パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>・第2回。今回は、第2幕の残り部分と第3幕について。
〔 第2幕 〕~残り部分
―ベリンダの歌「この美しき山峡(やまあい)、・・・狩りは楽しい、獲物は山ほど」。
(※狩りに出たディドーたち一行。侍女のベリンダが、その楽しみを歌う。憂いに沈みがちなディドーと鮮やかな対比を示しながら物語を生き生きと推進していくベリンダだが、これはそんな陽気な彼女が歌う名曲の一つである。今回採りあげている3種のCDの中では、クリスティ盤のジル・フェルドマンが、“歌のくっきりパワー”を最高度に発揮して、合唱団ともども極めて感銘深い名唱を聴かせる。ここは魔女たちの場面と並んで、クリスティ盤の演奏で聴かれる白眉のシーンと言ってよいだろう。ピノック盤のリン・ドーソンは、普通の出来。ホグウッド盤では、ディドー役にも定評のある名歌手エマ・カークビーがこの役を歌っている。ここでの彼女は、後の時代のオペラによく登場することになるスーブレット役の原型みたいなベリンダを歌い出している。)
―魔女たちが引き起こした嵐によって狩りは中止となり、一行は町へ向かう。しかし、一人になったエネアスのもとに魔女が化けたメルクリウス(=マーキュリー)神が現れる。その偽の神にせかされたエネアスは、ディドーと別れて出発しようと決意する。「大神の命に従って、今宵、船の錨を上げよう。しかし、傷ついた我が女王をどう慰めたらよいものか」。
(※ベルリオーズ作品に於けるエネアスには、英雄然とした風情がある。しかし、このパーセル作品のエネアスには、どこか軟弱なイメージがつきまとう。「運命に揺れ動くばかりの、優柔不断な男」みたいな感じなのだ。それは多分に、パーセルがこの役に施した音楽面での処理にその理由が見出せそうである。実はこのエネアスにはアリア、またはアリオーソと呼べるようなしっかりした歌が一つも与えられていないのだ。彼の気持ちがどんなに高揚しても、それは常にレチタティーヴォで終わってしまうのである。実際、今回採りあげている3種の古楽器派演奏の中に、堂々として逞しいエネアスは一人も出てこない。クリスティ盤のフィリップ・カントール、ピノック盤のスティーヴン・ヴァーコー、ともに優しいリリック・バリトンだ。ホグウッド盤で歌っているジョン・マーク・エインズリーに至っては、リリック・テナーと言うべき声である。かつてのLP時代の演奏家ならともかく、時代考証や楽曲の分析を深めた古楽器派の人たちにとって、当パーセル作品のエネアスが、「太くて逞しい声のバリトン」ということはもはやあり得ないのだろう。)
(※第2幕の幕切れは、そんなエネアスのささやかな見せ場である。私の感想としてはこの場面、ピノック盤のヴァーコーとクリスティ盤のカントールが互角の名演だ。両者は、甲乙つけがたい。一方、ホグウッド盤のエインズリーはテナーということもあって、上記二人のバリトン歌手が持つ存在感にはちょっと及ばないかな、という印象である。ちなみにホグウッド盤では、狩りの一行を嵐が襲う時の雷鳴や、ニセのメルクリウスが登場する時の風の音など、手の込んだ擬音が効果的に使われている。)
〔 第3幕 〕
―第1の水夫の歌「いざ行け、仲間のものよ。錨が上がる。猶予はならぬ。・・・岸辺のニンフにしばしの別れを告げよ。必ず戻ると誓いを立てて、彼女らの嘆きを鎮めてやれ。再び戻ってくる意志など、ありはしないが」。
