今回は、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>の最終回。物語最後の部分と、全曲CDについてのお話である。
〔 第2幕~つづき 〕
●〔 第3場 〕ペネーロペに求婚する男たちを中心にした宴会。若い娘たちも集まっている。「さあ、楽しもうぜ!」という合唱が響く。さらにアンティノオが、「我らが海の神ネットゥーノ(=ポセイドン)を讃えよう!」と盛り上げる。メラントだけはしかし、何か不安げで落ち着かない様子。
(※この求婚者たちを中心にした合唱も、黄泉の国の亡者たちのそれと並んで、かなり激しいものである。ふとシェーンベルクの<モーゼとアロン>の一場面を思い出させるような、轟然たる合唱だ。いかにも12音のコーラスという感じで、迫力満点。)
(※ここで留意しておきたいのは、男たちの「楽しもうぜ」という言葉にはペネーロペを相手にしている様子がまるでなく、彼らの合唱がもっぱらウリッセやテレーマコを苦しめている海神ポセイドンへの賛歌に終始しているという点である。ダラピッコラ作品に於けるペネーロペの存在感は極めて希薄なものであるということが、ここでも確認出来る。)
●海神ポセイドンを讃える合唱に続いて、男たちがメラントに踊りを求める。メラントが、「そんな気分じゃないわ」と固辞すると、アンティノオはそこへウリッセの弓を持って来させる。そして、その弓をメラントに手渡して言う。「この弓を持てば、何か踊りのひらめきが得られるんじゃねえか?これは、ウリッセにしか引けなかった特別な弓だぜ。どうだ」。メラントは、ウリッセの弓を使ってゆっくりと踊り始める。やがて踊りが高潮してくると、弓のツルがメラントの首に巻きつく。メラントは悲鳴をあげる。その時テレーマコが登場し、求婚者たちと言葉の応酬を始める。メラントが弓を放り投げると、それはウリッセのすぐ近くに落ちた。ウリッセは老人の変装を解き、弓を手にして叫ぶ。「息子のテレーマコだけでなく、この俺、ウリッセも帰ってきたのだ」。それからウリッセは、メラントに向かって言う。「お前がこれから樫の木に吊るされれば、その長い赤毛が炎のように見えることだろう」。豚飼いエウメーオと彼の仲間たちによってメラントが外へ引きずり出された後、ウリッセは弓を使って次々と求婚者たちを射殺(いころ)してゆく。やがてペネーロペが姿を現し、ウリッセと見つめ合う。
(※予言者ティレシアスが見た「血の海」というのは、この場面のことだろう。しかし、やはりここでもペネーロペは、最後のワン・シーンに「ウリッセ!」と叫んで出て来るだけの軽い存在だ。モンテヴェルディ作品で聴かれたような、愛の二重唱みたいなものも始まらない。また、今までの経緯から便宜上、「ペネーロペに求婚する男たち」という言葉を使ってきたのだが、実はこのダラピッコラ作品では、男たちがペネーロペに言い寄る場面は全く出て来ない。こうまで存在感がないと、もうウリッセの妻というよりは、“刺身のツマ”みたいである。)
〔 エピローグ 〕
●短い間奏曲を経て、最終場。星が輝く夜。海に小さな舟が一艘浮かんでいて、ウリッセが一人それに乗っている。予言者ティレシアスの言葉どおり、故郷イタカは彼が落ち着く終着点ではなかった。ウリッセは自分のこれまでの人生が何だったのか、自身に問いかける。そして、人に忘れられることのない「名前」こそ自分が求めるものなのだと確信する。「見つめる、驚く、そしてまた見つめる」という行為に孤独からの解放を見出し、ウリッセはたった一人、再び大海原に漕ぎ出したのだった。
(※この歌劇は、「安らぐ場所をどこにも得られず、新たな旅に一人ぼっちでまた船出するウリッセ」という形で終わっているが、それはこのダラピッコラ作品独自の結末である。ちなみに、原典となるホメロスの『オデュッセイア』では、ティレシアスの霊は帰郷後のオデュッセウスの再出発から、やがて彼が迎える臨終の時までを予言している。物語の全体像を把握なさりたい方は是非、機会を見て、そちらの原作に当たっていただけたらと思う。)
―歌劇<ウリッセ>の全曲CD
この曲には現在、おそらく一種類の全曲盤しかないものと思われる。先年物故した現代音楽の名指揮者エルネスト・ブールの指揮による、1975年5月6日の上演録音(naïve盤)である。ブール氏については、当ブログでかつてアンドレ・ジョリヴェの<ピアノ協奏曲>を語ったときに、EMI録音で聴かれる名演奏の伴奏指揮者としてその名に言及したことがあった。しかし、この人は実力に比して録音が極めて少なかったため、一般のクラシック音楽ファンにはなじみが薄いままで終わってしまった。商業ベースに乗りにくい 20世紀音楽に打ち込んでいたから、録音の機会も少なかったのだろう。
