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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やす君に首ったけ

2021-01-03 | 感涙記

 NHKに「行くぞ!最果て!秘境×鉄道」っていう番組があって、これの短縮版というか、一応ミニという名称がついたものが朝から何度も流れていた時期があった。場所によっては音尾琢真さんという人が出ていて、それもたいへんに面白くてよかったのではあるが、しかし、僕が熱中したのはほかでもなく「やす君」で、見だしたら止まらなくなって、家族からは呆れられたのだけど、全部録画して観たのだった。


 やす君が素晴らしいのは、枚挙しても足りない。ああ、そうだった。そもそもやす君というのは、本名を古原靖久さんというらしく、俳優さんとして活躍されているらしい。俳優としては見たことがないので何とも言えないが、この人がものすごく面白いのである。


 秘境鉄道なので、ものすごく不便なところに行く。僕は元バックパッカーの端くれなので、これはものすごく興味があったのという前提はあるかもしれない。行くところはうらやましいところばかりなのだが、ともかく、いったん社会人になったのなら、もう行くには時間的にほぼ不可能なところに行くのだけれど、これがまずはものすごく面白い。でもまあ、誰かが選ばれていくのであれば行くのであろう。しかし,やす君が行くのは、ちょっと様相が違う。何度も予定が狂い、そうして待ちぼうけして、駅とはとても思えないような場所に降り立ち、途方に暮れる。しかし、やす君は、全然めげないのである。うわーッという絶望を目の当たりにして、本当に面白がっている。いや、困っているのだが、もう困るけど仕方ないと達観している。それももう、瞬時に。



 僕はもうほとんど毎回爆笑しながら番組を見ていた。これはやす君の性格番組ではないか。言葉はろくすっぽできないが、通訳がいるので体当たりで、でも大筋では合意していて、暇なら子供と遊び、時には真剣に仕事を手伝い、長距離のレースにも参加し、馬にも乗って、鉄道以外の秘境にも行ってしまう。口に合わない食べ物もあったに違いないが、食べたらうーん、うまいと叫び、どんな味なのか例えを出して教えてくれる。酒を飲む場面はなかったと思うが、旅先で人々と溶け込んで楽しんでいる。そういう雰囲気が、ものすごく見ていて楽しい気分にさせられるのである。秘境鉄道なので、番組はあえて過酷なところにやす君をいざなう。でも、まったくそれにめげてなくて、受けて立って、楽しんでしまうのだ。こんな素晴らしい青年が日本人として居たなんて、僕は驚きながら、感動するのだった。


 もうこのような秘境に行くような機会は、それこそ定年しない限りできないだろうが、でもまあ、若くないとこのような旅というのは、面白くないのかもしれないな、と思う。なにしろ、大変である。現地の人も大変かもしれないが、旅行では、予定というのがある。その枠にはとてもあてはまらないし、時間どころか、金もかかる。番組ではよくわからないが、ものすごくたくさんの不都合の上に、この旅が行われたはずなのだ。いじめや拷問に近い感じすらする設定にあって、最後まで楽しめる人なんて、そうそういるはずがないじゃないか。その代表として、やす君がいるのだ。
 再放送があるのかどうか知らないし、DVD化される予定があるのかどうかも知らない。でも皆さん、そういうことがもしもあるとするならば、迷わず買いである。やす君、今後も頑張ってください。
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今年も高校駅伝楽しめた(あとは箱根ですね)

2020-12-22 | 感涙記

 毎年クリスマス前後の日曜になると、日本では高校駅伝が西京極で開催される。もうずいぶん前からこれが年末の風物詩として、楽しみなのである。それに今年は例のコロナ禍というのがあって、スポーツのイヴェント自体がふつうの形で行われない可能性が高かった。駅伝の方も、スタンドでの応援や沿道の応援自粛の呼びかけがなされたようだ。それでも少しは沿道にも人がいて、よかったな、と思った。声援というのは力になるはずで、いつもと違う雰囲気だろうが、走っている選手に影響があって当然だろう。
 駅伝の開催の前に、ここ二日ばかりは、このレースに関する情報が、けっこう新聞には書いてあるのである。今年は地区予選のことは、あまり情報を追ってなかった。仙台育英や神村学園がいい記録を出していたくらいしか、あまりよく知らない。長崎のことは、地元だから当然知っていたが、それ以外のことは、そんなにネットなどでも追っていなかった。そういうことで、改めて二日間の新聞をじっくり読んで吟味し、自分なりにレース展開の予想を立てて置いて見た。やはりこれが一番楽しい理由かもしれない。
 レース途中で誰かが転倒したらしいことは聞いたが、棄権ということではなく元気に戻ったようだった。ホッと一息だが、福井の鯖江高校の3区のランナーが、たすきを受けるときに自分のチームメイトの2区のランナーと足が絡んだようで、靴が脱げてしまった。あっと思って、同時録画している画面に切り替えて、再度靴が脱げた場面を見返した。襷を受ける瞬間に、自分の足のかかとに2区の選手が踏んだように見えた。そのままずるっと赤い靴が脱げて、沿道の方に転がった。3区の末本さん(後で調べた)は、一瞬躊躇した顔をしたが、さっと切り替えて走り出した。そうしてその片方の靴が脱げたまま、区間順位は守って走りぬいたのである。
 たぶんこれが一番のアクシデントのように見えたが、たくさんのランナーが走っているので、分からない何かはいろいろあったことだろう。最終五区で予想通り神村学園の留学生がトップに躍り出て、これはもう勝負があったな、と思っていたら、今度は世羅の留学生がスルスルと出てきて逆転して逃げ切ってしまった。後で女性の監督さんが、そうなると思っていたと語ったが、ふつうの人々は驚いたのではなかろうか。狙いのレース展開は、神村と同じようなプランだったようだが、さらに大砲がいたわけだ。
 男子の方は、これはそれなりに上位は予想通りに展開した。予想より凄かったのは洛南で、何と佐久長聖を上回っての3位という勝利だった。確かに上位二校をはじめ、留学生を要する学校の力は抜けているが、10位までの学校中、6校が留学生なしで上位に食いこんだのである。平均的にすべてのランナーがしっかり走りぬいた結果であるはずで、非常に高いレベルでチームを作り上げているということが見て取れる。上位の世羅や仙台育英、倉敷は、日本人も早いのに、さらに留学生も早いので勝っているのである。今回の優勝タイムも非常に早かったが、これから数年で本当に高校駅伝では、2時間の壁を破ることになるかもしれない。
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熱血和尚と子供たち

