カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ちょっと更新停止案内(病気ではない)

2009-06-02 | 掲示板

 最近少しだけどなんとなくアクセス数が増えてきていて楽しくなって更新が増えていたのだけど、明日から鹿児島千葉神奈川長野長崎という移動の旅に出ます。出張の間に骨休みも混ぜて、おそらくパソコンと対峙する時間は無いでしょう。更新はしばらく停止しますが、来週の火曜あたりにはまた何か書けるだろうと思います。忘れてなければ、また立ち寄ってみてください。今から移動中に何を読むか選別して楽しもうと思います。本番の会議などはその場で考えて対応します。つまりそんなことは二の次で頑張ります。では、しばしサヨウナラ。
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今日も英語を使わなかったけれど、何か?

2009-06-02 | 読書
日本人はなぜ英語ができないのか/鈴木孝夫著(岩波新書)

 日本人が英語が下手だというのは、確かにそれなりに聞く話ではあった。もちろん英語圏(もしくは植民地のような国)以外の国で、さらに日本人だけが下手なのでは当然違うのだけど、そのような誤解をする英語圏の人は確かに多い。それは日本が大国になったということがもちろん大きいが、そのような立場になっても英語が苦手だというのは、別に普通に考えると横柄であるばかりか大きなお世話にすぎないのだけれど、あえて何歩も下がって英語を使う努力をしたとしても、相変わらず全体のレベルを上げることには何の意味もないことは当たり前すぎるほど当たり前のことなのだが、どういうわけか非難されたり引け目に感じたりすることがあるのは不幸なことだとは思う。
 日本人自身も当たり前のように英語については苦手意識が強いものとは思われる。これはある程度英語を使う人まで共通して感じられることらしくて、まったくできないものから見るととてつもなく流暢に英語を使いこなす人も含めて、日本人の多くは英語について苦手意識を持っているらしい。このことから単純に事実をいうと、日本人(日本語を母語とする人たち)にとって英語の習得はとてつもなく困難であるということにすぎないのではないか。最初から結論をいうと、日本人のほとんどの人たちには依然として英語というのはまったく不必要な言語である以上に、語学習得ということを考えると、かなり無理をしなければ不可能な試みであることは明らかである。しかし日本人に生まれると、途中から強制的に一律に英語の勉強をさせられることになっている。疑問に思う人も一部にはいることと思うが、むしろ英語ができなかった人も含めて、これからもっと英語の教育を強化するべきだと考えている人が多いらしいという滑稽な現実が横たわっているように感じられる。
 著者はずいぶん英語の達人らしいが、そういう日本人を取り巻く英語の現実を自ら体験した上で、さまざまな論考をまじえ、やはり一律の英語教育には問題が多いことを明らかにしていく。だから英語が全面的に不必要かというと、それは全員には必要がないにしろ、一部にはむしろもっと必要なことは確かであるので、結論的に英語を選択した一部の人間だけによる英才教育を強化する提言をしている。
 実にまっとうな意見だと思うが、この本を読んでもまだ誤解する人はいるらしいのであった。これは日本人が英語という呪縛に取りつかれているとしか考えられなくて、大変に残念なことだとは思うけれど、現実問題として英語の必要性をまったく感じない人が、どうしてそれでも教育についてはさらに強化の必要があると考えるのかということは、考えてみる必要があるのかもしれない。
 なるほど、英語は事実上の国際共通語であるという意見がある。日本だけ取り残されることは大変に国益が損なわれるのではないかという不安のようだ。だからこそエリート教育が必要だと著者は言っており、それで解決されるはずである。問題は何で一律なのだろうか。英語圏以外の国の人々が、どこであっても流暢に英語も併用して使えるという事実は存在しないにもかかわらず、何故日本人だけは英語を特に習得しなければならないのだろうか。
 日本人のすべてが英語を使うべきだという考えは、極めて乱暴な話だと思う。事実として僕らの世代などは英語教育をちゃんとうけている。しかし英語を生業として生きている人は一割もいないのではないか。それでは九割の人が極めて不遇な立場に置かれているのかというのは、極端に事実に反することであろう。日本という国の経済は輸出で大きな利益を得てきたとはいえ、それでも英語を不必要としても生きていける国民を多数抱えているということだろう。それは一部の人が英語を使うだけで事足りているという事実を証明しているとは言えて、これからさらに英語が必要になっているという事実を伝えていない。英語は勉強したい人がすればいいだけの話であって、国民に英語が必要であるという日本の国益とは事実上無関係である。
 さらに日本の国益という観点から考えると、日本語のできない日本人がいても、それは一部なら無視できることかもしれないが、そのことの方が極めてゆゆしきことであることは間違いがない。文法上は朝鮮語とほとんど変わりのない言語であるにもかかわらず、やはりその朝鮮語とは違う言語として現在に至っている。それはある意味で独立した特色を持っていると考えることができるだろう。そして日本語を通じて日本の多くの文化は日本人に伝えられていることは確かなことだと思う。または、日本人というものそのことを考えるについても、日本語との関係を切って考えることの方が不自然である。日本人は日本語という言語をもつしあわせのために、今もこうして生活していけるのかもしれないとさえ思われる。もちろん国際理解は必要だろうし、エリートでなくとも英語を勉強してもまったくかまわないことではあるけれど、すべての人間に強制して英語を勉強させることで損なわれるものの大きさを考えると、今のような英語信仰での教育というものの弊害を考えないことには瑕疵が大きすぎるようである。
 まあ実は、僕自身は語学習得が下手だったにもかかわらず、日本人が英語を学ぶことは面白いことだとは、個人限定で賛成している。アメリカ人のように移民以外では英語しか知らないし一生海外に関心のない人たちが大多数の国民でいるよりバランスのとれた人間に育つだろうし、たとえコミュニケーションとして英語が使えなくても、書物で理解できるというのは大変に有効なことのように思える。日本のことはたいして外国に発信する必要なんてないけれど(面白ければ外国の人が日本語を勉強するだろう)、海外のことは取り入れて役立てるというのは合理的で楽しいではないか。完璧にマスターしようとするのはまったく時間の無駄だとは思うが、語学というのは英語に限らず楽しんで学んだらいいのである。
 それで飯の種にしようという人以外には、これからもそんなに他の言語は必要のないことには変わりがない。むしろ本当に英語がすべての国民に必要な時代が来るとしたら、間違いなくそれは日本にとって最も不幸な時代になっていることの証明にすぎないだろう。そういう意味では今の英語の議論なんて、やっぱり適当にやり過ごしてお茶を濁しても結局何にもならない屁理屈のようなものだということだろう。それを分かった上で英語の呪縛から解放されて、日本語を楽しんで使う生活を送ろうではないかと思うのであった。
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ダサいって、古くない?

