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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<オベロン>(1)

2006年05月06日 | 作品を語る
歌劇<魔弾の射手>がとりわけ有名な作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786~1826)が、生涯最後に書き上げたオペラは、<オベロン>(1826年)だった。これは、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』でお馴染みになっている妖精の王様をタイトル役に据えた、一篇のファンタジーとも呼べそうな作品である。国境を越え、人間界と妖精界の垣根をも越えて、若い恋人同士の変わらぬ愛情が試されるというお話だ。

このオペラには現在数種類の全曲CDが存在するが、私が持っているのは、LP時代から評判の良かったクーベリック盤(G)と、何年か前に出たばかりの新しいガーディナー盤(Ph)である。前者はドイツ語版で後者は英語版という違いもあるが、演奏もまた、それぞれに名演ながらかなり異なった表情を見せている。そのあたりについては、これから物語の流れを追いながら順次見ていくことにしたい。またクーベリック盤は、語りの部分に専門の俳優たちを複数揃えてセリフのやり取りをさせているが、ガーディナー盤は、一人のナレーターが手短に場面説明をするという形で演奏している。実はその語りの部分で扱われるストーリーは、両者あちこちで随分違った内容になっているのだが、当ブログではそこは掘り下げないことにしたいと思う。音楽の内容には、とりあえず関係ないからである。

―歌劇<オベロン>のあらすじと、二つの演奏の比較

〔 第1幕 〕

●有名な序曲に続いて、語り役による前口上。「妖精の王オベロン様は、お妃のティタニア様と喧嘩をしてしまいました。心変わりしないのは男と女のどちらかであるか、ということを巡って意見が対立したのです。そしてついにお二人は、『ともに心変わりせず、二人揃って貞節を守りきれる男女のペアを見つけるまでは、お互いに仲直りしない』というところまで行ってしまったのです」。やがてオベロン(T)が登場し、「何という誓いを立ててしまったのか」と、嘆く気持ちを歌う。そこへ妖精たちがやって来て、オベロンに言う。「王様、貞節を試すのに好適な人間のカップルがおりますよ。フランスはボルドーに住むヒュオンと、バグダッド太守の娘レツィアです」。

●オベロンの魔法によって、ヒュオン(T)の眼前にレツィア(S)の姿が映し出される。そして、彼女の短い歌。「私は水のほとりにいる。沈んでしまう前に、助けてください」。ヒュオンと彼の従者シェラスミン(Bar)の二人は、妖精たちのサポートを受けながら、彼女のいるバグダッドに向かう。その道すがらヒュオンは、自分の身の上と決意の程を力強いアリアで歌う。

(※このオペラに於ける指揮者クーベリックの音楽作りの特徴は、冒頭の序曲からすでにはっきりと示されている。端的に言うなら、「清涼感溢れる美しい響きの中で、音楽がしなやかに、且つみずみずしく息づいている」という感じになろうか。実を言うと、私はクーベリックが指揮した<魔弾の射手>全曲にはあまり感心しなかったのだが、ここでの演奏スタイルには非常に好感が持てる。これは、<オベロン>という歌劇が持つある種の特殊性を浮き彫りにしている現象である、とも言えそうな気がする。そのあたりのもっと具体的な説明、及びガーディナー盤の音楽的特徴については、次回改めて語ってみたい。)

(※ここでヒュオンが歌うアリアの中には、序曲で聴かれる有名な旋律の一部が出て来る。具体的に言えば、このアリアの中間部、「今、柔らかなる輝きが、我が命の波の上に踊る」と歌い出す部分が、序曲主部の第2主題第1部として使われているのである。クラリネット・ソロが使われるあの美しいメロディのところだ。)

(※クーベリック盤でヒュオンを歌っているのは、若き日のプラシド・ドミンゴ。例によって、持ち前の熱い声を活かした堂々たる歌唱を聴かせる。輪郭のくっきりした、立派な歌唱だ。ガーディナー盤で同役を歌っているヨーナス・カウフマンよりも、歌の見事さではドミンゴの方に軍配を上げたいぐらいである。ただ、私の個人的な感想としては、ちょっと引っかかる部分がなくもない。具体的に言えば、その声質である。ドイツ系オペラを歌った時のドミンゴの声に、どうも私はある種の違和感を持ってしまうのだ。このあたりは、聴く人それぞれだとは思うが・・。)