2020-11-20 | 感涙記

 休肝日の日に漠然とテレビを見ていたら、「廣中和尚」のドキュメンタリーをやっていた。厳密には廣中さんという住職のお寺に、問題児を10人(延べ人数としては何百人もいるという)程度住まわせて共同生活のようなことをしている話だった。不良少年だったり、家出や自殺未遂、窃盗などを繰り返すなどして、家庭では育てられる状態にない少年少女たちを、一時的に匿うというような取り組みをしているようだ。お寺は愛知の岡崎というところにあるらしく、そこには全国から困った状態に置かれている子供たちの駆け込み寺、というようなことになっている。もちろん本人も困っているが、家族や地域の人たちも困っていたのかもしれない。
 一応本人も納得して寺にやって来るのかもしれないが、最初から状態があまり良くない子たちが集まって、様々なトラブルを起こす。寺の住職やその仲間たちとの間では、それなりに愛想がよかったり仲良く暮らしているようなのだが、学校に行ったり、もちろんそもそも学校に行かなかったり、行方が分からなくなったり、いろんな事件を起こす。その都度テレビでは「おじさん」といわれている和尚さんや仲間たちが、探して回って迎えに行く。時には激しく叱り、しっかり本人や仲間たちが納得がいくまで話し合って、いわゆる仲裁させる。
 これが本当にドキュメンタリーなのか、というドラマがある。寺の中の生活とはいえ、一緒にご飯を食べるとか、役割分担を決めて掃除洗濯などをやるとか、一応外出は行先を和尚さんにつげた上に門限はあるという程度で、基本的には自由である。現代風に携帯電話はもっているし、煙草はプカプカやっている。酒はどうなのか分からなかったが、和尚さん自体もチェーンスモーカーで、みんなでプカプカ、煙がモウモウである。大人数だから生活費がものすごくかかっている様子で、和尚さんはお寺の務め以外にも講演会をひっきりなしに行い、奥さんは看護師としても働いている。こういう珍しさがあって講演会などにも呼ばれるのだろうが、逆にそういうことをやらなければ、このような生活は維持できないのである。
 不良の仲間たちは、共同生活をするうえで、非常に強い仲間意識をもっている。家庭などの問題のある子たちが多いが、そのような心の傷を抱えたうえで、親元を離れている寂しさもありながら、共同での生活で、何か自分なりに目標のようなものを持つようになり、何も強制されるわけでもないが、おじさんである和尚夫婦と、そうして仲間たちと一緒にいる中で、自然とそのような心得のようなものが芽生えていく様子だ。たびたび問題は立ち上がるけれど、そういう大きな事件を経て、家族などが再度かかわりを持つようになり、その子のみならず、何かの歯車が回り出すようなことになっていくのかもしれない。
 ドキュメンタリーは、もともと地元で放映されていたシリーズもののようで、お寺での共同生活を10数年にわたって撮り続けたものだ。すでに廣中さんは亡くなっており、今ではこのような共同生活は終わっているらしいが、いわゆるここの卒業生のような人々が、何年にもわたって生活してきた記録と、その後の大人になってからの様子が分かる。なかにはジャンキーから抜け出せなかった人もいたが(同居している相手が悪い)、多くの人はいい大人になり、新たな生活を送っているようだった。
 とにかくすさまじい生の迫力があって、本当に見るものを深く捉えて離さない内容になっている。何度も何度も何度も涙が出てきて困るのである。なかの子供たちが、本気になって自分の言葉で話をする。怒っている。そう簡単には心の内を明かさない狡猾さのあるような子供であっても、そういう手先の器用さでは乗り切れない真実を見破られてしまう。逃げてばかりいて、本当にはそのことに触れたくないこともあるのかもしれないが、しかしここでの生活では、そこから逃げては生きていけないのだ。そうして逃げないのだと自分で決めきれることができたなら、そこから自分なりの人生のようなものが始まっていくのだ。こういうのが真実の物語というのだろうな、と改めて思うのだった。別段不良でなくとも、多くの人は面倒なことから逃げながら生きている。もちろん程度問題はあろうけれど、逃げないという覚悟を持つことって、あんがい大切なんだと気づかされる。そういうのは子供だけの問題じゃなくて、大人である親の問題でもあったのだ。
 世の中にはいろんな人がいるもんだ。本当に偉い人って、案外あちこちで頑張っているのかもしれません。
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「漫勉neo」ほんとにイイっす

