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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<ディドーとエネアス>(2)

2006年08月12日 | 作品を語る
パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>・第2回。今回は、第2幕の残り部分と第3幕について。

〔 第2幕 〕~残り部分

―ベリンダの歌「この美しき山峡(やまあい)、・・・狩りは楽しい、獲物は山ほど」。

(※狩りに出たディドーたち一行。侍女のベリンダが、その楽しみを歌う。憂いに沈みがちなディドーと鮮やかな対比を示しながら物語を生き生きと推進していくベリンダだが、これはそんな陽気な彼女が歌う名曲の一つである。今回採りあげている3種のCDの中では、クリスティ盤のジル・フェルドマンが、“歌のくっきりパワー”を最高度に発揮して、合唱団ともども極めて感銘深い名唱を聴かせる。ここは魔女たちの場面と並んで、クリスティ盤の演奏で聴かれる白眉のシーンと言ってよいだろう。ピノック盤のリン・ドーソンは、普通の出来。ホグウッド盤では、ディドー役にも定評のある名歌手エマ・カークビーがこの役を歌っている。ここでの彼女は、後の時代のオペラによく登場することになるスーブレット役の原型みたいなベリンダを歌い出している。)

―魔女たちが引き起こした嵐によって狩りは中止となり、一行は町へ向かう。しかし、一人になったエネアスのもとに魔女が化けたメルクリウス(=マーキュリー)神が現れる。その偽の神にせかされたエネアスは、ディドーと別れて出発しようと決意する。「大神の命に従って、今宵、船の錨を上げよう。しかし、傷ついた我が女王をどう慰めたらよいものか」。

(※ベルリオーズ作品に於けるエネアスには、英雄然とした風情がある。しかし、このパーセル作品のエネアスには、どこか軟弱なイメージがつきまとう。「運命に揺れ動くばかりの、優柔不断な男」みたいな感じなのだ。それは多分に、パーセルがこの役に施した音楽面での処理にその理由が見出せそうである。実はこのエネアスにはアリア、またはアリオーソと呼べるようなしっかりした歌が一つも与えられていないのだ。彼の気持ちがどんなに高揚しても、それは常にレチタティーヴォで終わってしまうのである。実際、今回採りあげている3種の古楽器派演奏の中に、堂々として逞しいエネアスは一人も出てこない。クリスティ盤のフィリップ・カントール、ピノック盤のスティーヴン・ヴァーコー、ともに優しいリリック・バリトンだ。ホグウッド盤で歌っているジョン・マーク・エインズリーに至っては、リリック・テナーと言うべき声である。かつてのLP時代の演奏家ならともかく、時代考証や楽曲の分析を深めた古楽器派の人たちにとって、当パーセル作品のエネアスが、「太くて逞しい声のバリトン」ということはもはやあり得ないのだろう。)

(※第2幕の幕切れは、そんなエネアスのささやかな見せ場である。私の感想としてはこの場面、ピノック盤のヴァーコーとクリスティ盤のカントールが互角の名演だ。両者は、甲乙つけがたい。一方、ホグウッド盤のエインズリーはテナーということもあって、上記二人のバリトン歌手が持つ存在感にはちょっと及ばないかな、という印象である。ちなみにホグウッド盤では、狩りの一行を嵐が襲う時の雷鳴や、ニセのメルクリウスが登場する時の風の音など、手の込んだ擬音が効果的に使われている。)

〔 第3幕 〕

―第1の水夫の歌「いざ行け、仲間のものよ。錨が上がる。猶予はならぬ。・・・岸辺のニンフにしばしの別れを告げよ。必ず戻ると誓いを立てて、彼女らの嘆きを鎮めてやれ。再び戻ってくる意志など、ありはしないが」。

(※この水夫の歌を誰が担当するかについても、演奏家による解釈の違いが窺われて非常に興味深いものがある。今回扱っている3種のCDの中で一番普通なのが、クリスティ盤。ミシェル・ラプレニというテノール歌手がごく自然に歌っている。ユニークなのは、ホグウッド盤。そこで歌っているダニエル・ロックマンという人は、最高音のトレブルを担当する歌手である。何だか蚊の鳴くような細い声で、弱弱しく歌う。勿論これは、指揮者の確固たる解釈に基づく選択だろう。ピノック盤には、さらなる驚きがある。水夫の役を、魔女のボスであるナイジェル・ロジャースに歌わせているのである。これはつまり、上に書いたような内容の歌詞を歌って一番似合うのは、他ならぬ魔女のボスではないか、という指揮者ピノックの見識が示されたものであろうと考えられる。これを初めて聴いた時は思わず、「うーん、なるほどね・・」とうなってしまった。)