●場面は変って、バグダッド。太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィア(※英語版では、レイザ)が歌う。「我が君よ、早く来てください。そして、この束縛から私を開放して。・・・私はずっと、あなたのものです」。そこへ、彼女の侍女であるファティメ(※英語版では、ファティマ)(Ms)がやって来て、「あの方が来ます」と告げる。そこから、「何という幸福でしょう」と歌う、女性二人による二重唱。やがて、合唱が夜を告げる。「遅くなりましたよ。もう、お休みなさい」。トルコ兵の軍楽隊が賑々しく前を通り過ぎて行くところで、第1幕が終了。

(※クーベリック盤でレツィアを歌っているのは、先頃他界したビルギット・ニルソン。何故彼女がこの役で起用されたかの理由は次回明らかになるが、この録音で彼女は思いがけずリリックな表情を見せる。上で今ご紹介したファティメとの二重唱などが特にそうだ。ただ、ガーディナー盤で歌っているヒレヴィ・マルティンペルトの精妙な歌唱に比べると、ニルソン女史の歌はどうしても大味に聞こえてしまう。そのあたりは、致し方ないところだろう。)

(※第1幕の最後で、トルコ兵の軍楽隊が背景の音楽を作っているというのは、なかなかに興味深い。トルコ音楽趣味が窺われるものはモーツァルトやベートーヴェン等の作品にもいくつかあるが、ウェーバーもまた、そんな趣味を持つ一人だったようである。彼が若い頃に書いた短編歌劇<アブ・ハッサン>などは、その最たる好例と言えるものだろう。ちなみに、そこでの主人公アブ・ハッサンの妻の名前も、ファティメである。バグダッドを舞台にしたこのお気楽コメディについては、近い将来、また回を改めて話題にしたいと思う。)

―この続きは、次回・・。
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<ペネロペの救出>と<哀れな水夫>

2006年05月01日 | 作品を語る
今回は、《オデュッセウス・シリーズ》の最終回。これまでに扱ってきた3つのオペラ系作品以外で、オデュッセウスとペネロペの二人に関連する(あるいは、するのではないかと思われる)クラシック音楽作品について、少し補っておきたい。

●まず1935年に生まれたイギリスの作曲家ニコラス・モーの管弦楽曲に、そのものズバリのタイトルで、<オデュッセイア(Odyssey)>というのがあるようだ。サイモン・ラトルの指揮による2枚組CD(EMI)が出ているのを、ネット通販サイトで確認した。これはタイトルの通り、オーケストラが演奏の長旅(?)を続ける作品らしい。一応さわりだけちょっと試聴してみたものの、全曲を聴いたわけではないので、これについては何も語れない。評論家の片山杜秀氏によると、「1972年から’85年まで、13年も費やして書かれた大作で、・・(中略)・・この曲の濃厚な響きってやつは、はちきれんばかりのハイ・テンションな音楽がズンズン沸騰してゆく種類のもの。手に汗握る100分間」だそうである。

●そのモーさんと同じイギリスの作曲家によるものとして、ベンジャミン・ブリテンの劇音楽<ペネロペの救出>(1943年)というのが次に思い当たる。これはちょっとユニークな作品で、全曲中どこを見てもペネロペ、ウリッセ、あるいは求婚者たちといったお馴染みの人物が誰も出て来ないのである。管弦楽の伴奏を背景にした女神アテナ役の語りによって、次々と場面説明が行われるのだ。そして時々、アテナとヘルメスとアポロン役の歌手がちょっとだけ歌をはさむ、というような形で演奏されるのである。時間にして36分ほどの曲で、何年か前にようやく世界初録音となるCDが登場したのだった。ケント・ナガノの指揮によるエラート盤である。ちなみに、そのCDでアテナの語りを務めていたのは、往年の名歌手ジャネット・ベイカー。この作品の大まかな内容は以下の通りで、当ブログでも大体お馴染みになっている展開だ。

第1部 : オデュッセウスがトロイア戦争へ出かけてからのイタカの荒廃ぶりが、アテナによって語られる。「子供たちは飢えて死に、娘たちは強奪者たちに仕え、夜の寝床の相手までさせられている」。続いて、オデュッセウスの帰郷を予告する語り。「ペネロペよ、そなたの願いは聞き入れられた」。そして、パイエケス人たちに送り届けられたオデュッセウスをアテナは起こし、老人に化けるよう指示する。「オデュッセウスよ、あせらずに時が来るのを待て」。

