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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<アブ・ハッサン>

2006年07月09日 | 作品を語る
しばらくモーツァルト・オペラに没頭してきたが、ここで一旦、歌劇<オベロン>から始まったウェーバー関連の話に戻って、ちょっと補足しておきたい。

先頃語ったとおり、ウェーバーの歌劇<オベロン>の第1幕最後には、トルコの軍楽隊が行進していくという場面があった。ハイドン、モーツァルト、あるいはベートーヴェン等の作品にも例が見られるこの“トルコ音楽趣味”なるものは、ウェーバーの場合、若書きの短編歌劇<アブ・ハッサン>(1811年初演)に最もよく反映されているように思われる。今回は、その<アブ・ハッサン>のご紹介。これは演奏時間にして約50分そこそこの短い作品で、中身もまた、非常にお気楽なコメディである。

―歌劇<アブ・ハッサン>のあらすじ

所はバグダッド。トルコ音楽の雰囲気を取り入れた短い序曲に続いて、金遣いが荒いため金欠状態に陥っている男アブ・ハッサン(T)と、彼の愛妻ファティメ(S)の楽しいやり取りが始まる。「ワインを飲みたいよー」「あら、お水がほしいのね」「違うよ、ワインだってば」「ダーメ。マホメット様がお禁じになっているんだから。じゃ、お水ね」「頼むよー、ワイン」「何か歌ってあげようか」。(※この「ワインの二重唱」で早速、序曲でも提示されていた弦楽器によるトルコ風のテーマが聴かれる。)

多額の借金でどうにも首が回らなくなっているハッサンだが、彼に突然名案がひらめく。「そうだ、僕ら死ねばいいんだ」。びっくりする妻に、ハッサンは説明を始める。「まず先に、僕が死んだことにする。で、君は太守のお妃様のところへ行って、お葬式代をもらってくるんだ。それから次は、君が死んだことにする。今度は僕が、太守様のところへ行って、君のためのお葬式代をもらってくる。そのお金で、借金を払うって計画さ」。それを聞いたファティメは、「そのアイデア、素敵ねー」と、すっかり乗り気。この夫にして、この妻あり。そしてファティメがいそいそとお妃のところへ出掛けていくと、ハッサンは、「早速、お祝いのパーティをやろう」と上機嫌なアリアを歌い出す。

そこへ金持ちオマール(B)と、大勢の借金取りたちがハッサンの家にやって来て返済を迫る。実はこのオマールという男、いつか美人のファティメを我が物にしてやろうと虎視眈々。この男の下心を妻から聞かされていたハッサンは、それを巧みに利用し、「ファティメのためなら、お前の借金を俺が肩代わりして全部払ってやってもいいぞ」という言葉をオマールから引き出す。他の借金取りたちはお金を回収出来ることになるので喜び、オマールもまた、この借金証文を盾にして後でファティメに迫れるぞと考え、一同満足した様子で帰って行く。

やがてファティメが、お妃からいただいた「ハッサンのお葬式代」を持って帰宅する。そして愛を確かめ合う二人の、喜びの二重唱。(※このデュエット曲は小規模ながら、注目に値する佳曲である。前半部のロマンティックな雰囲気、そして後半部に入ってから出て来る弦の伴奏型など、もう堂々たるウェーバー節だ。)

続いて今度はハッサンが、太守様から「亡き妻のためのお葬式代」をいただくために出掛けていく。チェロ独奏のオブリガートを伴うアリアでファティメが夫への愛を歌っているところへ、オマールが出現。彼は借金の証文を盾にしてファティメに迫り、ついに彼女の唇を奪う。そこへ、首尾よくお金をいただいてきた夫のハッサンが帰宅。オマールは真っ青になって、戸棚に隠れる。

やがて、太守の召使メスルールがハッサンの家を訪ねてくる。「太守様は、ファティメさんが死んだとおっしゃる。しかし奥様は、死んだのはハッサンの方ですとおっしゃる。そこで太守様ご夫婦のお言いつけで、私が確かめにまいりました」。そこでファティメが死んだふりをして寝そべり、ハッサンが彼に対応することで、二人は急場をしのいだ。メスルールが去って二人がホッとしていると、今度はお妃の侍女ツェームルートがやって来た。「お妃様が納得いかないとのことで、私が確かめにまいりました」。今度は、死んだふりをしているハッサンの前でファティメがヨヨと泣いて見せ、ツェームルートを納得させる。しかしその後、さすがのファティメも、「こんな事をしていて、最後はどうなっちゃうのかしら」と不安になってくる。

