今回のトピックは、歌劇<ラクメ>。『鐘の歌』という超絶的なソプラノ・アリアがよく知られた、レオ・ドリーブの傑作オペラである。と言っても、今回これを選ぶことになった理由は、至って単純。前回語った松村禎三の<阿知女(アチメ)>とタイトルがちょっと似ているので、つい連想してしまったというだけのことである。
●「異国オペラ」の典型としての<ラクメ>
当ブログでは以前、国民歌劇と称されるオペラの作品例をいくつか語ったことがあった。実はその国民歌劇とごく近いところに、異国オペラと呼ばれるジャンルが存在する。ヴェルディの<アイーダ>、あるいはプッチーニの<蝶々夫人>や<トゥーランドット>といったあたりが、おそらくその最も有名な例になろうかと思う。この分野について、岡田暁生・著『オペラの運命』(中公新書)の141ページ以降に詳しい解説が載っている。そこから適宜編集して一部だけ引用させていただくと、大体次のような感じになる。
{ 異国オペラは19世紀に、とりわけフランスで大流行したジャンルである。これは、文字通り異国を舞台にするオペラで、「白人の冒険家と現地の娘との悲恋」という筋が多い。舞台装置に大金をかけて「現地」を再現し、観客に冒険旅行の気分を満喫させようとする。舞台はアフリカ、中国、オリエントなど、遠いエキゾチックな国なら何でもありだ。・・・これはヨーロッパ列強による植民地の拡大、そして帝国主義の副産物とも言うべき万博の流行の、音楽における並行現象であった。・・・この異国オペラの音楽的正体は、結局国民オペラと一緒である。基本様式はイタリア・オペラないしフランスのグランド・オペラで、ところどころそれに五音階や珍しげな打楽器を混ぜているだけなのだ。 }
今回採りあげる歌劇<ラクメ>は、良くも悪くも、この異国オペラなるものの典型例と言える作品である。
●歌劇<ラクメ>のあらすじ
〔 第1幕 〕 インドのバラモン教寺院の庭
時代は19世紀。イギリス統治下のインド。バラモン教の高僧ニラカンタ(B)は、宗教弾圧を行なうイギリス人を激しく憎んでいる。このオペラの主人公ラクメ(S)は、そのニラカンタの娘である。召使たちに留守を任せて彼が出かけた後、イギリスの青年仕官ジェラルド(T)が仲間たちと談笑しながらやってくる。美しい娘ラクメの噂話で盛り上がった彼らは、好奇心からニラカンタの邸の庭に忍び込む。「やっぱり危ないから、帰ろうよ」と言って仲間たちはすぐに去るが、ジェラルドは一人そこに残る。彼はラクメが置いていったと思われる宝石に見入り、佳人へ思いをはせる。そこへラクメが姿を現し、異国人の侵入に驚く。「出て行きなさい」と彼女はジェラルドに命じるが、青年の情熱的な言葉を受けて心にときめきをおぼえる。ジェラルドが立ち去った後に帰宅したニラカンタは、異教徒が自分の邸に侵入したらしいことを知って激怒する。
(※ここではまず、前奏曲に続く開幕の合唱がしっとりとした佳曲である。しかし、それ以上に、ラクメが付き添いの女性マリカと歌う舟歌の二重唱「ジャスミンと薔薇の群れ咲くアーチ」が美しい。およそインドらしい音楽ではないが、ヨーロッパ人が思い描く東洋の楽園のイメージがどんなものだったかがよく伝わってくる。)
〔 第2幕 〕 市場が開かれている町の広場
町はバザーで大賑わい。自分の邸に侵入した異教徒を見つけ出そうと、物乞いに変装したニラカンタが、娘のラクメを連れて登場。辻歌いの娘に変装したラクメは、父親の命ずるままに、有名な『鐘の歌』を歌う。やがて彼女は人ごみの中にジェラルドの姿を見つけ、気を失いかける。そんな彼女に気付いてジェラルドが助けに来たところで、ニラカンタは探す相手を見つけ出したと確信する。