第2部 : 女神アテナは羊飼いエウマイオスに、オデュッセウスの息子テレマコスが帰ってきたことを伝える。続いて、イタカを荒らしている男たちにアテナは警告する。「この老人を見よ」。それから、弓引き競技でオデュッセウスが男たちを次々に誅殺していく情景が語られる。最後は、オデュッセウスがペネロペを抱きしめる場面が描かれて、全曲の終了。

ナガノ盤CDの解説書によると、作曲家ブリテンは、「ペネロペの貞節の勝利」というテーマが非常に気に入っていたらしい。背景となる音楽にも、いろいろと手の込んだ技巧が使われている。中には、「女神アテナの力によって老人に変化させられるオデュッセウスの姿を、主題の変容によって描く」といったような、楽譜が分析できる専門家でないと分からないような部分もあるが、全体的には、語りの内容によく合った分かりやすい音楽づけが行なわれている。例えば、アルト・サクソフォンが受け持つ「ペネロペの悲しみ」とか、トランペットが示す「アテナの動機」などは、素人が聴いてもすぐに把握出来るものである。

●さて、妻のペネロペが主役になっているオペラとしては、前回まで語ったフォーレ作品の他にも、ロルフ・リーバーマンの歌劇<ペネロペ>(1954年)というのが、とりあえずあるようだ。昨年のいつ頃だったか、ジョージ・セルの指揮によるライヴ録音CD(Orfeo盤)をネット通販サイトで見つけたのだが、現段階では残念ながら未聴である。そんな訳で、この作品については本でちょっと調べた程度のことしか書けないのだが、これは2部構成になっている物らしい。最初は神話のとおりで、まずトロイア戦争後のギリシャが舞台になって始まる。しかし第2部ではそれが一転して、第二次世界大戦後のイタリアに舞台が移る。そこでペネロペは再婚していた、という展開だそうである。神話の時代から「貞節の鑑(かがみ)」のように称揚されてきたペネロペも、この作品では何か別の事情を抱えているようだ。それ以上の事は残念ながら分からないが、いかにも20世紀的な感じがする。

●20世紀的と言えば、詩人ジャン・コクトーが台本を書き、ダリウス・ミヨーが作曲した短編歌劇<哀れな水夫>(1927年)はどうだろうか。この強烈なブラック・ジョーク(?)には、オデュッセウスとペネロペの物語をふと想起させるような要素がいくつか見受けられるのだが・・。実際のところがどうなのかは分からないので、とりあえず参考出品ということで、概要だけを下に記しておこうと思う。

{ 港町の小さなバー。女は、大金を手に入れるといって船出したまま15年も帰らぬ夫を待っている。女と一緒に暮らしている父親は、隣の家に住んでいる男と再婚したらどうかと勧めるが、彼女は聞かない。ある日ひょっこり、夫が帰ってくる。しかし彼は真っ直ぐには帰宅せず、一旦隣の家に落ち着く。そして隣人と話をしているうちに、ある作り話を思いつく。

次の晩彼は、別人に変装して妻のもとに現れる。そして彼女に、「私は裕福な人間なのですが、あなたの夫は借金を返せずにおります。それで、今も身を隠しているのです」といったような作り話を聞かせる。その後、彼は部屋を借りて、そこでぐっすりと眠り込む。

やがてそこへ女が忍び込んできて、彼の頭上からハンマーを振り下ろす。その所持品から金(きん)を奪うと、彼女は父親を呼び、頭蓋骨が砕けた男の死体を見せる。それから二人がかりで、哀れな水夫の遺体を庭まで運び出し、せーの、で井戸に放り込む。 }

この作品には、作曲者ミヨー自身の指揮による全曲CD(Accord盤)がある。演奏時間は、約32分。同じミヨーが書いた別の歌劇<オルフェの不幸>が併録されている1枚物だ。<哀れな水夫>は、トラック番号22~24に当たる部分。添え付けの薄い解説書に歌詞ページはなく、上に書いたような内容の仏&英語によるあらすじだけが載っている。

