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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<タイス>(2)

2008年01月13日 | 作品を語る
前回の続きで、マスネの歌劇<タイス>。今回は、その後半部分の内容。

〔 第2幕第2場 〕 タイスの邸前の広場 

夜明け前。アタナエルとタイスの二人。「信仰の道に入ります」と決意を語るタイスに、アタナエルは尼僧院のある方向を示す。そして、「世俗の垢(あか)を捨て去るために、そこへ行く前に邸も財産もすべて焼き払うのだ」とタイスに厳しく命じる。

変わって、ニシアスが仲間たちとパーティ騒ぎをしている場面。ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の音楽が次々と流れる。そこへ、質素ななりをしたタイスを連れてアタナエルが登場。「彼女は神の子に生まれ変わった」と居合わせた者たちに告げる。驚き怒った人々がアタナエルに向けて石を投げつけるが、やがてタイスの邸から炎が上がるのを目にして、皆呆然となる。タイスの決意がただならぬものであることを知ったニシアスは、いきなり金貨をばら撒いて人々の注意をそちらに向け、二人をその場から逃がしてやる。

(※この第2幕第2場の冒頭では何とも異国情緒溢れるメロディが流れて、「気分はエジプト」にさせてくれるのだが、これがいわゆる“異国オペラ”のお約束。別に本物のエジプト音楽を使う必要はなく、なんかそれっぽいね、でいいわけである。w 主役二人のやり取りに続くニシアスたちのディヴェルティスマンでは、まさに絢爛豪華な音楽が展開。ダイナミックな前奏曲、手拍子に乗って流れるエキゾティックな旋律、優雅な舞曲と爆発的な舞曲、さらにはポンキエッリの『時の踊り』を思わせるような一節等、作曲家の充実した筆が冴えわたるところ。)

(※金貨をばら撒いてタイスとアタナエルの二人を逃がすニシアスに、私はちょっとカッコイイものを感じるが、今回採りあげているマゼール盤で同役を歌っているニコライ・ゲッダはまさに圧巻。オーケストラと合唱の大音響が轟く中、彼は際立った存在感を示す。ほとんど、主役の二人を食ってしまっているほどだ。)

〔 第3幕第1場 〕 砂漠の中のオアシス

照りつける太陽。激しい疲労を訴えるタイス。彼女の白い足から血が流れているのを見て、アタナエルは傷口に唇を寄せる。目的地となる尼僧院を指差してタイスを励ますと、アタナエルは井戸の水を汲みに行く。「あの方は厳しいようでも、親切な方」と、タイスは幸福を感じる。ほどなくしてアタナエルが水と果物を持ってくると、タイスは喜んでのどを潤す。やがて、尼僧院長アルビーヌ(Ms)と修道女たちが現われ、二人を迎える。彼女らにタイスを託したアタナエルは、「これで、私の使命は果たされた」と安堵するが、「さようなら、永遠に」というタイスの言葉を耳にした瞬間、彼は愕然とする。「永遠に・・もう会えない?」。

(※このオペラの場合、主役男女の特殊な関係性から、一般的な意味での「愛の二重唱」は求められない。しかし、この砂漠の場面では、ささやかながら、それらしきデュエットを聴くことができる。ちょっと貴重なシーンである。)

(※第3幕第1場の最後、「永遠に、さよならだって?」と、愕然とする思いを吐露するアタナエルの歌の背景に、あの『瞑想曲』の美しい旋律が流れる。で、これがまた、実に切なそうに流れる。どうやらこの名旋律は、単に「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心」を描いているだけでなく、アタナエルの煩悩や身悶えをも表しているようである。このあたりは、全曲を聴いてこそ感じ取れる部分であろう。やっぱりオペラは全曲よね、である。 )

(※今回参照しているマゼール盤では、シェリル・ミルンズがアタナエルを歌っている。ゲッダの名唱、シルズの熱演に比して全体にいまひとつの印象をもたらす彼ではあるが、この場面での歌唱は大変に素晴らしい。泣き声混じりの歌い方が見事ツボにはまって、非常に強い感銘を与える。)

〔 第3幕第2場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋

放心状態のアタナエルが帰ってくる。「タイスの魂を救ったが、私は彼女の虜になってしまった」と、彼は長老パレモンに告白する。若き修道士に神の加護を祈り、長老は立ち去る。やがて、一人になって眠りについたアタナエルは、闇の中でタイスの幻影を見る。彼に甘い誘惑の言葉をささやいて、幻は消える。しかしその後、「タイスが天に召される」という女声合唱が響き、天使たちに囲まれるタイスの姿が見えてくる。「タイスが死んでしまう!会いたい!彼女がほしい」と、アタナエルは半狂乱になって外へ飛び出していく。

(※かつてアタナエルを誘惑したタイスの幻影と嬌声、それに続く天上の女声合唱、そして我を忘れて外へ飛び出すアタナエルの疾走と、この第3幕第2場は短いながらもダイナミックな場面展開を持っている。音楽的には、アタナエルが狂ったように走り出す場面でのたたきつけサウンドが迫力満点。)

