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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>(3)

2006年04月16日 | 作品を語る
今回は、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>の最終回。物語最後の部分と、全曲CDについてのお話である。

〔 第2幕~つづき 〕

●〔 第3場 〕ペネーロペに求婚する男たちを中心にした宴会。若い娘たちも集まっている。「さあ、楽しもうぜ!」という合唱が響く。さらにアンティノオが、「我らが海の神ネットゥーノ(=ポセイドン)を讃えよう!」と盛り上げる。メラントだけはしかし、何か不安げで落ち着かない様子。

(※この求婚者たちを中心にした合唱も、黄泉の国の亡者たちのそれと並んで、かなり激しいものである。ふとシェーンベルクの<モーゼとアロン>の一場面を思い出させるような、轟然たる合唱だ。いかにも12音のコーラスという感じで、迫力満点。)

(※ここで留意しておきたいのは、男たちの「楽しもうぜ」という言葉にはペネーロペを相手にしている様子がまるでなく、彼らの合唱がもっぱらウリッセやテレーマコを苦しめている海神ポセイドンへの賛歌に終始しているという点である。ダラピッコラ作品に於けるペネーロペの存在感は極めて希薄なものであるということが、ここでも確認出来る。)

●海神ポセイドンを讃える合唱に続いて、男たちがメラントに踊りを求める。メラントが、「そんな気分じゃないわ」と固辞すると、アンティノオはそこへウリッセの弓を持って来させる。そして、その弓をメラントに手渡して言う。「この弓を持てば、何か踊りのひらめきが得られるんじゃねえか?これは、ウリッセにしか引けなかった特別な弓だぜ。どうだ」。メラントは、ウリッセの弓を使ってゆっくりと踊り始める。やがて踊りが高潮してくると、弓のツルがメラントの首に巻きつく。メラントは悲鳴をあげる。その時テレーマコが登場し、求婚者たちと言葉の応酬を始める。メラントが弓を放り投げると、それはウリッセのすぐ近くに落ちた。ウリッセは老人の変装を解き、弓を手にして叫ぶ。「息子のテレーマコだけでなく、この俺、ウリッセも帰ってきたのだ」。それからウリッセは、メラントに向かって言う。「お前がこれから樫の木に吊るされれば、その長い赤毛が炎のように見えることだろう」。豚飼いエウメーオと彼の仲間たちによってメラントが外へ引きずり出された後、ウリッセは弓を使って次々と求婚者たちを射殺(いころ)してゆく。やがてペネーロペが姿を現し、ウリッセと見つめ合う。

(※予言者ティレシアスが見た「血の海」というのは、この場面のことだろう。しかし、やはりここでもペネーロペは、最後のワン・シーンに「ウリッセ!」と叫んで出て来るだけの軽い存在だ。モンテヴェルディ作品で聴かれたような、愛の二重唱みたいなものも始まらない。また、今までの経緯から便宜上、「ペネーロペに求婚する男たち」という言葉を使ってきたのだが、実はこのダラピッコラ作品では、男たちがペネーロペに言い寄る場面は全く出て来ない。こうまで存在感がないと、もうウリッセの妻というよりは、“刺身のツマ”みたいである。)

〔 エピローグ 〕

●短い間奏曲を経て、最終場。星が輝く夜。海に小さな舟が一艘浮かんでいて、ウリッセが一人それに乗っている。予言者ティレシアスの言葉どおり、故郷イタカは彼が落ち着く終着点ではなかった。ウリッセは自分のこれまでの人生が何だったのか、自身に問いかける。そして、人に忘れられることのない「名前」こそ自分が求めるものなのだと確信する。「見つめる、驚く、そしてまた見つめる」という行為に孤独からの解放を見出し、ウリッセはたった一人、再び大海原に漕ぎ出したのだった。

(※この歌劇は、「安らぐ場所をどこにも得られず、新たな旅に一人ぼっちでまた船出するウリッセ」という形で終わっているが、それはこのダラピッコラ作品独自の結末である。ちなみに、原典となるホメロスの『オデュッセイア』では、ティレシアスの霊は帰郷後のオデュッセウスの再出発から、やがて彼が迎える臨終の時までを予言している。物語の全体像を把握なさりたい方は是非、機会を見て、そちらの原作に当たっていただけたらと思う。)