全体を聴きとおした感想としては、やはり最後のトラック24が一番のハイライトと言えそうだ。まず冒頭で、ティンパニの不気味な連打音に金管のアクセントが添えられた音楽が聴かれる。それまで軽妙で、どこかのったりとしたリズムが中心だったこの短いオペラの中で、ここだけは異様な雰囲気。やがて男の死体を前にして、女と父親の対話が始まる。「客人は寝ているのか」「いいえ、死んでいるわ。あたしが殺したの」「わしらは終わりだ」「大丈夫よ。この男を知っている人なんか、この町にはいないもの」「しかし、どうやって?」「ハンマーで」といったやり取りが聞き取れる。そして最後を締めくくるのが、次のような女のセリフ。「お父さんは、こいつの足を持って。あたしは、首の方を持つから。さあ、運び出しましょう。そして、うちの人を助けるのよ」。最後に流れるミヨーの音楽がまた何ともわびしげで、まるで、「あ~ぁ、トホホ・・」とでも言っているかのように聞こえる。

歌詞ページがないため、登場人物たちの詳しいやり取りや話の事情が十分に分からないのが残念だが、いずれにしてもこれは、マニア向けの一品(ひとしな)であろう。それと、少し前にネット通販サイトで見つけたのだが、エリザベト・クロード・ジャケ・ド・ラ・ゲール(1665~1729)という長い名前を持った女流作曲家が、<Le Sommeil d’Ulisse(=ユリシーズの眠り)>という曲を書いているらしい。さらに他にも、オデュッセウスとペネロペに関連するクラシック音楽作品は、調べれば何か出て来るんじゃないかと思う。しかしとりあえず、当ブログでの《オデュッセウス・シリーズ》はここで、区切りをつけたい。

次回は、これまで語ってきたペネロペの物語の中でキー・ワードになっていた貞節という言葉から連想されるいくつかのオペラ作品の中から、先々ちょっと話が広がりそうな物を一つ採り上げてみることにしたい。「男と女ではどちらが、より貞節を守れるか」ということを巡って妻と喧嘩した王様が、国境を越え、さらに現実とおとぎ世界の境界をも越えて、若い恋人同士の心を試すことにするというお話である。これは序曲が大変有名なオペラだが、当ブログではしっかりと、その全曲の内容を追っていきたいと思う。
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フォーレの<ペネロプ>(3)

2006年04月27日 | 作品を語る
今回は、フォーレ作曲による3幕からなる抒情詩<ペネロプ>の最終回。ラスト・シーンの展開と、全曲CDについてのお話。

〔 第3幕 ~残り部分 〕

●第4場。アンティノオスと他の求婚者たちが、会場の準備を娘たちに命じている。エウリュマコスはふと、頭上を飛ぶカラスの様子を見て不吉なものを感じるが、アンティノオスらに鼓舞されて気を取り直す。そこへ老人姿のウリッセがやって来て、「喉が渇きました」と言う。それに対して男たちは、「このジジイに浴びるほど酒を飲ませてやれ。うんと酔わせりゃ、いい笑いものに出来るぜ」と、ウリッセをからかって盛り上がる。

(※第4場の冒頭では、リリック・テナーのアンティノオスがペネロプに決意させる日が来た喜びを歌うのだが、これがまた、悪役の歌らしからぬ優しい曲。「こんなにも清々しい朝に、自分の若さを感じられるということの何と甘美なこと」。これ一つをとっても、つくづくこの作品は抒情詩の世界だなあと思う。)

●第5場。ペネロプが沈んだ様子で登場する。その彼女に、アンティノオスが迫る。「さあ、我々の中から一人をお選び下さい。そうすれば、他の者はすべて去ります。そしてあなたに、新しい幸福が訪れるのです」。しかしペネロプは、「私はあなた方のすべてを、等しく軽蔑しています」と答える。「俺たちを侮辱しても無駄だ」とエウリュマコスが反駁すると、ペネロプは、「我が夫ウリッセにしか引けなかったこの弓を、一番見事に引いた方の求婚を受けましょう」と宣言し、弓引き競技を男たちに持ちかける。男たちは次々に勇んで挑戦するが、全員が失敗する。その後、老人姿のウリッセが見事その弓で矢を放ち、まわりを驚かせる。そして、「我が弓の標的は、お前たちだ」と叫ぶや、ウリッセは逃げ惑う求婚者たちを追い回し、次々と殺していく。エウマイオスほかの羊飼いたちも、それっ、とばかりに加勢する。

●第6場は、「正義が行われたのだ」というウリッセの勝利宣言。

●第7場。素顔に戻ったウリッセと再会し、ペネロプは喜ぶ。羊飼いエウマイオスは、「これは、夢か」と一瞬ためらった後、「ウリッセ様とペネロプ様を再び会わせて下さった大神ゼウスに、栄光あれ」と叫ぶ。そしてゼウスを讃える力強い合唱が響くところで、全曲の終了。

(※最後の第7場には、ドラマトゥルギーの面で注目に値するポイントがある。この作品には、帰ってきたウリッセのことをペネロプが疑うというシーンがないのだ。音楽を聴いていると感じられることなのだが、フォーレは、「ウリッセが求婚者たちを誅殺する場面から、最後の幕切れまで」を、一気にたたみ込む様な展開にしたかったのではないかと思われる。第5~7場は、例えて言えば、ワグナーの<ワルキューレ>第1幕のラスト・シーンみたいな音楽をフォーレが箱庭的なスケールで書いてみた、といったような風情が感じられるのだ。だから、第6場で勝利宣言をする素顔のウリッセを見て、ペネロプが、「本当に、あなたなのですか」と疑ってブレーキをかけたら、せっかくの勢いが完全に削がれてしまうわけである。このあたりは、音楽やドラマの勢いを生かすための必然的な選択だったように思われる。)

(※ドラマトゥルギーについて言えば、この作品にはもう一つ、特徴的な事がある。それは、ウリッセの息子テレマコスが全く登場して来ないということである。フォーレにとっては、主役ペネロプと乳母エウリュクレア、ペネロプに言い寄る男たち、そして帰郷したウリッセと彼に助力するエウマイオス、とこれだけ揃えばもう十分だったのだろう。)

(※第3幕の音楽については、ウリッセが求婚者たちを葬っていく場面に迫力が欠けているとか、全体的にも箱庭の小さなスケールに収まってしまっているような印象が拭いきれないとか、聴く人によっては、物足りなく感じられる要素があるかもしれない。しかし、ウリッセが弓を引く場面の背景音楽や、最後を締めくくる終曲部分はなかなか聴かせるものに仕上がっている。特に終曲は、ワグナーの影響を受けたものだろうか。音楽が壮麗に盛り上がった後、寄せては返す波のような弦が徐々にディミヌエンドしていく終わり方が、どこかワグナー作品の終り方を思わせるのである。勿論、音楽としてはずっとずっと小ぶりな物なのだが、そのかわりこちらには合唱が加わることで彩が添えられている。印象的なエンディングだ。)

―フォーレの<ペネロプ>の全曲CD

私が持っている全曲CDは、シャルル・デュトワ&モンテカルロ・フィル、他によるエラート盤。大変優秀な演奏が聴けるものである。率直に言って、ここでのオーケストラは一流とは言い難いものだが、デュトワの優れた指揮によって非常に美しい響きが引き出されている。これは指揮者の勝利という感じであろう。

主役のペネロプを歌っているのは、ソプラノのジェシー・ノーマン。包容力と余裕のある優しさ、そこに王妃然とした力強さを巧みに同居させて、非常に立派な歌唱を聴かせている。夫ウリッセの声は、張りのあるリリック・テナーだが、ここではヴェテラン歌手のアラン・ヴァンゾが歌っている。このタイプのテナー歌手は発声に無理をしないおかげか、現役寿命の長い人が多いようだ。ここでも好演。羊飼いエウマイオス役は、日本でも知名度の高いホセ・ファン・ダムである。柔らかい表現が上手な人だ。その他の脇役陣で目を引く歌手としては、求婚者の一人エウリュマコスを歌っているフィリップ・フッテンロッハーがいる。ミシェル・コルボの指揮による同じフォーレの<レクイエム>旧録音(エラート盤)で、柔らかいバリトン独唱を聴かせていた人である。

一方、この優れた全曲盤について、敢えて一つ不満を言うなら、それは音質だ。音が極めて控えめにとられていて、全然伸びてこないのである。エラート・レーベルにはよくある現象なのだが、ここでもアンプのボリュームをだいぶ大きくして聴かなければならない。尤も、大きめのボリューム設定で聴き始めて落ち着いてくれば、だんだんと気にはならなくなってくるので、そんなに重大な問題ではないのだが。

―次回は、《オデュッセウス・シリーズ》の最終回。オデュッセウスとペネロペの二人に関連のある別の作品に、ちょっと触れてみたいと思う。
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フォーレの<ペネロプ>(2)

2006年04月24日 | 作品を語る
前回の続き。フォーレ作曲による3幕の抒情詩<ペネロプ>から、第1幕の残り部分と第2幕全部、そして第3幕途中までの内容である。

〔 第1幕~残り部分 〕

●第8場はまず、ペネロプの嘆き。「私の本当の不幸は、明日から始まるのだわ」。そこへ老人姿のウリッセが来て、「あなたの夫はきっと、今夜帰ってきますよ」と励ます。老人の正体を知る乳母エウリュクレアも、彼に同調する。

●第9場は、ウリッセの独唱。「愛しい妻よ。苦しみ続けた妻よ。もう間もなく、その悲しみから解放されるだろう。そなたの夫が、ここに帰って来たのだから」。

●第10場。ペネロプが老人姿のウリッセに、「夜風は冷たいですから」と外套をかけに来る。ここで、第1幕が終了。

(※第9場でのウリッセの独唱は、短いながらも力強い歌である。彼の声は、リリック・テナー。当ブログでおなじみになった作品の例で言えば、<イスの王様>のミリオと同じ種類の声だ。続く第10場、ペネロプが外套を持ってくるところは、優しさを身上とするこの作品らしい、目立たないながらも印象的な場面である。想像されるその光景も、そこで鳴っている音楽も、本当に優しさに満ちている。)

〔 第2幕 〕

●第1場は、海を見晴るかす丘の上。羊飼いたちの小屋が並んで見える。明るい月。老羊飼いのエウマイオスがしみじみと、黄昏の情緒を歌う。やがて通りかかった仲間の羊飼いと、おやすみの挨拶を交わす。

(※第1場ではまず、黄昏の情景を描くフォーレの音楽が美しい。特に、冒頭に流れるファゴットの音型は、第2幕全体の最重要モチーフと言ってよいものだろう。柔らかいバスの声で歌われる羊飼いエウマイオスの歌も、これだけで独立した一つの歌曲にしてもいいぐらいの仕上がり。歌詞も格調高い。フランス語の原詞をもとに一部分だけ、私なりに拙い和訳を試みるなら、「吹き過ぐる風はおだやかな陶酔に満ち、物憂げなる松の木々をして歌わしむ」といった感じになろうか。)

●第2場は、宮廷の中庭。ペネロプと乳母エウリュクレア、侍女たち、そして老人に化けているウリッセと羊飼いエウマイオスが、火を囲んで腰掛けている。ペネロプは、「この場所で私は、夫のウリッセと幸福なひと時を過ごしたものでした」と回想する。続いてエウマイオスが、「もしウリッセ様に再会出来ぬまま、このジジイが死んだら、どうぞ、あの羊飼いはよくやってくれていたとお伝えください」と、ペネロプに語る。それからペネロプは、老人姿のウリッセにあれこれと質問を始める。「あなたのお名前は?」「どこからいらしたのですか?」「私の夫のことを知るようになったいきさつは?」・・・。ウリッセは巧みな作り話を聞かせて、ペネロプを納得させる。しかし、今の自分の姿をふと思い、ウリッセはふと涙ぐむ。その彼を慰めるペネロプも、次の瞬間求婚者たちのことを思い出して激昂し、そして意気消沈する。「我が夫ウリッセが帰ってくれば、あんな男たちなんか!でも、夫はこの故郷も、私のことも忘れてしまっているかも知れません」。ウリッセが、ペネロプを励ます。「あなたの夫はきっと、帰ってきます」。乳母エウリュクレアが、「夜も更けました。中に入りましょう」とペネロプたちを促す。求婚者たちに突きつけられた期限を思い、絶望の言葉をつぶやくペネロプ。ウリッセが再び励ます。冒頭で聴かれた木管のテーマが回帰して、静かに第2場が終了。