2020-10-15 | 感涙記

 NHKの番組に「漫勉」というのがある。厳密にはNEOとついていて、新たなシリーズが始まったのだ。基本的には浦沢直樹という漫画家が、恐らく本人が気になる漫画家にインタビューするような形式であるが、先に仕事場に定点カメラで作画の様子を何日間かに渡って撮影している。その映像をお互いに見ながら話をするのである。
 そういうことは、いくらNEOと銘打っても、基本的には前シリーズと何ら変わりなくて、そうしてこれがめっぽう面白い。プロの漫画家だから、当然絵がものすごく上手いのだが、その描いている様子が、なかなか皆さん個性的なのだ。基本的なことは、ほとんど変わらないように見えて、しかし細かいところはちゃんと違う。いろんなこだわりがあって、そのこだわり様の在り方が、本当にみんな違う感じなのだ。ちょっとオタクっぽいところもあるんだが、自らも漫画家である浦沢が、その細かい描き方について質問する。そういわれてみると、そうかな、という感じで、話が静かに弾んでいく。漫画家にも色々いて、あまり話が得意でないタイプの人も多いのだが、漫画のことについて、特に漫画を描くという行為については、やはり語るべきことがそれぞれにあるらしく、いつの間にか、自分自身がそのことに気づいていく様子も面白いわけだ。今まで言語化して、そのような絵の面白さを表現していなかった人もいるようで、自分自身でそのことを発見する驚きも含まれているようだ。
 基本的には彼や彼女らは、描いている絵が気に入らない時が特に面白かったりする。とにかく何度も何度もしつこく描き直すのだ。どこがどう違うのか傍目にはほとんど分からないような細かい差であっても、やっぱり気に食わなければ描き直している。描くスピードがそれなりにあるとはいえ、一枚の原稿を描くのに何時間もかかっている(これにはそれなりに個人差はありそうだが)。そうでありながら、やはり描き直すときはやっぱり描き直している。下描きは鉛筆を消しゴムで、ペン入れ後はホワイトで消し直してその上に描く。(最近はパソコンの人もいるようだが)そうして紙そのものを変えて描く。何度も何度もそういうことを繰り返してきたことは、その撮影中だけのことではないことも見て取れる。プロだから上手い絵なのに、それでも描き直してやり直して、自分なりに納得がいかないとならないのだ。
 さらに細部を細かく描いているのも面白い。いわゆるノッてくるというか、どんどん楽しくなって描いている様子が分かる。そこまで描く必要が本当にあるのかよく分からないところを、丁寧に丁寧に描きこんでいく。本当にそんな風に描いてたんだな、というのが分かって、呆れるが感心してしまう。本当は原稿の締め切りもあったりして、描いているのは楽しいことばかりじゃないのだろうとは思うのだが、しかしやはり漫画を描くという行為そのものが、楽しくて仕方ない人たちが漫画家なのだ。売れなくなるとつらいものがあるかもしれないが、とにかく描き続けていることが、漫画で表現できることが、楽しいということなのかもしれない。
 僕は小・中学のころに、ちょっとだけペン書きの漫画を描いていたんですよ。ものすごく時間がかかるのに呆れて、漫画描くより文章書いた方がいいな、と思ってやめてしまったけれど、それだからこそ僕は漫画家にはなれなかったわけだ。ほんとに納得出来ました。でもまあ、漫画描くように仕事ができたらな、と「漫勉」観ながら考えております。もっと漫画も読まなくちゃな。
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失われていく家族の強い愛

2020-08-07 | 感涙記

 事情があって祖母の介護をすることになった、若者兄弟のドキュメンタリーを見た。あちらのドキュメンタリーには多いが、アナウンスでの説明がない。だから時々映されている側が不自然に説明したりするだが、ともかく間違いなければ、何らかのトラブルがあって、祖母を三人の男の孫が介護しているという場面が続く。日本の介護のそれとは少し違うらしいことは、人的介護にあたっては、家族で見なければならないというのがあるのかもしれない。孫三兄弟は恐らく二十代前半くらいで、サーカスの曲芸なんかもやるような若者たちだ。おそらく一番下の弟が一番面倒見がよくて、いちいちおばあちゃんにキスをしながら手を引く。大事に大事に、いとおしく。
 そういう場面を見ている分には、微笑ましい介護の記録なのかと思いきや、他の孫たちはちょっと様子が違う。彼女を連れてやってくる兄は、面倒を見てないわけではないが、機械的で、さらに制度にも不満があり批判精神を持っている様子だ。確かにこんな状態がいつまでも続くわけはないだろう。そういう予感に、ついイライラしてしまう感じだ。さらにこういう状況になってしまったのは、父が不在の時に母がベッドから落ちてけがをして、大声で騒いでいるのを近所の人が通報したためらしい。事情はよく分からないが、父は母の介護に関して虐待をしているとみなされ、刑務所に入ってしまったようだ。そこで呼び出されて世話をするようになったのが、三兄弟だったというわけだ。
 おそらく二番目の兄は、以前のように歩けなくなってしまった祖母に対して、少し厳しい。少しでも歩けるように戻って欲しいという思いが強すぎるのか、祖母が嫌がっても強引に歩行訓練を続けようとする。そこは公園で、周りの人から結局は通報されてしまう。
 父親は虐待の容疑で捕まったわけで、家族もそのような状況であるということになれば、釈放にも影響があるだろうといわれる。皆困ってしまうが、制度なので仕方がないということなんだろうか。
 これはどうもメキシコの話らしく、ドキュメンタリーの撮り方自体を見ると一編の映画的で、うまく撮れてはいると思う。しかしながら制度そのものはよく分からないから、いったい誰が悪いのかさっぱり分からない。もちろん、このような状況に陥ってしまう可能性のある家族の在り方など、制度を含めた啓蒙の考えがあるのだろうことくらいは、考えてみると分かる。しかしよその国のことだし、実際に詳細にこの家族のことなど分かりえるはずが無い。文化の違いがあるのか、これが貧困なのかどうかも分からないし、あえて介護を受けない方針なのかもわからない。父は虐待で捕まって気の毒だが、近所の人から繰り返し通報されていたのかもしれないではないか。そういうことは一切分からないので、本当に同情していいのかさえよく分からない。結局おばあちゃんは数年後に亡くなったようだが、それはどうしてなのかも不明だった。ナレーションのないドキュメンタリーこそジャーナリズム映画だと思っている文化の作品は、なかなか面倒なのである。まあ、逆説的に日本のものは説明過剰なんであるが。いづれかに折半して作られることを切望するものである。
 それにしても日本の男孫が、おばあちゃんの下の世話までするようなことは、少し考えにくいとも思った。メキシコ人は、いやメキシコ人に限らず日本以外の国の人たちは、家族愛が深いと感じられる。もう戻らなくなった家族の姿を、記録したものなのであろう。
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年齢を間違えて答える