(※この水夫の歌を誰が担当するかについても、演奏家による解釈の違いが窺われて非常に興味深いものがある。今回扱っている3種のCDの中で一番普通なのが、クリスティ盤。ミシェル・ラプレニというテノール歌手がごく自然に歌っている。ユニークなのは、ホグウッド盤。そこで歌っているダニエル・ロックマンという人は、最高音のトレブルを担当する歌手である。何だか蚊の鳴くような細い声で、弱弱しく歌う。勿論これは、指揮者の確固たる解釈に基づく選択だろう。ピノック盤には、さらなる驚きがある。水夫の役を、魔女のボスであるナイジェル・ロジャースに歌わせているのである。これはつまり、上に書いたような内容の歌詞を歌って一番似合うのは、他ならぬ魔女のボスではないか、という指揮者ピノックの見識が示されたものであろうと考えられる。これを初めて聴いた時は思わず、「うーん、なるほどね・・」とうなってしまった。)
―ディドーの最後の歌「ベリンダ、そなたの手を。・・・今はただ死こそ、我が喜び迎える客。・・・我を忘れたもうな。されど、ああ、我が運命(さだめ)は忘れたまえ」。
(※ディドー役の歌手にとっては、ここが勿論、一番の聴かせどころである。今回扱っている3種の中では、やはりピノック盤のフォン・オッターの歌が圧倒的に素晴らしい。人間ディドーの感情を深く抉り出した名唱で、心に強く迫ってくる。この人は本当に、才能豊かな歌手である。ちなみに、彼女がラインハルト・ゲーベルの伴奏指揮で歌った《バロック期のラメント集》も、大変見事なものであった。その中でもモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>は、同曲の代表的名唱の一つに数えてよいと思う。クリスティ盤のロランスも、ここに至ってついに最高の場を得たと言えるかも知れない。聴く者をしんみりとさせるのではなく、感傷を排したそのどこまでも気高い佇まいによって、深い感銘を与えるのである。ホグウッド盤のボットは、やはり第1幕冒頭のアリオーソと同様に軽いタッチの歌い方をしている。しかし、別れの場面でのエネアスがやたら軽いこともあって、このホグウッド盤のラスト・シーンはちょっと印象が薄いものになっているようだ。)
―終曲の管弦楽後奏について
ディドーの最後の歌が終わると、天界のキューピッドたちが現れる。そして、「ディドーの墓にバラの花を撒き、静かにここを守り、離れないように」というしめやかな合唱が響いて、全曲の終了となる。
(※全曲の最後をどのように終わらせるかについても、演奏家による違いが見られる。ピノック盤とホグウッド盤は、合唱が終わったあとしばらく管弦楽による後奏が続く。クリスティ盤には、その管弦楽後奏はない。どちらが良いか、一概には言えない。私個人的には、クリスティ盤のように後奏なしでスッと消え入るように終わってくれた方が、何か儚さみたいなものが余韻として残るので、少し良さそうに思える。しかし、ピノック盤で聴かれるような、心からしんみりした後奏に触れると、「ああ、これもいいかなあ」などと思えたりもしてしまうのである。)
(※ベルリオーズの歌劇<カルタゴのトロイ人>には、エネアスが去った後にディドーが自害して果てる場面がある。その彼女の周りで、カルタゴの人々がエネアスへの怒りや恨みを歌う。そして最後に、第1部で死んでいたカッサンドラが出て来て、「エネアスによってトロイアが再建されるのではなく、ローマが建国されるであろう」と、未来を予言して終わるのである。一方、パーセル作品では、ディドーの死の場面は描かれない。彼女がどのようにして息絶えたのかは、不明のまま残される。実は、この<ディドーとエネアス>のようなエンディング、つまり、「ラメントと、それに続くしめやかな合唱によって終わる形」を持つオペラ系の作品は、パーセルよりも前に同じイギリスの作曲家によって既に一つ、書かれていたのだった。)
―という訳で次回は、この<ディドーとエネアス>よりも前に書かれた、「イギリス音楽史上、ひょっとしたらこれこそ最初のオペラ作品」という見方も成り立つ、通人好みの逸品を採りあげてみることにしてみたい。
