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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

開催そのものは政争なんだろうか

2021-05-17 | 時事

 東京オリンピックは開催するべきか?
 みなさん、どう感じてますか? 正直に言って僕にはその設問自体がよくわからないのですが、まあ、要するに政策のネタになってしまっているというのは、分かるようになって来たかな、という感じですか。原因はほかでもなく新型コロナの状況という事なんだろうけど、そんなの古くて新しいので、今になって盛り上がりつつある方がどうかしてるのはあると思う。いったん延期になった経緯もあるんだけど、そのせいで今回も盛り上がってるんだろう。懲りない人というのはいつまでもいるんであります。
 だから結果はどうなるか、なんてことは僕にわかりようがない。僕は世論の多数であることはあり得ないのだから。だからこそ、この問題の犠牲になる人も多いわけで、そのことについては胸が痛む思いだ。中止になるのは勢いだろうけど、そのために死ぬ人たちのことを思うと気の毒だ。選手だけでなく、頑張っている人の多くの身体や精神を激しく攻撃していることに変わりはないだろう。人道的に酷い人たちは、ものすごく卑劣な思想で選手にまでボイコットを要求したりしている。人間として非道すぎるいじめだけど、これを制したりすることもできない倫理観のない報道姿勢もある。この世は地獄なのかもしれない。
 という事はあるが、そのような強烈な圧力がありながら、なぜ今開催について中止の判断がなされないのか、というのは明白である。開催されるように準備をしてきて、そうして実際に開催される可能性が残されているからである。実に当たり前だが、実際は現段階であろうとも、開催されるだろうことの現実性のほうがはるかに高いのである。
 さらに開催される場所である東京であるとか日本であるが、開催を決定する権限をそもそも持っているかは疑わしい。それはその大会を運営しているオリンピックの問題である。開催地の東京が開催を返上するというオプションを行使するはずだと、小池さんの側は考えているようなことを言われるが、それは結構ガセっぽい。圧力はかけても実行しないのが彼女らの戦略だからである。しかし、日本政府がそう判断するのかというのは、さらに疑わしい。なぜならこれはチキンレースであって、判断を先にした方がオリンピックによって損失を被る人々に賠償をしなくてはならない問題が残っているからだ。オリンピック委員会の方は保険に入っているので関係がないという事を言う人もいるが、そもそも保険で賄えないレベルであることは既に指摘されている。先にもう開催は無理だ、と言った方が負けになるレースに突入にしている。
 要するに、もう判断の決済が行われるリミットは過ぎている可能性のほうが高い。いや、これから何かがあるというのは考えられないことは無いが、事態は動いており、今の圧力は変化するだろう。それでも中止にするという判断をする人が政治にいるとすると、それはおそらく破滅の道を示す人である。それを支持する人は……。まあいいが、おそらくそれは長い目で見てそんなことをしたなんてこと自体を、その時世で知らん顔することに平気な人だろう。
 そういうのをあと一か月くらい見物することになるのかな、という感じか。時代は変化する。さて、世間は梅雨で、湿度と感染は関係するらしいのだが……。
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革新は守ることで、保守は変えること、だったっけ

2021-05-13 | 時事

 今年は憲法談義というのがそんなに盛り上がらなかったという感じがあった。そんなことよりコロナ対策、などということを言う人もいた。まったく戦時中じゃあるまいし。いや、彼らにとっては旧日本軍なんだろうけど。
 しかしながら、改めて憲法改正というのは、非常に日本人にとってはハードルが高い問題だということには変わりはない。いろいろと議論あることだけれど、そもそも変えることができないのであるから、内容以前の問題になりつつある。そうして内容が関係なくなっても,変える変えないだけでこんがらがっている。変えようと思っている人がすべて好戦的で今すぐにでも戦争を起こそうと考えているということを言う人もいるし、じゃあ変えない人はハト派なのかというとそんなことはなくて、護憲のためなら人を殺してもいいような勢いだ。実際そういう懸念があるから憲法を変えようという人もいて、まったく目的が同じなのに正反対のことになるということになる。要するに憲法論議自体が不毛なのだ。
 憲法の問題は、本来はいろいろあるはずなんだが、要するに9条ということになる。これが平和につながっているという思いのある人と、これが危険だと考えている人に、大まかには分かれていると、ざっくり区分できるかもしれない。それは乱暴であるという意見は(僕は本来はそういう意見の人だけど)、いったん保留しておく。
 これがそもそも問題であるのは、その検証が不可能だからだと思われる。確かに先の戦争以後、日本は具体的には戦争はしていない。これをもって9条のおかげだという一つの論証があるとされる。しかしながら、これは日米の関係とセットであることが隠されている。非常に好戦的な国である米国の庇護があって、しかし日本はカタチ上は戦争しないもんね、ということで、表面的には参戦していないように見せかけてはいる。一方ではそれこそが危険なのだ、ということになる。これは9条が関係しているようでいて、まったく関係していない問題である。それに単なる時間的な偶然である可能性も残されているわけで、そもそも現代社会において本当に戦争までやりたい国なんてものはほとんどない訳で、日本とドンパチやろうなんて言う理由そのものが、あんまりなかったというのもあるかもしれない。あの北朝鮮だって、本心では戦争する気なんて無いと思う。実際に戦争になると困るからこそ、いつでもやってやる、といえるのだ。どっちにしろ困ったことだけど。いやいや、中国は戦争したがってるぞ、という意見もありそうだが、もちろん日本とだけやれば勝てる可能性があるけれど、日米なんだからめんどくさいな、のはずである。ロシヤだってもう一緒に戦ってくれないかもしれないし、事が大きくなりすぎて収拾がつかなくなることくらい、やる前から明確にわかっているはずなのだ。
 ということになると、これはほとんど観念的な問題になっている。日本国憲法というもの自体には、9条だけでなく、憲法として問題が多いということは、誰もが認めていることだと思う。日本の政治をつかさどっている肝心の内閣の規定も明確でないし、人権の問題も古くなっていてあんまり通用しない。そもそも書かれていることが短すぎて、規定として網羅的ですらない。だから解釈がまかり通っていて、憲法自体が蹂躙されているということもいわれている。守るための決まりごとが書いてあるはずなのに、書いてあることを守らないように解釈できると考えて使われていることが多いようにも見受けられる。そうしてその解釈の専門家でさえも、統一的に明確な共通の解釈が難しくなっている。そうなってくると、すでに現実がこの憲法によってどのようなことになってしまったのかということ自体が、なんだかよく分からないのである。
 ということのはずなんだが、もうそんなことは現実の方が動いているのだから、関係ないと思っている人も多いと思う。いっそのこと憲法は廃棄したとしても、もう誰も気づかないのではないか。もっとも憲法はコーランや聖書ではない。アメリカが作ったものかもしれないが、要するに人間の言葉である。そういうあやふやさというものが日本の文化だというのであれば、それでいいのだろうか。結局いまだに村の長老たちが、あれこれ議論したものを仕方なく受け入れている村民というのが、この国のあり方なんだろう。
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面白いことを言うと怒られるのだろうか