2020-04-02 | 感涙記

 杏月ちゃんと散歩していると、よく齢を聞かれる。私でなくもちろん杏月ちゃんである。僕はだいたい考え込んでしまう。正直毎回よく分からなくなるからだ。それで、11、とかもうすぐ12とか答えることが多いように思う。そういえば知らない人がいるかもしれないので今更だが、杏月(あづき)ちゃんというのは、ウチで飼っている愛犬(雌)の名前である。
 それでうちに帰ってきて、杏月ちゃんって何歳だっけ? とつれあいに聞く。そうしたら13歳だというではないか。そうか、そうだった。昨年末に13歳のお祝いをしたのだった(僕はあくまで参加者。厳密に言ってつれあいがすべて取り仕切ってくれた)。ご馳走食べて、ケーキも一緒に食べて(犬用がちゃんとある)、記念撮影もした。杏月ちゃんは誕生会用のお洋服を着て、少しかしこまっていた(戸惑っていただけかもしれない)。
 13歳というのは、犬だからずいぶん高齢である。犬の年齢を人間と同じように換算する方法があるようで、それは実にいろいろあって面倒なんで、とりあえずネットで確認すると、犬の13歳は人間でいうところのおおよそ68歳であるという(諸説あります)。
 犬というのは大小ずいぶん多様だし、犬種もあるし、家の中や外で飼うとか、使役犬であるとか、さらに住んでいる地区の寒暖差や、国境などのコンディションの多様さがあるので、一概に信用はできない。そうではあるが、経験上、だいたい13年以上だと、いつ死んでもそんなにおかしくない。僕の家で飼われていた歴代の犬で、13年以上は一匹しかいないはずである。
 要するにそんなことが頭をめぐってきてしまって、いつの間にか涙ぐんでしまう、ということになるというだけの話である。なんでこんなに切ないのだろうか。こんなに子供みたいな杏月ちゃんが、もうあと長くはないなんて…。
 とはいえ、病気で臥せっている訳でもないし、動きが緩慢になっている訳でもない。多少白内障で黒目が白濁していることと、歯槽膿漏で何本か歯が抜けた程度のことで、毛並みも悪くないし、飛び跳ねて元気である。寝言も言うし、留守中にはゴミをあさる。
 実は杏月ちゃんの11歳とか12歳とか間違えて年を言ってしまっているとはいえ、そういうと大抵の人には驚かれる。これはお世辞とか言うことではなく(彼女にお世辞を言ったところで無意味だし、僕に対していってもやはり無意味である)、そのように見えないだろうことは間違いないからである。わんわんと吠えて、ウロウロ落ち着きがなく、ハッハッハっと息を吐く。そういう犬種と言ってしまえばそうなのだが、もう何年も毛を刈っているかどうかという違い以外には、たいした変化はない。
 しかし、年齢の経過は、つれいあいが嘘を言ってない限り本当のはずである(僕には、とても数えられない)。ときどき例外というものが大きくて、寿命というのが無ければいいのにな、とも思う。思うが、まあ、忘れるよりない。そんなことを思っても、僕に変えられるものでも無いし、そうしてやはり散歩には行くのだろうから。犬の年齢なんてものは、本来はどうでもいいことなんじゃないだろうか。
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今更ながら吾妻ひでお追悼