―歌劇<ウリッセ>の全曲CD

この曲には現在、おそらく一種類の全曲盤しかないものと思われる。先年物故した現代音楽の名指揮者エルネスト・ブールの指揮による、1975年5月6日の上演録音(naïve盤)である。ブール氏については、当ブログでかつてアンドレ・ジョリヴェの<ピアノ協奏曲>を語ったときに、EMI録音で聴かれる名演奏の伴奏指揮者としてその名に言及したことがあった。しかし、この人は実力に比して録音が極めて少なかったため、一般のクラシック音楽ファンにはなじみが薄いままで終わってしまった。商業ベースに乗りにくい 20世紀音楽に打ち込んでいたから、録音の機会も少なかったのだろう。

そう言えば昨年、クアドロマニアという廉価盤の4枚組シリーズで、ブール氏の指揮による《モーツァルト交響曲選集》が出た。しかし正直言って、これはちょっと私には期待外れだった。現代物のスペシャリストという偏見的イメージから、もっと猟奇的な演奏が行なわれていることを期待して買ったのだが、それが間違いだったようだ(苦笑)。辛口のモーツァルト、という印象はとりあえず受けた。しかし、それほど冴え冴えとした演奏ではなく、響きも暖色系。しかしそれでいて、練り方が粗い。それやこれやで、特にこれといった魅力を私は感じることが出来なかったのである。やはり、この指揮者の本領は20世紀の音楽にあったのだろうなと、改めて思ってしまった。その意味でも、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>全曲がブール氏の名指揮によって録音されていたというのは大変有難いことだし、また文献的な価値という点でも、非常に貴重な録音と言うべきだろうと思う。

ここでタイトル役のウリッセを歌っているのは、クラウディオ・デズデーリだ。だいぶ前の話になるが、この人はかつて、クラウディオ・アバドの指揮、ジャン=ピエール・ポネルの演出によるロッシーニの歌劇<チェネレントラ(=シンデレラ)>映像盤に出演していた一人だった。そこで彼が演じていたダンディーニはまさに絶品で、当時本当に楽しく笑わせてもらった。まるで漫画みたいな演出が施された稀代の名演奏の中にあって、デズデーリ氏の芸達者ぶりはとりわけ際立っていた。今回の<ウリッセ>録音で久しぶりにその名に触れて、ちょっと懐かしい気持ちになった。勿論ここではロッシーニ作品での名コメディアンぶりとは打って変わって、極めてシリアスな歌唱を聴かせている。声の響きがどことなく往年のティト・ゴッビを思わせる人で、ひと頃は各地の歌劇場でかなり活躍していたらしい。しかし残念ながら、録音に関してはあまり恵まれないまま一線を退くことになってしまったようだ。

―さて、次回予告。これまでずっとウリッセ、つまりオデュッセウスを主人公にしたオペラを語ってきたので、次回は、彼の貞淑な妻ペネーロペを主人公にした作品に話を進めてみたいと思う。主役の立場を入れ替えて見てみると、同じ物語がまた違った像を結んでくる。そのあたりがなかなかに、興味深いのである。
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ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>(2)

2006年04月13日 | 作品を語る
前回の続き。今回は、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>第1幕の後半部分から、第2幕の途中まで。

〔 第1幕 〕

●〔 第3場 〕魔女キルケ(=イタリア語では、チルチェ)が棲むアイアイエ島の場面。と言っても、ダラピッコラ作品では、1年間をそこで過ごしたウリッセたち一行がいよいよ旅立つというところだけが描かれる。キルケは何とかウリッセを自分のもとに残したくて、哀願したり、脅したりと、あれこれ手を尽くす。しかし、彼の意志は固い。「海が俺を呼んでいるのだ」。ついにキルケは慰留を断念するが、「故郷イタカにさえ、あなたが心に抱えている苦悩から逃れられる場所はないわよ」と、ウリッセに予言する。

●〔 第4場 〕続いて、「死者の国」の場面となる。亡者たちの合唱が聞こえてくる。「ここにあるのは、終わりなき苦しみのみ。希望など、かけらもない」。やがてウリッセの姿を見とがめた亡者たちが、「生ける者が何のために、ここへ来た?」と、彼を問い詰める。ウリッセは、「予言者ティレシアスの霊に会い、運命を聞くために来たのだ」と答える。しかし思いがけず、ウリッセはそこで母親のアンティクレアと出会うことになった。ウリッセの出征中、重なる心痛によって自分はここに来ることになったのだと亡き母は語り、そして消えた。その後ウリッセは予言者ティレシアスの霊に会い、先の運命を見てもらう。「途中で海の怪物たちや雷撃に襲われるが、お前は故郷イタカに帰れるだろう。しかし、あたり一面が血の海だ。それから再び、お前は旅に出ることになるだろう。海の大波に揺られているお前の姿が、私には見える」。