2021-04-27 | 時事

 イギリスのアカデミー賞の助演女優賞を受賞したというユン・ヨジョンと言う韓国人の女優のインタビューで 「お高くとまった人々として知られている英国人に認められとてもうれしい」というような内容の発言をしたという新聞記事を読んだ。家で購読してるのは毎日新聞で、その文には続けて「私は何か間違えたと思う」として、ユンさんはのちにこの発言について謝罪、したらしいことが書いてあった。なかなか面白いユーモアのある事を言って、しかしそのことが英国内で批判されたのかもしれないと読んで思った。
 後日ネットで、同じことを報じる記事を読んだ。ところがそこでは、ユンさんのインタビューのこのユーモアは、絶賛されていた。少なくとも謝罪したなどということは一切書かれておらず、このユーモアのあるスピーチは、他の作品で賞を受賞した監督などからも支持をされたようなことが書いてあった。
 二つの記事を読む限りは、真相は全くわからないし、一体どうしてそういうことが起こったのか、ちょっと考えにくい。少なくともこの発言には、注目が集まったらしいことが見て取れる。そしてその後も何かあの発言がどうだったかというようなことも、話題にはなったかもしれないとは思われる。
 はっきりしているのは、いや、ちゃんとはっきりはしていないが、毎日新聞の方には、韓国女優に対する悪意があるのに対して、他のニュースではそれがないということだ。それは韓国だからそうなのか、そこまで言えるかはわからない。少なくともアジアでない人がこのような発言をしたとしたら、何の批判の対象にもならないだろう。そんな気もする。そもそも英語でこれだけのスピーチができるというのは、日本人には少ない。台本にあるのなら別だが……。 何しろユンさんは英国で学んだ経験もあるらしく、それだけこの韓国人の女優さんには、英国文化を理解したうえで発言されていたらしいことも分かる。
 しかしながらお国批判というのは、それなりにむつかしいというのは分かる。自国民が自分の国を皮肉っていうのは比較的いいのだが、それ以外はあんがい厳しかったりする。アメリカや中国が相手国を何か言うのとは、ちょっとニュアンスが違ったりする。でもまあ韓国と英国である。そこのところは、どうなんだろう。
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トランプさん旗色悪くなったなあ

2020-11-08 | 時事

 事実上バイデンの勝利のようだが、混乱はしばらく続く様子だ。アメリカ大統領選というのは、遠くの日本から見ている分には面白おかしいイベントだが、わかりにくいうえに不合理なものである。単純に得票数で争えばいいものを、各州の総取り合戦のようなことをやっていて、しならない人には意味不明だ。そういうのは後進国アメリカの生の姿でもあり滑稽な茶番なのかもしれない。もっとも都市部のカルフォルニアとかニューヨークなどは、誰が出ても民主党の代表が勝つことが明白で、そういう基礎的な票が100くらいある民主党のあり方に反発する民意が、田舎の反逆として共和党を支えている背景がある。だから見た目にはクレイジーだけど、アメリカ全体の民意を表しているのはトランプのようなアメリカ感情主義のような田舎臭さにあるわけで、彼らは実際には純粋には虐げられた民意に近い感情を素直に投影しているに過ぎない。これは日本の日本人の誇りが一番だというようなものをアメリカに置き換えたようなものであって、少しは愚かな感じもないではないが、素直で純粋さのある民意である。それを悪意をもってあおっているのはマスコミであって、多くの人は別段クレイジーなのではない。
 もっともバイデンが大統領になったからといって、すぐに何かが変わるわけではない。イメージとしてトランプのような面白さが見えなくなるだけのことで、大変な中でのらりくらりやるだけのことだろう。なお年齢から考えると四年後以降もそんなに簡単なわけでもないわけで、ほんとに頑張ってもらわないと困るわけである。日本ではうまく検証できていない問題があるように思うが、オバマ大統領時代の宿題が世界の混迷を深めたというアメリカ世論があるわけで、また先送り問題を四年間で積み上げるようなことになると、日本にとってもそれなりに変な影響を受けることになるのかもしれない。隣国に深刻な問題を抱えている地政学的な立場が山積で、なおかつ自国だけで解決ができない日本のジレンマが表面化するかもしれない。一応財政出動はしばらくじゃぶじゃぶなんで景気がよさそうな塩梅になっているけれど、どこで転換点が出てくるかという薄氷の上を歩いているようなものなのかもしれない。
 さてさて、そういうわけで、もう先を歩いていくよりないが、それでも日本は首相を日本人の民意として投票で決めることができない国である。そういうことも、考えて欲しいなあ、と個人的には思うところである。
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次に切り替えるよりない(僕も)