―ディドーの最後の歌「ベリンダ、そなたの手を。・・・今はただ死こそ、我が喜び迎える客。・・・我を忘れたもうな。されど、ああ、我が運命(さだめ)は忘れたまえ」。

(※ディドー役の歌手にとっては、ここが勿論、一番の聴かせどころである。今回扱っている3種の中では、やはりピノック盤のフォン・オッターの歌が圧倒的に素晴らしい。人間ディドーの感情を深く抉り出した名唱で、心に強く迫ってくる。この人は本当に、才能豊かな歌手である。ちなみに、彼女がラインハルト・ゲーベルの伴奏指揮で歌った《バロック期のラメント集》も、大変見事なものであった。その中でもモンテヴェルディの<アリアンナの嘆き>は、同曲の代表的名唱の一つに数えてよいと思う。クリスティ盤のロランスも、ここに至ってついに最高の場を得たと言えるかも知れない。聴く者をしんみりとさせるのではなく、感傷を排したそのどこまでも気高い佇まいによって、深い感銘を与えるのである。ホグウッド盤のボットは、やはり第1幕冒頭のアリオーソと同様に軽いタッチの歌い方をしている。しかし、別れの場面でのエネアスがやたら軽いこともあって、このホグウッド盤のラスト・シーンはちょっと印象が薄いものになっているようだ。)

―終曲の管弦楽後奏について

ディドーの最後の歌が終わると、天界のキューピッドたちが現れる。そして、「ディドーの墓にバラの花を撒き、静かにここを守り、離れないように」というしめやかな合唱が響いて、全曲の終了となる。

(※全曲の最後をどのように終わらせるかについても、演奏家による違いが見られる。ピノック盤とホグウッド盤は、合唱が終わったあとしばらく管弦楽による後奏が続く。クリスティ盤には、その管弦楽後奏はない。どちらが良いか、一概には言えない。私個人的には、クリスティ盤のように後奏なしでスッと消え入るように終わってくれた方が、何か儚さみたいなものが余韻として残るので、少し良さそうに思える。しかし、ピノック盤で聴かれるような、心からしんみりした後奏に触れると、「ああ、これもいいかなあ」などと思えたりもしてしまうのである。)

(※ベルリオーズの歌劇<カルタゴのトロイ人>には、エネアスが去った後にディドーが自害して果てる場面がある。その彼女の周りで、カルタゴの人々がエネアスへの怒りや恨みを歌う。そして最後に、第1部で死んでいたカッサンドラが出て来て、「エネアスによってトロイアが再建されるのではなく、ローマが建国されるであろう」と、未来を予言して終わるのである。一方、パーセル作品では、ディドーの死の場面は描かれない。彼女がどのようにして息絶えたのかは、不明のまま残される。実は、この<ディドーとエネアス>のようなエンディング、つまり、「ラメントと、それに続くしめやかな合唱によって終わる形」を持つオペラ系の作品は、パーセルよりも前に同じイギリスの作曲家によって既に一つ、書かれていたのだった。)

―という訳で次回は、この<ディドーとエネアス>よりも前に書かれた、「イギリス音楽史上、ひょっとしたらこれこそ最初のオペラ作品」という見方も成り立つ、通人好みの逸品を採りあげてみることにしてみたい。
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歌劇<ディドーとエネアス>(1)

2006年08月03日 | 作品を語る
今回と次回は、ヘンリー・パーセルの歌劇<ディドーとエネアス>(1689年)についてのお話。この名作にはのべ30を優に超える数の全曲盤が存在する(あるいは、存在した)ようなのだが、私が今持っているCDは、以下の3種のみ。いずれも古楽器派の演奏ばかりである。しかし、一口に古楽器派といっても、それぞれが全く独自の個性を主張したものなので、これら3種を聴き比べてみただけでも、あちこちで興味深い発見が得られる。

●ウィリアム・クリスティ指揮レザールフロリサン、他 (HM)~1985年

●トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンソート、他 (Arch)~1989年

●クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管、他 (Po)~1992年

まず、「ディドーとエネアス」の基本的な物語背景についてだが、それはおおよそ次のようなものである。

{ オデュッセウスの「木馬作戦」によってトロイアは滅亡し、長く続いたギリシャとトロイアの戦争は終結した。(※勝った側であるオデュッセウスの一行がその後どんなことになったかは、当ブログでも紹介済み。)滅びたトロイアから脱出して祖国の再建を目指すことになったのが、エネアスだった。彼は同志たちとともに、イタリアを目指す。しかし、途中で嵐に遭い、彼らはカルタゴに立ち寄ることになった。そのカルタゴを治めていた女王が、ディドーである。敵国の侵略に苦しんでいたカルタゴをエネアス一行が助けたところから、ディドーとエネアスの愛が始まる。しかし、エネアスはいつまでもそこに留まるわけにはいかない。早くイタリアに渡って、祖国を再建しなければならない。愛するディドーをふり切って、エネアスは出発する。残されたディドーは絶望し、死を決意する。 }

