アメリカよ、美しく年をとれ/猿谷要著(岩波新書)0609
アメリカという国の姿の変遷である。それは最近の僕の心情と照らし合わせても、驚くほどの類似点がある。アメリカの姿の変遷を見ると、そのままのアメリカへの心情まで映し出されてしまう。特に日本人がアメリカという国を見ているまなざしというものは、強力なアメリカ自体の持つ激しい変化に影響を受けないわけがないのである。
日本人は従順にアメリカに従ってきたのだろうか。戦後の日本の復興の第一の原因は、もちろん日本人の勤勉さという点があったためであるとは思う。しかし、その勤勉さを生かすことができた環境をつくったのは、米国という国あってのことである。それは、断じてもよい前提であると思う。しかし、日本人がアメリカ的なものを容易に受け入れてきたのは、多くの場合嫌々強制ということではなかったのではないか。もともと日本は米国の文化が好きだったのではないかと筆者は言っている。戦前から日本人は多くの西洋文化を受け入れてきた。それは日本人という気質が素直ということもあろうが、敵であっても、もともと好きな相手であった可能性がある。そう考えるとなんとなく素直に納得できるのであった。
いきなり話が飛ぶが、日本の歌謡曲など、ラテン調のヒット曲は多い。しかしながら、ちっとも日本人はラテン気質にはなれない。そういう気分の音楽は好んでいるにもかかわらず、気質まで理解しているとは到底思えない。好みと同化は違う問題なのだ。
日本という国は好きな米国風のものはどんどん受け入れているにもかかわらず、米国人とはいつまでも違う考え方をもったままでいる。この本を読んでいて、改めてそういう当たり前のことに気がついた。そうして、アメリカ人の日本と違う原因も、なんとなく理解できるような気がする。その多くを理解する題材は、やはり歴史なのかもしれない。そういう歴史を歩んでしまう、アメリカという風土のようなものがあるのかもしれない。
もちろん、アメリカという国は歴史が大して長くないにもかかわらず、その濃度というか、中で起こった出来事は、ダイナミックで複雑で、雑多な変遷を持っている。考え方自体はものすごく単純であるにもかかわらず、単純だからこそかもしれないが、簡単に世相が変わってしまう。そして、ある意味で病理を抱えながらであるにせよ、大成功しながら巨大化していく。いまや事実上地球を支配した帝国になってしまった。
巨大化する過程において、アメリカはいつも憧れられる存在であった。著者は若い頃からアメリカに赴き、実に親切で暖かいアメリカ人と出会っている。その頃のアメリカは、親切で頼りがいがあり、懐が深かった。単にノスタルジーで語られていることではない。確かにそうだったのであろう。だからこそ多くの人々は、曲がりなりにもアメリカを尊敬し、憧れもした。そして、そういう人々を取り込むことにより、更に複雑に巨大化していったのである。
そういうアメリカでも、徐々に時代と共に病理の方が肥大化してゆく。いまや先進国といわれる国々の中で、唯一飢餓問題を抱えたままの国となってしまった。アメリカの自由が克服できなかった国家としての責任は、いまだに果たされていないのである。
そうして近年のアメリカは、益々利己的なエゴを前面に出すようになった。自国の利益のみが優先されるようになってしまった。それだけにとどまらず、自分の価値観を他国にも強制して恥じない。そうして気がついたら、誰からも嫌われる国家に転落してしまったのである。かつて冷戦に敗れたソ連でさえ、アメリカには憎悪を持っているようには見えなかった。ところが現在においてのアメリカへの憎悪は、中東などの国にとどまらず、近隣のアメリカと利益を共にする国においてまで広がっている。気がついていないのは、恐らくアメリカ国民だけなのではないか。
現在アメリカにおいてアメリカ製品を買おうとすると、不具合があっても謝罪することはまれなようだ。何しろ世界一の製品を売ってやっている国である。後進国の人間がありがたがって買うならともかく、苦情を言うほうがおかしいという態度なのだろう。それは確かにひとつのエピソードに過ぎないのだが、象徴的な出来事のように思える。
いまやアメリカの凋落は目に見えるようになっている。若いアメリカの時代は終わってしまったのだろうか。それでも著者はアメリカに対して優しいまなざしをもったままである。そのことが、本の題名となったのであろう。この本は日本語で書かれたものではあるけれど、アメリカ人が読むべき本ではないかと思う。少しでもアメリカに謙虚さがあるのなら、美しく年をとることも可能だろう。さまざまな問題と向き合ってきた歴史がある国である。今は、いつに間にか向き合う姿勢を忘れているように見えはするが、ベトナムの反省のようなことも過去には素直にできる国ではあったのだ。失敗はしても、向き合うことをやめない国であれば、年をとっても尊敬される国であり続けられるのではないだろうか。