(※ここはやはり、死者たちの合唱が凄い。無調音楽による合唱の迫力が、フルに発揮されている。前回出て来た「蓮を食べる人たち」と違って、ここでは混声合唱。オーケストラの鳴り方の点でも、この場面が全曲通した中で最も激越な響きが聴かれる箇所になっている。)

●〔 第5場 〕アルキノオス王の宮殿に場面が戻る。黄泉の国でのウリッセの体験談に続き、怪物カリュブディスやスキュラなどの名が合唱によって言及される。やがて王は、「そなたを、故郷イタカへお送り致そう」とウリッセに申し出る。王女ナウシカアが、「とても多くの物を見て、とても多くの苦しみを味わってこられた方。帰国なさってからも、時々は私のことを思い出してくださいね」とウリッセに告げ、彼がそれにうなずいたところで第1幕が終了。

〔 第2幕 〕

●〔 第1場 〕ウリッセの故郷イタカ。周りを丘に囲まれた、広い場所。豚飼いエウメーオの小屋がある。ペネーロペに求婚する男たちの数人と、侍女のメラントが海を見やっている。やがて船が見え、彼らはそれがウリッセの息子テレーマコのものであると確認する。男たちの一人アンティノオが、「お前はここに残って、様子を見張っておれ」とメラントに命じる。そして彼女以外は皆、その場を去って行く。

●そこへ、老人に化けたウリッセが登場。かつて忠実な僕(しもべ)であった懐かしいエウメーオと会う。そこでのやり取りの中で、エウメーオはウリッセのことに言及する。「ウリッセ様が去って、もう20年。今やこのイタカで、その名を知る者はもう誰もおりませんや」。やがて、テレーマコが登場。しかし、老人姿のウリッセを見ても、それが自分の父親とは分からない。ウリッセは名を明かさぬまま、そこを立ち去る。そして、「俺は、まだまだ長く歩かねばならない」と、一人つぶやく。一方エウメーオは、去っていった老人の目に見覚えを感じる。

(※この作品に登場するメラントは、ふしだらな性悪女として描かれている。たとえば、「この客人に、何か出してやっておくれ」というエウメーオの言葉に対して、「そんなの、あたしの仕事には含まれてないわ」と、冷たく突っぱね、さらに小言をつぶやくエウメーオに、「口に気をつけな、この豚飼い」と毒づいたりするのである。テレーマコもユニークだ。声が何と、カウンター・テナーである。最初に聞いたときは、「あれ、また別の女性キャラが出てきたのかな」と思ってしまった。少なくともこの作品でのテレーマコは、たくましく頼もしい息子というイメージにはなっていないようである。)

●〔 第2場 〕ウリッセが一人で宮殿に現れ、柱に掛かっている懐かしい弓に目をやる。そして苦渋に満ちた表情で、ひとりごちる。「ティレシアスが言っていた血の海は、オレには見えん。俺に見えるのは、孤独だけだ。息子でさえ、この俺を見ても分からなかった。何という悲しい帰郷だ・・」。妻ペネーロペの声が聞こえてくる。「ウリッセ、帰ってきて」。妻の姿を見た時、ウリッセの心には、それまでの旅路で出会ってきた女たちや、黄泉の国で出会った母親のことが思い浮かぶのであった。

●するとそこへ、求婚者の一人アンティノオがメラントと連れ立って、酔っぱらった様子でやって来る。ウリッセは姿を隠す。メラントがアンティノオに、「ペネーロペの声が聞こえるわ」と言うと、彼は、「もう帰っちゃ来ねえ奴のことを待っているんだ。好きに嘆かせといてやれ」と答える。さらにウリッセの存在に気付いたメラントが、「あの老人の目!怖いわ」と言うと、アンティノオは彼女を少しなだめてから、「あんなの、誰でもねえよ。放っとけ」と言う。その言葉を聞いたウリッセは、より一層惨めな思いに襲われる。「ああ、俺がかつて一つ目巨人に使った『俺は、誰でもないよ』という言葉が、そのまま真実となって俺の身に返ってきた。海神の復讐も、ここに極まったか」。