以下、パーセルの名作<ディドーとエネアス>の聴きどころとチェック・ポイントを厳選し、上記3種の演奏を比較しながら見ていきたいと思う。

〔 第1幕 〕 ディドーの宮殿

―ディドーのアリオーソ「ああ、ベリンダよ。口には出せぬ苦しみが、私の胸を締めつける」。

トロイアの英雄エネアスに対する想いを胸に秘めて、ディドーが愛の悩みを歌い出す名曲。古来、数多くの名唱が記録されてきたものだ。しかし、その歌唱表現について詳しく見始めると、今回採りあげている3種に限っただけでも、それぞれが随分違ったものになっていることに驚かされる。まずクリスティ盤でディドーを歌っているのは、ギルメット・ロランス。極めて明晰なディクションで、歌の輪郭も非常にくっきりしている。これは、クリスティ盤の演奏全体についても言える特徴である。ただ、この高貴な歌の佇まいは逆に、情感の乏しさを感じさせる側面がなくもないようだ。非常に立派で気高い歌唱なのだが、心にしんみりとは来ないのである。ピノック盤でディドーを歌っているのは、アンネ・ソフィー・フォン・オッター。私の個人的な感想としては、これこそが最も心に響く名唱であると申し上げたい。バロック・オペラの唱法についての正当性云々は私には分からないが、フォン・オッターの歌は胸にしみる。気品と格調を保ちながら、じんわりと深い情感を歌いだしているのだ。ホグウッド盤では、ソプラノのキャサリン・ボットがディドーを歌っている。この最初のアリオーソから、ホグウッド盤独自の世界が展開される。ここでのボットは、パーセルの美しい旋律をなみなみと歌うのではなく、むしろさらりとした軽い歌い口を見せる。さらにその後に続く侍女ベリンダとのやり取りでも、ユニークさがうかがわれる。彼女の軽やかなセリフ回しは、女王然とした貫禄よりもむしろ、若いお姫様のような印象を与えるのだ。)

〔 第2幕 〕 魔法使いたちの洞窟

―魔女たちの合唱「すべての栄えるものを、我らは憎む。カルタゴの女王ディドーを、不幸のどん底へ突き落とせ」。

(※ディドーとエネアスの悲恋を扱った歌劇としては、ベルリオーズの大作《トロイの人々》の第2部となる<カルタゴのトロイ人>も非常に有名だ。その中にある「王の狩と嵐」は独立して演奏されることもあるし、愛し合う二人の二重唱が、ワグナーの<トリスタンとイゾルデ>で聴かれるものの先駆になっているということも、オペラ・ファンなら先刻ご承知のところだろう。そのベルリオーズ作品の中でエネアスに出発を促すのは、トロイアの死せる英雄ヘクトルの霊である。しかしパーセル作品に於いては、愛し合う二人を引き裂く宿命が、「すべての繁栄者に敵意を持つ魔女たち」という形に擬人化されているのが特徴だ。)

(※ここで面白いのは、魔女たちのボスをどんな声に担当させるかという問題である。このオペラの今日見られる姿を伝える最初のスコアは、「テンベリー筆写譜」というものらしいのだが、そこではメゾ・ソプラノの役とされているそうだ。しかし、クリスティ盤に付属の解説書によると、1700年にこの歌劇が『尺には尺を』に挿入する形で上演された時には、Wiltshireという名前のバス・バリトン歌手が同役を歌ったという記録があるらしい。また、このパートはほとんどが4声部の弦楽伴奏を持つレチタティーヴォ・アコンパニャートになっているのだが、パーセルの他の作品でそのような例を探すと、どれも皆男性歌手のために書かれたものばかりが見つかるのだそうである。それらのことから、魔女のボスは男声担当の役と見るのが妥当であろうと、同書には書かれている。)

(※ホグウッドは上記の歴史的経緯を踏まえて、バス歌手のデイヴィッド・トマスに魔女のボスを歌わせている。で、このトマスさんが非常にノッている。特に第3幕で、「エネアスの船は出航したぞ。フアハハハハ」と笑うところでは、こちらまで思わず、「よくやるなあ」と微苦笑させられてしまう。そして、彼に続く二人の魔女たちも、ピーチクパーチクと面白い歌の表情を見せて楽しませてくれる。しかし、魔女たちのボスとしてさらに強烈なのは、クリスティ盤で歌っているドミニク・ヴィスである。この人は凄い。ヴィスさんと言えば世界的なカウンター・テナーの名歌手だが、ここではノリまくりもいいところで、もう悪乗り寸前の大胆奔放な歌唱を披露している。で、他の魔女たちがまた、ヴィスさんにそっくりな表情で歌い継ぐものだから、「うひゃひゃ、こりゃ強烈だわ」と聴く方はもう圧倒されてしまうばかりなのである。クリスティ盤に於ける一番の聴き物は、何と言ってもこの魔女集団であろう。ピノック盤ではテノールのナイジェル・ロジャースが同役を担当しているが、これは割と平凡な印象しか残らない。と言うより、前記二人の歌手があまりにも強烈なため、決して不出来ではないロジャース氏の歌唱もちょっとかすんでしまうのである。)

(※ところでホグウッド盤では、ドロットニングホルムの宮廷歌劇場から借りてきたという特殊な擬音装置を使って、激しい雷鳴を表現している。ドコンバコン、ガショーン!といった感じの大仰な効果音が聞かれるのだが、これには正直言ってちょっと苦笑させられてしまう。何だか、物置に立てかけてあったトタン板やその他のガラクタがひっくり返って、「あ~あ、まいったなあ」とTV局の大道具さんが嘆いているような音に感じられてしまうからである。しかしこれ、狩りに出たディドーやエネアスたちの一行を嵐が襲う場面でも使われていて、そこではもう効果満点。見事に決まっている。この擬音、一聴の価値ありである。)


―この続き、第2幕の残り部分と第3幕の内容については、次回・・・。
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パーセルの<妖精の女王>