2020-11-03 | 時事

 改めて大阪都構造の住民投票の否決は、残念だったという印象。僕はほとんど維新の会にはシンパシーは感じていないが(何しろ住人ではないし、知事のコロナ対策の発言には感心しない)、今回の結果をもって、維新の会の在り方自体が大きく変わりそうだ。それに大阪都構造はやるべきことが満載で、大いに期待できた。それが、大阪市が無くなることで、住民サービスが低下するとされる一連のデマでつぶされたというのが、やっぱりテロに弱い、住民の考える能力が足りないことが露呈して否決された形だ。大阪や他の都市の住人の頭の質がそう変わらないことは間違いないので、結局は日本人の愚かさがよく分かる結果だったということだろう。
 そもそもは、大阪市の職員の給与だけが突出して高かったり、行政サービスがコストのわりに悪い、という話だったのだ。今回の結果は、そういう部分を容認する、という意味なので、住民は我慢して高い税金を納めるようにさせられたわけである。愚か者の選択とはいえ、残念である。それにこの結果に喜んでいるんだから、救いようのない何とかである。
 とまあ、いつの間にかここまで書いていて、ふと、なんでこんな文章になったのだろう、と思った。一つはこのニュースを見て、大阪に同情してしまったというのがあるのだが、やはりこの結果を市民がどう受け止めているのか、というインタビューを見たせいも大きいかもしれない。反対が僅差とはいえ上回ったのだから当然だが、大阪市が無くならなくてよかったとか、住民サービスが守られてよかったとか、賛成派でも改革は進むのだからよいだとかいうコメントだった。いったい彼らは何を血迷っているのだ、という感じだろうか。ある野党議員は、コロナ禍に住民投票をするという愚行を批判していた。それって何の関係もない感想である。まあ、彼らには何もできないのだから、そう言うのだろう。
 要するに、そんな茶番をみせられて血が上ってしまったというのが真相だろう。我ながら馬鹿げているが、それが人間というものだ。結果として取り返しのつかない愚行が歴史として残ったというだけのことである。それはこれまでの政治とそう違うものではない。大阪がダメなら他もダメだという象徴的な出来事に思えてしまったのもいけなかった。他では上手くいくことだってあるかもしれないのだし。
 そもそもこの大阪都構想に、いったい何を僕は期待していたのだろうか。何か、このことで、未来的な希望を感じていたことも確かだろう。実際に知事と市長という行政上のトップを独占しながら、改革が道半ばで、今の制度の上でやっていくことには限界があるということが明確だからこそ、この構想を再度持ち出して、勝負をかけたのだ。大阪の住民がそのことを分からなかった筈は無かろう、と思っていたわけだ。結果的には分かっていなかったみたいだし、理解もしていなかった。もっとも既得権益が、一生懸命デマを流して抵抗した成果が出たわけで、それも左翼的なマスコミが加担さえした。一部間違いを認めたところもあったそうだが、流れはそのままであったようだ。分からないのなら、ちゃんと勉強したうえで、ふざけ半分に批判してはならない。残念ながら、そういうことに流される人がいるのだから。
 おっと、まだまだ熱は冷めないようである。もうこれは、切り替えるよりないが、分かっている人が皆無なのではない。何しろ票は拮抗していたわけで、既得権益が、これでやり放題になったということでもない。どちらもやりにくくなったということもできるわけで、それくらいは、ましである。そうして、この議論はまだ終わることは無いだろう。そうしてまた、出る人が出てきて頑張ればいいのだ。まあ、それも他力本願だけれど、政治なんだから仕方ないのである。
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政治のことは、嫌な気分にさせられるのか

2020-11-02 | 時事

 大統領選出の陣営のやり方については、おそらくものすごい批判の応酬なんだろうけど、それよりも何よりも、やっぱり一般人たちの方のやり取りの方が凄いことになっているらしくて、ほんとに反対陣営同志路上で喧嘩したりしている。向こうでは玄関や車なんかに陣営のマークなんかつけて応援していたりするんだけど、そういうのが嫌な人は、嫌がらせしたりしないんだろうか。お隣は共和党だから、ゴミでも捨てとけってな喧嘩も起こるのではないか。対決姿勢を明確化して単純にして、賛成反対をやりあって、ドン、と数で決めちゃうという政治スタイルだからこうなっている訳で、一時期は英米などのこのようなスタイル確立こそ民主主義の形であるという議論があって、日本も本気で二大政党制を作ろうという機運が高まったが、結果的に有権者の多くは、あっち行ったりこっち行ったりする人たちの方が多数派なので、極端な方に人が集まりすぎて、一大政党でも成り立つような形になってしまった。将来がどうなるかまでは分からないが、どっちの陣営であろうと、ある程度の連立を組んで、それなりの期間を安定化させるような形に今後もなりそうな塩梅である。考えてみるとヨーロッパや、その他の一定多数ともいえる国々は、連立政権が当たり前なのであって、日本は近視眼的に英米だけを見て世界の民主主義だと勘違いしただけのことだったかもしれない。
 さて、そういうことではあるんだが、いわゆるミュージシャンとか、芸術家であるとか文芸の世界などの人たちが、政治的な発言をするべきではない、という機運というものが、漠然と日本の方が強い気がする。要するに人気稼業なんで、政治的なスタイルがあるからその作品が愛されているわけではない。好きな作家などが嫌いな政党を支持していたりすると、ファンとしては複雑な気分にならざるを得ない。まあ、それはそうだが、いわゆるアーティストの性格が良いとかいうような問題は、生活を共にしていない他人であるファンとしては、本来は何の関係もない。まあ、政治的な発言は、少なからぬ生活に影響が及ぶ場合もあるから、特に嫌な気分にならざるを得ないということはあるが、それでファンをやめてしまうというのなら、それはそれで仕方がないことだ。
 というのも、アメリカなどのミュージシャンやロックスターというのは、本当にそういう人たちがごまんといて、口々にそれぞれ政治的な発言をバンバンやっている。このあいだ何かの雑誌でインタビューがあって、インタビュアーがちょっとその人の支持政党とは別の意見をにおわせただけで、お前は考えが狂っているとか猛烈に反論しだしたりしておかしかった。内容はどうでもよくて、反骨精神として保守的なものは全部クソみたいなものだということらしい。まあはっきり言って頭のよさそうな人ではそもそも違うだろうし、バカだって美しい曲はかけるのだという若者への希望にはなるかもしれない(ならないかもしれないが)。そういうのはやはり有名だから、それなり影響力がありそうだから、煙たい気分になるのかもしれないが、しかし政治のことを考えていけないことは無いわけだし、基本的には制限できる類いのものではないが、やっぱり一定の賢さのようなものが求められて、そういう話になっているのかもしれない。本来はもっと大声で言いたいと思っている人が、口をつぐんでいるかもしれない。そういう風に考えると、誰も政治的な発言をしないという空気に従っているかもしれない日本の芸能の在り方というのは、やっぱりちょっと妙な圧力社会の表れである可能性もある。そうするとちょっとした発言であってもかえって目立ってしまって、変な風に叩かれたりしてしまいそうだ。英米社会はクレイジーだけど、日本のそれはホラーなのかもしれない。
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お酒の税金だから言ってるんじゃないよ!