(※第2幕の開幕シーンは、ビゼーの<カルメン>第4幕の冒頭を髣髴とさせる。様々な商品が並べられ、売り手と買い手がにぎやかに呼び交わす市場の情景だ。ほどなくすると、『テラナ』『レクタ』『ペルシャ舞曲』、そして『コーダ』といった4つの舞曲が続いて演奏される。最初の『テラナ』が、いかにもバレエ<コッペリア>を書いた人の曲らしいなあと思わせる。3つ目の『ペルシャ舞曲』も面白い曲で、くねくねとした木管の旋律がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出し、そこに合唱が華を添える。)
(※「若いパリアの娘はどこへ」と歌いだすラクメの『鐘の歌』は、このオペラの中でも飛びぬけて有名な曲だ。コロラトゥーラの技巧を誇るソプラノ歌手が、よくリサイタルなどで採りあげるレパートリーでもある。ところで、この『鐘の歌』というのは、後世に結構大きな影響を残した曲のように思える。例えば、マスネの歌劇<サンドリヨン(=シンデレラ)>やレスピーギの歌劇<沈鐘>といった作品の中で、この有名なアリアによく似た箇所が出て来るのだ。これについては、当ブログでかつて触れたことがあるけれども。)
追われたジェラルドは人ごみの中に姿を消すが、その後ラクメが召使と二人だけになったところへ再びやって来る。そこからラクメとジェラルドによる愛の二重唱となり、前奏曲にも使われている美しいメロディが流れる。しかし、そこへバラモンの僧たちが現れ、怒れるニラカンタがジェラルドを短刀で刺して去って行く。
〔 第3幕 〕 森の中の隠れ家
森の隠れ家の中で、ラクメがジェラルドの怪我の看病をしながら、優しい子守唄を歌う。やがて目を覚ましたジェラルドは、「ああ、この森の奥深く、愛の翼が飛んできてくれた」と、感謝の気持ちを歌う。そんなやり取りの後、“永遠の愛が得られる聖なる水”を汲みにいこうと、ラクメは外に出かけて行く。その留守中に、ジェラルドの仲間の一人であるフレデリック(Bar)が現われる。「我々の部隊は間もなく、ここを出発する。君も早く隊に戻れ」。ラクメへの想いに後ろ髪を引かれつつも、ジェラルドは隊に戻ることを決意。
やがて水を汲んで戻ってきたラクメは、そこで愛する人の心変わりを鋭く察知する。「あなたは、さっきまでのあなたじゃない」。すべてが終わったと覚悟した彼女は、毒草タチュラの花を噛む。驚いたジェラルドはその場で聖なる水をラクメと飲み交わし、永遠の愛を誓う。そこへニラカンタが現れ、ジェラルドを殺そうとする。しかし、ラクメはそれを制し、「彼は神聖な水を飲み、私たちの仲間になりました。神様への償いは、私の死をもって・・・」と告げた後、静かに息を引き取る。ニラカンタが最愛の娘の亡骸を抱き、「我が娘は、永遠の生命を得た。今、天の光の中に」と叫ぶところで、全曲の終了。
●歌劇<ラクメ>の2つの名盤
この美しいオペラには現在数種の全曲盤が存在するが、ここではその中から、新旧2つの代表的名盤を挙げておくことにしたい。まずは、リチャード・ボニングの指揮でジョーン・サザーランドが主演した1967年のデッカ盤。これはLP時代から、非常に評価の高いものである。至難なアリアをしっかりと歌いこなすサザーランドの歌唱も見事だし、ジェラルド役のアラン・ヴァンゾも絶好調と言っていいぐらいに立派。また、ニラカンタをガブリエル・バキエが演じているのも、おいしいポイントだ。この主役3人が揃って好調な上にボニングの指揮も華麗で、当作品のギャラントな雰囲気を十全に描き出している。これは今でも、歌劇<ラクメ>のスタンダードな名盤と呼んでいいものだと思う。