2006年07月28日 | 作品を語る
途中でいくつか寄り道をしたが、これまでの話は、「妖精の王オベロン」から出発したものだった。そこで今回は、そのオベロンのお妃をタイトルに据えた有名作品に目を向けてみたいと思う。イギリス・バロック期の巨匠ヘンリー・パーセルの大作<妖精の女王>(1692年)である。

これはパーセルが作曲したセミ・オペラ群の中でも飛びぬけて優れた、そして飛びぬけて大掛かりな作品である。CDにしてたっぷり2枚組、演奏時間の点でもかなり長大な作品で、勿論聴きどころも満載だ。以下、私がかつて聴いた2種類の全曲盤(アーノンクール盤とクリスティ盤)についての鑑賞メモを参照しながら、この大作の中身を順に見ていくことにしたい。

―セミ・オペラ<妖精の女王>の内容と、2種CDの聴き比べ

〔 第1幕 〕

ヘンデル風の力強い器楽曲がいくつか流れた後、男女の逃避行の歌、そして妖精たちにいじめられるヘッポコ詩人の歌が続く。

(※ここの伴奏は、クリスティ盤が秀逸。酔っ払ってヘロヘロする詩人の姿を、よろめくような弦の演奏で巧みに表現する。管楽器も表情豊か。一方、歌についてはアーノンクール盤のロベルト・ホルが、大胆にして闊達な名唱を披露している。)

〔 第2幕 〕

まず、テノール独唱による「鳥たちを呼ぶ歌」。その後、器楽による「プレリュード」を経て、複数の歌手によるアンサンブル、エコー、さらにソプラノ独唱と続き、最後は「夜」「神秘」「秘密」「眠り」という4人のキャラクターが、めいめいの持ち歌を歌う。そして合唱がそれを受けて、第2幕終了。

(※第2幕の「プレリュード」の部分は、鳥たちの鳴き声を表しているようだ。ただ、その表現手段が演奏家によって違ってくるのが興味深い。クリスティ盤では、木管楽器とリュートを使っている。木管はやはり、ストレートに鳥の声を連想させる。一方アーノンクールは、ここで弦楽器とチェンバロを使う。ちょうどヴィヴァルディの<四季>みたいな感覚で、鳥たちのさえずりを描いているのだ。二人の名指揮者はまるで違うやり方をしているのに、それぞれにしっかりと説得力があるのが面白い。)

(※続く声のアンサンブルは、クリスティ盤がすっきりして聴きやすい。アーノンクール盤は、ちょっと雑然とした感じ。逆にその後のエコーの効果は、アーノンクールが巧い。モンテヴェルディの歌劇<オルフェオ>の演奏でも使っていた手法で、いかにも音がこだましているという感じがよく出ている。続くソプラノ独唱「歌え、我らが草原で踊っている間に」も、演奏家による違いがはっきり出てくる。クリスティ盤のナンシー・アージェンタは、快速なテンポできびきびと歌う。一方、アーノンクール盤のバーバラ・ボニーはむしろゆったりと構え、オペラ・アリア風に聴かせる。)

(※第2幕の最後を締めくくる4人の歌と合唱でも、非常に対照的な演奏が聴けて面白い。クリスティ盤の方は、全体的に引き締まった声のフォルムを持つ歌手が揃っている。一方アーノンクール盤の方は、「夜」の前奏部分に顕著に現れている通り、ロマンティックなまでにしっとりした、何とも柔らかい表情が印象的。)

〔 第3幕 〕

ソプラノ独唱と、各種の舞曲、そして再びソプラノ独唱。干草作りの男女コリドンとモプサの歌、ニンフの歌、干草作りの人々の踊りと続いて、最後はアルトの独唱。

(※第3幕冒頭で聴かれるソプラノ独唱曲「愛が甘いものなら、何故こんなに苦しいの?もしつらいものなら、この満足は何なの」は、なかなかの名曲である。クリスティ盤は例によって、歌も管弦楽もすっきりと引き締まった演奏だ。歌っているのは、ヴェロニク・ジャンス。アーノンクール盤のバーバラ・ボニーも、速めのテンポでモダンなリート風の歌唱を聴かせるが、後に続く合唱はちょっと雑然としている。ここはクリスティ盤の方が、全体的にすっきりして美しい印象を与える。)

(※舞曲に続くソプラノ独唱「現れよ、空気の精」でも、異なった解釈が聴ける。クリスティ盤のリン・ドーソンはやはり、くっきりしたフォルムの歌唱を行なっている。アーノンクール盤のシルヴィア・マクネアは逆に、しっとりと優しい歌を披露する。私個人的には、ここではマクネアの方を高く買いたい。)

〔 第4幕 〕

ヘンデルの音楽を思わせるような、ドンドコ、パッパカと力強い「シンフォニア」で始まる。それから、「オベロン様の誕生日を祝おう」という従者の歌、二重唱と続き、春を告げる太陽フィーバス(=ポイボス)が登場。さらに合唱も加わる。その後、「春」「夏」「秋」「冬」の4人がそれぞれの持ち歌を歌い、再びヘンデル風のドンドコ、パーンが壮大に鳴り響く。

(※第4幕は、器楽部分がとにかく壮大だ。それが極めて強い印象を残すので、歌については今ほとんど思い出せない・・。いずれにしても、後続世代のヘンデルを思わせるこの男性的な器楽曲は、パーセル渾身の力作と言ってよいものだろう。)