すると賑々しいトルコ風の行進が響き、ついに太守自身が家来たちを連れてハッサンの家にやって来た。ハッサンもファティメも、今度は二人とも揃って死んだふりをする。横たわっている二人を見て、太守が言う。「アブ・ハッサンとファティメ、どちらが死んだのかと妻と賭けまでしたが、こうして二人とも死んでいるのを見ると分からん。一体どっちが先に死んだのだ?それが説明できる者に、金貨1000枚を与えよう」。するとハッサンがガバッと起き上がり、「私が先です!ですので、金貨をいただきとう存じます」と叫ぶ。唖然とする太守に、ハッサンは続ける。「太守様のお慈悲で、生き返ることが出来ました」。続いてファティメも起き上がり、「私も生きています。ごめんなさい」と謝る。それからハッサンは、「苦しまぎれにやったことなのです。こんなたくさんの債権を盾にして、ある金持ちが私の妻に迫ってきたので、仕方なく・・」と、太守に釈明する。

太守は先の言葉通り、金貨1000枚をアブ・ハッサンに与えることにし、債権を盾にしてファティメに不倫を迫ったオマールへの処罰をほのめかす。そして、相変わらず戸棚の中で青ざめている哀れな金持ちをよそに、「太守様が訪れたこの家に祝福あれ」という全員の賑やかな合唱で、全曲の終了となる。(※この終曲は、序曲の冒頭で聴かれたトルコ風のテーマに乗った非常に景気の良い合唱曲である。モーツァルトの<後宮からの逃走>の最後を締めくくるあのゴキゲンな大合唱を、うんと小さくしたミニアチュア版という感じ。しかし大変残念なことに、この終曲の合唱は、演奏時間にしてたったの40秒!全曲でも50分そこそこの小さなオペラだから仕方ないのかも知れないが、これはもう少し長い曲に書いてほしかった。)

―以上が、歌劇<アブ・ハッサン>のストーリーである。「いいのか?こんな話で」とちょっと思わなくもないが、まあ、いいことにしよう(笑)。さて、私が聴いたこのオペラの全曲盤は、ハインツ・レグナーの指揮によるDENON盤(1971年録音)だった。演奏は、ドレスデン国立歌劇場のオーケストラと合唱団。アブ・ハッサン役のペーター・シュライアーと、金持ちオマール役のテオ・アダムは日本でもすっかりお馴染みの名前である。ファティメ役のI・ハルシュタインという人は、ちょっと分からないが・・。なお、セリフの部分は、それぞれ専門の俳優たちが担当していた。歌手陣の中では、とりわけシュライアーが好演だった。そして全体を統率するレグナーの指揮も、生き生きしていてとても良かった。アダムはいつもの通り、端正な歌いぶりを披露していたが、オマールという役のキャラからすれば、もう少しスケベったらしい表情を出してくれてもよかったんじゃないかなと思う。ファティメ役のハルシュタインは、演技のノリや重唱の合わせは良かったものの、ソロの曲はかなりつらかった。

―次回また、ウェーバーの歌劇をもう一つ。
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歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>

2006年06月13日 | 作品を語る
モーツァルトが書いたオペラの中には、前回まで語ってきた歌劇<後宮からの逃走>とは打って変わって、非常に厳しい(あるいは、シニカルな)目で、貞節というテーマを扱った作品がある。今回タイトルに掲げた歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>(1790年)がそれである。今回はその<コジ・ファン・トゥッテ>を土台にして、モーツァルト・オペラを巡って行なわれてきた興味深い分析例の中から二つほど具体例を並べてみる、という形の記事にしてみたい。

―<コジ・ファン・トゥッテ>の意味

まず、<コジ・ファン・トゥッテ>というタイトルの意味を、しっかりと文法的に理解するためのイタリア語学習から。最初のコジ(Cosi)は英語なら like this 、つまり、「このように」という意味の単語。次のファン(fan)は、ファンノ(fanno)が縮約されたもので、「する、行なう」といった意味を持つ動詞ファーレ(fare)の活用形。主語が三人称複数(彼ら、彼女ら、それら)であることを示す形である。で、最後のトゥッテ(tutte)は、「すべて、みんな」を意味するトゥット(tutto)の女性複数形。ここでは、「女たちは皆」と訳せる。で、全部通して、Cosi fan tutteと並べると、「このようにしちゃうんだ、女はみんな」という意味になる。では、本題。女はみんな、どうしちゃうのかと言うと・・