2020-10-02 | 時事

 10月から酒税などがちょっと変わった。特に第三のビールが値上がりして、逆にビールの方が値下げとなったことで、まあ、その方面の調整がなされたということは誰にでもわかる。ビールに関する税金のかかり方には、もともと不公平感はあるわけで、それもかなり日本の特殊事情であることが批判の対象でもある。しかしながら、いくらやってもすでに手遅れになっていて、そのあたりを微調整してやりくりしているということなのだろうと思われる。
 もともとの話からすると、昭和の初めころにすると、舶来ものである上に冷やして飲むビールというのは、いわゆる超高級品であって、大衆の飲み物ではないという理由で高い税率が課されていたという事情がある。酒税にかかる税金というのは、だいたいどこの国であろうと、アルコール度数に対して課金するのがふつうだ。日本のようにアルコール度数の少ないビールの方が焼酎などより税率が高いなどというのは、ちょっと理屈が通らないからだ。しかし高級品であって、一般大衆の手の届かないのであれば、いわばステータスとして高い税率でも、そもそもお金持ちが贅沢に納めているのであるから、当然、という気風があったのかもしれない。そうして戦争を経て、復興の時代となっていく。
 しかしながらである。これは日本だけの特殊な時代の特殊な考え方であったので(要するに安易に税金を取るための方便)、もともと大衆的な飲み物であるビールは、高度成長とともに、当たり前のように大衆化する。そうしていびつな税率の形が、どんどん表面化していくことになる。そうして販売価格の3分の1が税金である大衆酒が、一番飲まれて国家に税金を吸い取られていく。お金持ちでなく貧乏人からも、容赦なく税金をむしるような構図である(まあ、金持ちだからとか貧乏人だからという括りは、かえって不公平でもあるんだけれど、ここは戯曲化して理解してください)。悪い言葉で言えば大衆が搾取され続けているような状態になっていく。
 いい加減これはおかしいのではないか(これは酒造メーカーはずっと訴え続けていたことである)という話になるのだが、実はビール製造側にも、少しばかり事情があることが分かってくる。そもそもの話、ビールというお酒の定義は何であるか、というのがあいまいだったのだ。ビールというのは香りづけのホップを除いて、麦芽を主たる原料として、コーンスターチとかでんぷんなどの副原料を、ふつうは使用しない。というかビールを作っている欧州の主要国では、そこのあたりは厳密のようで、麦芽使用(ホップを除いて)100%でなければビールとして認めない、という国だってあるようだ。
 しかしそもそも日本のビールは、副原料が入っていようと、ふつうにビールとして販売していた経緯がある。そこのところを厳密にして、副原料がどの程度であるかで課税を仕切るということにしたのである。そもそも麦芽を100%のビールが高級品という定義をしたようなものだ。そうするとメーカーはまたしても頭をひねって工夫するようになる。副原料を増やした(麦芽比率を下げるともいう)うえで税率を抑え、ビール風味の発泡酒の開発である。最初はそれなりの味で安いビールという感じであったが、すぐに技術改革が進み、発泡酒だからこそ旨い、というようなものまで生まれてくるようになった。そうすると節約のために飲んでいたというより、ビールと変わらず満足して消費も上がる。ということは税収が下がる。それでは麦芽比率の区分をまた改正して、麦芽比率が低くても税金をかけるようになる。すると今度は、そもそも麦芽自体を使用しない、すでにビールではそもそも違いながら、ビール風味の次世代ビール(第三のビールなどといわれる)のようなモノ的な商品が出て、これもまた技術改革が進んで、またうまくなったりしてビールでなくともビールとして楽しめるようなことになって、じゃあそれも課税しなければ、ということになった結果の調整であるとか歪さが更に増したというか、それが今回の改正なのである。お役人さんもある意味で苦労しているとはいえるのかもしれないが、いえいえ安易すぎたせいだともいえるのが、このような顛末で、しかしそれに答えるような製造メイカーの努力の結晶があって、世界的にもものすごく変わった市場を形成するガラパゴス的な進化を遂げた変遷の歴史なのである。
 しかし本当に言いたいことはこれからで、税金というのは簡素化してもう少し明確に根拠の分かるものすべきだ、と基本的には思う。税金を取ることにかまけて、ましてや比較的批判を受けにくい酒税であるという影の理由がありながら、それを国民的な議論の俎上にろくに上げることなく、自分本位の操作ばかりやるので、このようになってしまうのだ。また、こういう特殊な税金こそ、ある意味で特殊であるからこそ、様々な利権が生まれやすくもなる。そういう意識がなかったとカマトトぶって考えるにしても、水面下で取引があっただろうことは安易に想像される。表面に出ることは怖くていじれない代わりに、こういうことは何回でもやるというのが、そもそもの疑わしい根拠でもある。マスコミは大衆的に右往左往する姿を面白おかしく映せばそれでいいと思っているのかもしれないが、これによって苦しんでいる人というのは、本当の意味では水面下の人々だろう。このような改正は、公平性の観点からは、大いに疑問を残すものである。奇妙な面白い商品を生み出すことにはなるかもしれないが、本格的にどのような社会でも通用するような商品が、生まれることを阻害しているに過ぎないのではないか。日本の規制改革の問題点の一部も、このような考え方があるのだということを、考えてみるべきであろう。
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相撲と一緒で立ち合い勝負だったのかも

2020-09-19 | 時事

 菅政権になったことで、報道の量が政治部に限らずかなり分厚く取り上げられるようになった。関心が高まったことと、それなりに未知数(まだ始まりの始まりだし)なことで、いろいろ書きやすいというのはあるのだろう。おおむね安倍政権時代の継承とはみられるが、それが何なのか、菅色というものがあるとすれば、それが何かを探りたいということかもしれない。
 今回の菅総裁になるまでのドキュメントを見たのだが、安倍さんの辞任という直後に、ほんとに早い段階で菅さんが動いていた様子が明らかになっている。報道で総裁選に誰が出るのか、という議論になっている際中には、ほぼ菅さんの動きで勝負が決していたことが見て取れた。先手必勝というか、派閥に属さない菅さんが、政権の中枢にいて次は誰かという様々な思惑のある中にあって、いち早く決断し動いたことにより、それぞれの派閥の首領が、すぐに反応したと見て取れる。総裁選への出馬の意欲のあった人々が、あっけにとられる中、結局断念せざるを得なかった様子も見て取れた。岸田さんは、それでも少しの希望があった様子だが、すぐに形勢が不利だと理解はしたようだ。しかしながら、すでにもう引けなくなっている。その中で戦うという選択をあえて行い、苦悩しながら次を考えて戦ったということだろう。急に論調が抽象的な言動に変化し、細かい政策も語らなくなってしまった。石破さんも、地方にかける気持ちはあっただろうが、そもそも反安倍色を強く出し続けていて反発も強い。これも負けるにしても次だと舵を切り続けていたということだろう。結果はともに厳しく、特に石破さんは次点も取れなかったダメージが大きくなった。政治の恐ろしさが身に染みたのではあるまいか。
 しかしながらドキュメンタリーではとらえきれていない裏をさらに考えると、派閥の首領がそれぞれに誰にするかを決める基準だったのは(岸田さんと石破さんを除いてということだが)、組閣人事のことだっただろうし、その前に安倍首相の考えを汲んだというのがあるはずである。直接安倍さんが動いた様子は分からないように見えて、しかしこれは辞任前に複数の人に話をしていたはずで、電撃的な辞任の前に、安倍首相の後継人事に関する考えがあったはずだ。すでに早く決断したはずの菅さんも語っている言葉に、出来ればやりたくなかったが、自分がやらなければという後押しがあったために決断したようなことを言っている訳で、短い間に勝負が決したのは間違いないとしても、やはりその前の前に流れを決める動きがあったと見るべきであろう。
 こういう組織内の風というものは、その流れを理解させることと、目の前よりちょっと先までの予想と期待だろう。そういうものをいち早く動かすことができる素地を持っていたのが菅さんだったことは間違いなくて、なかなかにしたたかであることも見て取れる。若手議員が論戦で選択すべきだったなどとこのさなかに憂慮を語っていたが、彼らがいかに寝ぼけているのかというのが、象徴的に分かる総裁選劇だったのではないだろうか。
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孤独な立身出世のリーダーの誕生