2019-12-28 | 感涙記

 最近亡くなった吾妻ひでおだが、晩年になって「失踪日記」等で大ヒットを飛ばして、再注目されたが、僕らにとっては結構リアルな過去の人であった。
 僕らの小学生のころに、吾妻は少年チャンピオンに連載をしていた。エロ・ナンセンス・SFといった作風で、内容ははっきり言ってそんなによく分からないものの、実際にはたいていエロの要素で、少年たちを惹きつけていたと思う。吾妻の描くロリコンっぽい美少女は、子供心にもたいへんにかわいいキャラクターで、何を考えているかよく分からない存在ながら、すぐに服を脱がされてしまっていい人なのであった。エロ漫画なので当たり前だけど、親たちの激しい検閲のある中にあって、弾圧を受けていた作家だったように思う。一番は永井豪だったろうけれど。そういうわけで、ほぼ禁書扱いで、子供自身がコミックなどを手に入れるのは、それなりに難しかった。いや、厳密には買えはするんだが、当時の書店のおばさん店員さんは、おそらくPTA等の圧力があってのことと思うが、小学生くらいの男の子には、このような漫画を買うときに、少なくとも一度注意するようだった。そういうことがあると、二度目には気遅れてしてとても買うことができない。そうやって少ない成功体験を潜り抜けて手に入れられた作品は、重宝して回し読みされたのだ。
 そうではあるが、一番うらやましかった友人はマンブー君だった。マンブーには年の離れた労働者の兄がいて、そのお兄さんが吾妻ひでおのファンらしく、ほぼ全巻コミックをコレクションしていた。マンブーん家に遊びに行くと、お兄さんの部屋の本棚に、整然と吾妻作品が並んでいた。ところがであるが、これを手に取ってみることは、固く禁じられていた。後でお兄さんに怒られるという理由で、マンブーが見せてくれなかったのだ。だからいつも背表紙だけを眺めて羨ましがっていたというわけだ。
 しかしまあ中学生くらいになると、おこづかいも増えるし、小学生みたいに(多少は)気後れしなくなる。しかし吾妻自身は、メジャー雑誌の連載から離れ、マイナーな媒体で、よりマニアックな作品を描くようになっていた。田舎暮らしではそれらの作品は手に入りにくくなっていった。そういう時にたまに目にする吾妻作品は、不条理ギャグに冴えがわたり、ちょっと不思議ながら感心する作品が増えていったように思う。マイナーながら、それなりに売れていたのではないだろうか。また、漫画家同士の評価も高い作家で、明らかに吾妻作品に誘発されたようなものも見受けられたように感じた。もう僕らは、エロ目的だけで吾妻作品をみていたのではなかっただろう。
 正直に言ってその後はずいぶん忘れていたのだが、その間病気や失踪などをしていたようで、文字通り消えた作家になってしまっていた。それらの体験記をつづった失踪日記は、だから衝撃的な再ブームを巻き起こしたのである。本当に驚くべき面白さのある作品で、改めて吾妻の偉大さを思い知ることになった。僕は福祉の仕事をしているということもあって、これらの吾妻作品を読むということは、福祉的な仕事の参考に、大いになったと感じている。もちろんそういう仕事をしていない人にとっても、たいへんに為になる内容だろうと思われる。結局その本の内容のような過酷なことが、少なからず影響もあったことだろう。まったく亡くなってしまって、本当に寂しい気分である。
 因みに吾妻ひでおは1950年生まれで、同い年では、志村けん、由美かおる、スティービー・ワンダー、和田アキ子らがいる。
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育ての母と居なくなった生みの母との葛藤のシェフ

2019-12-14 | 感涙記

 BSで「さすらいのシェフ」というのを観た。韓国の著名なシェフが、山野をさまよい、雑草のような草花を摘んで、独創的な料理に仕上げる。自分のレストランも持っているようで、当然客がたくさんのようだ。映像なので実際の味は分かりようが無いが、人々は驚きの表情でその料理を楽しんでいる様子だ。実際に旨いのは間違いなさそう。そのシェフのイム・ジホさんは、ある里山で知らないお婆さんに野草のスープをごちそうになる。そのお礼に集落の人々を呼んで、その里山で採ってきた雑草(のような)で、素晴らしい料理を作ってふるまう。そうしてお婆さんとすっかり親しくなるのだった。時に通い、母のように慕うのだ。
 実はイムさんは、実の母は知らない。養母とは、若いころに家出のようにして放浪している最中に亡くしてしまった。そのような過去があり、母の思いに特殊なものがあるようだ。老婆を母の面影に重ねてみているということか。そうしてお婆さんが亡くなり、その弔いとして108もの料理を三日三晩掛けて作るのだった。
 「男はつらいよ」の主人公寅次郎も、実の母には捨てられ(というか父の妾だったので、父方の家で育ったということ)、養母は成長過程で亡くす。それが原因というか、少なくとも、何らかの心の傷を負っている様子である。人格形成に母の存在は大きいものと思われる。イムさんと似ているのかどうかは分からないが、そのような境遇というのは、大人になっても、さらにそれなりの年齢になっても、影響が続くものなのだろうか。
 僕にだって母親がいるわけで、母に対する思いというのは分からないではないはずなのだが、居なくなった母ということと、養母という母ということとに、ずっと思いが引きづられるものなのだろうか。まあ、複雑には違いないだろうが…。
 ドキュメンタリーは非常に感動的な物語になっている。素晴らしいものだ。しかし僕には、当然他人であるお婆さんに、母の面影を激しく投影することなど、これからの人生でもまず無いことだろう。そういう意味では誠に不思議で、妙な感慨が残る。しかし人々には、この特殊性に共感のあるものが多いのではないか。それは、想像力だけではないような気もする。そうしてそれは、おそらく僕には欠けている感情のような気がする。
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あとどれだけ葬式に通うんだろ

2019-09-13 | 感涙記

 人が死ぬのは仕方のないことだとは思うけど、葬式というのはあと何回出席しなくてはならないのだろうか。葬式に限らず通夜もそうだが、義理があるので当然参列する。あまりにも当たり前すぎることであるので、このように疑問に思うことは差し支えがある考えかもしれないとは思う。しかしながらそれなりに年を重ねて知り合いも増え、そうして世代的に死に近い人々との関係が続いていくことにより、着実に葬儀に出る回数というのが、相対的に増している。年に何回ということから、月に何度と数えるようになり、多い週という数え方までできるようになってしまった。それもそれなりに近い人々が亡くなっていて、もう何かいたたまれなくなるような気持の塞ぎようを感じてしまうことになる。僕は生きてこうしているが、もうあの人は戻らない。お話していた頃の記憶も生々しく思い出されるが、それはもうすでに古くなるしかない記憶の抽斗にしまわれる。
 また、残りの僕の人生の時間に、この葬儀に充てられる割合が相対的に増えていくような気がしてならない。いつかは自分の順番が来るが、それはもう僕とは関係が無い。密接に関係するのは、人の死ばかりなのだ。なんの宗教心も持たない自分が、何の意味があるのかさえよくわからないお経の多くを、ただ流されるままに聞かされている。もちろんお経をちゃんと聞いてもいないが、ただ時間の経過だけを待って、その場に座ってじっとしている。こういういわば無駄な時間をやり過ごして、僕の時間は浪費されていく。死を弔う気持ちはあるが、その大半は僕との断絶との時間である。そういうものだというのは分からないではないが、それ以外の選択が、とりあえずない強制された暴力のようなものではなかろうか。
 もう葬儀には出たくない。特に近しい人のものには出たくない。僕の心は分裂されて、そうして結局葬儀には参列せざるを得ないのである。選択は残されていない。ただそこにはあまり意味のない時間のみである。僕はそれに耐え続け、そうして残りの時間を浪費する。それはやはり残酷な宿命といわずして、なんといえばいいのだろうか。
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人は死んでも完全には無くならない