―<コジ・ファン・トゥッテ>のあらすじ

士官フェランド(T)は、美人姉妹の妹の方ドラベッラ(Ms)と愛し合っている。同じくグリエルモ(Bar)は、姉の方フィオルディリージ(S)と愛し合っている。二人の青年は、それぞれの恋人が浮気をせずにしっかりと貞節を守れるかどうかを巡って、友人である哲学者ドン・アルフォンゾ(B)と賭けをすることになる。この一風変った初老の独身学者が、「君らは、女が貞節だなどと信じているのかね?」と、若者二人を挑発したのがきっかけである。ここから、女たちの心を試すお芝居が始まる。

まず、「フェランドとグリエルモは、突然の任務で戦場に行くことになった」という話をドン・アルフォンゾが姉妹のもとに持ち込む。それから青年二人が揃ってやって来て、それぞれの恋人にしばしの別れを告げて去っていく。その後、二人はアルバニア人男性に変装。そして彼女たちのところに現れ、「私たちはずっと、あなた方に恋していました」とアタックし始める。しかし彼女たちは勿論、「何て馬鹿げた人たち」と、突然やってきた二人の“異国人”男性を全く相手にしない。

一方、ドン・アルフォンゾにいい報酬を提示されてこのゲームに乗ってきているのが、お手伝いさんのデスピーナ(S)。彼女は姉妹に、しきりに浮気を勧める。「男の貞節なんて、信じちゃダメですよ。彼らだって行った先で浮気しているんだから、お嬢様たちも恋のアヴァンチュールをお楽しみなさいませ」。

その後、偽装服毒自殺のお芝居やデスピーナの心理的扇動によって、姉妹の心はやがて新しく現れた二人の求愛者になびいていく。まず妹のドラベッラが心変わりを起こし、グリエルモが変装した男をうれしそうに選ぶ。続いて貞操観念が強い姉のフィオルディリージもまた、激しい心の葛藤と戦いながらもついに、フェランドが変装した男によろめいてしまう。そこまでの経過を確認する男たちのミーティングでドン・アルフォンゾが、「コジ・ファン・トゥッテ(=女はみんな、こういうものだ)!」と高らかに歌い、二人の青年も、(半ば、やけくそになって)同じ言葉を唱和する。

ラスト・シーン。ドン・アルフォンゾが公証人(←これも、デスピーナの変装)を呼んで、見事に姉妹から結婚承認のサインを取る。そこへ、打ち合わせどおり素顔にもどったフェランドとグリエルモの二人が突然現れ、「この結婚サインは何だ?」と彼女たちに詰め寄る。二人の姉妹はすっかり度を失って、しどろもどろ。最後、ドン・アルフォンゾからそれまでの謀略について聞かされ、さらにアルバニア人の服装で現れた恋人の姿を見たところで、姉妹はようやく自分たちが置かれた状況を覚り始める。「皆さんに賢くなってほしかったから、やったことです」とドン・アルフォンゾが諭し、四人に和解を促す。そして、それぞれが本来の相手との愛を確かめ合うアンサンブルとなって、『恋人たちの学校』という副題を持つこのオペラは全曲の終了となる。

―<コジ・ファン・トゥッテ>に仕込まれたモーツァルトの毒

全編に流れる美しい音楽とは裏腹に、<コジ・ファン・トゥッテ>のストーリーは随分過酷な内容を持った物である。二組のカップルはこれから先、本当に大丈夫なのだろうか。実は、この<コジ・ファン・トゥッテ>に限らず、モーツァルトのオペラ作品の中にはある種の毒を感じさせる物がいくつか存在する。そのあたりについて岡田暁生(おかだ あけお)氏が著書の中で書いておられることを、一部編集・簡略化して以下にご紹介してみたい。

{ (ドン・オッターヴィオやタミーノ等を好例として、)総じてモーツァルトは、「清く正しい人物」に対してはあまり魅力的な音楽を与えることがないようである。だが悪玉やドジ役にこの上なく魅力的な音楽をつけて肩入れする彼のヒューマニズムの裏には、真摯な感情を容赦なく茶化してみせる恐るべき冷笑が隠れていることもまた忘れてはならない。・・・<ドン・ジョヴァンニ>に於いては、主人公に対するドンナ・エルヴィーラの切ない未練が徹底的に笑いものにされる。<コジ・ファン・トゥッテ>に於いては、男たちは罪もない無邪気な姉妹の心をもてあそび、自分たちで彼女らの心変わりを誘導しておきながら、その裏切りをなじる。これらは、喜劇の形式で表現された悲劇であり、さらに言えば、悲劇さえも突き抜けた情け容赦ないリアリズム劇なのである。 / 『オペラの運命』(中公新書)~60ページ }