(※参考までに、ボニング&サザーランドのコンビによる<ラクメ>全曲には、1968年11月のフィラデルフィア・ライヴというのもあって、現在Bella VoceというレーベルからCDが発売されている。ニラカンタ役のバキエがデッカ盤以上の力演を示し、サザーランドもライヴならではの緊張感の中でスリリングな歌唱を展開している。ただ、いかにもアメリカの地方公演といった感じでオーケストラも合唱も粗く、録音もあまり良好な物とは言い難い。聴衆の熱狂はよく伝わってくるが、やはりこれは、一部の熱心なファン向けの音源だろう。)
もう一つの名盤は、ミシェル・プラッソンの指揮でナタリー・デッセーが主演した1997年のEMI盤。これも、大変に優れた全曲盤である。まず何と言っても、デッセーが歌うラクメが強烈な印象を残す。この人のラクメは俗世間的な人間臭さから解放され、さらには肉体性からも解放されて、“そこに極めて純粋な何かがいる”という特別な感銘を与える。別言すれば、彼女の歌はどれも信じられないほどに美しく、且つ人間離れしていて、まるで超自然的なエレメント(精霊)がそこにいるみたいに感じられるのである。しかし、人間離れしていると言っても、往年のマド・ロバンのような、“機械仕掛けのナイチンゲール”的無機質性はなく、魂をほしがった水精ウンディーネさながらの不思議な魅惑をふりまくのだ。
デッセー以外の出演者では、特にニラカンタ役のホセ・ファン・ダムが良い。声はさすがに盛りを越えているものの、いかにもヴェテランらしい堂々たる歌唱を聴かせてくれる。他の若手歌手陣も、総じて水準に達した出来栄え。そして、全体をまとめるプラッソンの指揮ぶりも素晴らしい。ボニングに負けないくらい豊かで劇的な響きをオーケストラから引き出しつつ、この人ならではの清涼感みたいなものが、独特の世界を生み出している。場面に応じたテンポや呼吸の変化も見事だ。プラッソン盤はたいそう個性的でありながら、なお且つ非常に強い説得力を持った稀有の名演であると言ってよい。
●「異国オペラ」の典型としての<ラクメ>
当ブログでは以前、国民歌劇と称されるオペラの作品例をいくつか語ったことがあった。実はその国民歌劇とごく近いところに、異国オペラと呼ばれるジャンルが存在する。ヴェルディの<アイーダ>、あるいはプッチーニの<蝶々夫人>や<トゥーランドット>といったあたりが、おそらくその最も有名な例になろうかと思う。この分野について、岡田暁生・著『オペラの運命』(中公新書)の141ページ以降に詳しい解説が載っている。そこから適宜編集して一部だけ引用させていただくと、大体次のような感じになる。
{ 異国オペラは19世紀に、とりわけフランスで大流行したジャンルである。これは、文字通り異国を舞台にするオペラで、「白人の冒険家と現地の娘との悲恋」という筋が多い。舞台装置に大金をかけて「現地」を再現し、観客に冒険旅行の気分を満喫させようとする。舞台はアフリカ、中国、オリエントなど、遠いエキゾチックな国なら何でもありだ。・・・これはヨーロッパ列強による植民地の拡大、そして帝国主義の副産物とも言うべき万博の流行の、音楽における並行現象であった。・・・この異国オペラの音楽的正体は、結局国民オペラと一緒である。基本様式はイタリア・オペラないしフランスのグランド・オペラで、ところどころそれに五音階や珍しげな打楽器を混ぜているだけなのだ。 }
今回採りあげる歌劇<ラクメ>は、良くも悪くも、この異国オペラなるものの典型例と言える作品である。
●歌劇<ラクメ>のあらすじ
〔 第1幕 〕 インドのバラモン教寺院の庭