2019-02-03 | 感涙記

 年末までお元気だったはずだが、という方の訃報に接する。くも膜下出血だったという。倒れたのち意識は戻らず、三日後に息を引き取った。葬儀の当日そのことを知り参列させてもらった。あっけないものだと人の無常を思っていた時、やはりふと別の人のことを強烈に思い出していた。その一週間前に僕は、幼馴染の友人を亡くした。実はショックもあってだろう、いまだに何となくぴんと来てないというか、実感の伴わない感じがしていて、悲しいとは思うものの、涙を流すようなことにはなっていなかったのだ。
 人様の葬儀の折に、また違う人のことを考えるのもなんだが、どうにも頭から離れない。友人の訃報に接しながら強烈には悲しみを覚えなかった、いわば冷たい人間である自分のことを少し変にも思っていたのだが、今となってみて、ひどく喪失感が襲ってきた。もう二度と帰ってこない人、もう二度と会うことのない人、そういう思いがふつふつとわいてくる。僕は生きていてこんなことを考えているけれど、そういう考えすら今はしてない友人のことを、いったいどういうこととして捉えたらいいのだろう。大病を患っていたわけでもなく、様々な事故なようなことが重なって突然に人生がプツンと切れてしまったようなものであった。もう少し先になって感じたであろうことや、体験しただろう出来事が、すべて何もなくなってしまった。そうしておそらくだが、一緒に飲んで馬鹿話をしただろう僕たちの経験が、すべて行われることが叶わなくなってしまった。
 他人の気持ちというのは自分には分かりえるものではない。それは人間の意識としては当然のことである。相手のことを思いやったり想像したりはすることはできるけれど、本当に相手の考えていることが分かることはあり得ない。しかしながら幼馴染のように時代を超えて付き合いが続いてきた人間関係にあると、ふと相手の考えているような気持ちが分かるようなときがある。もちろんそれは勘違いかもしれないが、何か共感を超えて伝わってきて、わかったと思えるようなことが、確かに二人のうちにはあったはずなのである。時にはそれで歯がゆい思いをすることもあるし、馬鹿にしてしまうこともある。情けなくもなるし、逆に誇らしい時だってあったのである。二人の間にまったく嘘がないとはいえないまでも、皆まで言う必要もなくなんとなく通じ合うようなものがあったのだろうと思う。なんとなく不遇な体験もしていたし不憫に思うこともあったわけだが、これからも当たり前のように付き合いは続いて行っただろうと思う。そうしてこれは突然に完全に途絶えてしまった。
 少なくとも今は自分は生きている。申し訳ないが生きているようだ。そうしてこんなことを考えているのも、生きているうちだけのことなんだろう。喪失感も大きいが、僕が生きている間は、僕の思いの中に友人はいるわけだ。そういう意味では完全に消えてなくなってなんか無いのではないか。そうでなければ、すべて終わりだというのは、あまりにも悲しすぎることのように感じられる。
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基本的に気は強いのだろうけど

2019-01-20 | 感涙記

 スポーツ観戦は基本的にしなくなったが、もちろん例外はある。駅伝やマラソンである。まあ相撲も観るが、あれは厳密にはスポーツなのかわからないところもあるので、例外の例外ではある。
 年末年始は、駅伝がたくさん見られる。それはそれで楽しいが、時間がつぶれて困る。何しろ時間が長いから。僕はせっかちなので、長い時間拘束されるのは嫌である。しかしレースは根気よく見なければならない。つらいが面白いので仕方ないのである。
 長距離走というのは非常に駆け引きがあって目が離せない。日本人ランナーは比較的平均的にラップを刻む人が多いとはいえ、勝負となると話は違う。多少消耗があることを覚悟のうえで、頻繁に速度を変えて走るのが普通である。後ろに付かれて消耗するというより、その揺さぶりに耐えながらプレッシャーをかけ続けることに力の差を見せつける効果があると思われる。以前は力のない方のランナーが後ろに付いて様子をうかがう作戦をとるべきと考えられてきたが、現在の多くの場合は、力のある方が揺さぶりに耐える方法をとる傾向にあるように思う。そういう時代性も含めて、戦略も多彩になったものである。
 それにしても距離が長いので、勝負にいろいろ工夫しすぎると、最後には不安が残る。社会人などがそうだが、勝負がありながらも自分のペースを守る人が増えてきている。前半は置いて行かれても、後半に再度デッドヒートを繰り広げるなど、ペースの配分が様々になってきた。一方で前半にあまり我慢しないで行くところまで行って粘るという人もいるわけで、そういうギャンブルの仕方ができる日本人も増えた。結局は練習方法の見直しなどがあって、地力がついているのであろう。
 長距離の人が面白いのは、その後のインタビューにおいても特徴がある。案外根性的なことではなく、レースを冷静に考えている人が多い。失敗もそれなりに認めるし、つらかったことも素直に話す人は多い。スポーツ選手というのはビッグマウスで誇張なのか嘘なのかわからない場合もたまにあるが、長距離は嘘のつきにくい競技なのではないか。強がってもきついものはきついものだし、調子の波があるとはいえ、ダメな時ははっきりしている。ボールゲームのような運の左右するものが、きわめて少ないということもあるのかもしれない。さらに環境は一緒なのだから、自分にうそをついて頑張るようなことが許されないのかもしれない。
 もちろん過去には妙な人もたくさんいたわけだが、現代人というのは、素直な人が増えたのかもしれない。平均的に実力も上がっていて、極端に力の差が出てきにくくなっているのかもしれない。勝ったり負けたりの切磋琢磨が、さらに選手たちに磨きをかけているのであろう。
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銭湯の思い出(その2)

2018-12-19 | 感涙記

 中学生の時に、寝台列車に乗って大阪に居た兄のところに遊びに行ったことがある。寒い思い出があるので正月休みだったのかどうか。とにかく一週間ばかり泊まりに行った。
 その時はいろいろあったのだけど、最初に驚いたのは、兄の住んでいるアパートが共同トイレに風呂なしだったことだ。そうして隣との壁が薄いので、会話が丸漏れだった。お隣の夫婦らしき住人は、夜寝る頃になるとケンカをし出す。兄が壁を蹴るとしばらくはおとなしくなる。その間に寝てしまうと気にならないが、寝られないと結構いつまでもケンカをしていた。
 兄が仕事から帰ってくると、まず銭湯に行こうという事になる。歩いて10分くらいのところに小さな銭湯があった。労働者風のおじさんたちが入れ代わり立ち代わり入っていく。なかなかの盛況という風で、ちょっと怖い感じだった。
 ここでまた驚いたことに、シャンプー代が別だったことだ。兄はちゃんとシャンプーと石鹸を持ってきていて、それで歩く時にカタカタと音がしていた。まるで流行歌の神田川だが、そういう事だったのか、と驚いたわけだ。それにしても大阪というところはセコイものだな、と思ったし、シャンプー代を払わなくても、一人300円近い値段だったように思う。当然兄が料金を払うのだが、なんとなく散財させているような気分になって、申し訳なかった。ふだんはそんなにゆっくり風呂などつからないが、もったいないので出来るだけゆっくりしようとも思った。しかし怖いおじさんや兄さんたちがザブザブ入ってくるので、気分的には怯えていた。風呂の中ではあまり会話をする人は無くて、黙々と風呂を使っているという感じだった。脱衣場には刺青お断りと書いてあったのに、刺青をしているお兄さんもいた。恐ろしい世界だなあ、と思った。
 脱衣場も狭いもので、着替えるとすぐにでなければならないという雰囲気だった。コーヒー牛乳は売っていたと思うが、そういうのをごくごくする気分にはなれなかった。兄が着替え終わっていることに気づいて、ちょっと慌てて服を着て外に出る。外に出るとずいぶんホッとしたものだ。
 駅の側のハンバーガーでも食おうかといわれてさらに歩いて、確かドムドムという店でハンバーガーを食べた。その間ずっと銭湯でのことを話していたように思う。たぶん兄もそんな銭湯を見せたかったのではなかったかと思う。怖い体験だったけれど、その怖い体験を話すのがものすごく盛り上がるのだった。
 翌日も行くことになるのだが、怖くて行きたくないような、また怖いもの見たさの楽しさがあるような、不思議な毎日の銭湯体験だった。おそらく今はもう無いだろうあの銭湯だけど、やっぱりもう一度行ってみたいものである。
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銭湯の思い出(その1)

2018-12-17 | 感涙記

 子供のころにはあったが、今は無くなってしまったものに銭湯がある。厳密に言って田舎のまちでは、子供のころにも既にほとんど廃れていたものだった。何しろ風呂なしのアパートのようなものが、そもそも田舎には少ない。家に風呂がある人が、わざわざ銭湯にはいかないだろう。また、別府のように温泉が湧くようなところなら、共同浴場的に銭湯に行く場合があるかもしれないが、温泉で無い銭湯にわざわざ行くような人は、そうそういないのではないか。ある程度の人口を擁するまちには銭湯が残る余地もあるかもしれないが、田舎ではちょっと難しそうである。
 という訳で、銭湯というのは、どうしても子供頃の思い出である。家に風呂が無かった訳では無いから、何かの事情があって親と一緒に銭湯に行った覚えがあるという事だ。
 僕の小さい頃には借家暮らしだったことはあるらしいが、物心ついたときにはたぶん自宅は持ち家だった。ただし、何度も改築した覚えがある。僕のきょうだいは6人いるので、そういうライフスタイルの変化に伴い、改築をしたのではないかと思われる。また、ガスで沸かすタイプの風呂だったのだが、時々これが壊れた。記憶があいまいだけれど、空焚きをしてしまって壊れたこともあったように思う。火事にならなくて幸いだったけれど、そういうときには仕方ないので銭湯に行くという事になった。僕は風呂嫌いのところがあったのだが、この銭湯に行くというのが、とても楽しかったという覚えがある。家族みんなでそれぞれに手ぬぐいというかタオルを持って、どやどやと父の車に乗って銭湯に行く。何かとても興奮するようなイベントだったのである。
 田舎の銭湯なので、そんなに広い風呂では無かったが、当然家の風呂より広い。声も響いて面白いし、風呂で泳ぐという事もした。というか、ほとんど銭湯では泳いでいた記憶しかない。泳ぐと言っても顔をつけてバシャバシャする程度だけど。怒られた記憶は不思議になくて、当時の大人たちは寛大だったのではないか。むしろ僕らが入っていくと、泳いでみろと言われたような気もする。バシャバシャと温かい温水ピールで泳いではしゃいで、本当にあっという間の楽しいひと時だった。
 ごくたまにだけど知り合いの子が居たりもした。学校で会話をするような子では無かったのに、翌日から話をしたりするようになった。それから親友になるということは無かったが、なんとなく仲間になったというか、風呂の縁で友達になったのだった。
 風呂が壊れて父はめんどくさいというようなことを言っていたようだが、僕ら子供にとっては大変に良いことだった。ずっと壊れたままでも良かったのにな、と思っていた。
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トッケイと鳴く

