貨をばら撒いて人々の注意をそちらに向け、二人をその場から逃がしてやる。
(※この第2幕第2場の冒頭では何とも異国情緒溢れるメロディが流れて、「気分はエジプト」にさせてくれるのだが、これがいわゆる“異国オペラ”のお約束。別に本物のエジプト音楽を使う必要はなく、なんかそれっぽいね、でいいわけである。w 主役二人のやり取りに続くニシアスたちのディヴェルティスマンでは、まさに絢爛豪華な音楽が展開。ダイナミックな前奏曲、手拍子に乗って流れるエキゾティックな旋律、優雅な舞曲と爆発的な舞曲、さらにはポンキエッリの『時の踊り』を思わせるような一節等、作曲家の充実した筆が冴えわたるところ。)
(※金貨をばら撒いてタイスとアタナエルの二人を逃がすニシアスに、私はちょっとカッコイイものを感じるが、今回採りあげているマゼール盤で同役を歌っているニコライ・ゲッダはまさに圧巻。オーケストラと合唱の大音響が轟く中、彼は際立った存在感を示す。ほとんど、主役の二人を食ってしまっているほどだ。)
〔 第3幕第1場 〕 砂漠の中のオアシス
照りつける太陽。激しい疲労を訴えるタイス。彼女の白い足から血が流れているのを見て、アタナエルは傷口に唇を寄せる。目的地となる尼僧院を指差してタイスを励ますと、アタナエルは井戸の水を汲みに行く。「あの方は厳しいようでも、親切な方」と、タイスは幸福を感じる。ほどなくしてアタナエルが水と果物を持ってくると、タイスは喜んでのどを潤す。やがて、尼僧院長アルビーヌ(Ms)と修道女たちが現われ、二人を迎える。彼女らにタイスを託したアタナエルは、「これで、私の使命は果たされた」と安堵するが、「さようなら、永遠に」というタイスの言葉を耳にした瞬間、彼は愕然とする。「永遠に・・もう会えない?」。
(※このオペラの場合、主役男女の特殊な関係性から、一般的な意味での「愛の二重唱」は求められない。しかし、この砂漠の場面では、ささやかながら、それらしきデュエットを聴くことができる。ちょっと貴重なシーンである。)
(※第3幕第1場の最後、「永遠に、さよならだって?」と、愕然とする思いを吐露するアタナエルの歌の背景に、あの『瞑想曲』の美しい旋律が流れる。で、これがまた、実に切なそうに流れる。どうやらこの名旋律は、単に「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心」を描いているだけでなく、アタナエルの煩悩や身悶えをも表しているようである。このあたりは、全曲を聴いてこそ感じ取れる部分であろう。やっぱりオペラは全曲よね、である。 )
(※今回参照しているマゼール盤では、シェリル・ミルンズがアタナエルを歌っている。ゲッダの名唱、シルズの熱演に比して全体にいまひとつの印象をもたらす彼ではあるが、この場面での歌唱は大変に素晴らしい。泣き声混じりの歌い方が見事ツボにはまって、非常に強い感銘を与える。)
〔 第3幕第2場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋
放心状態のアタナエルが帰ってくる。「タイスの魂を救ったが、私は彼女の虜になってしまった」と、彼は長老パレモンに告白する。若き修道士に神の加護を祈り、長老は立ち去る。やがて、一人になって眠りについたアタナエルは、闇の中でタイスの幻影を見る。彼に甘い誘惑の言葉をささやいて、幻は消える。しかしその後、「タイスが天に召される」という女声合唱が響き、天使たちに囲まれるタイスの姿が見えてくる。「タイスが死んでしまう!会いたい!彼女がほしい」と、アタナエルは半狂乱になって外へ飛び出していく。
(※かつてアタナエルを誘惑したタイスの幻影と嬌声、それに続く天上の女声合唱、そして我を忘れて外へ飛び出すアタナエルの疾走と、この第3幕第2場は短いながらもダイナミックな場面展開を持っている。音楽的には、アタナエルが狂ったように走り出す場面でのたたきつけサウンドが迫力満点。)