〔 第3幕第3場 〕 修道院の中庭

木陰に横たわるタイス。修道女たちの祈りの歌。尼僧院長アルビーヌが、これまでの3ヶ月間にわたるタイスの祈りと贖罪(しょくざい)の日々を回想する。やがて駆けつけたアタナエルに彼女は、タイスの死期が近づいていることを告げる。タイスとアタナエルの再会。アタナエルからの熱烈な愛の言葉も、もはやタイスの耳には入らない。真の安らぎを得た喜びを歌い、神の名を呼びながら、タイスは静かに息を引き取る。その亡骸にすがりつきながら、アタナエルは苦悶の叫びをあげる。

(※この最終場の冒頭で再び『瞑想曲』の旋律が流れるが、それは途中から変容を遂げ、あたかも浄化の音楽のように聞こえてくる。タイスとアタナエルの最後の出会いの場も、この名旋律が美しく効果的に彩る。)

(PS) アナトール・フランスの『舞姫タイス』

娼婦が聖女となるタイスの物語は、10世紀にドイツのとある修道女によって書かれたものらしい。それが後に作家アナトール・フランスの詩(1867年)となり、さらに小説(1890年)になったのだそうだ。小説の方は現在数種の日本語版が出ているが、今私の手元にあるのは、白水社刊『舞姫タイス』(アナトール・フランス著 水野成夫・訳)である。

原作を読んでみると、オペラの台本からカットされた部分、逆にオペラの方だけに見られる場面等、当然のことながら、いくつかの相違点が見つかる。中でも特に大きく違うのは、タイスを信仰に導きながらも自らは迷いに堕ちてしまう修道士の設定である。オペラに登場する青年僧アタナエルは、原作ではもっと歳のいったパフニュスという名の人物。彼はなんと、24人もの弟子たちを抱える立派な修道院長さまである。本稿の締めくくりとして、同書巻末の解説(堀江敏幸氏によるもの)から、この原作とマスネ歌劇との関連に触れた箇所の周辺を、抜粋・編集して書き出してみることにしたい。

{ 結論から先に言えば、これは少年の日の純愛に近い肉体への憧憬を、最後の最後まで見誤っていた冴えない男の片思いにほかならず、ほんとうはすぐにも抱きたい気持ちを、知識と信仰の枷(かせ)で押さえつけていただけの、悲しき恋愛譚なのである。

・・・この誉れ高き修道士が、タイスの幻影のまえに、あるいは本物のタイスのまえに、いつ屈するか。物語の興趣はそこに尽きると言っていい。周知のように、淫蕩の陰に隠れていた踊り子の聖性と、恋を知ったあわれな修道士の堕落のうち、前者をより美しく、後者をより若々しくすれば、マスネが作曲した3幕のオペラになる。・・・現在『タイス』といえばむしろマスネの作品であり、原作者の影はきわめて薄い。「わが幸薄き踊り子を、あなたはもっとも抒情的なヒロインのひとりに高めて下さった」と、アナトール・フランスはマスネに礼を述べているほどだから、翻案には何ほどかの真実が正確に転写されていたのだろう。

しかし、・・・マスネの歌劇には、身悶えするたびにパフニュスの額にうかびあがり、掌をじっと湿らせる、なまぐさい汗の臭いがない。これに対して、アナトール・フランスは、屁理屈の展開に力を注ぎつつ、パフニュスとともにしっかり汗をかいている。宗教の教義と理性のフィルターを通過してにじみ出る汗を、いっしょに味わっている。美しい二重唱では再現できない、むさ苦しいまでの粘液感がある。・・・だとすれば、読者もまた、それに倣うべきではないか。途中から一挙に聖性をまとっていった舞姫にではなく、彼女に惚れた男の掌の脂汗のごとき欲望に寄り添ってこそ、このおどろくべき仮想情痴小説は真価を発揮するに違いない。 }

―以上で、歌劇<タイス>は終了。という訳で(←何が?)、次回もマスネのオペラ。第2幕第1場の終わり部分で狂ったように笑い出すタイスの姿から、ふと連想された作品を採りあげてみることにしたい。
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歌劇<タイス>(1)

2008年01月06日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<エロディアド>からのつながりで、今回のトピックは歌劇<タイス>。これは、マスネが書いた代表的な“異国オペラ”である。以下、いつものように、全曲の中身を順に見ていくことにしたい。(※参照演奏は、ロリン・マゼール指揮ニュー・フィルハーモニア管、他による1976年のEMI録音。)