(※この第2幕に入ると、ダラピッコラ作品でのウリッセ像がどういうものか、かなりはっきりしてくる。豚飼いエウメーオのセリフ、息子に素顔を見せぬまま立ち去るウリッセの行動、さらに求婚者アンティノオのセリフ、いずれを取っても、故郷イタカでのウリッセの「存在のなさ」と孤独感を強調するものばかりである。ダラピッコラ作品に於けるウリッセの帰郷は、ひたすら悲しくて孤独感に満ちたものとして描かれているのだ。それと、次回また補足することなのだが、妻のペネーロペにも全く存在感がない。それも、当作品に見られる大きな特徴のひとつである。)

(※実はこの場面には、侍女メラントの淫靡な性格がよく出ているセリフがある。「あんたがあのペネーロペと首尾よく結婚してイタカの王になったらさ、あたしはどうなるの?・・・ねえ、あの女のベッドからさ、あたしの方へすべり込んでいらっしゃいよ。あんな冷えた女より、あたしのあったかい抱擁の方があんたを喜ばせるわよ」と言って、彼女はアンティノオに迫るのだ。その光景を隠れてみていたウリッセが激しい怒りを燃やして彼女を睨みつけたので、メラントは、「あの人の目、怖い」と言ったわけである。)

―この続きからラストの展開、そして全曲CDのお話などについては、次回・・。
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ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>(1)

2006年04月09日 | 作品を語る
前回まで語ったモンテヴェルディの歌劇<ウリッセの帰郷>と並んで、オデュッセウスが主役になっているイタリア・オペラ作品をもう一つ、語ってみたい。ルイジ・ダラピッコラ(1904~1975)の歌劇<ウリッセ>(1968年)である。実はオデュッセウスという神話上のキャラクターに今回白羽の矢を立てることになったそもそものきっかけは、このオペラであった。イタリア・オペラの夕映え、そして夕闇という捉え方で、モンテメッツィ、ザンドナイ、ピツェッティらの作品を採り上げた後、「さらにもっと後の時代に書かれたイタリア・オペラの作品を、何か一つ語ってみよう」と考えた時に、12音技法を導入して書かれたこのダラピッコラ作品がふと思いついたのである。

17世紀バロック時代の黎明期(れいめいき)に書かれたモンテヴェルディの音楽を仮に、「イタリア・オペラ史の朝」に例えるなら、20世紀後半に12音技法を導入して書かれたダラピッコラ作品はさしずめ、「イタリア・オペラ史の夜」ということになるんじゃないかと思う。だからオデュッセウスは、(見方によっては、という条件付きではあるものの)「イタリア・オペラの朝と夜の姿を体現している人」とも言えそうなのである。私がオデュッセウスのことを、「面白い人物に思い至ることとなった」と先頃書いたのは、このような意味だったのだ。

―ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>のあらすじ

〔 プロローグ 〕

●ウリッセ(=オデュッセウス)は、永遠の若さを提供されても結局、カリュプソのもとを去った。オーギュギア島の浜辺に一人佇(たたず)むカリュプソの嘆きの歌から、このオペラは始まる。「あなたに約束したのは、死からの解放。なのに、それ以上の何を求めて、あなたは私のもとを去って行ったの?『見つめる、驚く、そしてまた見つめることに戻る』などとおっしゃる、あなたの心の謎が私には分からない・・」。

(※いきなり20世紀音楽の妖しげな音響世界が始まるので、聴く人によっては抵抗や戸惑いが感じられるかも知れない。私などは、この独特のぬめっとした響きから、「イタリア・オペラの夜」というイメージが一層膨らんでくるのだが・・。しかし、この歌劇の台本はカリュプソの独白から始まるというユニークな物なので、やはりオデュッセウスの物語を前もって読み、各登場人物のことを一通り知っておいた方がよさそうである。)

●「間奏曲」に続き、場面はフェアーチ(=パイエケス)の浜辺に変る。洗濯を終えた侍女たちが、球遊びの準備をしながら盛り上がる。しかし王女ナウシカアは一人、浜辺に寝そべって夢想に耽っている。心配する侍女の一人に、ナウシカアは言う。「夢の中で私、花婿の姿を見たのよ。でも、その方は、このフェアーチの人じゃないの」。侍女たちが王女を現実の世界に引き戻そうと努めていると、森からウリッセが姿を現す。その姿を見て、ナウシカアはハッとする。「ああ、この方だわ・・」。ウリッセもナウシカアに気づき、その美しさを讃えてひざまずく。しかし彼女は、「私にかしずいていただかなくても結構ですわ。それは、私の父アルキノオス王に会った時になさって下さいな」と言って、ウリッセを王のもとに案内する。