そう言えば昨年、クアドロマニアという廉価盤の4枚組シリーズで、ブール氏の指揮による《モーツァルト交響曲選集》が出た。しかし正直言って、これはちょっと私には期待外れだった。現代物のスペシャリストという偏見的イメージから、もっと猟奇的な演奏が行なわれていることを期待して買ったのだが、それが間違いだったようだ(苦笑)。辛口のモーツァルト、という印象はとりあえず受けた。しかし、それほど冴え冴えとした演奏ではなく、響きも暖色系。しかしそれでいて、練り方が粗い。それやこれやで、特にこれといった魅力を私は感じることが出来なかったのである。やはり、この指揮者の本領は20世紀の音楽にあったのだろうなと、改めて思ってしまった。その意味でも、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>全曲がブール氏の名指揮によって録音されていたというのは大変有難いことだし、また文献的な価値という点でも、非常に貴重な録音と言うべきだろうと思う。
ここでタイトル役のウリッセを歌っているのは、クラウディオ・デズデーリだ。だいぶ前の話になるが、この人はかつて、クラウディオ・アバドの指揮、ジャン=ピエール・ポネルの演出によるロッシーニの歌劇<チェネレントラ(=シンデレラ)>映像盤に出演していた一人だった。そこで彼が演じていたダンディーニはまさに絶品で、当時本当に楽しく笑わせてもらった。まるで漫画みたいな演出が施された稀代の名演奏の中にあって、デズデーリ氏の芸達者ぶりはとりわけ際立っていた。今回の<ウリッセ>録音で久しぶりにその名に触れて、ちょっと懐かしい気持ちになった。勿論ここではロッシーニ作品での名コメディアンぶりとは打って変わって、極めてシリアスな歌唱を聴かせている。声の響きがどことなく往年のティト・ゴッビを思わせる人で、ひと頃は各地の歌劇場でかなり活躍していたらしい。しかし残念ながら、録音に関してはあまり恵まれないまま一線を退くことになってしまったようだ。
―さて、次回予告。これまでずっとウリッセ、つまりオデュッセウスを主人公にしたオペラを語ってきたので、次回は、彼の貞淑な妻ペネーロペを主人公にした作品に話を進めてみたいと思う。主役の立場を入れ替えて見てみると、同じ物語がまた違った像を結んでくる。そのあたりがなかなかに、興味深いのである。
〔 第2幕~つづき 〕
●〔 第3場 〕ペネーロペに求婚する男たちを中心にした宴会。若い娘たちも集まっている。「さあ、楽しもうぜ!」という合唱が響く。さらにアンティノオが、「我らが海の神ネットゥーノ(=ポセイドン)を讃えよう!」と盛り上げる。メラントだけはしかし、何か不安げで落ち着かない様子。
(※この求婚者たちを中心にした合唱も、黄泉の国の亡者たちのそれと並んで、かなり激しいものである。ふとシェーンベルクの<モーゼとアロン>の一場面を思い出させるような、轟然たる合唱だ。いかにも12音のコーラスという感じで、迫力満点。)
(※ここで留意しておきたいのは、男たちの「楽しもうぜ」という言葉にはペネーロペを相手にしている様子がまるでなく、彼らの合唱がもっぱらウリッセやテレーマコを苦しめている海神ポセイドンへの賛歌に終始しているという点である。ダラピッコラ作品に於けるペネーロペの存在感は極めて希薄なものであるということが、ここでも確認出来る。)
●海神ポセイドンを讃える合唱に続いて、男たちがメラントに踊りを求める。メラントが、「そんな気分じゃないわ」と固辞すると、アンティノオはそこへウリッセの弓を持って来させる。そして、その弓をメラントに手渡して言う。「この弓を持てば、何か踊りのひらめきが得られるんじゃねえか?これは、ウリッセにしか引けなかった特別な弓だぜ。どうだ」。メラントは、ウリッセの弓を使ってゆっくりと踊り始める。やがて踊りが高潮してくると、弓のツルがメラントの首に巻きつく。メラントは悲鳴をあげる。その時テレーマコが登場し、求婚者たちと言葉の応酬を始める。メラントが弓を放り投げると、それはウリッセのすぐ近くに落ちた。ウリッセは老人の変装を解き、弓を手にして叫ぶ。「息子のテレーマコだけでなく、この俺、ウリッセも帰ってきたのだ」。それからウリッセは、メラントに向かって言う。「お前がこれから樫の木に吊るされれば、その長い赤毛が炎のように見えることだろう」。豚飼いエウメーオと彼の仲間たちによってメラントが外へ引きずり出された後、ウリッセは弓を使って次々と求婚者たちを射殺(いころ)してゆく。やがてペネーロペが姿を現し、ウリッセと見つめ合う。