―<コジ・ファン・トゥッテ>に窺われる、エロス原理への衝動

さて、岡田氏による上記の文章にも関連する、別の専門家による興味深い分析をもう一例。音楽之友社から出ている『名作オペラ対訳ブックス』シリーズの第11巻、その20~22ページに掲載されている文章である。これは歌劇<後宮からの逃走>について書かれた物だが、その一部を編集・簡略化して書き出してみると、だいたい次のような感じになる。

{ ブロンデから、「女の心をつかむにはね・・」と優しくアドヴァイスされ、自分の出方次第では彼女にもその気があることを覚ったオスミンは戸惑った。そして、すっかりはにかんでしまった彼は、逆に高圧的な態度に出てしまう。それに続く口論の二重唱で決着がつくのだが、この不釣合いな二人は非常に打ちとけ合っていて、お互いに気のおけない様子がうかがえる。まるで長年連れ添った老夫婦のような口げんかを繰り広げているのだ。・・・この二人の間には信頼とくつろぎが支配しており、ブロンデの貞節を疑ってしまいたくなるほどである。ちなみにモーツァルトは、彼女の「正当な」恋人であるペドリッロとは、二重唱による自己表現の場を与えていない。 }

ここに書かれている文章には、オスミンという面白キャラに対するモーツァルトの肩入れぶりがよく示されているように思える。筆者であるアッティラ・チャンパイ氏は、「社会的モラルやタブーを超えたエロス原理への衝動」の萌芽を<後宮からの逃走>の音楽に見出しており、その種のエロスの力が存分に発揮された時にこそモーツァルトのリアリスティックな人間把握が具現化されていると説く。氏は同じ文脈でさらに、<ドン・ジョヴァンニ>に於ける主人公とツェルリーナ、そして<コジ・ファン・トゥッテ>に於ける二組のスワッピング・カップルにも言及している。

そう言えば、この<コジ・ファン・トゥッテ>の初期設定では、テノールのフェランドとメゾ・ソプラノのドラベッラ、そしてバリトンのグリエルモとソプラノのフィオルディリージが恋人同士ということになっている。これはオペラに於ける恋人ペアの声の組み合わせとしてはあまり一般的でなく、一種の“ねじれ”を起こしたものだ。それが、「女の貞節を試すお芝居」の中でスワッピングして入れ替えられた結果、テノールのフェランドとソプラノのフィオルディリージ、バリトンのグリエルモとメゾ・ソプラノのドラベッラという、より自然な声の組み合わせになってくるのである。本来のカップルよりもスワッピング・カップルの方が自然な声の組合せになっているというのは、何とも奥ゆかしい。

もう一つ、ヴィジュアル面での注目点として挙げられるのが、姉のフィオルディリージが陥落する直前の一こまである。具体的には、思いつめた彼女が、「恋人のいる戦場へ、私も行くわ」と決意して男の軍服を着込むシーンだ。ここで彼女が着るのは恋人グリエルモの服ではなく、フェランドの軍服である。それが自分にぴったりだと感じた彼女は、「グリエルモの服は、妹のドラベッラに着させよう」とつぶやく。これまた非常に示唆的な場面と言えるだろう。

―という訳で、天下のモーツァルト先生がお書きになったオペラともなると、本当に色々な研究や分析がなされているし、また、様々な解釈が可能というわけである。では次回から、この<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べのお話。いつもの通り、私がこれまでに聴いてきた全曲盤(※このオペラについては、6種類)を録音年代順に並べ、それぞれについての感想文を書いていきたいと思う。
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歌劇<後宮からの逃走>

2006年05月21日 | 作品を語る
前回まで語ってきたウェーバーの歌劇<オベロン>のストーリーを読みながら、もう既にお気付きになった方がおられるかも知れない。このウェーバー最後の歌劇に見られる物語展開は、モーツァルトの歌劇<後宮からの逃走>(1782年)にそっくりなのである。もっとも、モーツァルト・オペラの方は非常に有名な物なので、当ブログでは、必要な部分を確認する程度のあらすじだけを書き出してみることにしたい。それだけでも、<オベロン>との類似点は十分に感じ取っていただけるのではないかと思う。

―歌劇<後宮からの逃走>のあらすじ

航海の途中で海賊にさらわれた後、トルコ太守に買われてハーレムに押し込まれたヒロインがいる。その名は、コンスタンツェ(S)。「変らぬ貞節」という名前を持ったこの女性に、今救いのチャンスがやって来ようとしている。恋人のベルモンテ(T)が、助けに来たのだ。「海賊に誘拐された恋人を、今度はこっちが後宮から誘拐し返してやる」と、意気込んでやって来たわけである。