時代は19世紀。イギリス統治下のインド。バラモン教の高僧ニラカンタ(B)は、宗教弾圧を行なうイギリス人を激しく憎んでいる。このオペラの主人公ラクメ(S)は、そのニラカンタの娘である。召使たちに留守を任せて彼が出かけた後、イギリスの青年仕官ジェラルド(T)が仲間たちと談笑しながらやってくる。美しい娘ラクメの噂話で盛り上がった彼らは、好奇心からニラカンタの邸の庭に忍び込む。「やっぱり危ないから、帰ろうよ」と言って仲間たちはすぐに去るが、ジェラルドは一人そこに残る。彼はラクメが置いていったと思われる宝石に見入り、佳人へ思いをはせる。そこへラクメが姿を現し、異国人の侵入に驚く。「出て行きなさい」と彼女はジェラルドに命じるが、青年の情熱的な言葉を受けて心にときめきをおぼえる。ジェラルドが立ち去った後に帰宅したニラカンタは、異教徒が自分の邸に侵入したらしいことを知って激怒する。
(※ここではまず、前奏曲に続く開幕の合唱がしっとりとした佳曲である。しかし、それ以上に、ラクメが付き添いの女性マリカと歌う舟歌の二重唱「ジャスミンと薔薇の群れ咲くアーチ」が美しい。およそインドらしい音楽ではないが、ヨーロッパ人が思い描く東洋の楽園のイメージがどんなものだったかがよく伝わってくる。)
〔 第2幕 〕 市場が開かれている町の広場
町はバザーで大賑わい。自分の邸に侵入した異教徒を見つけ出そうと、物乞いに変装したニラカンタが、娘のラクメを連れて登場。辻歌いの娘に変装したラクメは、父親の命ずるままに、有名な『鐘の歌』を歌う。やがて彼女は人ごみの中にジェラルドの姿を見つけ、気を失いかける。そんな彼女に気付いてジェラルドが助けに来たところで、ニラカンタは探す相手を見つけ出したと確信する。
(※第2幕の開幕シーンは、ビゼーの<カルメン>第4幕の冒頭を髣髴とさせる。様々な商品が並べられ、売り手と買い手がにぎやかに呼び交わす市場の情景だ。ほどなくすると、『テラナ』『レクタ』『ペルシャ舞曲』、そして『コーダ』といった4つの舞曲が続いて演奏される。最初の『テラナ』が、いかにもバレエ<コッペリア>を書いた人の曲らしいなあと思わせる。3つ目の『ペルシャ舞曲』も面白い曲で、くねくねとした木管の旋律がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出し、そこに合唱が華を添える。)
(※「若いパリアの娘はどこへ」と歌いだすラクメの『鐘の歌』は、このオペラの中でも飛びぬけて有名な曲だ。コロラトゥーラの技巧を誇るソプラノ歌手が、よくリサイタルなどで採りあげるレパートリーでもある。ところで、この『鐘の歌』というのは、後世に結構大きな影響を残した曲のように思える。例えば、マスネの歌劇<サンドリヨン(=シンデレラ)>やレスピーギの歌劇<沈鐘>といった作品の中で、この有名なアリアによく似た箇所が出て来るのだ。これについては、当ブログでかつて触れたことがあるけれども。)
追われたジェラルドは人ごみの中に姿を消すが、その後ラクメが召使と二人だけになったところへ再びやって来る。そこからラクメとジェラルドによる愛の二重唱となり、前奏曲にも使われている美しいメロディが流れる。しかし、そこへバラモンの僧たちが現れ、怒れるニラカンタがジェラルドを短刀で刺して去って行く。
〔 第3幕 〕 森の中の隠れ家
森の隠れ家の中で、ラクメがジェラルドの怪我の看病をしながら、優しい子守唄を歌う。やがて目を覚ましたジェラルドは、「ああ、この森の奥深く、愛の翼が飛んできてくれた」と、感謝の気持ちを歌う。そんなやり取りの後、“永遠の愛が得られる聖なる水”を汲みにいこうと、ラクメは外に出かけて行く。その留守中に、ジェラルドの仲間の一人であるフレデリック(Bar)が現われる。「我々の部隊は間もなく、ここを出発する。君も早く隊に戻れ」。ラクメへの想いに後ろ髪を引かれつつも、ジェラルドは隊に戻ることを決意。