2009-06-02 | 時事
暴走族は「ダサイ族」宜野湾署命名
 うーん、発想はそれなりに面白いとは思うが、結果的にちょっと惜しい気がする。少なくとも「珍走団」の方が目的に合っている気がする。もっと元暴走族とかに相談して、なんといわれるのが一番嫌か、リサーチした方が良かったのではないか(本気で教えてくれないかもしれないが)。
 僕なら「ぽんちゃん団」とか「パラリロ隊」みたいなのが、如何にも馬鹿にしている感じがあっていいんじゃないかと思う。この際あんまり意味なんて求めず、おかしい響きの方が彼らが嫌がると思うからだ。
 警察から拡声器で
「そこのぽんちゃん団、止まりなさい」
なんていわれながら走る姿を見てみんなが笑えば、もっと楽しい結果になるだろう。

 もっともこれはお互いに嫌がらせ合戦しているようで、相手とおんなじレベルなのかもしれないですけどね。
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業態で運命が決まるわけではない

2009-06-02 | ことば

 池尾和人氏は金融専門の経済学者。最近池田氏の影響もあってか発言が注目されるようになっているが、しかし学問として純粋に状況を分析できるエキスパートと考えていいだろう。政治的にどうだというバイアスにはほとんど関心がないように見えるところが、なにより一番信用できるところである。
http://agora-web.jp/archives/632966.html#more
 この記事の趣旨は直接的には僕の感想とは乖離があるのだろうけど、しかし僕はこの当たり前の言葉に大変に勇気づけられる。要は自分の立ち位置がいかにも斜陽業界にあろうと本質的には関係がないのではないかということだ。世界的な不況でものが売れなくなっているが、その象徴として自動車が大変なことになっているというのは知っているしその通りだ。そしてそうしたものが売れるという象徴的な王様が倒れている状況にあって、右往左往する心情も十分に理解はできる。しかしたとえ自分がその業界の渦中にあろうとも、経営次第では生き残ることは十分に可能なことなのではないか。もしくは斜陽だから駄目だという論調こそ、本当にダメな議論なのではないか。奇しくもGMが倒れ、何とか悲観的なムードを楽しもう(もしくは盛り上げよう)というマスコミの姿勢をみていると、ほとんど倒れることは織り込み済みで状況をみていた人にとっては、白けるような脱力を感じるだけなのではないかと思ったりする。確かに状況は厳しい。しかしこの選択ができる米国の潔さとダイナミズムは、日本の状況をひた隠しにして先延ばしにする一時の安堵とはまったくかけ離れた考え方の違いというものではないかと思う。もちろんそれで成功するのかしないのかというのは未知数だ。分からないがやることはやる。それこそが未来であり希望なのではあるまいか。
 正直に言うと僕の所属する業界は極めてニッチなのだが、大波に巻き込まれて大変な騒ぎになっている。政治的に力が強い勢力が大挙して参入してきて、不況に乗じて一時の益を得ようと躍起になっている。もちろんそのすべての姿勢は批判に値しないし、そういう生き方も必要な場合もあるのは確かだ。それが政治なのだから仕方がない。しかし、そうして辛うじて生き延びることが僕らの業界を将来的に苦しめることになることまで考えている人は非常に少数だ。結果的にどうなったという状況に神の手を求めるというのは、その結果を呼び込んだ原因を把握しない愚策だと思う。藁をもつかむということをいう人もいるかもしれないが、藁をつかんでも死ぬ時は死ぬだろう。必要なのは延命でなく治療で、回復するために何をするのかということなのだろう。高熱があるのに薬を飲んで見た目は今までどおり活動できても、それが結果的に体にいいわけがないではないか。
 しかし確かに業界はそうであっても、これで終わるわけにはいかない。僕らの責任は重いし、そして何もやれないわけではないのである。改めて頑張ろうという気になるのは、確かな知識に裏付けされた人から漏れる何気ない言葉なのかもしれない。
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