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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

にんげんだもの、仕方ないですかね

2021-09-19 | ことば

 池澤夏樹の随筆で藤沢周平の「うしろ姿」という短編と山本周五郎の「ちゃん」がいいとほめていたので、どちらも短編なので読んでみた。
 読んだ順は逆だが、まず「ちゃん」の方から。飲んだくれの火鉢職人の男がいて、これが時代遅れの火鉢の製法にこだわり、新製品などに押され、売れなくなっている。収入は増えないし子供は多いし、そういうことでふてくされて毎日飲みつぶれているらしい。以前の友人が、力を貸すから別の仕事をやった方がいいというアドバイスをくれたりする。職人として力があるんだから、何か他のことでも十分才覚が生かせるだろう、という感じかもしれない。そういう友人たちの気持ちはありがたいと思いながらも、自分には火鉢職人として、ちゃんとした仕事をするということを生きがいにしているところがある。しかし子供には迷惑をかけているし、本当に心が苦しい。それを妻も飲み屋のおかみも子供たちも、みんな理解してくれている。そういう自分にも合点がいかないから、やはり今日も飲んだくれてしまう……、というお話である。なるほど、人間模様がよく描かれていて、お話としてなかなかの人情噺ということになるだろう。
 もう一つの「うしろ姿」である。飲んだら酔っぱらって友人でも知らない人でも連れて帰ってくる男がいる。以前よりは稼ぐようになってはいるものの、狭い長屋の家に子供も寝ている。夫婦生活だって困るようなところに何で知らない人まで泊めなければならないのだろう。しまいには泊めた男から泥棒までされてしまう始末である。いい加減にしてほしいところ、今度は乞食同然の婆さんを連れて帰ってくる。ひどい悪臭もするしいくら何でも困るのだが、しかしなんとなく亡くなった舅に似てなくもない(うしろ姿が)。なんとか何日かなら、ということでふろに入れて小ぎれいにしてやると、今度ははぐらかして何日も動こうとしない。子供たちとは仲良くなっているし、近所からは偉いと褒められたりして、簡単に追い出すことが困難になっていくのだった。
 どちらも確かになかなかに面白い。いい人たちだが、しかし困ったことには心の葛藤が激しくある。どうにかしないことには苦しさから解放されることは無い。ある程度正解らしいことは分かっちゃいるんだが、とてもそれができそうにない訳である。
 なるほど、名作というのはこういうものかもしれないな、と堪能して読むことができた。
 ただし「うしろ姿」の中の言葉の使い方で、一つ気になることがあった。お婆さんを追い出したとして、近所などから何か言われたってかまわないところだが、しかしそれは「にんげんとして出来ないことだ。とおはまは思った」という一文があるのだ。藤沢周平の作品は架空の藩の中の物語が主だが、やはり江戸時代のいつかであろう。だからあえてひらがなで「にんげん」としたのだろうと思うのだが、この頃に人間としてどうだという考え方は、おそらくなかったのではなかろうか。しかしながら現代人の読者である僕たちからすると、こういう人道的な感情は、人間としてどうだという表現の方がしっくりする。なかなか難しい問題なのである。
 そもそも道で婆さんを拾ってきたとして、今の行政の福祉事務所などに相談するのが筋だし、そのまま引き取ってどうだという物語は書けない。昔の話だから成り立つ設定だろう。しかしその感情を複雑ながら損得なしで描こうとすると、何か適当な言葉がないのだ。いや、あったかもしれないが、現代人の僕らにはわかりにくいのではないか。
  小説っていうのは、やっぱりそれなりにむつかしい文芸だな、と改めて思います。まあ、そんなことに茶々入れる読者が、そんなにいるもんでもないでしょうけどね。
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漢字の知識は持ち歩くもの?