やがて水を汲んで戻ってきたラクメは、そこで愛する人の心変わりを鋭く察知する。「あなたは、さっきまでのあなたじゃない」。すべてが終わったと覚悟した彼女は、毒草タチュラの花を噛む。驚いたジェラルドはその場で聖なる水をラクメと飲み交わし、永遠の愛を誓う。そこへニラカンタが現れ、ジェラルドを殺そうとする。しかし、ラクメはそれを制し、「彼は神聖な水を飲み、私たちの仲間になりました。神様への償いは、私の死をもって・・・」と告げた後、静かに息を引き取る。ニラカンタが最愛の娘の亡骸を抱き、「我が娘は、永遠の生命を得た。今、天の光の中に」と叫ぶところで、全曲の終了。
●歌劇<ラクメ>の2つの名盤
この美しいオペラには現在数種の全曲盤が存在するが、ここではその中から、新旧2つの代表的名盤を挙げておくことにしたい。まずは、リチャード・ボニングの指揮でジョーン・サザーランドが主演した1967年のデッカ盤。これはLP時代から、非常に評価の高いものである。至難なアリアをしっかりと歌いこなすサザーランドの歌唱も見事だし、ジェラルド役のアラン・ヴァンゾも絶好調と言っていいぐらいに立派。また、ニラカンタをガブリエル・バキエが演じているのも、おいしいポイントだ。この主役3人が揃って好調な上にボニングの指揮も華麗で、当作品のギャラントな雰囲気を十全に描き出している。これは今でも、歌劇<ラクメ>のスタンダードな名盤と呼んでいいものだと思う。
(※参考までに、ボニング&サザーランドのコンビによる<ラクメ>全曲には、1968年11月のフィラデルフィア・ライヴというのもあって、現在Bella VoceというレーベルからCDが発売されている。ニラカンタ役のバキエがデッカ盤以上の力演を示し、サザーランドもライヴならではの緊張感の中でスリリングな歌唱を展開している。ただ、いかにもアメリカの地方公演といった感じでオーケストラも合唱も粗く、録音もあまり良好な物とは言い難い。聴衆の熱狂はよく伝わってくるが、やはりこれは、一部の熱心なファン向けの音源だろう。)
もう一つの名盤は、ミシェル・プラッソンの指揮でナタリー・デッセーが主演した1997年のEMI盤。これも、大変に優れた全曲盤である。まず何と言っても、デッセーが歌うラクメが強烈な印象を残す。この人のラクメは俗世間的な人間臭さから解放され、さらには肉体性からも解放されて、“そこに極めて純粋な何かがいる”という特別な感銘を与える。別言すれば、彼女の歌はどれも信じられないほどに美しく、且つ人間離れしていて、まるで超自然的なエレメント(精霊)がそこにいるみたいに感じられるのである。しかし、人間離れしていると言っても、往年のマド・ロバンのような、“機械仕掛けのナイチンゲール”的無機質性はなく、魂をほしがった水精ウンディーネさながらの不思議な魅惑をふりまくのだ。
デッセー以外の出演者では、特にニラカンタ役のホセ・ファン・ダムが良い。声はさすがに盛りを越えているものの、いかにもヴェテランらしい堂々たる歌唱を聴かせてくれる。他の若手歌手陣も、総じて水準に達した出来栄え。そして、全体をまとめるプラッソンの指揮ぶりも素晴らしい。ボニングに負けないくらい豊かで劇的な響きをオーケストラから引き出しつつ、この人ならではの清涼感みたいなものが、独特の世界を生み出している。場面に応じたテンポや呼吸の変化も見事だ。プラッソン盤はたいそう個性的でありながら、なお且つ非常に強い説得力を持った稀有の名演であると言ってよい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます