歌劇<魔弾の射手>がとりわけ有名な作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786~1826)が、生涯最後に書き上げたオペラは、<オベロン>(1826年)だった。これは、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』でお馴染みになっている妖精の王様をタイトル役に据えた、一篇のファンタジーとも呼べそうな作品である。国境を越え、人間界と妖精界の垣根をも越えて、若い恋人同士の変わらぬ愛情が試されるというお話だ。
このオペラには現在数種類の全曲CDが存在するが、私が持っているのは、LP時代から評判の良かったクーベリック盤(G)と、何年か前に出たばかりの新しいガーディナー盤(Ph)である。前者はドイツ語版で後者は英語版という違いもあるが、演奏もまた、それぞれに名演ながらかなり異なった表情を見せている。そのあたりについては、これから物語の流れを追いながら順次見ていくことにしたい。またクーベリック盤は、語りの部分に専門の俳優たちを複数揃えてセリフのやり取りをさせているが、ガーディナー盤は、一人のナレーターが手短に場面説明をするという形で演奏している。実はその語りの部分で扱われるストーリーは、両者あちこちで随分違った内容になっているのだが、当ブログではそこは掘り下げないことにしたいと思う。音楽の内容には、とりあえず関係ないからである。
―歌劇<オベロン>のあらすじと、二つの演奏の比較
〔 第1幕 〕
●有名な序曲に続いて、語り役による前口上。「妖精の王オベロン様は、お妃のティタニア様と喧嘩をしてしまいました。心変わりしないのは男と女のどちらかであるか、ということを巡って意見が対立したのです。そしてついにお二人は、『ともに心変わりせず、二人揃って貞節を守りきれる男女のペアを見つけるまでは、お互いに仲直りしない』というところまで行ってしまったのです」。やがてオベロン(T)が登場し、「何という誓いを立ててしまったのか」と、嘆く気持ちを歌う。そこへ妖精たちがやって来て、オベロンに言う。「王様、貞節を試すのに好適な人間のカップルがおりますよ。フランスはボルドーに住むヒュオンと、バグダッド太守の娘レツィアです」。
●オベロンの魔法によって、ヒュオン(T)の眼前にレツィア(S)の姿が映し出される。そして、彼女の短い歌。「私は水のほとりにいる。沈んでしまう前に、助けてください」。ヒュオンと彼の従者シェラスミン(Bar)の二人は、妖精たちのサポートを受けながら、彼女のいるバグダッドに向かう。その道すがらヒュオンは、自分の身の上と決意の程を力強いアリアで歌う。
(※このオペラに於ける指揮者クーベリックの音楽作りの特徴は、冒頭の序曲からすでにはっきりと示されている。端的に言うなら、「清涼感溢れる美しい響きの中で、音楽がしなやかに、且つみずみずしく息づいている」という感じになろうか。実を言うと、私はクーベリックが指揮した<魔弾の射手>全曲にはあまり感心しなかったのだが、ここでの演奏スタイルには非常に好感が持てる。これは、<オベロン>という歌劇が持つある種の特殊性を浮き彫りにしている現象である、とも言えそうな気がする。そのあたりのもっと具体的な説明、及びガーディナー盤の音楽的特徴については、次回改めて語ってみたい。)
(※ここでヒュオンが歌うアリアの中には、序曲で聴かれる有名な旋律の一部が出て来る。具体的に言えば、このアリアの中間部、「今、柔らかなる輝きが、我が命の波の上に踊る」と歌い出す部分が、序曲主部の第2主題第1部として使われているのである。クラリネット・ソロが使われるあの美しいメロディのところだ。)
(※クーベリック盤でヒュオンを歌っているのは、若き日のプラシド・ドミンゴ。例によって、持ち前の熱い声を活かした堂々たる歌唱を聴かせる。輪郭のくっきりした、立派な歌唱だ。ガーディナー盤で同役を歌っているヨーナス・カウフマンよりも、歌の見事さではドミンゴの方に軍配を上げたいぐらいである。ただ、私の個人的な感想としては、ちょっと引っかかる部分がなくもない。具体的に言えば、その声質である。ドイツ系オペラを歌った時のドミンゴの声に、どうも私はある種の違和感を持ってしまうのだ。このあたりは、聴く人それぞれだとは思うが・・。)
●場面は変って、バグダッド。太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィア(※英語版では、レイザ)が歌う。「我が君よ、早く来てください。そして、この束縛から私を開放して。・・・私はずっと、あなたのものです」。そこへ、彼女の侍女であるファティメ(※英語版では、ファティマ)(Ms)がやって来て、「あの方が来ます」と告げる。そこから、「何という幸福でしょう」と歌う、女性二人による二重唱。やがて、合唱が夜を告げる。「遅くなりましたよ。もう、お休みなさい」。トルコ兵の軍楽隊が賑々しく前を通り過ぎて行くところで、第1幕が終了。
(※クーベリック盤でレツィアを歌っているのは、先頃他界したビルギット・ニルソン。何故彼女がこの役で起用されたかの理由は次回明らかになるが、この録音で彼女は思いがけずリリックな表情を見せる。上で今ご紹介したファティメとの二重唱などが特にそうだ。ただ、ガーディナー盤で歌っているヒレヴィ・マルティンペルトの精妙な歌唱に比べると、ニルソン女史の歌はどうしても大味に聞こえてしまう。そのあたりは、致し方ないところだろう。)
(※第1幕の最後で、トルコ兵の軍楽隊が背景の音楽を作っているというのは、なかなかに興味深い。トルコ音楽趣味が窺われるものはモーツァルトやベートーヴェン等の作品にもいくつかあるが、ウェーバーもまた、そんな趣味を持つ一人だったようである。彼が若い頃に書いた短編歌劇<アブ・ハッサン>などは、その最たる好例と言えるものだろう。ちなみに、そこでの主人公アブ・ハッサンの妻の名前も、ファティメである。バグダッドを舞台にしたこのお気楽コメディについては、近い将来、また回を改めて話題にしたいと思う。)
―この続きは、次回・・。
このオペラには現在数種類の全曲CDが存在するが、私が持っているのは、LP時代から評判の良かったクーベリック盤(G)と、何年か前に出たばかりの新しいガーディナー盤(Ph)である。前者はドイツ語版で後者は英語版という違いもあるが、演奏もまた、それぞれに名演ながらかなり異なった表情を見せている。そのあたりについては、これから物語の流れを追いながら順次見ていくことにしたい。またクーベリック盤は、語りの部分に専門の俳優たちを複数揃えてセリフのやり取りをさせているが、ガーディナー盤は、一人のナレーターが手短に場面説明をするという形で演奏している。実はその語りの部分で扱われるストーリーは、両者あちこちで随分違った内容になっているのだが、当ブログではそこは掘り下げないことにしたいと思う。音楽の内容には、とりあえず関係ないからである。
―歌劇<オベロン>のあらすじと、二つの演奏の比較
〔 第1幕 〕
●有名な序曲に続いて、語り役による前口上。「妖精の王オベロン様は、お妃のティタニア様と喧嘩をしてしまいました。心変わりしないのは男と女のどちらかであるか、ということを巡って意見が対立したのです。そしてついにお二人は、『ともに心変わりせず、二人揃って貞節を守りきれる男女のペアを見つけるまでは、お互いに仲直りしない』というところまで行ってしまったのです」。やがてオベロン(T)が登場し、「何という誓いを立ててしまったのか」と、嘆く気持ちを歌う。そこへ妖精たちがやって来て、オベロンに言う。「王様、貞節を試すのに好適な人間のカップルがおりますよ。フランスはボルドーに住むヒュオンと、バグダッド太守の娘レツィアです」。
●オベロンの魔法によって、ヒュオン(T)の眼前にレツィア(S)の姿が映し出される。そして、彼女の短い歌。「私は水のほとりにいる。沈んでしまう前に、助けてください」。ヒュオンと彼の従者シェラスミン(Bar)の二人は、妖精たちのサポートを受けながら、彼女のいるバグダッドに向かう。その道すがらヒュオンは、自分の身の上と決意の程を力強いアリアで歌う。
(※このオペラに於ける指揮者クーベリックの音楽作りの特徴は、冒頭の序曲からすでにはっきりと示されている。端的に言うなら、「清涼感溢れる美しい響きの中で、音楽がしなやかに、且つみずみずしく息づいている」という感じになろうか。実を言うと、私はクーベリックが指揮した<魔弾の射手>全曲にはあまり感心しなかったのだが、ここでの演奏スタイルには非常に好感が持てる。これは、<オベロン>という歌劇が持つある種の特殊性を浮き彫りにしている現象である、とも言えそうな気がする。そのあたりのもっと具体的な説明、及びガーディナー盤の音楽的特徴については、次回改めて語ってみたい。)
(※ここでヒュオンが歌うアリアの中には、序曲で聴かれる有名な旋律の一部が出て来る。具体的に言えば、このアリアの中間部、「今、柔らかなる輝きが、我が命の波の上に踊る」と歌い出す部分が、序曲主部の第2主題第1部として使われているのである。クラリネット・ソロが使われるあの美しいメロディのところだ。)
(※クーベリック盤でヒュオンを歌っているのは、若き日のプラシド・ドミンゴ。例によって、持ち前の熱い声を活かした堂々たる歌唱を聴かせる。輪郭のくっきりした、立派な歌唱だ。ガーディナー盤で同役を歌っているヨーナス・カウフマンよりも、歌の見事さではドミンゴの方に軍配を上げたいぐらいである。ただ、私の個人的な感想としては、ちょっと引っかかる部分がなくもない。具体的に言えば、その声質である。ドイツ系オペラを歌った時のドミンゴの声に、どうも私はある種の違和感を持ってしまうのだ。このあたりは、聴く人それぞれだとは思うが・・。)
●場面は変って、バグダッド。太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィア(※英語版では、レイザ)が歌う。「我が君よ、早く来てください。そして、この束縛から私を開放して。・・・私はずっと、あなたのものです」。そこへ、彼女の侍女であるファティメ(※英語版では、ファティマ)(Ms)がやって来て、「あの方が来ます」と告げる。そこから、「何という幸福でしょう」と歌う、女性二人による二重唱。やがて、合唱が夜を告げる。「遅くなりましたよ。もう、お休みなさい」。トルコ兵の軍楽隊が賑々しく前を通り過ぎて行くところで、第1幕が終了。
(※クーベリック盤でレツィアを歌っているのは、先頃他界したビルギット・ニルソン。何故彼女がこの役で起用されたかの理由は次回明らかになるが、この録音で彼女は思いがけずリリックな表情を見せる。上で今ご紹介したファティメとの二重唱などが特にそうだ。ただ、ガーディナー盤で歌っているヒレヴィ・マルティンペルトの精妙な歌唱に比べると、ニルソン女史の歌はどうしても大味に聞こえてしまう。そのあたりは、致し方ないところだろう。)
(※第1幕の最後で、トルコ兵の軍楽隊が背景の音楽を作っているというのは、なかなかに興味深い。トルコ音楽趣味が窺われるものはモーツァルトやベートーヴェン等の作品にもいくつかあるが、ウェーバーもまた、そんな趣味を持つ一人だったようである。彼が若い頃に書いた短編歌劇<アブ・ハッサン>などは、その最たる好例と言えるものだろう。ちなみに、そこでの主人公アブ・ハッサンの妻の名前も、ファティメである。バグダッドを舞台にしたこのお気楽コメディについては、近い将来、また回を改めて話題にしたいと思う。)
―この続きは、次回・・。