2021-06-02 | ことば

 本を読んでいたら「六ケ敷候」なんとか、と書いてあって、これは何と読むんだかその時はちょっと分からなかった。でもまあ最近は手元に国語辞典や漢和辞典がなくとも何とかなる。それに簡単な漢字だから調べやすい。文字そのものが読めない場合は手書き機能を呼び出せばいい。これもパソコンでもスマホでもできる。以前なら字画を数えて探したり、部首などを手掛かりに残りの字画で辞書を引いた。なんだかそのころを懐かしくも感じるが、今はほんとにそんな作業をしなくなってしまった。手元にいまだに辞書は並んでおいてあるが、たまにお世話になることはあるものの、ほとんどインテリア化しつつある。時々引いてみると、案外面白くてハマるものの(そういう脱線こそ辞書の醍醐味だったのだが)、やっぱり手っ取り早いものを使ってしまう。しかしながら、パソコンの情報は元をたどれば辞書だったはずで、そういうことを考えると、将来はどうなってしまうのだろうか。誰かが金を出して編纂したりなどしないと、結局は怪しいものになってしまうのかもしれない。
 ということであるが、そうやってスマホで検索すると、すぐに「むつかしくそうろう」と出た。答えを知るとなんてことはないが、インポッシブルだったのだな。しかしながらそういう当て字を用いることから、「むずかしい」ではなく「むつかしい→むづかしい」の方が元々の語感なんだということも分かる。やっぱり調べてみるものだ。
 しかしながら読めない漢字はこのように解決できるようになったことは良かったのだが、手書きで書こうとすると、かなりの漢字を書けなくなってしまった。簡単なものでもちょっと思い出せないのである。手書きで何か書こうとしても、いちいち漢字でつっかえてしまって、かなりスピードをロスする。仕方ないので下書きであってもパソコンやスマホに頼らざるを得ない。自分の手帳やメモ帳には、漢字の断片とカタカナがまぜこぜになったものが、いくつも書き残されている。かっこ悪いことはあるが、誰かに見せるわけではないので一応はいいとするにしても、やっぱりなんとも情けない。
 もっとも今となっては、基本的に文章を書くなどということは、スマホやパソコン相手以外にはやっていない。学生などの若い人たちは、授業などの折には、どのように文字を扱っているのだろうか。もう卒業してしまったので、そういうことをする必要がなくなって本当に助かった。いや、学生さんだって、今はタブレット他、手書きなんてやってないのだろうか? うーん、このような知識というのは、すでに外部入出力でやらなければならないことになっているのかもしれない。
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師匠なんて言うなって人を師匠にしたい