アメリカという国の姿の変遷である。それは最近の僕の心情と照らし合わせても、驚くほどの類似点がある。アメリカの姿の変遷を見ると、そのままのアメリカへの心情まで映し出されてしまう。特に日本人がアメリカという国を見ているまなざしというものは、強力なアメリカ自体の持つ激しい変化に影響を受けないわけがないのである。
日本人は従順にアメリカに従ってきたのだろうか。戦後の日本の復興の第一の原因は、もちろん日本人の勤勉さという点があったためであるとは思う。しかし、その勤勉さを生かすことができた環境をつくったのは、米国という国あってのことである。それは、断じてもよい前提であると思う。しかし、日本人がアメリカ的なものを容易に受け入れてきたのは、多くの場合嫌々強制ということではなかったのではないか。もともと日本は米国の文化が好きだったのではないかと筆者は言っている。戦前から日本人は多くの西洋文化を受け入れてきた。それは日本人という気質が素直ということもあろうが、敵であっても、もともと好きな相手であった可能性がある。そう考えるとなんとなく素直に納得できるのであった。
いきなり話が飛ぶが、日本の歌謡曲など、ラテン調のヒット曲は多い。しかしながら、ちっとも日本人はラテン気質にはなれない。そういう気分の音楽は好んでいるにもかかわらず、気質まで理解しているとは到底思えない。好みと同化は違う問題なのだ。
日本という国は好きな米国風のものはどんどん受け入れているにもかかわらず、米国人とはいつまでも違う考え方をもったままでいる。この本を読んでいて、改めてそういう当たり前のことに気がついた。そうして、アメリカ人の日本と違う原因も、なんとなく理解できるような気がする。その多くを理解する題材は、やはり歴史なのかもしれない。そういう歴史を歩んでしまう、アメリカという風土のようなものがあるのかもしれない。
もちろん、アメリカという国は歴史が大して長くないにもかかわらず、その濃度というか、中で起こった出来事は、ダイナミックで複雑で、雑多な変遷を持っている。考え方自体はものすごく単純であるにもかかわらず、単純だからこそかもしれないが、簡単に世相が変わってしまう。そして、ある意味で病理を抱えながらであるにせよ、大成功しながら巨大化していく。いまや事実上地球を支配した帝国になってしまった。
巨大化する過程において、アメリカはいつも憧れられる存在であった。著者は若い頃からアメリカに赴き、実に親切で暖かいアメリカ人と出会っている。その頃のアメリカは、親切で頼りがいがあり、懐が深かった。単にノスタルジーで語られていることではない。確かにそうだったのであろう。だからこそ多くの人々は、曲がりなりにもアメリカを尊敬し、憧れもした。そして、そういう人々を取り込むことにより、更に複雑に巨大化していったのである。
そういうアメリカでも、徐々に時代と共に病理の方が肥大化してゆく。いまや先進国といわれる国々の中で、唯一飢餓問題を抱えたままの国となってしまった。アメリカの自由が克服できなかった国家としての責任は、いまだに果たされていないのである。
そうして近年のアメリカは、益々利己的なエゴを前面に出すようになった。自国の利益のみが優先されるようになってしまった。それだけにとどまらず、自分の価値観を他国にも強制して恥じない。そうして気がついたら、誰からも嫌われる国家に転落してしまったのである。かつて冷戦に敗れたソ連でさえ、アメリカには憎悪を持っているようには見えなかった。ところが現在においてのアメリカへの憎悪は、中東などの国にとどまらず、近隣のアメリカと利益を共にする国においてまで広がっている。気がついていないのは、恐らくアメリカ国民だけなのではないか。
現在アメリカにおいてアメリカ製品を買おうとすると、不具合があっても謝罪することはまれなようだ。何しろ世界一の製品を売ってやっている国である。後進国の人間がありがたがって買うならともかく、苦情を言うほうがおかしいという態度なのだろう。それは確かにひとつのエピソードに過ぎないのだが、象徴的な出来事のように思える。
いまやアメリカの凋落は目に見えるようになっている。若いアメリカの時代は終わってしまったのだろうか。それでも著者はアメリカに対して優しいまなざしをもったままである。そのことが、本の題名となったのであろう。この本は日本語で書かれたものではあるけれど、アメリカ人が読むべき本ではないかと思う。少しでもアメリカに謙虚さがあるのなら、美しく年をとることも可能だろう。さまざまな問題と向き合ってきた歴史がある国である。今は、いつに間にか向き合う姿勢を忘れているように見えはするが、ベトナムの反省のようなことも過去には素直にできる国ではあったのだ。失敗はしても、向き合うことをやめない国であれば、年をとっても尊敬される国であり続けられるのではないだろうか。