〔 第5幕 〕

最後の第5幕は、リュートやチェンバロが中心的な楽器となって、第4幕とは全く様変わりした世界になる。「プレリュード」の後、続々と歌曲・舞曲が並ぶ。ユーノーの歌、嘆きの歌、中国人男女登場の踊り、シンフォニー、中国人男性、中国人女性、合唱、中国人男性、猿の踊り、中国人女性、もう一人の中国人女性、合唱、2人の中国人女性、合唱、プレリュード、婚姻の神、2人の中国人女性、婚姻の神、全員のアンサンブルと合唱、シャコンヌ、そして終曲の合唱。

(※ここでは何と言っても、二つ目に出て来るソプラノ独唱曲「嘆きの歌」が素晴らしい聴き物だ。これは、愛する男性に先立たれた女の深い悲しみを切々と歌ったもので、この<妖精の女王>全曲の中でもおそらく最高の名曲であろう。クリスティ盤のリン・ドーソンはスタイリッシュな名唱を聴かせてくれるが、いくぶん余情に乏しい嫌いがなくもない。一方のアーノンクール盤で歌っているのは、シルヴィア・マクネア。しんみりとした風情で、じっくりと歌っている。時には息も絶え絶え、といった表情まで見せる入魂の名唱だ。)

(※中国人男女の歌や合唱、そして終曲までの展開では、アーノンクール盤がとんでもなく大きなスケールの演奏を聴かせる。本当に、ヘンデル並みの壮大さだ。全体に表情の振幅が大きめで、グランド・マナーな印象を与えるアーノンクールの演奏だが、この終曲は特に凄い。一方のクリスティ盤は逆に、スケールが大きくなり過ぎないようにしてきりりと締めくくっている感じ。このクリスティ盤の全体的な印象を手短に言えば、「しなやかに引き締まって筋肉質なボディを持つ、水泳選手みたいな演奏」である。しかし、その凛とした佇まいが逆に抒情味の乏しさを感じさせる時もある、というところだろうか。)

―以上、御覧いただいた通り、これはタイトルこそ<妖精の女王>であっても、そのご本人である妖精の女王ティタニアは出てこないのであった。同じように夫のオベロンも、はたまた妖精パックも全く出てこない。これがオペラならぬセミ・オペラの姿、というわけである。本筋となる『真夏の夜の夢』のお芝居は、別のところで俳優さんたちが演じていて、パーセルが書いたのはその合間、合間に出て来る歌舞音曲の部分だったのだ。

さて、せっかくなのでこの際、<妖精の女王>と同じセミ・オペラに分類される他のパーセル作品にも、いくつか触れておきたい。まず、<アーサー王>。ここにもやはり、タイトル役のご本人は出てこない。王妃グィネヴィアも、魔術師マーリンも、湖のランスロットも、聖杯の騎士パーシヴァルも、誰も出てこない。かわりに妖精やら、神話の神さまやらが、お芝居の本筋とは関係のないやり取りを展開するのだ。ちなみにこの作品では、氷漬けになった神さまとキューピッドの対話を描く第3幕の音楽が、とりわけ面白い。いかにも、「ワ、タ、シ、こ、ご、えて、ますー」という感じがよく出ている。<インドの女王>は、私にはあまり面白い作品とは思えなかった。今はもう、一曲も思い出せない。<テンペスト>には、真偽問題があるようだ。つまり、これは本当にパーセルの作品なのかという疑義である。とりあえず、第4幕のドリンダのアリア「いとしい、素晴らしいお方」は間違いなく真作であろうと言われている。聴くと、「ああ、そうねえ」ぐらいには思うのだが、素人に結論を出せる問題ではない。他に、<予言者(=ダイオクリージアン物語)>という作品もあるようなのだが、これは残念ながら未聴なので詳細不明。

―という訳で次回は、もう乗りかけた船(?)なので、ヘンリー・パーセルが書いた唯一の“れっきとした”歌劇、あの名作<ディドーとエネアス>のお話に進んでみたいと思う。
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歌劇<オイリアンテ>(2)

2006年07月22日 | 作品を語る
前回の続きで、今回はウェーバーの歌劇<オイリアンテ>の残り部分。その第3幕の内容から。

〔 第3幕 〕

岩が切り立つ峡谷。アドラールが剣を抜き、オイリアンテをその手にかけようとしている。彼女は必死に無実を訴えるが、聞き入れてもらえない。その時、巨大なヘビが出現する。オイリアンテはアドラールを守ろうと、大蛇の前に飛び出す。アドラールはそのヘビと戦い、そして打ち倒す。「愛していただけないなら、いっそ殺して下さい」と言うオイリアンテに背を向けて、アドラールはそこを去って行く。やがて彼女は国王に発見され、それまでの経緯を話すことになる。「私がお墓の秘密をしゃべった相手は、エグランティーネです。リシアルトが指輪を手に入れたのは、エグランティーネの仕業なのです」。王は彼女の話を信じ、身の潔白を証明してやろうと約束する。

(※アドラールが去った後、一人残されたオイリアンテは悲しい思いを切々と歌い出す。ここでのサザーランドの歌唱にはあまり感心しないが、一応このオペラの聴かせどころの一つではあろう。そこへ通りかかった国王の一行に事情を話し、オイリアンテも元気を取り戻した様子。)