後宮の番人をしているのは、オスミン(B)という頑固者。ベルモンテはまず、恋人と一緒に連れ去られた自分の部下であるペドリッロ(T)について、その消息を尋ねる。「コンスタンツェを、よく見張っているように」と太守から命じられているオスミンは、もともと外来者に対しては警戒心が強いのだが、ペドリッロという名を聞くや一層不機嫌になる。ペドリッロは、コンスタンツェの侍女であるブロンデ(S)と相思相愛の恋仲。しかし、オスミン爺さんは年甲斐もなく(?)、そのブロンデに首ったけなのであった。だから、ペドリッロという若造がうっとうしくて仕方ない。(※第2幕の冒頭では、ブロンデに言い寄るオスミンと、彼の尊大な態度にしっかりと対抗する活発なブロンデの楽しいやり取りが見られる。ここで聴かれるブロンデのアリア「女心をつかむには」は、とてもチャーミングな曲だ。)

一方、太守セリム(語り役)からの求愛に対して、「私には、好きな人がいるんです」と、コンスタンツェは恋人を裏切らないよう必死に抵抗している。(※ここで歌われるコンスタンツェのアリア「ありとあらゆる拷問が」は、映画『アマデウス』でもすっかりお馴染みになった有名な曲。この歌を聴きながらサリエリが目をぐるぐる回してしまうというシーンが、非常に印象的だった。)その後ペドリッロがブロンデに会い、ベルモンテが助けに来てくれたことを告げる。それから彼は勇気を奮って、計画の第一作戦に乗り出すことにする。

ペドリッロはまずオスミンのところへ行き、おいしい酒を飲ませて喜ばせる。しかし、その酒は眠り薬入り。それをいい調子で飲んだため、さすがのオスミンもグーグーと寝入ってしまう。そしてついに、ベルモンテとコンスタンツェは喜びの再会を果たす。しばらくすると男二人は、それぞれ愛する女性に対して、「本当に君は、操(みさお)を守ってくれていたのかい」と疑って尋ねる。太守セリムに迫られていたコンスタンツェも、オスミンに言い寄られていたブロンデも、「私たちの心を疑うなんて」とそれぞれに身持ちの堅さを訴える。(※誤解を解いた男たちと、二人の魅力的な女性による四重唱は、若きモーツァルトが書いた名アンサンブル曲の一つ。)

後宮からの逃走計画を実行する夜中になった。ベルモンテとペドリッロが梯子を持ってきて、コンスタンツェがいる部屋の窓に立て掛ける。しかし、いよいよ脱出というところで、四人はオスミンに発見されてしまう。彼は衛兵たちを呼び、あっという間に全員を捕まえてしまった。得意満面のオスミン。「何の騒ぎだ」と、太守セリムも登場。それに続くやり取りの中でベルモンテの素性を知ったセリムは、表情をこわばらせる。と言うのは、このベルモンテの父親に以前、彼はひどい目に合わされた恨みがあったからである。コンスタンツェもベルモンテも、「こうなっては、もはや」と死を覚悟する。

しかし、彼らに向けられたセリムの言葉は、全く意外なものだった。「お前たちを自由にしてやる。かつて我が身に与えられた不正に対して、復讐ではなく善行をもって報いることは、より偉大なる喜びを私の心にもたらすからだ」。太守の寛大な心に、一同は感動する。ひとりオスミンだけは憤懣やるかたなし、といった様子で退場するが、太守セリムを讃える四人のアンサンブルと全員の賑やかな合唱が始まって、全曲の終了となる。(※このラスト・シーンも、映画『アマデウス』の中で非常に効果的に紹介されていた。絢爛たる舞台の見事さと、乗りまくったモーツァルトのおどけた指揮姿が今も鮮やかに目に浮かぶ。)


―以上が、歌劇<後宮からの逃走>の大雑把な筋書き。何だか、今さら書くのも気恥ずかしくなるぐらい有名なストーリーだ。それはさておき、ウェーバーの歌劇<オベロン>との共通点が、ここでかなり確認できたのではないだろうか。

ソプラノ役のヒロイン(コンスタンツェ、レツィア)が海賊にさらわれて、異国の太守に買い取られる。そこへテノール役の恋人(ベルモンテ、ヒュオン)が助けに来る。そして、この二人にはそれぞれ、気立ての良い家来がいる。で、その家来の男女もまた、相思相愛(ペドリッロ&ブロンデ、シェラスミン&ファティメ)。ラスト・シーンで主人公たちは、死をも覚悟するほどの危機に遭遇する。しかし結局、「あらあら、そんなことが起こっていいの」みたいな展開でハッピー・エンドとなる。本当に、両者よく似た設定である。大きく違う点と言えば、<オベロン>ではシェイクスピア世界の妖精たちが所謂“狂言回し”を務めているのに対し、<後宮>では宮廷の番人オスミンがドラマを回転させる主軸的存在になっているということだろう。