〔 第2幕 〕~残り部分
―ベリンダの歌「この美しき山峡(やまあい)、・・・狩りは楽しい、獲物は山ほど」。
(※狩りに出たディドーたち一行。侍女のベリンダが、その楽しみを歌う。憂いに沈みがちなディドーと鮮やかな対比を示しながら物語を生き生きと推進していくベリンダだが、これはそんな陽気な彼女が歌う名曲の一つである。今回採りあげている3種のCDの中では、クリスティ盤のジル・フェルドマンが、“歌のくっきりパワー”を最高度に発揮して、合唱団ともども極めて感銘深い名唱を聴かせる。ここは魔女たちの場面と並んで、クリスティ盤の演奏で聴かれる白眉のシーンと言ってよいだろう。ピノック盤のリン・ドーソンは、普通の出来。ホグウッド盤では、ディドー役にも定評のある名歌手エマ・カークビーがこの役を歌っている。ここでの彼女は、後の時代のオペラによく登場することになるスーブレット役の原型みたいなベリンダを歌い出している。)
―魔女たちが引き起こした嵐によって狩りは中止となり、一行は町へ向かう。しかし、一人になったエネアスのもとに魔女が化けたメルクリウス(=マーキュリー)神が現れる。その偽の神にせかされたエネアスは、ディドーと別れて出発しようと決意する。「大神の命に従って、今宵、船の錨を上げよう。しかし、傷ついた我が女王をどう慰めたらよいものか」。
(※ベルリオーズ作品に於けるエネアスには、英雄然とした風情がある。しかし、このパーセル作品のエネアスには、どこか軟弱なイメージがつきまとう。「運命に揺れ動くばかりの、優柔不断な男」みたいな感じなのだ。それは多分に、パーセルがこの役に施した音楽面での処理にその理由が見出せそうである。実はこのエネアスにはアリア、またはアリオーソと呼べるようなしっかりした歌が一つも与えられていないのだ。彼の気持ちがどんなに高揚しても、それは常にレチタティーヴォで終わってしまうのである。実際、今回採りあげている3種の古楽器派演奏の中に、堂々として逞しいエネアスは一人も出てこない。クリスティ盤のフィリップ・カントール、ピノック盤のスティーヴン・ヴァーコー、ともに優しいリリック・バリトンだ。ホグウッド盤で歌っているジョン・マーク・エインズリーに至っては、リリック・テナーと言うべき声である。かつてのLP時代の演奏家ならともかく、時代考証や楽曲の分析を深めた古楽器派の人たちにとって、当パーセル作品のエネアスが、「太くて逞しい声のバリトン」ということはもはやあり得ないのだろう。)
(※第2幕の幕切れは、そんなエネアスのささやかな見せ場である。私の感想としてはこの場面、ピノック盤のヴァーコーとクリスティ盤のカントールが互角の名演だ。両者は、甲乙つけがたい。一方、ホグウッド盤のエインズリーはテナーということもあって、上記二人のバリトン歌手が持つ存在感にはちょっと及ばないかな、という印象である。ちなみにホグウッド盤では、狩りの一行を嵐が襲う時の雷鳴や、ニセのメルクリウスが登場する時の風の音など、手の込んだ擬音が効果的に使われている。)
〔 第3幕 〕
―第1の水夫の歌「いざ行け、仲間のものよ。錨が上がる。猶予はならぬ。・・・岸辺のニンフにしばしの別れを告げよ。必ず戻ると誓いを立てて、彼女らの嘆きを鎮めてやれ。再び戻ってくる意志など、ありはしないが」。