(※ここで国王を歌っているのは、クルト・ベーメ。さすが名歌手の名に恥じない、貫禄十分の声を聴かせる。ただ残念ながら、この王様に特別なアリアみたいなものはなく、また出番も少ないので、全曲中での存在感はそれほど大きなものではない。)

場面は変って、ネヴェールの庭園。リシアルトとエグランティーネの結婚式が行なわれることとなり、今その準備がなされているところ。黒い甲冑(かっちゅう)に身を包んだアドラールが、そこに入ってくる。鎧の面頬(めんほお)を下ろしているので、彼の顔は見えない。エグランティーネは内心まだアドラールのことを熱烈に想っており、リシアルトとの結婚には嫌悪を感じている。しかし同時に、オイリアンテを失墜させたことの快感はしっかりと味わっていた。

(※今回参照させてもらった英文サイトの短い解説によると、ここに黒い甲冑で登場するアドラールの姿は、<パルシファル>の終幕で見られる主人公パルシファルのモデルになっているものと考えられるそうだ。ワグナーとのつながりがここにも見られる、という訳である。)

アドラールが素顔を見せて、リシアルトに決闘を申し入れる。そして、お互いに剣を抜こうとした時、国王が登場。オイリアンテを信じようとしなかったアドラールを叱責する目的で、王は嘘をつく。「オイリアンテは、死んでしまったんだぞ」。それを聞いたエグランティーネは狂喜し、それまでの自分の謀略を得意になって暴露する。しかし、その話に怒り狂ったリシアルトが、彼女をその場で殺害する。続いてオイリアンテが現れ、愛するアドラールの腕に飛び込む。一方リシアルトは捕えられ、連行されていった。墓に眠るアドラールの姉(妹)にもようやく、本当に安らげる時が来た。彼女の指環が、無実の罪に泣いたオイリアンテの涙で濡らされたからである。(終)

(※音声だけでも場面の展開がよく伝わってくるのは、喜び勇んだエグランティーネの強烈な声による謀略暴露と、それに怒り狂うリシアルトの反応だ。やはりこのオペラ、悪役の二人が目立つ。そして終曲は、オイリアンテとアドラールを中心にした喜びの合唱。しかしこれ、それなりに力強い音楽になってはいるのだが、<魔弾の射手>で聴かれるあの素晴らしいエンディングには遠く及ばない。)

―以上見てきた通りだが、結局このオペラが埋もれることになったのは、何よりもその台本に原因があったと言えそうだ。多くの人々が、「いくらオペラだからって、ここまでお粗末では・・」と感じたのであろう。しかしここには、ワグナーを予見させる要素が複数確認できるという歴史的な意義がある。特に第2幕の「悪の二重唱」などは、結構な迫力があって聴き栄えがするものだ。どなたも是非ご一聴を、などとはとても言えないけれども、存在価値は十分に備わっている作品だと思う。

なお、今回材料にしたシュティードリー盤以外にも、<オイリアンテ>の全曲録音というのは現在いくつか存在するようである。HMVさんのネット通販サイトを先日検索してみたら、とりあえず5種類見つかった。日本のクラシック・ファンに名前がピンと来るものとしては、若い頃のジュリーニが指揮したフィレンツェ5月音楽祭の古いライヴ盤、ヴィントガッセンが出演しているライトナー盤、ジェシー・ノーマンやニコライ・ゲッダといったお馴染みの名歌手が揃ったヤノフスキ盤といったあたりが、代表的なところだろう。(※ところで同じテノールでも、ゲッダとヴィントガッセンでは随分声の質が違う。アドラールという役は、単なるリリコ・ドラマティコの範疇には収まらないワグナー的ヘルデン・テナーの原型になっていたのかも知れない。)その他にも、ツァリンガーという指揮者による古い録音もあるようだ。アドラールとオイリアンテの二人と思われる男女がジャケット写真になっているコルステン盤は、見たところ割と新しい録音のようである。これらの中のどれかに、独英の対訳ブックでもついたものがあればいいのだが、さてどうだろうか。

(PS) 「オベロン」の語源学

今回の締めくくりに、シリーズ開始のきっかけとなった「オベロン」という名の語源について、ちょっとした薀蓄話を一席ご披露させていただきたいと思う。

英語圏でよく見かける男性名の一つに、アルフレッド(Alfred)というのがある。前半のアルフは、自然界の神秘を司る妖精エルフ(elf)が変化したものらしい。そして後半のレッドは、もともとのアングロサクソン語ではroedと綴るもので、「指導者、王」を意味する言葉だそうである。だからアルフレッドという名前は、「妖精(エルフ)の王」ということになる。で、このアルフレッドに対応するドイツ語が、アルベリヒ(Alberich)だ。『ニーベルンゲンの歌』で活躍する小人族の勇敢な王の名で、ワグナーの作品でもすっかりお馴染みになっている名前である。このアルベリヒが、古フランス語でAuberiとなり、ノルマン人によってイングランドにもたらされてオーブリー(Aubrey)となった。そしてこのオーブリーが、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』の中で、オベロン(Oberon)になったという訳である。(※直接的には、古フランス語のAuberonを元にしてOberonが作られたそうだが・・。)