(※この最初の「間奏曲」は、短いながらも荒々しい音楽。海神ポセイドンを表すものらしいが、具体的にはウリッセに対する憎しみか、彼を攻撃する嵐を表現しているのだろう。ここには、オルガンの響きも加わっている。)

〔 第1幕 〕

●〔 第1場 〕ナウシカアの父・アルキノオス王の宮殿。王が、楽師デモドコスに歌を所望する。楽師がそれに応えて、まず「ギリシャの英雄アガメムノンの物語」を歌いだす。そこへ、ナウシカアに連れられてウリッセが登場。そのうち楽師の歌が、ウリッセの名に言及する。「ウリッセ!誰の記憶からも消えてしまう男」。やがて、王に声をかけられたウリッセは、自らその名を明かす。「わが名はウリッセ。かつては王だった。しかし今は、ただの漂流者だ」。そして彼は、それまでに自分が体験してきた冒険について、いくつか語り始める。

●〔 第2場 〕ウリッセが王に語る最初の物語は、「蓮(はす)を食べる人たちの島」でのお話。「我々は、故郷イタカを目指している」とウリッセが言うと、島の者たちは、「何のために?」と問うてくる。「そこで頑張って働き、耕し、収穫の実りを得るのだ」とウリッセが答えると、「え?頑張って働く?なぜ?この島にいれば食べ物には不自由しないし、つらい事など何もかも忘れてずっと幸福な思いでいられるのに」と、島の者たちは言う。部下たちの中には、その蓮の実を食べて故郷イタカのことを完全に忘れ、陶酔境にトリップしてしまう者も出てきた。ウリッセは、「こんなものを食ってはいかん!この島の連中を、俺は人間とは呼べない」と、部下たちを引き立てて船出する。

(※上では今省略したが、島に上陸する前に、ウリッセと彼に叱咤される部下たちのやり取りがある。ここで部下たちは、「自分らはもう、十分すぎるほど見てきました。苦しんできました。一つ目キュクロプスだの、ライストリュゴネスの人食い巨人だの・・」と、心底うんざりしている気持ちをウリッセに訴えている。部下たちは男声合唱によって歌われるが、かなり強い表情が打ち出されている。これは、先々もっと明らかになる「孤独なウリッセ像」の伏線になっているものと考えてよいかも知れない。)

(※ロトパゴイ島に着いてからの場面は、音楽的にも非常な聴きどころである。「蓮を食べる人たち」は女声合唱で歌われるのだが、これが何とも妖しげで良い!男声を使わないから、ひたすら魅惑的に人を誘い込む感じがよく出ている。私みたいな人間がこの島に入ったらもう、絶対出て来ないだろうなあと思ってしまう。ちなみに、この「蓮を食べる人」というのは、lotus-eaterと訳されて英語にもなっているらしい。「安逸をむさぼる人」という意味が、英和辞典で確認出来る。)

―この続きは、次回・・。
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歌劇<ウリッセの帰郷>(3)

2006年04月05日 | 作品を語る
今回は、モンテヴェルディの歌劇<ウリッセの帰郷>の最終回。第2幕後半から、ラスト・シーンまでの内容。

〔 第2幕~後半 〕

●求婚者たちから次々と黄金財宝を提示されたペネーロペは、「女というものは、このような大きな贈り物をされると何かお返しをしなくては、と思うものなのです」とつぶやき、ウリッセが使っていた大きな弓と箙(えびら)を家来に持って来させる。そして、「我が夫ウリッセにしか引けなかったこの弓を、ここで一番見事に引くことが出来た方の求婚に、私は応えましょう」と、弓引き競技を求婚者たちに持ちかける。野心に燃える男たちがかわるがわる挑戦するが、その弓を引ける者はついに一人も出て来ない。挑戦者の一人が悔しそうにつぶやく一言、「弓までが、ウリッセを待っておる」というのが印象的だ。

(※ここからが、この歌劇のドラマ面でのハイライトとなる。レッパード盤ではやはり、ペネーロペを歌うジャネット・ベイカーの毅然とした歌唱が聴き物である。この名歌手は元々メゾからアルトの声域を持った人なのだが、当上演ではかなりソプラノの音域に入っている。それだけでもすごいが、歌と演技もまた見事。)