―歌劇<タイス>のあらすじ

〔 第1幕第1場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋

修道士たちが神への感謝を捧げつつ、食事をしているところ。そこへ布教活動の長旅からアタナエル(Bar)が帰還し、仲間たちに自分が見聞きしてきたことを語る。「アレクサンドリアの町は、腐っている。タイス(S)という遊女がいて、男たちを地獄に落としている」。さらに彼は、「私もかつては、彼女に惹かれた。しかし、信仰の道に入って平安を見出した。彼女の魂を救ってやりたい」と続ける。それを聞いた修道士の長老パレモン(B)は、「世俗の者たちとは、関わらない方がよい」と諭す。

その後眠りについたアタナエルは、幻影を見る。アレクサンドリアの劇場で、半裸のタイスが踊っている場面だ。それはやがて露骨で煽情的なものになっていくが、幻は突然消え、夜明けの光が差し込む。目を覚ましたアタナエルは、「何という恥!恐ろしいことだ」と苦悩する。信仰の道へタイスを導くことが自分の使命だと決意したアタナエルは、再び退廃の町アレクサンドリアへ向かう。

(※アタナエルの夢の中でセミ・ヌードのタイスが踊りだすところは、さすがに音楽も官能的なムードを漂わせる。しかし、やはりここは映像があってこそ楽しめるシーンだろう。私は残念ながら、マゼールのCDしか知らないが・・。)

〔 第1幕第2場 〕 アレクサンドリアの海岸にあるニシアスの豪邸

貴族ニシアス(T)は、アタナエルが出家する前に付き合っていた友人である。みすぼらしい姿で豪邸を訪れたアタナエルに、ニシアスは懐かしそうな様子で挨拶を交わす。「娼婦タイスの魂を、救ってやりたい」という旧友の言葉を面白く感じた彼は、じゃあ手伝ってやるよと、二人の奴隷女に命じてアタナエルに化粧を施し、きれいな衣装を着けさせる。

そこへ、タイスがやってくる。彼女はニシアスを相手に愛の歌を歌った後、そこに立っている見慣れぬ好青年に興味を示す。アタナエルは早速信仰を説き始めるが、彼女の方は笑って取り合わない。それどころか、「私が信じるのは、愛だけよ」と、アタナエルを誘惑しにかかる。「その手に乗るものか」と必死に抵抗するアタナエルだが、前に夢で見たときのような姿をタイスが見せると、彼は恐怖を感じてその場から逃げ去る。

(※ここで最初に流れる前奏曲は、たいそう素敵である。巧みな管弦楽法によって、いかにもそこが海に臨んでいる場所であることをイメージさせてくれる。さすがは、マスネ先生。ちなみに、この音楽は「これが、恐ろしい罪業の町だ」と歌うアタナエルのアリアにも、効果的な伴奏として使われている。)

〔 第2幕第1場 〕 タイスの邸

取り巻きの者たちを追い払って、一人になったタイス。彼女は鏡を前にして、「本当の幸福とは何か」を自らに問い、女神ヴィーナスに永遠の美を祈る。そこへアタナエルがやって来て、彼女に肉欲ではない精神の愛を説く。タイスはやがて、青年の真剣な説得に心を動かされ始める。やがてアタナエルは借り物の衣装を脱ぎ、自分の正体を明かす。「私はアタナエル。アンティノエの修道士だ」。

情熱的な修道士に向かって、「あたしも、好きでこんなことをしているわけではないわ」と憐れみを乞ううちに、タイスは魂が洗われるような気持ちになってくる。しかし、邸の外からニシアスの声が聞こえてくると、彼女の心は激しくかき乱れる。そして、「朝まで外で待っているぞ」というアタナエルの強い言葉を聞くや、タイスはついに錯乱状態に陥る。

(※タイスの逸楽を表現するような木管の陽気なパッセージに続いて、物思いに沈み始めるヒロインの姿を不安げな弦が描く。ここから「鏡の場」と呼ばれるタイスの聴かせどころが始まるが、それも含めて、第2幕第1場は、このオペラの音楽的ハイライトになっているようだ。特に、アタナエルが自ら正体を明かすところからタイスが錯乱するラストに至る展開はまさに圧倒的で、音楽がまるでヴェルディのオペラみたいな爆発を起こす。マゼール盤のニシアス役はニコライ・ゲッダ、アタナエル役はシェリル・ミルンズ、そしてタイス役はビヴァリー・シルズだが、それぞれに熱演だ。ここではとりわけシルズが凄く、ラスト・シーンで彼女は狂気のような笑い声をあげ、聴く者を驚かせる。そこへもってマゼールの指揮が、これまた疾風怒濤の猛タクト。w 正直言ってマゼールは全く私好みの指揮者ではないのだが、このオペラの演奏は非常にイケてると思う。)

―上記のような激しいエンディングを持つ第2幕第1場が終わった後、ヴァイオリン・ソロを主役にした美しい間奏曲が流れる。これは俗に、『タイスの瞑想曲』という名で知られる名品である。この曲だけなら知っている、という方も多くおられることと思う。ちなみに、マゼール盤では指揮者自身がこのソロを弾いているそうだが、さすがに堂に入ったものである。(※但し、ここでの演奏はあくまでオペラの間奏曲としてのものであり、コンサート・ピースとしての扱いにはなっていない。当然と言えば、当然かもしれないが・・。)