2020-09-15 | 時事

 これを書いている時点ではまだ決まっていないが、事実上菅さんが自民党の新総裁となる(追伸:ということで、その後ちゃんと菅総裁が選ばれた。たくさんニュースが飛び込んできて、大変な騒ぎですね。あたりまえか)。漢字だけを見ると、なかなか読みにくい名前の人だが(発音を知らないと、初見では発音がためらわれる)、今後はすぐになじみの名前となることだろう。菅官房長官として、頻繁に顔は見せていたが、ヨシヒデという名前も含めて、さらに一般的になることだろう。
 まずは期待も込めてということもあって、少しくらいのあいだは様子を見てという風潮が続くものとは思われる。しかしすぐに組閣をするにしても、焦点はやはりまずは選挙である。一応様子見をしている感じでありながら、これは本当に時を待たずに動く可能性がある。16日以降、それがいつか、という日が続くことになる。もしもやらないということになると、それはそれでじわじわ圧力がかかるはずだ。今やれば確実に勝てるという数字が出ているようで、そうして菅権力を確固たるものにするという期待もあって、決断をするのではないかと考えられる。しなくても強いのに、そういう選択ができるという、非常に有利なスタートを切れるということが言えるだろう。任期はとりあえず短いが、その後も続けてやることは十分に可能だ。そうして、それなりに長期でやれる素地が揃っていると考えていいだろう。
 一般的に言われているように、親が議員でないうえに、地方の市議会議員から順に当選を重ね、いわゆるたたき上げで昇りつめた総裁であり、さらに派閥にも所属していないという極めて異例の立身出世を果たした。日本のようなムラの集まりの社会にあって、さらに権力闘争のそのものである政治の世界にあって、このような人が出てくることがあるとは、誰も想像できなかったのではないかと思う。それだけ実力と運をもっているとも言え、まるで漫画のような人ともいえるかもしれない(漫画で描けば逆にリアリティがないといわれるだろう)。そういう意味では、サクセス・ストーリーとして、日本社会の希望の持てるモデル・アイコンになれるかもしれない。まあ、雰囲気としては、あんまりそれっぽくも無いわけだが……。
 しかし、菅さん本人は、いわゆるあまり派手さのない人物のようにも見える。あまり余分なことも言わないが、その分何を考えているかというのも、読みにくい人物だ。憶測で様々なことを言われる可能性も高いが、しかしそういうことにもあまり過剰に反応もしないようにも見える。そこが強みでもありはするが、誤解も招く恐れもあるのではないか。それでも辛抱強くやれるという話もあるが(いわゆる分かっているから)、日本の社会のトップは、ただでさえ足を引っ張られてなんぼの世界である。強さが出るとすぐに騒がれるわけで、いったいどうするのか、注視が必要だろう。担ぎ上げている人たちも、信用が置けるわけではない。きわめて孤独なリーダーの誕生といえるかもしれない。そういう重圧に屈しない人であるか、まるで気にしない人であるか、話を聞いてみたい気もする。まあ、それすら安易に語ってはくれそうも無いのだけれど。
 とにかく菅さんは実務の人ともいわれている。酒もタバコもやらないらしく、早起きして散歩するらしい。腹筋も100回くらいするらしい。冗談もあまり言わないともいう。そうやってコツコツ日々を過ごしておられるのだろうか。しかし、いつの間にかそういう具合に実績が積みあがっていくような、そんな感じに物事が進んでくれるといいですね。
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自分がやっていることは、相手だってやっている

2020-09-01 | 時事

 TikTokというアプリがあることは、興味がなかったので長らく知らなかった。知人も時々出るというので見たのがきっかけで知ったが(しかし知人は出ない。何か順番があるんだろうか)、短い動画が次々に出てくる。多くは可愛らしい女の子が踊るようなものが多いけれど、何か顔が不自然で、修正できるということなのかもしれない。海外のものも結構多くて、ロシヤや香港あたりのものは、コント仕立てのものが多い。日本はダンス、アメリカは曲芸、といった感じだろうか(そうとばかりは限らないのかもしれないけど)。
 ところでこのソフトをアメリカ(トランプ大統領)がものすごく毛嫌いして、使ってはいけないのだという。先にファーウェイの製品も締め出したので、ものすごくアメリカが神経質になっていることは報道で漏れ聞いている。一応舞台裏のドキュメンタリーなんかも見たりしたが、要するに中国製品だから、アメリカの情報漏洩の心配もあってそうしているらしいことは一応わかる。当たり前だがそれらの中国企業は、真っ向からそういうことを否定しているが、中国の国内の法律が、中国政府の意向によっては、それらの情報を取り出すことの合法性を明記しているらしいことに、目くじらを立てているということだろう。ひょっとすると香港の暴動なんかともリンクするのだろうが、そのような形で中国に圧力をかけることで、アメリカ側の保守的な心情を保ちたいということもあるようだ。実際に中国企業がアメリカの情報を中国共産党に漏らしている事実があるというのは、ほとんど分からない。諸外国の検閲さえしている可能性もほとんど分からない。ただし中国国内では検閲は公然とやられており、政府に不都合なものなどは平然と削除されるなどしてはいる。また、個人情報で捕捉された人がいるなどの話もある。確かに怪しい要素は無いではないが、これが実際にどのようにアメリカに影響があるのかというのは、やっぱりよく分からない。米国企業を守るということは言えるのかもしれないが、それだけなら、長い目で見てアメリカの衰退を招きかねない問題でもある。何故なら競争に勝つから、それらのものはブラッシュアップし、そうして次世代へ繋がるのであるからだ。そうやって、アメリカの帝国は君臨している訳だ。
 しかしながらアメリカが恐れているのは、中国のアプリを使っている人が、例えば政府の要人であるとすると、その行動様式や、位置情報などでそれらしい人物の割り出しが可能で、そうしてそういう人物に中国のスパイが何らかの接触を試みたりするのであるという。へえ、まあそういうこともできるのかもしれない。
 しかしですね、この考え方は裏を返すと、そういうやり方をアメリカは中国に対して試みているという告白でもあると思う。自分たちがやっていることは、当然相手はやるだろう。それがたまらなく嫌だし、怖いのである。事実アメリカのアプリの情報をアメリカ政府は把握しており、各国の情報を取り出していることが問題にもなった。さらに厳重に極秘にしているようだが、それでもちょくちょく情報は漏れている。確かにそれを、中国が真似しないわけが無いと考えるのは、滑稽だが自然なのである。
 ところでそのような圧力がかかったためかもしれないが、中国はミサイルまで撃ってしまった。ほとんど北朝鮮と同じだが、しかし中国のミサイルは、まじめにやるとアメリカ大陸まではちゃんと飛ぶようである。こういうやり方で威嚇するというのは、よっぽどの不信感と対話の少なさのせいではないか。
 見ていてギャグっぽいところがあるトランプ政権だが、結局こういうことにつながっていくことを容認しているようにも見える。ここで更に来るんなら来い、ということを言いかねない。それが米国世論だとしても、実際には何にも面白くないことには変わりないのである。
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お疲れ様でした。次に期待しましょう