さて、私がこれまでに聴いてきた<後宮からの逃走>の全曲盤は、新旧取り混ぜて、とりあえず7種。モーツァルト・オペラに関しては必ずしも熱心な聴き手とは言えない私だが、この楽しい作品は結構好きで、何やかやと結局いろいろな演奏を聴くことになったのだった。―という訳で、次回から、その7種類の演奏を聴き比べるお話に進んでみたいと思う。(※と言っても、別に優劣のランキングをつけようなどという考えは全くなく、録音年代順に並べて、それぞれについての感想文を書いてみようという試みである。)
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歌劇<オベロン>(3)

2006年05月16日 | 作品を語る
今回は、ウェーバーの歌劇<オベロン>の最終回。ラスト第3幕の展開について。

〔 第3幕 〕

●テュニスの太守アルマンソールの宮殿。レツィアと一緒に連れてこられた家来の二人、シェラスミンとファティメがいる。ファティメが望郷のアリアを歌う。「我が故郷、アラビアよ」。すっかり気持ちが通じ合っているシェラスミンとファティメはやがて、二重唱を始める。「奴隷でもいいよ。こうして一緒にいるんだから。楽しく、心変わりせず、歌って、ずっと愛し合おう」。その二人のもとへ妖精が、(オベロンの命令通りに)ヒュオンを連れてくる。再会を喜び合う三人。そしてレツィア救出への決意と、神への祈りを歌う三重唱となって、第3幕の第1場が終了。

(※この部分は、クーベリック盤が楽しい。シェラスミンとファティメの役は、ヘルマン・プライとユリア・ハマリの二人が歌っているのだが、これが実に良い。クーベリック盤の強みというのは、指揮の良さもさることながら、出演歌手陣がこのような脇役に至るまで非常に充実しているという点にある。一方のガーディナー盤では、そういったビッグ・ネームの歌手たちは少なくとも脇役には登場せず、アンサンブル志向とも言うべき小ぢんまりしたまとまりを見せている。そのあたりが聴きようによっては物足りないのと、録音の音圧が低くて音の伸びが悪いというのが、ガーディナー盤に感じられる不満と言えようか。)

●第2場は、囚われの身となったレツィアの嘆きの歌から始まる。カヴァティーナ「私の心よ、不幸に嘆け」。その後、新しい状況の発生が語り手によって伝えられる。「太守アルマンソールの妻ロシャーナは、ヒュオンにすっかり惚れ込んでしまいました。彼女はしきりにモーションをかけるのですが、ヒュオンは、『私が想う人は、レツィアだけだ』と言って、しっかりと拒否します」。続いて、誘惑の女声合唱とヒュオンのやり取り。

(※この第2場では、ヒュオンを誘惑する女声合唱が楽しい。ガーディナー盤では、「奴隷娘たち」と表記されている女性たちの合唱だが、これはまず歌詞がよい。「快楽の杯は一杯に満たされているわ。さあ、飲んで。バラがしぼまないうちに摘み取ってくださいな」「女の白い腕(かいな)から、あなたは逃げられますか」とヒュオンに迫り、さらに全く乗ってこない彼に対して、「お願い。快楽の園から去らないで」と、まとわり付くのだ。こんな内容が優しく、かつリズミカルに歌われるのである。)

(※ここで聴かれるレツィアのカヴァティーナについても、第2幕のアリアの時と同じことが言えるだろう。ガーディナー盤で聴くことの出来るマルティンペルトの細やかな歌唱は、ここでも素晴らしい。クーベリック盤のニルソンも、彼女なりに抒情的な歌唱を披露してくれていてそれなりに良いのだが、やはりマルティンペルトの歌唱の方が一層強い感銘を与えてくれる。英語で歌われていることも関係するのか、彼女の歌はまるで、バロック期の巨匠ヘンリー・パーセルの音楽世界から響いてくるようだ。)