2018-09-28 | 感涙記

 トッケイヤモリという巨大ヤモリがいる。東南アジア原産で大きいものは35センチあまりもある。結構獰猛で、昆虫以外にネズミなども食べる。体が大きいので蛇などに襲われても呑み込まれなくて、その後逆襲している映像も見た。でもさすがに猫には襲われていた。しっぽを切って逃げていたが。
 名前の由来は、本当にトッケイ、トッケイと鳴くかららしい。求愛の為鳴く様で、かなり遠くまで声が聞こえる。家の害虫を取って食うので、東南アジアの家の多くは、共存している。
 さらにこのヤモリの面白いのは、卵を産んだ後にも、卵を守るような行動をとるらしいことだ。さらに小さいうちは共存して暮らすらしい。もっとも他の個体であれば、構わず取って食うようなこともする。爬虫類で子育てをするような事が分かれば、大発見かもしれない。
 さらに驚くのは、日本などではペットとして人気があるらしいことだ。獰猛で咬むにもかかわらず、さらに馴れるようなことも無いだろうにかかわらずである。割合安価で売られているようだから、逃げ出して生息しているのもいるのかもしれない。もっとも寒さには弱そうなので、外では日本の冬は越せないかもしれないが。
 デカい上に薄青い体に紫の斑点があってかなり不気味であるが、これがかわいいという事なんだろうか。まあ、好きずきではある。飼われていれば、詳しい生態がまた分かるようになるかもしれない。環境によって暮らし向きは違うかもしれないのだが。
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酷いとは思うが、面白いのでつい見てしまうもの

2018-08-17 | 感涙記

 高校野球は感動産業と言われる。そのように揶揄して言われるほど、日本人の多くはそのような視線で、高校野球を見ているのではないか。何か特殊な出来事としてそのように考えている人も多いように思える。その理由は既に終戦に関する本の書評で明らかにしたので繰り返さないが、球児というのは、そういう意味では気の毒という気はしている。
 そもそも野球というスポーツは、興業のためにあみ出されたものであるから、観ていて面白いというのはある。本来はピッチャーを替えて毎日やるのが目的だが(だからメジャーなどのプロはそうしている)、高校の事情によっては、いいピッチャー過ぎるのがいると連投させることになる。それでも勝てるようなことがあるので、本人も意思としては望んではいるとはいえ、無理をして将来的には困るようなことが頻繁に起こってしまう。プロの世界で長く活躍する投手というのは、実は控えの選手が少なくない。又は選手層が厚く二枚看板などができるチーム出身者でなければ、なかなか怪我なしでやっていくのは大変なんだそうだ。産業なのだから犠牲になって仕方がない。皆がそう思っているので、これまではそうやって来た。もちろんそれではダメだと考えている指導者は多いが、やはり勝負のためには仕方ないとも考えてもいるだろう。そのチャンスが巡ってくるのは、そうとうに容易なことではないからだ。
 甲子園に行くことが、すでに大きなチャンスをつかんだと考えているところも多いだろう。全国制覇するような力というのは、さらに容易では無い。相当の素材をもって、さらにそうとうに鍛える必要がある。ときどき調子に乗る高校も無いではないが、完全にまぐれだけで勝てるような場ではなさそうである。もちろんボールゲームだから、運の作用はぬぐえないけれど。
 この間テレビを見ていて驚いたのは、いまだに甲子園の土を必死で持ち帰っている人たちがいたことだ。そういう習慣があるらしいことは聞いたことはあるが、現代人の若者が、いまだにそんなことをやっている。そうしてそのような選手を、必死でフラッシュをたいてカメラにおさめている集団がいる。泥棒現場なのに誰も咎めない。
 もちろんその気持ちを多くの人が理解しているからこそ、大目に見ている訳だ。僕はそのことが大変に良くないと素直に思う。ゴミを拾って帰るのなら偉いと思うが、たとえ土であっても必死にもって帰るべきでは無い。そもそも教育上非常によくないことだ。もともと高校野球は、教育的には問題が多いものではあるが…。
 甲子園の土と同じものは、実は通販でも買えるらしい。商売ならいいと思うが、やはり欲しがる連鎖あってのものだろう。そうすると甲子園で主に負けた選手たちの行為は、そのような販売への購入意欲をかき立てるものだともいえる。宣伝効果である。面白い現象だから、甲子園に行った貴重な体験の人に対して、甲子園の土を見せて欲しいと考える人もいるに違いない。せっかくだから正直言って僕も見たいかもしれないが、まあ、泥棒であることには変わりない(実は甲子園は、持ち帰りを許可しているらしい。もちろん結果的にそうしているという事かもしれないが)。この時期になると、つくづく妙な国に生まれたものだな、と思うのであった。
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