なお、CD付属の短い日本語解説によると、この有名な曲は、「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心を暗示するもの」であると書かれている。ああ、なるほど、という気はするものの、しかし、ただそれだけの使われ方で終わっているものでもなさそうである。そのあたりの補足はオペラの後半を聴きながら、ということで、この続きは次回・・・。
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歌劇<エロディアド>(2)

2007年12月30日 | 作品を語る
前回の続きで、マスネの歌劇<エロディアド>。今回は、その後半部分の内容。

〔 第3幕 〕

ファニュエルの家。占星術師ファニュエルが、洗礼者ジャンは何者なのかと推し量る。「あの男は人間か?それとも神か」。そこへ、いきり立ったエロディアドが登場。「夫の愛情を私から盗んだあの娘の正体も、いつか星が明かしてくれることでしょう」と話す。と同時に彼女は、かつて捨ててしまった自分の娘に対する罪の意識も隠さなかった。ファニュエルは、「ヘロデを惹きつけているあのサロメこそ、エロディアドが捨ててきた実の娘である」という事実を、彼女に分からせる。しかし、エロディアドはそのことが信じられず、激しい勢いで飛び出していく。

寺院に姿を見せたサロメが、洗礼者ジャンへの恋心と深い苦悩を歌う。やがて、そこへ来たヘロデがサロメの存在に気付き、激しく求愛し始める。サロメは毅然とした態度でそれを拒否し、自分には心から愛している人がいるのだと叫ぶ。

(※サロメの苦悩の歌と、それに続くヘロデとの劇的なやり取りは、このオペラのハイライト・シーンの一つ。非常に聴き栄えのする場面である。なお、ヘロデの求愛はここでもやはり、情熱的な青年の恋のアタックみたいに聞こえる。)

僧侶たちが、「人々から救世主と見られているジャンを、処刑せよ」と要求する。ローマ領事ウィテリウスは決定の責任をヘロデに転嫁し、審問を任せる。招じ入れられた洗礼者は、「私の唯一の武器は説法であり、目指すものは自由だ」と弁明し、手を組もうとこっそり囁くヘロデの申し出も拒否する。エロディアドと僧侶たちは、ジャンの磔刑(たっけい)を要求。その時、彼と運命を分かち合おうと決意したサロメが、前に進み出てくる。「サロメの愛する男がまさか、こいつだったとは」とヘロデは怒りに震え、死刑の宣告を行う。ジャンは誇り高い態度で、それを聞き入れる。それぞれの人物がそれぞれの思いを吐露するアンサンブルと、壮麗な合唱の響きをもって、第3幕が終了。

〔 第4幕 〕

洗礼者ジャンの地下牢。死への準備をするジャンのもとに、サロメがやってくる。一緒に死にたいという彼女に対して、ジャンは愛情を感じていることを認める。そしてジャンはサロメに、自分と一緒に死んだりしてはいけないと諭す。情熱的な愛の二重唱。やがて高僧がそこを訪れ、ジャンに処刑のときが来たと告げる。そしてサロメには、ヘロデの命令だから宮殿へ戻るようにと伝える。

宮殿の大ホールでは、ローマ人たちの賑やかな戦勝祝いが行なわれている。エジプト、バビロニア、ガリア、そしてフェニキアの女たちが踊る。そこへサロメが飛び込んできて、ヘロデとエロディアドの二人にジャンの助命を請う。やがて死刑執行人が姿を現すが、彼が持っている刀からは血が滴り落ちていた。ジャンが既に亡き者にされていることを知ったサロメは、短刀を引き抜いてエロディアドを殺そうと迫る。が、そこで彼女は憎む相手から思いがけない言葉を耳にして、立ちすくむ。「助けてちょうだい!私は、あなたの母なのです」。

サロメは、「憎き王妃よ!もし本当にその忌まわしい下腹部から私が出てきたのなら、さあ、この血と私の命を取り返すがいい」と叫び、短刀を自らの体に突き刺して果てる。「何という恐ろしい日」と人々が叫ぶところで、全曲の終了。

(※R・シュトラウスの<サロメ>に馴染んでいる者にとってはちょっとびっくりするような幕切れだが、このフロベール原作による<エロディアド>に見られるテーマは蓋(けだ)し、「神への愛に通じるサロメの純愛と、母子の宿命的なつながりを描くこと」にあったようだ。)

(※補足の話。歌劇<エロディアド>は、いわゆる“グランド・オペラ”としての属性を備えている。今回の締めくくりとして、そのグランド・オペラなる物の特徴について、岡田暁生・著『オペラの運命』【中公新書】の90ページ以降にある詳しい解説から一部編集して、以下に書き出してみることにしたい。