●最後の第3幕第3場は、テュニスの広場が舞台。縛られたヒュオンが処刑されそうになっている場面。太守アルマンソールの妻ロシャーナとの、根も葉もないスキャンダルが処刑理由になっている。レツィアは、愛するヒュオンとともに死ぬ覚悟をしている。ヒュオンも、レツィアと一緒に幸せになれないなら死ぬ方を選ぶという決意。そして、この二人にいよいよ危機が迫った時、オベロンの角笛が響く。すると、死刑執行人たちはいきなりみんな踊り出し、処刑どころではなくなってしまう。ヒュオン、レツィア、シェラスミン、ファティメの四重唱。「ありがたき角笛の力」。そこへ妖精の王オベロンが登場し、ヒュオンとレツィアの二人に感謝の言葉を贈る。「操(みさお)高き二人に、私は感謝する。おかげで私も、妻ティタニアと仲直りが出来る」。最後にヒュオンたちを讃える合唱が響くところで、全曲の終了。

(※残念ながら、この処刑寸前のシーンというのは、語り手が担当する箇所になっている。歌手たちが歌声の応酬をするわけではないのだ。クーベリック盤では俳優たちによるセリフのやり取り、ガーディナー盤ではナレーターによる場面解説ということになる。そしてオベロンの角笛が響いて、助かった四人の歌になるところでようやく、ウェーバーの音楽が出て来るのである。ここはやはり歌手たちの丁々発止が聴きたいと思うところだが、作品自体がそのように書かれているので仕方がない。)

(※極めて優秀なクーベリック盤について一つ、私が不満に感じている部分を書いておきたい。それは、ドラマの随所に出て来る俳優たちの長いやり取りである。これが何とも、まどろっこしいのだ。ドイツ語が分かる人やそれを勉強している人には、またそれなりの楽しみや意義もあるのだろうとは思う。しかし、その長いセリフのやり取りは、音楽の流れを阻害しているように感じられてしまうのである。さりとて、音楽が付いた箇所だけを羅列して演奏しても、何だかつながりが唐突で不自然な感じになる。結局ガーディナーがやってくれているように、一人のナレーターが手際よく場面展開を説明して、それからすぐに音楽に進むという形が、一番聴きやすくて良いのではないかと思う。)

(※最後に、タイトル役のオベロンに割り振られた声について、片言隻句。ウェーバー作品のオベロンは、細めの声を持ったリリック・テナーの役になっている。強い声のテナー歌手はヒュオンの方を受け持つ訳だが、これは、オベロンというキャラクターに中性的なイメージが古来あったためではないかと推測される。その一つの補足的証左として、ブリテンの歌劇<真夏の夜の夢>が挙げられると思う。そこに登場する妖精の王オベロンの声は、カウンター・テナーなのである。)

―ウェーバーの歌劇<オベロン>の内容については一応、ここで終了。ここまでお読みいただいた通り、これはかなり荒唐無稽な筋書きを持ったオペラなのだが、音楽的にはかなり充実した中身を持つ作品である。興味の向きは、御一聴を。
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歌劇<オベロン>(2)

2006年05月11日 | 作品を語る
前回からの続きで、ウェーバーの歌劇<オベロン>の第2回。今回は、第2幕の内容。

〔 第2幕 〕

●第2幕は、力強い男声合唱で始まる。「讃えよ!力強きカリフ(=太守)に、名誉と栄光を」。ペルシャの王子バーベカンは、バグダッド太守ハルン・アル・ラシッドの娘であるレツィアと結婚したがっている。太守もまた、それを望ましい事と考えている。しかしヒュオンの登場によって、ペルシャ王子の望みは潰(つい)え去ることとなった。レツィアの侍女ファティメが、「私はアラビアの孤児だけど・・」とアリエッタを歌っていると、ヒュオンと彼の従者シェラスミン、そしてレツィアがやって来る。そして、期待に胸を膨らませる四人によるアンサンブル。「行く先はフランスだ!さあ、船に乗ろう」。

(※ここで聴かれるファティメのアリエッタというのもなかなかの佳曲だが、続く四重唱がやはり一番耳を引きつける。序曲でお馴染みになっている有名なパッセージが出て来るからだろう。具体的には、その序奏部に続いて始まる有名な主部の第1主題に当たる部分である。ダッ、ダッ、ダッ、ダッという力強いリズムに導かれた典型的なウェーバー節だ。)

―上記のような展開で、愛し合う二人はそれぞれのお供を連れ、四人揃って首尾よく幸福への船出をすることが出来た。と、ここまでは順風満帆。しかし、妖精の王オベロンは、ヒュオンとレツィアの二人に対して、「心変わりすることなく、お互いにその愛情を貫き通せるか」を調べるための試練を与えなければならない。そこで彼は妖精パックを派遣し、若き恋人たちに厳しい運命をもたらすことにするのである。

