カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ほんの少しだけの良識

2007-07-28 | 雑記
 総代さんのお宅に堤燈を配る。僕がまわらなければならないお宅は6件。記録にある電話番号の5件は違う家だったし、結果的に6件とも既に交代されていた。なんとなく古い資料だとは思っていたが、これほど使えないものだとは…。
 内一件はつかまるにはつかまったけれど、総代さんを代わったことは記憶にあるが、誰に代わったかすら忘れてしまったとのこと。思わず「何じゃこりゃーッ」と、ジーパン刑事になりそうになった。年配の人のおっしゃることで仕方の無い面もあるけれど、本当に愕然としてしまう。
 そういえば子供といったポケモンの映画でも「何じゃこりゃー」は受けていて、世代を超えるせりふなのかもしれないとも思った(これは見てみなければ分からん話ですな、すまない)。
 どうしても見つからないところは、電話ではラチがあかないので、ご近所の聞き取り調査。まるで探偵である。実質事務担当をしているお宅を紹介してもらって訪問する。
 自己紹介して説明しながらよく見ると同級生の人だった。ここが実家だったのね。
 丁寧に敬語を使って話していたので、改めて砕けた話し方になりにくい。お互い敬語のまま近況報告したりしてなんだか可笑しかった。そういえば誰彼の子供は何年生だとか、こども世代がだいたい近いということも分かった。世代というのは、こういうつながり方もあるらしい。
 考えてみれば人間というのはどこにでも住むことはできるのだけれど、ある程度の地域の基盤というものもある。子供の頃から変わらず住んでいる人たちというのも、変わらずコミュニティを維持しているものなのかもしれない。こういうものは保守的なものの元凶みたいに思われていることもあるようだけれど、むしろそういう定着というものは、地域の健全性の表れのような気がしないではない。人との出会いや仕事上の問題で移動せざるを得ない場合も多いこととは思うものの、移動せずにいられるありがたさというものも同時に感じるものである。それはそれでわずらわしい面も確かにあるけれど、すばらしいことなのかもしれないとも思うようになってしまった。僕自身も枯れてきたのかもしれない。
 さて、それでも最終的には一件だけどうしても探し出すことができなかった。仕切りなおしである。こんなもの配ることにたいした意味を見出すことなどできないのだけれど、簡単なことなのでやれといわれる部会長の言葉が頭に残っている。はっきり言ってかなり恨めしい気持ちにはなるのだが、今回まわったある一件からは、「よく回ってきてくださった」といわれたのであった。僕の行き場の無い気持ちも、実はその一言だけで何とか維持できている。もともと何のためになるものかという問題ではないのが祭りである。神様を祭り上げてはいるけれども、人間の所作として、いわば習性のようなものが祭りなのではないかとも思うのである。いづれにしてももう少し、不思議なものでつらいけれどそれなりに楽しいものである。
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