2021-05-03 | ことば

 師匠という言葉が嫌いだといっても、だれもピンとはくるまい。しかし、この語感をテレビで聞いたくらいで、なんだかもやもやと嫌な感じがするのは間違いない。自分でもなんで嫌なんだろうな、とは思うことがある。しかしまあ厳密にいうと、単語の語感自体が嫌なわけでもないし、芸人の世界で師匠といわれる人がいたって、どうだっていいことである。また、そういう世界のことなんだから、上下関係のうるさい封建世界に、何か口出ししても仕方がない。やくざな世界なんだろうから、そうやって暮らしていけばいいだけのことである。
 問題なのは、それ以外の堅気の人であったとしても、芸人筋の人に対する敬称のような形で、これを使うのが気に食わないのだろうと思う。そのスジというか、世界に住んでいないにもかかわらず、あたかもその世界を知っているかの如く、芸人生活の長い人をおしなべて師匠といっている気がする。または若くても、芸人であるだけで師匠といっているのも見かける。別段芸人を馬鹿するつもりもないし、えらくもない人をそういうな、と言っているわけでもない。まあ偉くない人だから言っているのであれば、方便を使っているということで、却って納得できるかもしれないが。
 しかしまあ、古臭いようなことを言うと、そういうのは以前にはなかったから、ということもある。いったいいつごろから、猫も杓子も芸人のことを師匠というようになったのだろうか。何かべっとりとした人間関係を思わされて、汚いものでも見るようだ。確かにそういうときには、案外まじめな話を聞きたいことがあるようで、例えばお笑いの芸人さんの時でも、内容は笑えるようなものではなかったりする。お笑いの人だから、いつでもお笑いのネタばかりしなければならないわけでもなかろうし、いわゆる本番の時とは違った話を聞きたい、という人もいるのかもしれない。ステージなどと違う時の、人間性のわかる話も聞きたいのかもしれない。そういう時に師匠を使うと、相手は正直に話す気持ちにでもなるのならわかるが、果たして本当にそうなのだろうか。たまには自分はあなたの師匠ではありませんから、とかいうような人はいないのだろうか。そういうことに疑問を感じているのだろうか、僕は。
 お話をお聞きしているときに、お弟子さんなどがいることがわかったりして、ああ○○さんはお師匠さんなんですね、というようなことなら、わかる気がする。弟子も取らずに孤高の芸人をやっているような人にも、師匠っていう世界があるのだろうか。いや、一門が違って、そう呼び合う世界がないとは限らない。でもやはり、その世界のしきたりであるべきものであって、外部の人がまねをしたって始まらないのではあるまいか。
 もっとも僕は本当の意味で、芸人の世界を知っているわけでもない。しかし、そうでもない人間であるからこそ、僕らから師匠という言葉をその世界の人にかけるような境遇にいたくないような気分がある。恐れ多いからこそ、安易にそう口にしたくない。師匠というのは、ある意味で先生のようなもので、この先生も、先生以外の人に使いたくないのと同じである。「先生といわれるほどのバカでなし」という世界にいるわけで、本当の先生ならいざ知らず、ふつうの感覚としては、誰だってそのように生きていたいはずだと思っているのである。ましてや師匠なんて、ということだろう。
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勇気なんて欲しくない

2021-03-23 | ことば

 甲子園での高校野球が始まった。昼間は仕事だし、残念ながら多くの試合は見ることが許されない。録画して見るようなものでも無かろうし。しかし今回は直接野球の話では無い。少し気になったのは、高校生のインタビューなのである。
 高校野球が始まる前から、期待の表れなのか、壮行会のような場が設定されているらしく、期待の選手や主将などにマイクが向けられる。そうすると彼らが、みんなに勇気を与えられるプレーをしたい、というような発言を頻繁にするのである。 何かの流行りなのかもしれないけども、これがちょっと聞き苦しい。何を血迷ってるんだろうか。別に野球を観たからといって、こちらは勇気を与えられたくない。率直に言ってそういう気分になるのだ。もちろんちょっと前からこういうことを言う人たちが出てきたことは知っているが、何かの冗談だと思っていた。ちょっとかっこ悪い感じがしないのだろうか。でもどういうわけかこういう事を言う人というのは、特にスポーツやってる人たちで増えているように感じられる。誰が言い出したのかわからないが、誰かが言い出して、それがいわゆる好感を持って捉えられ、それでこんな戯言を言う人たちが増えたんだろう。バカの再生産である。高校生もある程度そういうことには敏感になって、その通り真似をしているのかな、という感じがする。
 確かにスポーツを見ていて元気になるというのは、少しは分からないではないところはある。頑張って運動している姿というのは、時には人を感動させる力はある。そうであるから、それは個人的に感動したりなどの成果として、観た側が、元気になったと言うのであれば、少しは分かるということだ。一方でこれをやる側が言うと、なんだかおこがましいのである。せっかくの成果を台無しにするようなことを言わないで欲しい。純粋な気持ちでスポーツを見て楽しもうという気分が、廃れる感じがする。元気をもらおうという疚しい気持ちで、スポーツを見たくないのである。そういう風に構えないでいて、しかしいつの間にか引き込まれて、面白かったな、と思いたいのである。
 最初から勇気のようなものを期待している人が増えるというのは、はっきり言って不健全だと思う。そもそもスポーツが健全であるというふうに思っていないが、ますます不健全になればいいとも思わない。そうではあるが、少しくらいは夢をみたい、という期待もあるんで、そこらあたりは頑張ってもらいたいところである。少なくともやはりなんとか勝とうとして頑張ってるからこそ、応援のしがいがあるわけであって、勝ち負けにこだわらないような連中がスポーツをやると、面白いわけがない。やる前から闘志をむき出しにして欲しいというのが、本音ではなかろうか。
 そうして精神の代理戦争のようなことをしているのが、スポーツ観戦というものである。特に野球というのは、ピッチャーさえ変えたら毎日連戦で試合を行うことができるために、興行としてお金を稼ぐことに有利だからこそ開発された競技である。高校野球はそこのところを地域間代理戦争にしているわけで、特に日本の場合は、特別に国家的に別枠で放映しているわけだ。せめて球児たちは、空々しいことを言うのは大人に任せて、白球を追うべきなのではなかろうか(まあ、言わされているのかもしれないですけどね)。
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漢字が思い出せない