2020-08-30 | 時事

 安倍政権の在任任期の長さという点では、確かに日本という国においては、最長であることに間違いはない。要するにそれだけ異常に長く続いたとするような言い回しはよく聞く。しかしながらその長さという尺の解釈は、ちょっと近視眼的であるような気もする。それというのも、そもそもの話、日本のこれまでの首相の在任任期のほうが、ちょっとほかの国では考えられないくらい短すぎた、ということがあるからだ。
 アメリカの大統領は、一期4年であるが、トランプさんがどうなるかはともかく、だいたい一度勝利すると、二期務める場合が多い(再選されるということ)。二期以上は務められないにせよ、一般的に8年くらいは政権を任せるべきだろうという考え方があるためだと思われる。それくらいの期間でないと業績は残せないものだし、それは長期というよりも、最低期間に近い感覚もあるのではないか。または、それくらいの年月が、一種の時代の区切りにふさわしいというか。
 大統領制ばかりではないにせよ、あんがい諸外国もそういうところは多くて、全部を調べたわけではないが、安定政権になれば10年くらいはそんなに珍しいことではない。むしろいろいろ問題があるから短命に終わるというのが普通で、さまざま任期はあるものの4.5年くらいはやるというくらいが標準的といえるのではないか。
 確かにいつまでもやっているような国はあるのだが、そういう権力の偏りのようなものがみえてくる場合でも、やっぱり15年とか20年とかいうような歳月をやっているもので、そういう場合は革命的に政権を追われるのが常で、日本のような国の制度では、これはもう起こりえない。
 そもそもだが、日本の政権の短さは、海外からは奇異な目で見られていたこともあって、それを受けて改めるべきではないかという議論はあったのである。しかし日本人というのは辛抱強くない国民性があるというか、政権の権力闘争は結構ころころ変わるところがあって、いつもいつも落ち着いていない。数が増えて安定しているように見えても、逆にコンセンサスをとるのが難しくなり、結局揺れて辞任する。安倍さんの場合は6度の選挙にすべて勝って、それで勝ち馬に乗ってきた人々が多かった関係で、ちゃんと支えてない人がそれなりにいるにもかかわらず、変わろうとする人が出てこなかった。もともと強固な派閥基盤のある人ではなかったので、選挙に勝つことで自ら権力的な地位を固めていったということができて、自民党の政治家には珍しく、極めてクリーンな政治家であったということができるだろう。これは歴史が評価することだと思うが、モリカケ問題だとか桜を見る会だとか批判があったはずだというけれど、それは単なる空騒ぎだったわけで、何も出ないのにもかかわらず、何かに忖度するような心情の人々だけが、そう思い込んだということだろう。
 ただし、その在任中の功績というのは、実際はなかなか評価の難しいものが多いのも確かだ。アベノミクスによって株価は倍加したし、多くの企業業績は軒並み最高益となった。しかし国の債務は膨れ上がり、実質賃金が上がったわけではない。安倍首相の悲願でもあった(というか自民党の党是なのだから、どの首相であっても取り組むべき問題なのだが)憲法改正も果たせなかったし、拉致問題の解決も道半ばだ。しかし、実質上集団的な自衛権は実現したので憲法を無視してよいことになったようだし、北朝鮮問題や領土問題は、誰がやっても相手が悪くてどうにもならん、といえばそうである。ほかの人になっても無視せずに取り組んでほしいものではあるけれど……。
 なんだかんだ言っても安倍首相とその周りの人たちは、辛抱強く打たれ強く働き続けてきた。だからこそ代えがたい政権になっていたわけで、あと一年の任期になっていたとはいえ、十分に全うできていたはずである。政治の問題に簡単なものはないし、今の状況も予断を許さないものだ。健康問題で辞任とはたいへんに残念であろうが、実際問題としては、自ら語られている通り、とても耐えられる状況にないのだろう。その中で状況の立て直しをほかに託すことは、つぎの団結も含めて今のタイミングだと考えたのだろう。さて、その期待に応えられる人が、本当に出てくるかではあろうが。
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選択できることが日常を維持する