{ グランド・オペラは、主に1830~1848年の七月王政時代にパリの王立オペラ座で上演された、記念碑的な規模を持つ5幕のオペラである。長大な演奏時間と豪華な舞台装置を売り物にし、素材は必ず歴史劇を用いる。・・・あちこちにタブローと呼ばれる群集場面を配し、フランスの伝統に従って第2幕か第3幕にバレエを入れる。 }

歌劇<エロディアド>は4幕構成なので上の定義と完全に符合するわけではないが、グランド・オペラ的な要素は随所に見受けられる。まず、上演時間が約2時間46分にも及ぶ壮大な歴史劇になっていること。第2幕の冒頭で、大がかりな合唱と踊りの場面が見られること。あるいは第4幕、宮殿の大ホールで開かれる戦勝祝いのシーンで、絢爛たる大合唱と色とりどりのバレエ音楽が聴かれること。これらが、その例である。ちなみに、第4幕のパーティ・シーンでは、合唱もバレエも、まるで同郷の先輩グノーの歌劇<ファウスト>を思わせるような音楽が展開される。プラッソン盤では指揮者の名タクトが冴え渡り、ゴキゲンそのもの。また、第1幕と第4幕で聴かれるサロメとジャンの『愛の二重唱』なども、「壮大な歴史ドラマの中で運命に翻弄される男女の姿を、ロマンティックな音楽が彩る」といういかにもグランド・オペラらしい要素をしっかり体現しているものと言ってよいように思う。)

―これで、本年・2007年度の記事投稿はすべて終了。次回の更新は、年が明けてからです。どうぞ皆様、良い年をお迎えくださいますよう。 m( _ _ )m
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歌劇<エロディアド>(1)

2007年12月23日 | 作品を語る
前回「異国オペラ」の代表例とも言えるドリーブの歌劇<ラクメ>を採りあげ、ミシェル・プラッソンの名演盤にも言及した。そこからのつながりで、今回のトピックはマスネの歌劇<エロディアド>(1881年・初演)ということにしてみたい。この大作オペラも、聖書を題材にした一種の異国オペラと見なすことが出来るし、これにもまたプラッソンの指揮による優れた全曲録音(EMI)が存在するからである。(※ちなみにタイトルだが、“エロディアド”という名前にはピンとこなくても、「それは、ヘロディアスのことだよ」と言われれば、「ああ、そうか」と思い当たる方が多いのではないかと思う。何を隠そう、このオペラのタイトル役は、あのサロメの母親なのである。)

フランス・オペラの大作曲家ジュール・マスネは、有名無名取り混ぜて、生涯に25作ものオペラを書いた。その芸術的な価値は別として、<フィデリオ>のような痛々しいオペラを一つしか書けなかったベートーヴェンとは対照的に、マスネは極めて柔軟な作曲の技能に恵まれていた。彼は時代の流行や聴衆の好みをよく理解し、次々と人々に歓迎されるオペラを発表していった。メルヘン・タッチの<サンドリヨン(=シンデレラ)>は当ブログでも少し前に採りあげたが、その他にもワグナー風、ヴェルディ風、イタリア・ヴェリズモ風など、実に多様なスタイルの作品を書き上げている。今話題にしている異国オペラのジャンルも当然、手がけた。ヴァイオリンのための『瞑想曲』がよく知られた<タイス>は古代エジプトが舞台、作曲家若き日の大作<ラオールの王>はインドが舞台、そして今回の<エロディアド>は聖書の物語世界が舞台になっている異国オペラというわけである。

以下、歌劇<エロディアド>各幕の大まかな中身を見ていくことにしたい。今回参照している演奏録音は、ミシェル・プラッソン指揮トゥールーズ・キャピトル管弦楽団&合唱団、他による1994年のEMI盤である。

―歌劇<エロディアド>のあらすじ

〔 第1幕 〕

ヘロデ王の宮殿の中庭。夜明け。商人たちの一団が到着し、挨拶を交わす。一方で、ユダヤ人とサマリア人が言い争っている。そこへ、カルデアの占星術師ファニュエル(B)が現われ、「より大きな共通の敵ローマ人にこそ、目を向けよ」と、彼らを諌(いさ)める。人々が退場するのと入れ替わりに、サロメ(S)が登場。王妃エロディアド(=ヘロディアス)と生き別れになっている娘はこのサロメであるという事実を、ファニュエルは知っている。しかし、当の二人は、そのことを知らない。「昔ローマで私を捨てた母をずっと捜しているのだけど、まだ見つからない。・・・今私は、ジャン(=洗礼者ヨハネ)という人に惹かれているの」といった話を、サロメはファニュエルに語る。

(※このオペラに於けるサロメは、純粋で一途な娘といったイメージになっていて、R・シュトラウス作品のサロメとは全くキャラクターが違う。ドラマティックな力も要求されるが、本質的にはリリックな声が望まれるという、なかなか難しい役どころである。プラッソン盤では、一時期引く手あまたの人気を誇ったシェリル・ステューダーが歌っている。私の感想としては、ここでの彼女の歌唱はまあまあの出来といった感じだ。むしろ、もうひとりの重要キャラであるファニュエルを演じるホセ・ファン・ダムが良い味を出している。前回採りあげたプラッソンの<ラクメ>に於けるニラカンタや、かつて語ったデュトワの指揮によるフォーレの<ペネロプ>でのエウマイオス、そしてここでのファニュエルなど、この人はフランス物のオペラ録音に良い物が多いような気がする。そう言えば、カラヤンのEMI盤<ペレアスとメリザンド>にもゴロー役で出ていた。もっとも、あのゴローはちょっと強すぎたようにも思えるが・・。)

ヘロデ王(Bar)が物思いに耽っている。美しい娘サロメへの淫らな欲情が、彼の心を駆り立てている。そこへ妻のエロディアド(Ms)がやってきて、荒野で一人の野蛮な男に侮辱を受けたと怒りをぶちまける。そして自分の名誉のためにその男、洗礼者ジャン(=ヨハネ)を処刑してほしいと夫に迫る。しかしヘロデは、「洗礼者ジャンは、ユダヤの民からの信望が厚い。そう簡単には殺せない」と答える。

(※このオペラに登場するヘロデも、上記のサロメと同様、R・シュトラウス作品に出て来る同一キャラとはだいぶ様子が違う。何とも若やいだ感じのするヘロデである。マスネがこの役に持っていたイメージは、情熱的な青年王みたいなものだったのかもしれない。「サロメに対する淫らな欲情を歌う」といっても、その歌は何とも晴朗な印象を与えるものになっているのだ。ちなみに、プラッソン盤で同役を歌っているのは、人気のバリトン歌手トマス・ハンプソン。「ああ、なるほどね」という感じである。)

そこへジャン(T)本人が姿を現し、ヘロデとエロディアドに激しい非難の言葉を浴びせる。その二人が退散した後に、サロメが登場。彼女はジャンへの想いを打ち明けるが、「その情熱を、来(きた)るべき新しい夜明けへの想いに昇華させなさい」と、彼はサロメを諭(さと)す。マスネらしい美しい旋律が流れる場面。

(※R・シュトラウスの<サロメ>に出て来るヨハネは、日本語でヨカナーンと表記されるバリトンの役柄だが、このマスネ作品ではスピントの効いた声を持つテノール歌手が歌う。“屹立する鉄壁のモラル”みたいなシュトラウス作品の洗礼者とは対照的に、ここに出て来るジャンは、より生身の人間を思わせる英雄的キャラクターになっている。)

〔 第2幕 〕

宮殿の中にあるヘロデ王の部屋。奴隷たちが王のために踊り、媚薬を彼に渡す。妖しげな薬に酔い痴れながら、ヘロデはサロメへの欲情を歌う。そこへファニュエルがやってきて、「近いうちに、動乱がありますぞ」と、ヘロデに警戒を促す。しかし王は、「ローマ人を撃退するために洗礼者ジャンの人気を利用し、そのあとで本人を始末すればいい」と考えており、その実現に自信を持っている。そこから場面は変わって、宮殿の外の広場。ヘロデは人々の愛国心を巧みに焚きつけ、戦いに向けての熱狂的な雰囲気を作り出す。

(※奴隷の女たちによるしっとりしたコーラスが流れる第2幕の冒頭は、大変に印象的だ。続いて、サロメへの想いに悶々とするヘロデに一人のバビロニア娘が歌を歌いながら媚薬を手渡すのだが、プラッソン盤ではこの役をマルティヌ・オルメダというソプラノ歌手が演じている。他の録音でこの人の名に触れたことはないのだが、当CDを聴いた限りで言えば、とても魅力的な歌手である。)

(※宮殿の外の広場に場面が変わる時に、ヘロデを讃える群衆の力強い男声合唱が流れる。で、これが何というか、ちょっとベルリオーズ風の曲。ひょっとして、同郷の大先輩に敬意を表したということか?w )

舞台背景からトランペットが響き、ローマ領事ウィテリウス(B)の到着が告げられる。ウィテリウスは信教の自由を認めることを人々に呼びかけ、賞賛を受ける。やがて、サロメと洗礼者ジャンが揃って登場。カナン人の女たち、そして子供たちが、「主に栄光あれ」と『オザンナ』を歌う。これがローマ人を讃える合唱と交錯して音楽が大きく盛り上がるところで、第2幕が終了。

―この続き、第3幕と第4幕の中身については、次回・・・。
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歌劇<ラクメ>

2007年11月17日 | 作品を語る
今回のトピックは、歌劇<ラクメ>。『鐘の歌』という超絶的なソプラノ・アリアがよく知られた、レオ・ドリーブの傑作オペラである。と言っても、今回これを選ぶことになった理由は、至って単純。前回語った松村禎三の<阿知女(アチメ)>とタイトルがちょっと似ているので、つい連想してしまったというだけのことである。

●「異国オペラ」の典型としての<ラクメ>

当ブログでは以前、国民歌劇と称されるオペラの作品例をいくつか語ったことがあった。実はその国民歌劇とごく近いところに、異国オペラと呼ばれるジャンルが存在する。ヴェルディの<アイーダ>、あるいはプッチーニの<蝶々夫人>や<トゥーランドット>といったあたりが、おそらくその最も有名な例になろうかと思う。この分野について、岡田暁生・著『オペラの運命』(中公新書)の141ページ以降に詳しい解説が載っている。そこから適宜編集して一部だけ引用させていただくと、大体次のような感じになる。

{ 異国オペラは19世紀に、とりわけフランスで大流行したジャンルである。これは、文字通り異国を舞台にするオペラで、「白人の冒険家と現地の娘との悲恋」という筋が多い。舞台装置に大金をかけて「現地」を再現し、観客に冒険旅行の気分を満喫させようとする。舞台はアフリカ、中国、オリエントなど、遠いエキゾチックな国なら何でもありだ。・・・これはヨーロッパ列強による植民地の拡大、そして帝国主義の副産物とも言うべき万博の流行の、音楽における並行現象であった。・・・この異国オペラの音楽的正体は、結局国民オペラと一緒である。基本様式はイタリア・オペラないしフランスのグランド・オペラで、ところどころそれに五音階や珍しげな打楽器を混ぜているだけなのだ。 }

今回採りあげる歌劇<ラクメ>は、良くも悪くも、この異国オペラなるものの典型例と言える作品である。

●歌劇<ラクメ>のあらすじ

〔 第1幕 〕 インドのバラモン教寺院の庭

時代は19世紀。イギリス統治下のインド。バラモン教の高僧ニラカンタ(B)は、宗教弾圧を行なうイギリス人を激しく憎んでいる。このオペラの主人公ラクメ(S)は、そのニラカンタの娘である。召使たちに留守を任せて彼が出かけた後、イギリスの青年仕官ジェラルド(T)が仲間たちと談笑しながらやってくる。美しい娘ラクメの噂話で盛り上がった彼らは、好奇心からニラカンタの邸の庭に忍び込む。「やっぱり危ないから、帰ろうよ」と言って仲間たちはすぐに去るが、ジェラルドは一人そこに残る。彼はラクメが置いていったと思われる宝石に見入り、佳人へ思いをはせる。そこへラクメが姿を現し、異国人の侵入に驚く。「出て行きなさい」と彼女はジェラルドに命じるが、青年の情熱的な言葉を受けて心にときめきをおぼえる。ジェラルドが立ち去った後に帰宅したニラカンタは、異教徒が自分の邸に侵入したらしいことを知って激怒する。

(※ここではまず、前奏曲に続く開幕の合唱がしっとりとした佳曲である。しかし、それ以上に、ラクメが付き添いの女性マリカと歌う舟歌の二重唱「ジャスミンと薔薇の群れ咲くアーチ」が美しい。およそインドらしい音楽ではないが、ヨーロッパ人が思い描く東洋の楽園のイメージがどんなものだったかがよく伝わってくる。)

〔 第2幕 〕 市場が開かれている町の広場

町はバザーで大賑わい。自分の邸に侵入した異教徒を見つけ出そうと、物乞いに変装したニラカンタが、娘のラクメを連れて登場。辻歌いの娘に変装したラクメは、父親の命ずるままに、有名な『鐘の歌』を歌う。やがて彼女は人ごみの中にジェラルドの姿を見つけ、気を失いかける。そんな彼女に気付いてジェラルドが助けに来たところで、ニラカンタは探す相手を見つけ出したと確信する。

(※第2幕の開幕シーンは、ビゼーの<カルメン>第4幕の冒頭を髣髴とさせる。様々な商品が並べられ、売り手と買い手がにぎやかに呼び交わす市場の情景だ。ほどなくすると、『テラナ』『レクタ』『ペルシャ舞曲』、そして『コーダ』といった4つの舞曲が続いて演奏される。最初の『テラナ』が、いかにもバレエ<コッペリア>を書いた人の曲らしいなあと思わせる。3つ目の『ペルシャ舞曲』も面白い曲で、くねくねとした木管の旋律がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出し、そこに合唱が華を添える。)

(※「若いパリアの娘はどこへ」と歌いだすラクメの『鐘の歌』は、このオペラの中でも飛びぬけて有名な曲だ。コロラトゥーラの技巧を誇るソプラノ歌手が、よくリサイタルなどで採りあげるレパートリーでもある。ところで、この『鐘の歌』というのは、後世に結構大きな影響を残した曲のように思える。例えば、マスネの歌劇<サンドリヨン(=シンデレラ)>やレスピーギの歌劇<沈鐘>といった作品の中で、この有名なアリアによく似た箇所が出て来るのだ。これについては、当ブログでかつて触れたことがあるけれども。)