(※予言者ティレシアスが見た「血の海」というのは、この場面のことだろう。しかし、やはりここでもペネーロペは、最後のワン・シーンに「ウリッセ!」と叫んで出て来るだけの軽い存在だ。モンテヴェルディ作品で聴かれたような、愛の二重唱みたいなものも始まらない。また、今までの経緯から便宜上、「ペネーロペに求婚する男たち」という言葉を使ってきたのだが、実はこのダラピッコラ作品では、男たちがペネーロペに言い寄る場面は全く出て来ない。こうまで存在感がないと、もうウリッセの妻というよりは、“刺身のツマ”みたいである。)
〔 エピローグ 〕
●短い間奏曲を経て、最終場。星が輝く夜。海に小さな舟が一艘浮かんでいて、ウリッセが一人それに乗っている。予言者ティレシアスの言葉どおり、故郷イタカは彼が落ち着く終着点ではなかった。ウリッセは自分のこれまでの人生が何だったのか、自身に問いかける。そして、人に忘れられることのない「名前」こそ自分が求めるものなのだと確信する。「見つめる、驚く、そしてまた見つめる」という行為に孤独からの解放を見出し、ウリッセはたった一人、再び大海原に漕ぎ出したのだった。
(※この歌劇は、「安らぐ場所をどこにも得られず、新たな旅に一人ぼっちでまた船出するウリッセ」という形で終わっているが、それはこのダラピッコラ作品独自の結末である。ちなみに、原典となるホメロスの『オデュッセイア』では、ティレシアスの霊は帰郷後のオデュッセウスの再出発から、やがて彼が迎える臨終の時までを予言している。物語の全体像を把握なさりたい方は是非、機会を見て、そちらの原作に当たっていただけたらと思う。)
―歌劇<ウリッセ>の全曲CD
この曲には現在、おそらく一種類の全曲盤しかないものと思われる。先年物故した現代音楽の名指揮者エルネスト・ブールの指揮による、1975年5月6日の上演録音(naïve盤)である。ブール氏については、当ブログでかつてアンドレ・ジョリヴェの<ピアノ協奏曲>を語ったときに、EMI録音で聴かれる名演奏の伴奏指揮者としてその名に言及したことがあった。しかし、この人は実力に比して録音が極めて少なかったため、一般のクラシック音楽ファンにはなじみが薄いままで終わってしまった。商業ベースに乗りにくい 20世紀音楽に打ち込んでいたから、録音の機会も少なかったのだろう。
そう言えば昨年、クアドロマニアという廉価盤の4枚組シリーズで、ブール氏の指揮による《モーツァルト交響曲選集》が出た。しかし正直言って、これはちょっと私には期待外れだった。現代物のスペシャリストという偏見的イメージから、もっと猟奇的な演奏が行なわれていることを期待して買ったのだが、それが間違いだったようだ(苦笑)。辛口のモーツァルト、という印象はとりあえず受けた。しかし、それほど冴え冴えとした演奏ではなく、響きも暖色系。しかしそれでいて、練り方が粗い。それやこれやで、特にこれといった魅力を私は感じることが出来なかったのである。やはり、この指揮者の本領は20世紀の音楽にあったのだろうなと、改めて思ってしまった。その意味でも、ダラピッコラの歌劇<ウリッセ>全曲がブール氏の名指揮によって録音されていたというのは大変有難いことだし、また文献的な価値という点でも、非常に貴重な録音と言うべきだろうと思う。
ここでタイトル役のウリッセを歌っているのは、クラウディオ・デズデーリだ。だいぶ前の話になるが、この人はかつて、クラウディオ・アバドの指揮、ジャン=ピエール・ポネルの演出によるロッシーニの歌劇<チェネレントラ(=シンデレラ)>映像盤に出演していた一人だった。そこで彼が演じていたダンディーニはまさに絶品で、当時本当に楽しく笑わせてもらった。まるで漫画みたいな演出が施された稀代の名演奏の中にあって、デズデーリ氏の芸達者ぶりはとりわけ際立っていた。今回の<ウリッセ>録音で久しぶりにその名に触れて、ちょっと懐かしい気持ちになった。勿論ここではロッシーニ作品での名コメディアンぶりとは打って変わって、極めてシリアスな歌唱を聴かせている。声の響きがどことなく往年のティト・ゴッビを思わせる人で、ひと頃は各地の歌劇場でかなり活躍していたらしい。しかし残念ながら、録音に関してはあまり恵まれないまま一線を退くことになってしまったようだ。
―さて、次回予告。これまでずっとウリッセ、つまりオデュッセウスを主人公にしたオペラを語ってきたので、次回は、彼の貞淑な妻ペネーロペを主人公にした作品に話を進めてみたいと思う。主役の立場を入れ替えて見てみると、同じ物語がまた違った像を結んでくる。そのあたりがなかなかに、興味深いのである。