2020-08-29 | 時事

 もういいか、とは思いながらも影響を受け続けている毎日である。うんざりさせられながらでも無視ができないというのは、そういうことに巻き込まれながら、下手に手を打てないからである。まったく無意味に近いとは知りながら、時と場所においてはマスクをして顔を隠して生活するのは、それは単なる同調圧力であるにせよ、めんどうくさいからあんまり考えない方策でもある。付き合っているようで、実際はまったく付き合っていないという心の声は、相手に聞こえないのである。
 飲み会が減ったのは明らかであるが、無いわけではない。しかし、これまでが異常に多かったというのは改めて思わされることでもあったので、個人的にはこれは、体調的にも精神的にも楽なのである。そういう意味では、そんなに悪くないはずのことなんだけれど、しかし盆前くらいから、また一段と夜の街というのは寂しくはなっている。こういう世界の人はお気の毒であるが、いわゆる人がいないわけではない。会社などで禁止されている立場の人達が一定以上いなくなっているということらしく、それ以外は、要するに自由なのだろうと思う。まあ、なかには精神的に不自由な人もいるのかもしれないが、そういう人というのは、勝手にそうされている訳なので、同情しても仕方がないことである。ご自分で何とかしたらいいのである。
 僕自身はドキュメンタリーおたくのようなところがあって、以前は海外の状況も含めて、最前線の現場がどうだというのは、一応チェックしてみていた。しかしながらもう数か月にわたって、そのようなものが放映されたとしても、結局はまともに見てないし、いつの間にか録画していたとしても、再生することも無く消去している。見てもいいのかもしれないが、そのほとんどが偏見に満ちているし、ジャーナリズムの視点を借りて現場を検証しても、ほとんど意味のないくだらないものでしかない。いわゆる煽り目的で作るので、コメントその他が正直なものではない。彼らが欲しがる、恐ろしさや厳しさのようなものを発する人々のみを選抜して、さらにその表現の上手い人を繰り返し呼び出す。そういう人は仕事が増えてよいのかもしれないが、周りの人は、いったいどう思っていることか。正確に状況を伝えるという仕事をしているところなんて皆無だし、その偏見に自ら染まっていることに自覚的な人が、ほとんどいない。いたとしても制作側などの査定に引っかかって、自由さを取り戻せていないのだろうと推察される。あまりにも呆れるくだらなさなので、観ることを断念せざるを得なかったというのが正直なところだ。ネットだといくぶんまともなところやレポートはあるわけで、そういうものをササっとチェックして、もう他のことを考えている。最小限は付き合わざるを得ないのでバランスをとるとしても、それに捕われて生きていくのはもったいないことである。
 人の命よりも経済なのか、というような論調で声高に言う人の声があるのは知っているが、相変わらず無知であるだけで、何かちゃんと物事を見たり学習したりできないのであろうか。そのような邪悪さやたちが悪いのには苦笑せざるを得ないにせよ、人が生きていく必須のために経済があるのだから、僕らは何よりも命を大切に考えているからこそ頑張って経済活動を真面目にやっていくよりない。軽率な暴力に屈しないことである。
 しかしながら至極当たり前のことながら、まともな人だってたくさんいる。一部の天然転覆論者がマスコミを中心にいるとはいえ、それが大多数ではない。大衆は煽られていると判断して、行政や政治が余分なことをしまくっていても、何とかそれに耐えて辛抱強く頑張り続けてはいる訳だ。そうして少し風向きが変わりかけているという実感も、徐々につかみつつある。世の中は完全に変わってしまった訳ではないし、一応は反応としてそのようなことがあったにせよ、政治的な介入が無くなれば、その分だけ日常が戻るだけのことである。それだけが明らかなので、その転換の兆しが見えただけでも希望が出たと考えるべきであろう。たとえ微風であっても、風向きさえ変えられれば、それを受ける方策は出てくるのである。
 しかしながらなかなか洗脳の解けない人というのはいる訳で、その荒波を越えなければならないことも現実である。マスクをしつつも、しっかりと呼吸できることに集中するのみである。

(※ と、そのあと安倍首相の辞任の意向のニュースを知る。株価は暴落し、動揺や失望の色が濃くなってしまった。しかし、もともと9月には内閣改造だったのだし、頭から一新させる効果も考えたのかもしれない。ただ、この後が今よりいいというのはほとんどギャンブルだ。病気という理由は仕方がないということでもあるが、さて、場合によってはさらに混迷を深める可能性が出てきたかもしれない)
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そもそもいいことなんてそうあるものではないのかも

2020-07-27 | 時事

 Go to トラベルもいろいろあって難航している様子だが、こういうのに水を差されることで息の根を止められたような感じになっている人たちもかなりいるのだろうと思う。まったく残酷なことだと思うが、大衆というのはそもそも残酷なのである。
 そういうのは背景の一部だが、それなりに長期化されてきて、本当に苦しい事情が表面化してきている。実体経済とのタイムスパンがあるので、これがすでに始まりなのかどうなのかははっきりしないけれど、じわじわ来ていることは間違いないなさそうだ。それでも行政の財政出動は規模も大きいので、何とかそれを持ちこたえさせている傾向は分かる。少なくとも株価などの指数では、そのあたりは思ったより強気なのかな、とは思う。地方経済との乖離も感じるし、この機会に伸びるところも無いではないので、天秤の軸からどのあたりがいいのかははっきりしなくても、バランスが何とか取れるということもあるのかもしれない。
 ところで、それでも精神科の受診や、それ以前の引きこもりのような状態に陥っている人が、着実に増え続けているということも聞いた。事情があってそのような人を支援する団体の活動での訪問自体が減ってしまって、現場はかなり深刻な状態になりつつあると警鐘を鳴らしている人もいた。なるほど、そういうところは、確かにくすぶり具合が危険域にある可能性がある。著名人の自殺などもあったので、直接関係ない人が多いだろうとは言え、連鎖しやすい飽和状態であるとしたら、これは少し警戒を強める必要があるだろう。SNSの誹謗中傷問題で議論が止まると、その実態を見誤りかねないのではなかろうか。
 それというのも、なんとなく覚えがあって、なかなか身内では難しいという話は聞いたのである。失業や学校の関係など、いわば公然と引きこもりを助長されているようなことになってしまって、本当に部屋からも出てこなくなって困っているということだった。専門というか、いろんなところに相談して、ちょっと寄ってくれるようになったところがあったそうだが、やはりその頻度が減ってしまって、もう一切反応がなくなったというのだ。困っているが、そうなると更に親子関係が悪化しているような感じらしい。身内というのは感情的にどうしても正論で話をしてしまうので、引きこもっている人にとっては、さらにひどい障壁になりかねないのである。悪循環である。しかし新たな関係性は、とても作れそうにない。何かあちこちで、時限爆弾のスイッチが入ってしまったような感じに、なっているのかもしれない。
 こういうのはコントラストもそれなりにきついようで、みんなは楽しいのに、なんで俺だけ……、なんてことになるとますますこじれそうだ。しかしこのままいつまでもいいわけが無いのに、むしろ便乗して抜け出せもしない。そうやっての閉塞感があるからこそそうなってしまうというのがあるわけだが、やはり一般的にいい材料を見つけることも難しい。
 最終的には、それでもあきらめないということなんだろうけど、なんか個人的にでも楽観的になれるようなことを考えないといけませんね。まあ、あんまり考えないのも手かもしれないけど。
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今自分のやっていることの結果が、未来だ