(※この水夫の歌を誰が担当するかについても、演奏家による解釈の違いが窺われて非常に興味深いものがある。今回扱っている3種のCDの中で一番普通なのが、クリスティ盤。ミシェル・ラプレニというテノール歌手がごく自然に歌っている。ユニークなのは、ホグウッド盤。そこで歌っているダニエル・ロックマンという人は、最高音のトレブルを担当する歌手である。何だか蚊の鳴くような細い声で、弱弱しく歌う。勿論これは、指揮者の確固たる解釈に基づく選択だろう。ピノック盤には、さらなる驚きがある。水夫の役を、魔女のボスであるナイジェル・ロジャースに歌わせているのである。これはつまり、上に書いたような内容の歌詞を歌って一番似合うのは、他ならぬ魔女のボスではないか、という指揮者ピノックの見識が示されたものであろうと考えられる。これを初めて聴いた時は思わず、「うーん、なるほどね・・」とうなってしまった。)
―ディドーの最後の歌「ベリンダ、そなたの手を。・・・今はただ死こそ、我が喜び迎える客。・・・我を忘れたもうな。されど、ああ、我が運命(さだめ)は忘れたまえ」。
(※ディドー役の歌手にとっては、ここが勿論、一番の聴かせどころである。今回扱っている3種の中では、やはりピノック盤のフォン・オッターの歌が圧倒的に素晴らしい。人間ディドーの感情を深く抉り出した名唱で、心に強く迫ってくる。この人は本当に、才能豊かな歌手である。ちなみに、彼女がラインハルト・ゲーベルの伴奏指揮で歌った《バロック期のラメント集》も、大変見事なものであった。その中でもモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>は、同曲の代表的名唱の一つに数えてよいと思う。クリスティ盤のロランスも、ここに至ってついに最高の場を得たと言えるかも知れない。聴く者をしんみりとさせるのではなく、感傷を排したそのどこまでも気高い佇まいによって、深い感銘を与えるのである。ホグウッド盤のボットは、やはり第1幕冒頭のアリオーソと同様に軽いタッチの歌い方をしている。しかし、別れの場面でのエネアスがやたら軽いこともあって、このホグウッド盤のラスト・シーンはちょっと印象が薄いものになっているようだ。)
―終曲の管弦楽後奏について
ディドーの最後の歌が終わると、天界のキューピッドたちが現れる。そして、「ディドーの墓にバラの花を撒き、静かにここを守り、離れないように」というしめやかな合唱が響いて、全曲の終了となる。
(※全曲の最後をどのように終わらせるかについても、演奏家による違いが見られる。ピノック盤とホグウッド盤は、合唱が終わったあとしばらく管弦楽による後奏が続く。クリスティ盤には、その管弦楽後奏はない。どちらが良いか、一概には言えない。私個人的には、クリスティ盤のように後奏なしでスッと消え入るように終わってくれた方が、何か儚さみたいなものが余韻として残るので、少し良さそうに思える。しかし、ピノック盤で聴かれるような、心からしんみりした後奏に触れると、「ああ、これもいいかなあ」などと思えたりもしてしまうのである。)
(※ベルリオーズの歌劇<カルタゴのトロイ人>には、エネアスが去った後にディドーが自害して果てる場面がある。その彼女の周りで、カルタゴの人々がエネアスへの怒りや恨みを歌う。そして最後に、第1部で死んでいたカッサンドラが出て来て、「エネアスによってトロイアが再建されるのではなく、ローマが建国されるであろう」と、未来を予言して終わるのである。一方、パーセル作品では、ディドーの死の場面は描かれない。彼女がどのようにして息絶えたのかは、不明のまま残される。実は、この<ディドーとエネアス>のようなエンディング、つまり、「ラメントと、それに続くしめやかな合唱によって終わる形」を持つオペラ系の作品は、パーセルよりも前に同じイギリスの作曲家によって既に一つ、書かれていたのだった。)
―という訳で次回は、この<ディドーとエネアス>よりも前に書かれた、「イギリス音楽史上、ひょっとしたらこれこそ最初のオペラ作品」という見方も成り立つ、通人好みの逸品を採りあげてみることにしてみたい。