(※第2場は、心ある人たちが集う暖かい情景である。ホメロスの『オデュッセイア』では【第19歌】にあたる部分だが、これもフォーレ作品ならではの場面選択という感じだ。そしてここでは、劇的な盛り上がりと静謐な美しさが交錯して、非常にメリハリのある、起伏に富んだ音楽が展開する。作曲家フォーレ渾身の一篇である。私個人的には、この第2幕第2場が音楽的な意味で一番のハイライトになっているんじゃないかと感じている。)

●第3場。ウリッセが羊飼いたちのところへ行って、ついにその正体を明かす場面。「起きよ、羊飼いたち!そして私に、これから力を貸してくれ」。ウリッセの姿を見て、彼の帰郷を喜ぶ羊飼いたち。ここで第2幕が終了。

(※第3場では一転して、力強い音楽が展開される。英雄的なウリッセの声に、羊飼いたちのパワフルな男声合唱。ごく短い場面ながら、フォーレがこれほどに劇的な曲を書いていたというのは、初めて聴く方にはちょっと驚きかも知れない。)

〔 第3幕~前半 〕

●第1場は、ウリッセが一人、宮殿の大広間に現れるところ。彼は求婚者たちを誅殺する下準備として、ペネロプが明日座る予定になっている座席の下に剣を隠す。

●第2場は、ウリッセと乳母エウリュクレアの対話。一睡もせずに押し黙ったままのペネロプを心配する乳母。「他の誰にも引けない弓によって、ペネロプにも笑顔が戻るだろう」とウリッセは、乳母に言って聞かせる。

●第3場。羊飼いエウマイオスが、ウリッセに伝える。「求婚者たちが、私らのところに来ましたよ。『明日は結婚式になるから、ご馳走から何から、すべて支度しておけ』なんてねえ。勿論、引き受けておきました。でもウリッセ様の計画は、私らしか知りません。皆、準備は出来ています。ご命令が出たらすぐに、行動に移れます」。ウリッセはエウマイオスに感謝の言葉を述べ、当日の段取りを伝える。

(※第1場は、第2幕の締めくくりを引き継ぐようにして勇ましい音楽が続く。ウリッセがその英雄的な性格を発揮する場面だ。また第3場でのエウマイオスも、老人らしからぬ力強さを発揮して、ウリッセを援護する喜びを歌う。いよいよ時が来たと、ドラマが盛り上がってくるところである。)

―この続き、第4場から終曲までの展開については、次回・・。
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フォーレの<ペネロプ>(1)

2006年04月20日 | 作品を語る
今回から、オデュッセウスの妻ペネロペを主人公にした作品に目を向けてみたいと思う。そのような物はいくつかあるのだが、中でもおそらく最も有名であろうと思われるガブリエル・フォーレの作曲による<ペネロプ>を、一番に採り上げてみたい。これは一般的には「歌劇」と呼んでも一向に差し支えないものだとは思うが、正式には、「3幕からなる抒情詩」という肩書きが付いているようだ。そこで今回のタイトルとしては、単に<ペネロプ>とだけ表記することにした。

この抒情詩の楽譜が書き上げられたのは、1912年。ちょうどイタリアで、<三王の恋>や<フランチェスカ・ダ・リミニ>といった物々しいオペラが間もなく発表されようとしている頃である。それらと比べたら、フォーレ作品の響きは何とつつましいものかと、改めて痛感せずにはいられない。しかしそれは、控えめながらも堂々としたした音楽の起伏を持ち、しっかりとその生命を主張しているものだ。ホメロスの『オデュッセイア』を基本的な題材にしてドラマを作っているという点では、モンテヴェルディやダラピッコラの作品と同じだが、フォーレ作品に触れることで初めて出会える場面もいくつかある。

以下、幕ごとの大まかな内容と、私なりに感ずるチェック・ポイントみたいなものを順に見ていきたい。なお登場人物名は、フランス語流に表記すると違和感を与えるものが出て来る(※例えば、羊飼いのエウマイオスが「ウメ」になったりする)ので、当ブログでは、主人公の名は作品タイトルを尊重してペネロプ、そして夫の名にはすっかりおなじみになっているウリッセを使用し、他の役柄は基本的に原典のギリシャ語流表記を用いるという形にした。