(※求婚者たちが皆、弓引きに失敗する場面。レッパード盤では、空中から下の様子を見ているミネルヴァがその都度槍を動かして、求婚者たちを妨害するように描いている。しかしアーノンクール盤には女神は出て来ず、「あまりにも剛健な弓であるため、凡人には手も足も出ない」ということを人間たちだけが素直に演じている。この方が、ウリッセの英雄性や豪傑性が一層際立って印象づけられるようだ。)

●老人に化けているウリッセが、おずおずとした素振りで立候補する。「このジジイにも、ちょっとやらせてみてはくださらんかのう」。そして久しぶりに懐かしい自分の弓を手にしたウリッセは、見事に矢を一本放ってみせる。その場の誰もが驚き、感心する。するとウリッセは、「弓はこうやって射るものだ」と叫ぶや、凄い勢いで次々とペネーロペに言い寄っていた男たちを射殺(いころ)していく。

(※モンテヴェルディの音楽も一気に加速して、スリル感を盛り上げるところだ。アーノンクール盤では再び求婚者たちが人形の姿になっていて、それが次々と下へストン、ストンと落ちていくことで、ウリッセに殺されたことを表している。レッパード盤では生身の人間たちが逃げ惑い、いかにもといった感じの、リアルな情景描写を行なう。ベンジャミン・ラクソンが演じるウリッセの、その矢を射る腰構えが妙にハマッていて笑える。)

―実はこの場面の後、レッパード盤とアーノンクール盤では大きな違いが出て来る。アーノンクール盤では殺戮シーンのあと、次のような場面が展開する。

■1(アーノンクール盤のみ)自分が取り入っていた求婚者たちが次々とウリッセに倒されていく間、イーロはずっと下に隠れていた。騒ぎが収まった後、この大食漢がひとしきりトホホな気分の歌を歌って退場する。「あ~あ、みんなやられちまって、俺は食い扶持を失ってしまった。さあ、どうすっかなあ」。

■2(アーノンクール盤のみ)ずっとウリッセを護ってきた女神ミネルヴァ(=アテナ)が、ジョーヴェ(=ゼウス)の妻ジュノーネ(=ヘラ)を訪れる。「もうウリッセを許してくれるように、ジョーヴェ様を通じて海神ネットゥーノ(=ポセイドン)に頼んでもらえませんかしら」。ジュノーネは、それを引き受ける。その後ジョーヴェはネットゥーノに会い、「ウリッセをもう許してやろうではないか」と説得する。ネットゥーノもついに折れる。二人の神を讃える合唱が響く。

■3(アーノンクール盤のみ)乳母エリクレアが一人、苦悩を歌う。「私は見てしまった。あの傷は、ウリッセ様が狩の時イノシシにつけられたもの。あの物乞い老人は、ウリッセ様!ペネーロペ様に、お教えしたい。でも、あの後私はウリッセ様から口止めされてしまった。ああ、どうしたらよいものか」。

―以下、共通するラスト・シーンの展開。

●羊飼いエウメーテが、ペネーロペに言う。「王妃様、あの老人こそウリッセ様です。あんな早業で、あのごつい弓を引けるような者が他にいると思われますか」。テレーマコも続く。「そうです。あれは父上です。私は素顔の父上と、実際にもう会っているのです」。しかしペネーロペは、まだ信じられないという様子。乳母エリクレアも加わる。「ずっと口止めされておりましたが、今こそ申し上げます。あのご老人は、ウリッセ様です。私は見たんです。あの名誉あるイノシシ傷を」。

(※レッパード盤ではこの後、天上の神々が登場する短いカットがある。場面としては、大神ジョーヴェ(=ゼウス)が海神ネットゥーノ(=ポセイドン)の説得を終えた直後というところだ。ジョーヴェとネットゥーノが無言のままスッと舞台から消えて、舞台上手の上空にミネルヴァ(=アテナ)、下手にもう一人の女神が浮かんでいる。こちらの女性は一声も発しないが、間違いなくジョーヴェの妻ジュノーネ(=ヘラ)であろう。背後に流れる合唱が、「大神は慈悲深い。そして海の神も、負けず劣らず慈悲深い」と讃える。上記の■2にあたる箇所をはしょって演奏したものと思われるが、ここはやはり神々のやり取りを丁寧に描いたアーノンクール盤の方が分かりやすい。)

●素顔になったウリッセが目の前に立っていてもまだ、ペネーロペは信じられないという様子。やがて二人きりになったところで、ウリッセが口を開く。「われら二人だけの寝台に、掛け布があった。それには、そなたが刺繍した絵柄がついておったな。乙女たちに囲まれた女神ディアナの刺繍が」。ここでついにペネーロペは、長く待ち続けた夫が今自分の目の前にいることを確信する。寝室の掛け布のことを知っているのは、自分以外には夫のウリッセしかいないからだ。そして、夫婦そろって熱い愛の二重唱を展開するところで、全曲の終了。

(※ラスト・シーンではやはり、最後の「愛の二重唱」が大きな聴きどころだ。この作品の後に書かれた歌劇<ポッペアの戴冠>ではさらに壮麗な二重唱が最後に出て来るが、ここでの歌も大変に聴き映えがするものである。いずれにしても<ウリッセの帰郷>は、バロック初期の作品でありながら、アリアの陳列発表会みたいには書かれておらず、しっかりしたドラマトゥルギーと音楽的統一感を持っている。その点に於いて、当モンテヴェルディ作品の見事さはやはり称揚に値するものと言うべきだろう。)

(※終曲間際の展開で顕著な例が見られたが、この作品の楽譜の扱いは楽器や声のリアリゼーションだけでなく、各場面の配置やその取捨選択についても、演奏家による違いが出て来るようである。各役を担当する歌手の声について言えば、主役ウリッセがバリトンで息子テレーマコがテノール、そして海神ネットゥーノが低音に強いバス、といったあたりはおおよその一致点かと察せられる。しかし他の役柄は、もっと自由度が高そうだ。例えば、大神ジョーヴェや大食漢イーロはテノールでもバリトンでも成り立つ。当ブログではたまたま、レッパード盤とアーノンクール盤の二つだけを材料にして語ってきたが、他の演奏家たちによるものはまた違った個性を持った演奏になっていることと思われる。)

―以上で、モンテヴェルディの歌劇<ウリッセの帰郷>は終了。次回は、20世紀後半に書かれたオデュッセウス・オペラの方に話を進めてみたい。
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歌劇<ウリッセの帰郷>(2)

2006年04月02日 | 作品を語る
前回からの続き。モンテヴェルディの歌劇<ウリッセの帰郷>から、その中間部分。

〔 第1幕~後半 〕

●浜辺で、ウリッセが目を覚ます。20年もたって様子が変ったためか、彼はそこが自分の故郷イタカであると分からず、「フェアーチ(=パイエケス)人どもめ、俺をだまして変なところに置いていきやがったな」と歌う。そのウリッセのもとへ若い羊飼いに化けた女神ミネルヴァ(=アテナ)が現れ、「ここはイタカですよ」と彼に教える。さらに女神の姿に戻ったミネルヴァは、彼の妻ペネーロペがずっと貞節を守っていること、そして彼女に言い寄る求婚者たちがやりたい放題にふるまってイタカの地を荒廃させていることを伝える。その後、「物乞い老人に化けて正体を隠し、許し難き求婚者たちを見に行きなさい」とウリッセに指示する。

●ペネーロペと乳母、そして侍女メラント。メラントが、「王妃様、新しい恋をなさいませ」と勧める。

(※これは、レッパード盤での展開。アーノンクール盤では、上記のメラントのセリフは第1幕最初の場面で歌われている。演奏家の判断によって、場面展開の配置なども変ってくるようだ。)

●ウリッセの良き僕(しもべ)であった老羊飼いエウメーテ(=エウマイオス)が登場。そこへ、求婚者たちに取り入っておいしい思いをしようと企む大食漢のイーロ(=イロス)が通りかかる。二人はお互いに軽蔑しあって、罵り合うように歌う。イーロが去った後、物乞い老人に化けたウリッセがエウメーテのところへ現れ、「ウリッセ様は間もなく、お帰りになるだろう」と告げてエウメーテを喜ばせる。その後二人は意気投合し、一緒に歩くことにする。

●女神ミネルヴァが、ウリッセの息子テレーマコ(=テレマコス)を連れて登場。ウリッセに約束した通り、女神はスパルタから彼の息子を連れ帰って来たのである。そこへ羊飼いエウメーテと、物乞いに化けたウリッセが連れ立って姿を現す。エウメーテはテレーマコの姿を見て喜び、「テレーマコ様が無事にお帰りになったことを、お妃ペネーロペ様に知らせてきますよ」と言って立ち去る。二人だけになったところで、ウリッセがついに息子の前で素顔を見せる。そして、再会を喜び合う父子の二重唱で第1幕が終了。