〔 第3幕第3場 〕 修道院の中庭
木陰に横たわるタイス。修道女たちの祈りの歌。尼僧院長アルビーヌが、これまでの3ヶ月間にわたるタイスの祈りと贖罪(しょくざい)の日々を回想する。やがて駆けつけたアタナエルに彼女は、タイスの死期が近づいていることを告げる。タイスとアタナエルの再会。アタナエルからの熱烈な愛の言葉も、もはやタイスの耳には入らない。真の安らぎを得た喜びを歌い、神の名を呼びながら、タイスは静かに息を引き取る。その亡骸にすがりつきながら、アタナエルは苦悶の叫びをあげる。
(※この最終場の冒頭で再び『瞑想曲』の旋律が流れるが、それは途中から変容を遂げ、あたかも浄化の音楽のように聞こえてくる。タイスとアタナエルの最後の出会いの場も、この名旋律が美しく効果的に彩る。)
(PS) アナトール・フランスの『舞姫タイス』
娼婦が聖女となるタイスの物語は、10世紀にドイツのとある修道女によって書かれたものらしい。それが後に作家アナトール・フランスの詩(1867年)となり、さらに小説(1890年)になったのだそうだ。小説の方は現在数種の日本語版が出ているが、今私の手元にあるのは、白水社刊『舞姫タイス』(アナトール・フランス著 水野成夫・訳)である。
原作を読んでみると、オペラの台本からカットされた部分、逆にオペラの方だけに見られる場面等、当然のことながら、いくつかの相違点が見つかる。中でも特に大きく違うのは、タイスを信仰に導きながらも自らは迷いに堕ちてしまう修道士の設定である。オペラに登場する青年僧アタナエルは、原作ではもっと歳のいったパフニュスという名の人物。彼はなんと、24人もの弟子たちを抱える立派な修道院長さまである。本稿の締めくくりとして、同書巻末の解説(堀江敏幸氏によるもの)から、この原作とマスネ歌劇との関連に触れた箇所の周辺を、抜粋・編集して書き出してみることにしたい。
{ 結論から先に言えば、これは少年の日の純愛に近い肉体への憧憬を、最後の最後まで見誤っていた冴えない男の片思いにほかならず、ほんとうはすぐにも抱きたい気持ちを、知識と信仰の枷(かせ)で押さえつけていただけの、悲しき恋愛譚なのである。
・・・この誉れ高き修道士が、タイスの幻影のまえに、あるいは本物のタイスのまえに、いつ屈するか。物語の興趣はそこに尽きると言っていい。周知のように、淫蕩の陰に隠れていた踊り子の聖性と、恋を知ったあわれな修道士の堕落のうち、前者をより美しく、後者をより若々しくすれば、マスネが作曲した3幕のオペラになる。・・・現在『タイス』といえばむしろマスネの作品であり、原作者の影はきわめて薄い。「わが幸薄き踊り子を、あなたはもっとも抒情的なヒロインのひとりに高めて下さった」と、アナトール・フランスはマスネに礼を述べているほどだから、翻案には何ほどかの真実が正確に転写されていたのだろう。
しかし、・・・マスネの歌劇には、身悶えするたびにパフニュスの額にうかびあがり、掌をじっと湿らせる、なまぐさい汗の臭いがない。これに対して、アナトール・フランスは、屁理屈の展開に力を注ぎつつ、パフニュスとともにしっかり汗をかいている。宗教の教義と理性のフィルターを通過してにじみ出る汗を、いっしょに味わっている。美しい二重唱では再現できない、むさ苦しいまでの粘液感がある。・・・だとすれば、読者もまた、それに倣うべきではないか。途中から一挙に聖性をまとっていった舞姫にではなく、彼女に惚れた男の掌の脂汗のごとき欲望に寄り添ってこそ、このおどろくべき仮想情痴小説は真価を発揮するに違いない。 }
―以上で、歌劇<タイス>は終了。という訳で(←何が?)、次回もマスネのオペラ。第2幕第1場の終わり部分で狂ったように笑い出すタイスの姿から、ふと連想された作品を採りあげてみることにしたい。