追われたジェラルドは人ごみの中に姿を消すが、その後ラクメが召使と二人だけになったところへ再びやって来る。そこからラクメとジェラルドによる愛の二重唱となり、前奏曲にも使われている美しいメロディが流れる。しかし、そこへバラモンの僧たちが現れ、怒れるニラカンタがジェラルドを短刀で刺して去って行く。

〔 第3幕 〕 森の中の隠れ家

森の隠れ家の中で、ラクメがジェラルドの怪我の看病をしながら、優しい子守唄を歌う。やがて目を覚ましたジェラルドは、「ああ、この森の奥深く、愛の翼が飛んできてくれた」と、感謝の気持ちを歌う。そんなやり取りの後、“永遠の愛が得られる聖なる水”を汲みにいこうと、ラクメは外に出かけて行く。その留守中に、ジェラルドの仲間の一人であるフレデリック(Bar)が現われる。「我々の部隊は間もなく、ここを出発する。君も早く隊に戻れ」。ラクメへの想いに後ろ髪を引かれつつも、ジェラルドは隊に戻ることを決意。

やがて水を汲んで戻ってきたラクメは、そこで愛する人の心変わりを鋭く察知する。「あなたは、さっきまでのあなたじゃない」。すべてが終わったと覚悟した彼女は、毒草タチュラの花を噛む。驚いたジェラルドはその場で聖なる水をラクメと飲み交わし、永遠の愛を誓う。そこへニラカンタが現れ、ジェラルドを殺そうとする。しかし、ラクメはそれを制し、「彼は神聖な水を飲み、私たちの仲間になりました。神様への償いは、私の死をもって・・・」と告げた後、静かに息を引き取る。ニラカンタが最愛の娘の亡骸を抱き、「我が娘は、永遠の生命を得た。今、天の光の中に」と叫ぶところで、全曲の終了。

●歌劇<ラクメ>の2つの名盤

この美しいオペラには現在数種の全曲盤が存在するが、ここではその中から、新旧2つの代表的名盤を挙げておくことにしたい。まずは、リチャード・ボニングの指揮でジョーン・サザーランドが主演した1967年のデッカ盤。これはLP時代から、非常に評価の高いものである。至難なアリアをしっかりと歌いこなすサザーランドの歌唱も見事だし、ジェラルド役のアラン・ヴァンゾも絶好調と言っていいぐらいに立派。また、ニラカンタをガブリエル・バキエが演じているのも、おいしいポイントだ。この主役3人が揃って好調な上にボニングの指揮も華麗で、当作品のギャラントな雰囲気を十全に描き出している。これは今でも、歌劇<ラクメ>のスタンダードな名盤と呼んでいいものだと思う。

(※参考までに、ボニング&サザーランドのコンビによる<ラクメ>全曲には、1968年11月のフィラデルフィア・ライヴというのもあって、現在Bella VoceというレーベルからCDが発売されている。ニラカンタ役のバキエがデッカ盤以上の力演を示し、サザーランドもライヴならではの緊張感の中でスリリングな歌唱を展開している。ただ、いかにもアメリカの地方公演といった感じでオーケストラも合唱も粗く、録音もあまり良好な物とは言い難い。聴衆の熱狂はよく伝わってくるが、やはりこれは、一部の熱心なファン向けの音源だろう。)

もう一つの名盤は、ミシェル・プラッソンの指揮でナタリー・デッセーが主演した1997年のEMI盤。これも、大変に優れた全曲盤である。まず何と言っても、デッセーが歌うラクメが強烈な印象を残す。この人のラクメは俗世間的な人間臭さから解放され、さらには肉体性からも解放されて、“そこに極めて純粋な何かがいる”という特別な感銘を与える。別言すれば、彼女の歌はどれも信じられないほどに美しく、且つ人間離れしていて、まるで超自然的なエレメント(精霊)がそこにいるみたいに感じられるのである。しかし、人間離れしていると言っても、往年のマド・ロバンのような、“機械仕掛けのナイチンゲール”的無機質性はなく、魂をほしがった水精ウンディーネさながらの不思議な魅惑をふりまくのだ。

デッセー以外の出演者では、特にニラカンタ役のホセ・ファン・ダムが良い。声はさすがに盛りを越えているものの、いかにもヴェテランらしい堂々たる歌唱を聴かせてくれる。他の若手歌手陣も、総じて水準に達した出来栄え。そして、全体をまとめるプラッソンの指揮ぶりも素晴らしい。ボニングに負けないくらい豊かで劇的な響きをオーケストラから引き出しつつ、この人ならではの清涼感みたいなものが、独特の世界を生み出している。場面に応じたテンポや呼吸の変化も見事だ。プラッソン盤はたいそう個性的でありながら、なお且つ非常に強い説得力を持った稀有の名演であると言ってよい。
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