―という訳で、以上をまとめてみると、アルフレッド=アルベリヒ=オーブリー=オベロンで、これらはすべて、「妖精の王」を意味する同じ名前なのであった。だから英語でオリジナル版が書かれたウェーバーの歌劇<オベロン>は、もしドイツ語にこだわったタイトル付けをされていたら、歌劇<アルベリヒ>になっていたかもしれない(?)のである。

【 参考文献 】

『ヨーロッパ人名語源事典』梅田修・著(大修館書店)
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歌劇<オイリアンテ>(1)

2006年07月14日 | 作品を語る
前回の<アブ・ハッサン>に続いてもう一つ、ウェーバーの歌劇をこの機会に採り上げてみることにしたい。あの<魔弾の射手>以上にワグナーを予見させるオペラ、<オイリアンテ>(1823年)である。しかしこれは、ほとんどのクラシック・ファンにとって、「序曲だけしか知らないオペラ」の典型例ではないかと思われる。かく言う私も、この作品の全曲CDを一組購入したのはつい昨年のことであった。フリッツ・シュティードリーという人の指揮による1955年のBBC・ライヴで、廉価のAndromedaレーベルから発売されたものだ。その安い値段からして当然のこととはいえ、そこには歌詞対訳はおろか解説等も一切付いていない。あるのは、トラック番号の振り分け一覧だけである。しかし幸い、このオペラのあらすじ紹介をしてくれている英語のサイトがネット上で見つかったので、それを読んでおおよその流れをつかみながら、全曲を聴くことが出来た。

以下、上記のCDを聴いた時のメモを材料にして、歌劇<オイリアンテ>の概要を追ってみたいと思う。今回はまず、そのうちの第1&2幕の内容について。なお、これはフランスが舞台になっているオペラではあるのだが、主人公の名前がドイツ語読みなので、他の登場人物についてもそれにあわせることにした。

―歌劇<オイリアンテ>のあらすじ

〔 第1幕 〕 国王ルートヴィッヒ(=ルイ)6世の宮殿。

序曲と開幕の合唱に続いて、アドラール伯爵(T)が国王(B)と少し言葉を交わす。それから彼は、自分の許婚であるオイリアンテ(S)の美しさと徳を讃える歌を歌い始める。「オイリアンテ、万歳!」という合唱がそれを受けた後、リシアルト伯爵(Bar)がやって来て、アドラールのことをせせら笑う。彼はさらに、オイリアンテを篭絡(ろうらく)してみせようかとアドラールを挑発する。どういう結果になるかを巡って、ついに二人はそれぞれの財産を賭けて争うことになった。

場面変って、アドラールの領地ネヴェール(Nevers)の宮殿。オイリアンテが、愛しいアドラールへの思慕を歌っている。そこへ、謀反人である父親を持つ悪女エグランティーネ(Ms)が登場。実はこのエグランティーネも内心、アドラールのことを想っている。アドラールの心をオイリアンテから引き離したい彼女は、巧みにオイリアンテに取り入ってその信頼を勝ち取る。そしてついに、アドラールとオイリアンテの間に隠されていた秘密の話を聞きだすことに成功する。オイリアンテはエグランティーネに、次のような打ち明け話をしてしまう。

{ アドラールの死んだお姉さん(または妹)は寂しいお墓の中に横たわっているんだけど、ある時、アドラールと私の前に姿を現したの。そして、「恋人が戦で殺されたので、私自身も指環に仕込んであった毒をあおって、自殺したのです」って言ったのよ。それから、「誰か無実の人が罪を着せられて、この指環を涙で濡らす時が来るまで、私の魂は安らぎを得ることがないのです」とも言ったわ。アドラールはこの出来事を“神聖なる義務”として、誰にも知られることがないようにと私に命じたの。 }

オイリアンテはこの秘密をエグランティーネにしゃべってしまったことを後悔するが、時すでに遅し。エグランティーネは、邪悪な笑みを浮かべる。やがて、オイリアンテを王宮まで案内するために、リシアルトがやって来る。

(※アドラールの声は、<魔弾の射手>に出て来るマックスに大体近い感じと言えるだろう。リリコ・ドラマティコのテノール。彼がリシアルトと賭けをすることになる場面でのやり取りは、このCDを聴く限りでは迫力がいま一つだが、もっと腕のよい指揮者がアップ・テンポで音楽を煽り立てれば、また印象が変ってきそうな気もする。)

(※ここで指揮をしているフリッツ・シュティードリーは、マーラーの助手を務めながら指揮法を学んだ人だそうで、私生活ではあのシェーンベルクの親友でもあったらしい。存命中はきっと、歴史の生き証人みたいな人だったのだろう。ドレスデンやベルリン市立歌劇場など、各地のオペラ・ハウスで経験を積み、1946年からはメトロポリタン歌劇場に移って、ドイツ・オペラを中心に担当する人になったそうだ。生まれたのは1883年で、他界したのは1968年。この<オイリアンテ>ライヴは最円熟期の録音ということになりそうだが、演奏を聴く限りで言えば、せいぜい中堅どころの指揮者だったのではないかという気がする。)