2020-05-26 | 時事

 夏の甲子園大会の中止のニュースは、少しばかり潮目の変わり方を感じさせられるものだったかもしれない。中止になる予告があったので、僕自身は何の驚きも覚えなかったのだけど、世間的な空気として、これは少し違ったものであったのだろう。
 夏の甲子園というのは、それくらい日本人にとって影響力のあるものだと、日本人から遠い僕が改めて理解させられた。この反応の仕方と足並みの悪さのようなものに、日本人の足腰の強さや、したたかさのようなものの芽生えを感じられずにいられない。
 夏の大会の中止ありきの判断に多くの批判が出たことは、要するに彼らが、世論の期待を完全に裏切ったからだということは言える。こうなることは、ある程度仕方がないという思惑があったのだろうが、そもそもそのような根拠に対して、あれこれと言い訳がましい理由ばかりに思われた。その一種の冷たい内容に、多くの人が残念に思ったのだろうと思う。さらにいいようもない怒りが、先に立って渦巻いたのだろう。たとえば地方大会の開催自体が困難だとする根拠に対して、独自開催を行う自治体が多数生まれた。ささやかなる抵抗でもあるし、世論の後押しを実感できたあかしでもあろう。そもそも、何故その他の地区などに相談などして、地道に考えなかったのかという批判であろう。
 いまだに慎重説の方が根強いことは分かる。国民をこれだけ洗脳したのだから、そう考える人が多いのが当然でもあろう。しかし現実の方は動いており、一時的であろうとも、事実上収束してしまっている。今は感染のリスクを考えるより、感染したくてもできないような状態にあるだけのことであろう。そこで普通の人が何を考え行動するのか。監視体制がありながら、自分の出来ることを模索する人が、生まれてくるのも当然だろう。そうして、少しでも常態を積み上げていくこと以外に、我々の人間的な生活は戻りはしない。
 未来がどうなるかなんてことを、本当に知っている人などいない。しかし少なからぬ人々の営みは、未来を予見して判断をしているのである。そうして、少なくとも近い将来の希望というものは、現在生きている人そのものの感情を左右させる。
 そうして確実に言えることというのがあって、未来というのは、現在自分たちがしていることの結果だということだ。誰かがそうだからとか、そうすべきであるとか、いつまでも受け身で行動していたのでは、結局は他人の責任に乗っかっているだけのことである。よっぽどお気楽な人ならともかく、本気でそういう立場のままズルズルといるつもりでいるのだろうか。そうであるからこそ、今自分が何をすべきかということに真摯に向き合うことが、本当に問われていることなのである。そうやって行動を起こしている人に対して何かを言おうなんてことは、単なる大きなお世話なのである。
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未来を語ることからしか未来は訪れない

2020-04-24 | 時事

 ポスト新型コロナの世界というのは、それなりの流行りである。当たり前か。そうしてやっぱり、みんな未来が知りたいということだ。
 すでに変わってしまった社会の変貌を見ると、これになぞらえて考えるというのが基本ではある。ありふれたことだけど、テレワークの可能性というのが、一番あたりがありそうだ。日本のビジネス慣行にはなじまないとされ、もう何年も検討されながら実現しなかった在宅勤務が、多くの業界でくしくも実現を見たわけで、東京一極集中問題も含め、ライフスタイルの根幹を変えうる可能性をもっとも秘めたものではなかろうか。これは地方にとっても、人々の感じている幸福感に関しても、大きな転換点になりうると思う。
 もう一つはちょっと懐疑的でもあるが、CO2の大幅削減の影響なんかも面白くはある。無視している人もいるが、何か都合の悪いことでもあるんだろうか。いや、あるに違いないが。
 これだけ世界規模で実際に大幅な削減がなされている現実をみて、どれだけの効力があったのかというのは、ぜひとも検証が必要なことだろう。いつまでもやっていると壊滅的だというのはあるが、そのためにある意味で本当に人類を救うことができるのかというのが実証されるのであれば、やはりこれも世界を動かす根拠にはなる。その根拠にもならないのであれば、ふつうに経済を回していいという根拠にもなる。まさに世界的規模で将来を決める、最大の決め手になるはずだ。
 このCO2排出の大幅削減については、検証できるだけの長期になる問題がある以外にも、ちょっと難しいことが見て取れる。もちろんそれ自体をいいことと断じているような単純なことを言いたいわけではないのだけれど、先に付随して良いことから述べる。それは、これに準じて大気汚染も幾分改善されてはいるはずで、呼吸器官の疾患が数千万人といわれている現代においては、多くの命にかかわる人の改善も期待されるということだ。
 しかし、ここからが面白くない話なのだが、それに伴う経済的な損失の影響で、失望・絶望・貧困のなどで相殺されるくらいの具体的な死者があるかもしれない。人の命か経済か、などときれいごとを言う人がいるが、経済は人の命をもっとも救うことから目をそらしているだけだ。もしくは単なる無知のために騙されているだけかもしれない。失業率と自殺には相関関係がみられるし、財政出動も経済に余裕が無ければ不可能だ(今は借金だけど、借金ができる余裕があるという考えであろう。もっとも先送りだから増税の余裕があるということもあるが、それを考えると、バラマキ効果は薄れてしまう。それに何度もできる話でもない)。社会保障は経済的に困窮すると不可能になるだろう。そもそも生活に困窮する人々が、他の人に関わる余裕さえ失うことは、理解できる話ではないか。経済を止めてでも人の命を守ることは、それ以上に人の命を削りかねない問題ということである。現在もある程度の犠牲の上でという自覚は少しくらいはあると期待したいが、それを上回る恐怖心に、誤って方策をとっている可能性もきわめて高い。感染者を減らすために人の命を犠牲にしてよいという理屈は、ふつうは通らない話なのだ。要するに今は人々のマインドが、普通ではない証拠にしかならないが。
 グローバリズムが機能不全になりかかり、その象徴として原油も安くなっているので、日本の製造業が回帰していって結果的に復活する、という予想も無いではない。それなりにいい未来像に見えなくも無いが、それがその後も続くのかというのは、やはり懐疑的である。その前にアメリカや中国が経済的な風邪や肺炎になり、日本が…、という経験則を思い出すべきだろう。
 もちろんポスト・コロナ世界で常識として語られているのは、コロナ前世界にはもう戻らないということだ。暖かくなると食中毒も気を付けなければならないわけで、飲食をはじめとするサービス業の形態は、安易な予測の範囲にあるわけではない。そういう現在に終息を願うという受け身だけでいい筈は無い。正常化は、時間とともに誰かの上に降ってくる幸運などではないかもしれないのである。
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