―抒情詩<ペネロプ>の大まかな内容と、チェック・ポイント

〔 第1幕 〕

●第1場は、前奏曲に続いてペネロプの侍女たちによる合唱が聞かれる。

●第2場と●第3場は、「ペネロプをここへ呼んで来い」と侍女たちや乳母のエウリュクレアに命令しに来た求婚者たちと、それに難色を示す彼女たちのやり取りの場面。

●第4場は、姿を見せたペネロプと求婚者たちとのやり取り。ここは、ペネロプが必死になって求婚者たちを拒絶する場面だ。男の一人アンティノオスが言う。「俺たちはあんたに、もう十分な時間を与えたぞ」。しかし、夫をひたすら待ち続けるペネロプは、「ウリッセの父上のために編んでいる屍衣がまだ出来ていないんですよ。それが織り上がるまでは、待って下さい」と言って、話をずっと引き伸ばそうと頑張る。「それにしても、日数がかかり過ぎだ。これからは、俺たちが見ているところでその編み物をしろ」とエウリュマコスが詰め寄る。

(※開幕直後に聴かれる侍女たちのコーラスは、「糸紡ぎの合唱」とでも呼べるものだ。糸車を回す音の情景が、オーケストラによって巧みに表現されている。当然ながら、ワグナーの<さまよえるオランダ人>で聴かれるそれと比べたら、こちらはずっと精妙な響きを持った、秘めやかでつつしまいものである。そう言えば、組曲<ペレアスとメリザンド>という人気作にも、「糸を紡ぐ女」という曲があって、そこでも糸車が回る様子を描いた音楽が聴かれる。このあたりの表現は、フォーレ先生のお得意技といったところだろうか。)

(※第4場では、「娘たちの踊り」というのが演奏されるのだが、これは非常に印象的な曲である。最初はハープと弦のピチカートが主導して始まり、やがてフルート等の木管楽器や鈴の音も加わってくる。部分的にはプーランクをちょっと想起させる節もあったりして、いかにも“近代フランスの響き”というイメージが持たれる音楽だ。この美しい曲を背景に、求婚者たちがそれぞれペネロプとの結婚をめぐる妄想を語るのに対し、ペネロプが、「私の心には、夫ウリッセしかいません」と毅然たる態度を見せ、彼らをたしなめる場面が展開するのである。)

●第5場は、物乞い老人に化けたウリッセが宮殿に現れる場面。彼はそこで食べ物と寝場所を求めるのだが、男たちから邪険にされる。しかしペネロプが出て来て、老人を暖かく迎え入れる。

●第6場は、かつてウリッセを育てた乳母エウリュクレアが登場。老人の目を見るなり、「あ、この人は・・」と直感する。その後、老人の足を洗いながら、エウリュクレアは見覚えのあるイノシシ傷を見つけ、ウリッセ本人だと確信する。しかしウリッセは彼女に、「まだ、黙っていなさい」と口止めする。

●第7場は、ペネロプが時間稼ぎのために編んでいる屍衣を、こっそりと自分でほぐしに来る場面。「編む時よりも、こうやってほぐす時の方が私の指は滑らかに動く」と、ペネロプはつぶやく。しかし、ついにその様子を、隠れていた求婚者たちに発見されてしまう。そして、「もう許せん。明日が期限だ。俺たちの中から明日、一人を選ぶのだ」と、彼らはペネロプに迫る。

(※編んだものを毎晩ほぐしに来るというこのお話は、ギリシャ神話で語られるペネロプの苦労話として欠かせないエピソードだが、ウリッセが主人公になっている作品だと出て来にくいようだ。ペネロプを主役に据えたこのフォーレ作品でやっとお目見え、というわけである。また、乳母のエウリュクレアが老人の足を洗いながら、彼がウリッセであるという肉体的証拠を見つけるというのも、ホメロスの『オデュッセイア』に忠実な展開だ。具体的には、【第19歌】に含まれているエピソードだが、モンテヴェルディもダラピッコラも、この場面を直接的には描かなかった。これまた、フォーレ作品でやっとお目見えという感じである。)

(※ところで、当作品は様々な意味に於いて、“優しさ”がキー・ワードになっているように思える。ここで求婚者たちの声を例にとってみると、たとえばアンティノオスがリリック・テナー、エウリュマコスがリリック・バリトンといったように、悪役の声までが柔らかいのである。結婚を迫る彼らとペネロプとのやり取り自体は激しいものであっても、音楽的にはあくまで、抒情詩の世界になっているのだ。)

―この続きは、次回・・。
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