(※アーノンクール盤のテレーマコは、ビシーッと決めたスーツ姿で登場する。演じているのは、ヨーナス・カウフマン。スマートな二枚目ぶりをいかんなく発揮している。一方のレッパード盤に出て来るテレーマコは、極めてオーソドックスな古代ギリシャ風の衣装。歌手の風貌も、ポッチャリ型。カッコよさではどうやら、カウフマンに軍配が上がりそうだ。)

(※この場面に於けるレッパード盤演出の見どころは、老人になっているウリッセが舞台中央からまっすぐ奈落に姿を消してテレーマコを驚かせ、その後、戦士の姿になってせり上がって来るところだろうか。そして、この再会を喜び合う父子の二重唱は、音楽的にもなかなか聴かせる部分である。)

〔 第2幕~前半 〕

●イタカにあるウリッセの宮殿。求婚者たちがペネーロペを囲み、しきりに言い寄っている。「王妃様、踊って楽しく過ごしましょう」「そうですよ。楽しい気持ちになれば、新しい恋も芽生えてきます」。しかし、ペネーロペは石の心になり、彼らを受け付けない。そこへ老羊飼いのエウメーテがうれしそうにやって来て、「王妃様、ご子息のテレーマコ様がお帰りになりました!そしておそらく、ウリッセ様もそのうち・・」とペネーロペに告げる。その後、求婚者たちが寄り集まって話し合いを始める。「まずいことになったな。ウリッセが本当に帰って来たら、俺たちは皆やられちまう」「では先に、息子のテレーマコを殺してしまおうか」。そんな相談をしていると、上空にジョーヴェ(=ゼウス>の鷹が飛来し、彼らに破滅の運命が待っていることを示唆する。結局彼らは、黄金や財宝を贈ることでペネーロペの心を動かす作戦に出ようと決める。

(※レッパード盤で観られるピーター・ホールの演出では、ジョーヴェの鷹を示す黄金のシルエットが舞台上空に浮かび上がり、しばしの幻想を見せてくれる。ここは、とても印象的だ。)

(※この場面、アーノンクール盤では実に斬新な舞台演出が見られる。踊りに加わらず、一人だけポツンとしているマダム・ペネーロペの孤独な姿を改めて浮き彫りにするのだが、さらにここでは求婚者たちを何と、大きな操り人形で表現しているのである。この人形たちがゆらゆらと動きながら、「王妃様、新しい恋をなさいませ」と口々に、ペネーロペの説得にかかるのだ。何ともユニークな演出である。)

●女神ミネルヴァがウリッセに、この先の展開についての予言を与える。「ペネーロペが求婚者たちに、弓引き競技をさせるように仕向けます。でも、勝利を収めるのはウリッセ、あなたです」。一方ペネーロペは、先に息子テレーマコとの再会を果たす。

●宮殿内に求婚者たちが自慢の黄金財宝を持ち込んで、かわるがわるペネーロペにアタックをし始める。羊飼いエウメーテと、物乞い老人に化けたウリッセがそこへ登場。二人の姿を見とがめた大食漢のイーロが、老人に化けたウリッセの方に喧嘩を挑むが、逆にあっさりとウリッセにやっつけられてしまう。

(※ウリッセとイーロの格闘が始まるところでは、典型的なモンテヴェルディ節が聴かれる。ジャンジャンジャン、ジャカジャカジャカ・・・♪バロック・ファンの方々なら先刻ご承知のことと思われるが、これとほぼ同じ音楽が、《戦いと愛のマドリガーレ集》に収められた<タンクレディとクロリンダの戦い>の中にもある。これは、「いざ、出陣」とか、「さあ、戦いだ」といったようなある種の高揚感を表現する時の、モンテヴェルディお得意の音楽だったようである。)

(※格闘場面はやはり、映像付きで鑑賞するのが楽しい。尤もアーノンクール盤の方は、至ってシンプルな演出だ。大男のイーロが、ただ立っているだけのウリッセにボディ・ブロウをいくつか打つ動きをしてすぐにへたり込み、「まいった~」と降参する展開である。ここは、レッパード盤の方が面白い。小柄でお饅頭のように丸っこいイーロを、体格の良いウリッセがスープレックスで投げ転がし、さらに背後からスリーパー・ホールドを決めてギブ・アップさせるのである。「なるほど、ウリッセさんは強いですねえ」と妙に納得させてくれる演出だ。)

―この続きからラスト・シーンまでは、次回。
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