●妖精パックが登場し、他の妖精たちを呼び集める。「何をすればいいんだ?」と集まってきた彼らに、パックは言う。「皆の力で嵐を起こしてくれ。船を一隻、岸へ追いやるんだ」。オーケストラによる激しい嵐の音楽。四人が乗った船は、岸に打ち上げられる。ヒュオンがレツィアの様子を心配して歌う。「このか弱い花を、お助けください」。続いて、意識を取り戻したレツィアのシェーナとアリア。「大洋よ、恐ろしき怪物よ」。やがて、レツィアは船が近づいてくるのを目にして喜ぶのだが、あろうことか、それは海賊船だった。非情な海賊たちはヒュオンに重傷を負わせ、レツィア達を連れ去っていく。海賊の首領アブダラは、テュニスの太守アルマンソールのもとにレツィアを連れて行き、いい値段で売り飛ばしてやろうと企む。

(※妖精たちが引き起こす「嵐」の音楽は、いかにもウェーバーらしいものだ。<魔弾の射手>に於ける「狼谷の場」をふと想起させるような趣がある。迫力の点では、「狼谷」の方が断然凄いが、仕上がりの点では逆に、この「嵐」の方がよく書き込まれている曲という印象を受ける。)

(※ここで聴かれるレツィアのシェーナとアリア「大洋よ、恐ろしい物の怪よ」は、とても有名な歌。特にその最後の部分、「私の夫ヒュオン、・・・救いは近い」と喜び勇んで歌うところは、序曲の第2主題第2部に使われているもので、このオペラの中でもおそらく最も印象的な一節と言えるものだろう。このアリアは古来、非常にドラマティックで強い声を持ったソプラノ向きの曲とされてきた。クーベリック盤でニルソンが起用されたのも、この歌の伝統的なイメージからして当然の選択だったのだろう。また当時なら、最高のキャスティングでもあったと思われる。つい先頃ネット通販サイトを検索してみたのだが、そこでアニタ・チェルクェッティがこの役を歌った記録が見つかった。なるほどいかにも、という感じである。)

(※一方、ガーディナー盤の演奏が持っている特徴も、このレイザの有名なアリアによく表われているような気がする。そこでは歌詞を極めて細やかに扱う精妙な歌唱が行なわれており、旧来の「超ドラマティック・アリア」というイメージとは明らかに一線を画する、新鮮な美しさが提示されているのだ。伴奏部分でも、例えば、大海原の波を描く弦のうねるような表情など、ガーディナーは本当に巧い。クーベリック盤で歌っているニルソンの歌唱も立派なものなのだが、ガーディナー盤から得られる新鮮な感動の前に、いささか往年の光彩を失ってしまったように感じられなくもない。)

(※ガーディナーの演奏を聴いていると、「ワグナーの歴史的先駆としてのウェーバー」と言うよりはむしろ、「モンテヴェルディ以来のバロック・オペラの系譜線上に置かれたウェーバー」みたいな印象を受ける。現代楽器よりもピッチが低い弦の響きや、古い管楽器群の音色が生み出す独特の雰囲気もさることながら、随所で示される鋭角的なアクセントや速めのテンポ設定といった古楽器派演奏家たちに概ね共通する基本コンセプトが、ここでも存分に披露されている。そしてそのアプローチがさほど違和感をもたらすことなく、それなりにしっかりした説得力を備えているようにも感じられるのである。これは、指揮者ガーディナーの力量によるところも勿論あると思う。しかし一方で、<オベロン>という作品自体が持っているある種の特殊性みたいなものが、その成功に寄与しているんじゃないかとも思えるのだ。例えば、<魔弾の射手>以上にワグナーを予見させる<オイリアンテ>あたりになったら、こんな風には行かないだろうと、ちょっと考えてしまうわけである。)

(※ここでもう一つ付け加えて言うなら、<オベロン>で聴かれるクーベリックの清新な音楽作りも、明らかに<魔弾の射手>の時以上に成功していると思う。これもやはり、<オベロン>という歌劇が持っている“ボーダーレス・オペラ”としての特殊な性格が、理由の一つになっているような気がする。)

●妖精たちが集まっている所に場面が移り、音楽の雰囲気もがらりと変る。オベロンの忠実な妖精たちのために海の芝居が一席催される運びとなり、そこに夢幻的な世界が展開する。まず、二人の人魚による抒情的な美しい歌。続いてニンフたち、他の人魚たち、空気の精たちも集まって、「楽しく泳ごう」「楽しく踊ろう」と歌い交わす合唱となる。

―これで、第2幕が終了。この続き、第3幕の展開とその驚くべき(!)結末については、次回。
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