(※当CDでオイリアンテを歌っているのは、若き日のジョーン・サザーランドだ。意外に重い声なので、ちょっと驚く。調べてみたら、彼女はもともとドラマティック・ソプラノとしてキャリアを開始していて、オイリアンテのような比較的重い役を最初は歌っていたらしい。そして1954年に、彼女は指揮者のリチャード・ボニングと結婚した。以来ボイス・トレーナーを務めるようになった夫のボニング氏が、コロラトゥーラとしての素質を彼女の声に見出し、その方面への転身を促したのだそうである。それからトレーニングを重ねた彼女が華やかな転向を果たしたのは、1958~59年のことになるようだ。その意味では1955年のこの録音、一般にはあまり知られていないドラマティック・ソプラノ時代のサザーランドの声が聴けるという点で、ちょっと貴重な物かもしれない。ただし、ここでの彼女の歌は必ずしも名唱とは言い難いのが玉に瑕だが・・。)

〔 第2幕 〕

リシアルトは、オイリアンテを陥れようという企みをあきらめかけていた。するとエグランティーネが指輪を持って墓から現れ、オイリアンテから聞き出した秘密を彼に教える。一方、華やかな集会が行なわれている王宮では、序曲でお馴染みのメロディが出て来る幸福な歌をアドラールが歌い、オイリアンテとの二重唱がそれに続いているというところである。そこにリシアルトが現れ、自分は賭けに勝ったと宣言する。その証拠として彼は指輪を出して見せ、オイリアンテから秘密を教えてもらったのだと語る。オイリアンテは、そんなことはしていないと訴えたが、無駄であった。アドラールは自らの地位と財産を放棄すると宣言し、オイリアンテを引きずって森の中へと姿を消す。そこで彼はオイリアンテを殺してから、自らの命をも絶とうと考えている。   

(※歌劇<オイリアンテ>が最もワグナーを予見させる箇所は何と言っても、この第2幕である。まず前奏曲が劇的で暗い雰囲気を醸し出すのだが、その後間もなく聴かれるリシアルトの歌が凄い。歌詞対訳がないため、具体的な内容が分からなくて非常に残念だが、これはおそらくウェーバーがバリトン歌手のために書いた歌の中でも最も迫力に満ちたものであろう。当録音でリシアルトを歌っているオタカール・クラウスという歌手にはちょっと馴染みがないが、この歌を聴く限りで言えば、ドスの効いた声を使ってかなり良い雰囲気を出してくれている。続いてもう一人の悪役、エグランティーネが登場してからがまた凄い。二人の悪役による轟然たる二重唱は、ワグナーの<ローエングリン>に於けるテルラムントとオルトルートの二重唱の原型になっているものと言ってもよさそうだ。雰囲気がそっくりである。実際オペラ全体を見渡してみても、第2幕の前半部分が他のどこよりも圧倒的な感銘を与える箇所になっている。)

(※フランス語でいうeglantineは、「野に咲くバラの花」を意味する言葉なのだが、このオペラに出てくる野バラさんは何とも凄まじい女性である。シュティードリー盤で同役を歌っているのは、マリアンネ・シェッヒ。強靭な声を持った人だ。と言っても、これ以外で私がこの人の歌唱を聴いた例は、実は二つしかない。

一つは、カール・ベームの<エレクトラ>全曲・ドレスデン盤(G)でクリソテミスを歌ったもの。もう一つは、フランツ・コンヴィチュニーの指揮による<タンホイザー>全曲(EMI)でヴェーヌスを歌ったものである。前者は、驚異的な名演。そこではエレクトラを歌うボルクと母親役のマデイラがとにかく超人的なのだが、その二人に加えて、エレクトラの妹クリソテミスを歌ったシェッヒもまた素晴らしかった。凄すぎる二人に負けないほどの強い声を出しながら、なお且つ、「人並みの平和な暮らしを求める、穏健派の娘」という難しい役どころを絶妙に演じていた。一方のヴェーヌスは、逆に最低の代物。まず、コンヴィチュニーの指揮がひたすら安全運転に終始する凡庸なものであるため、せっかく揃った名歌手たちがちっとも燃え上がらない。フィッシャー=ディースカウのヴォルフラムがいつもながらの巧さを見せているのが目立つぐらいで、あとは皆さん、「そつなく、こなしました」というレベルで終わっている。その中にあっても、シェッヒのヴェーヌスは最低だった。役柄が把握出来ていなかったのか、録音時にたまたま調子が悪かったのかは不明だが、「いったい、どうしちゃったんですかあ?」と訊いてみたくなるぐらい、ひどかった。

そんな感じで両極端あった人のようなのだが、ここでは彼女の美点と欠点の両方が出ている感じである。美点は、声の威力。第2幕前半でのリシアルトとの二重唱は特に迫力満点で、エグランティーネという役はこの人のために書かれたんじゃないかと思わせてくれるほどだ。また、第1幕でオイリアンテから秘密を聞き出したあとに歌う邪悪な喜びの独唱など、ソプラノ並みの高音を力強く響かせる。一方、抑えた声でその性格を歌いだす部分では、表現に細やかさが欠けている。強い声の持ち主にありがちな現象だ。)

―さて、怒れるアドラールに引きずり出されたオイリアンテの運命やいかに?続く第3幕の内容については、次回・・。
コメント (5)
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