2020-12-16 | ことば

 僕は自他ともに認めるメモ魔だろうと思う。鞄の中には常時複数のメモ帳が入っているし、手帳と文庫大のメモ帳には毎日のことが書いてあるし、胸ポケットには小さいメモ帳も常備している。そうしてその時々に読んでいる本にも書きこむし、会議の資料には落書きも含めてとにかく書き込むことが日常だ。手のひらやズボンの上にも書くし、封筒や付箋紙にも書き込んだりする。
 そういう日常であるけれど、しかし一番書くのは何と言ってもパソコンやスマホである。スマホはめんどくさいのでできるだけパソコンに打ち込むが、とにかくそうやって文字を打っていると、勝手に文字は漢字に変換される。だからだと思うが、たくさん書いているメモの文字で、正確な漢字が少なくなってしまうのである。要するに漢字を思い出すことができないのである。この間は「共生」という文字が思い出せなくて「協」、とか「強」とか、結局キョウとカタカナでメモしてあった。難しい文字だから思い出せないというより、ちょうど当てはまるはずのものが、どこかに引っかかって出てこない感覚なのである。だから間違っていることは知っているし、間違っているのだから結局カタカナになっているのだろう。
 それでも日本人は、ひらがなもあるしカタカナもあるし漢字も使っている。何かメモをしようと考えていると、それらを何とか形にして残すことができる。
 何を言っているか分からない人がいるかもしれないが、ある種の失語症のような人は、日本人より外国の人の方が比率が多いのだという話を聞いたことがあるからだ。事故などで脳に障害を負う人で、文字が書けなくなる現象がある。例えば欧米ならば、すっぽりとアルファベットが分からなくなる。だから文字が書けなくなるのだが、日本人にはこれが、漢字だけ書けなくなったり、ひらがなだけ書けなくなったり、つまりそういう脳の使い分けをしているらしいことが分かっている。文字を認識するのに余分に脳を使っているのかもしれないが、そのために様々な代用が利いて完全な失語を防いでいるのかもしれない。数字だって「一」「1」「いち」「イチ」も書くことができる。数式を書くのは厄介かもしれないが、つまりはそういうことである。
 ということは、僕の中の漢字だけを思い出す機能が、何らかの不全を起こしている可能性があるのだが、確かにもともと僕の脳には怪しいところがあるような感じもするので、それだけにとどまっていると考えることもできる。読み間違うと恥ずかしいので、声に出しては読まないようにしよう。
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聞いたことあるのかさえ分からない流行語

2020-12-03 | ことば

 新聞を読んでいると、今年の流行語大賞というのが発表されている。大賞が「三密」ということなんだが、あーそうですか、って感じである。話題づくり戦略として大成功した企画だけれど、相変わらずセンスがない結果だ。エントリーされている語をみても、本元の「新型コロナ」そのものの語自体が無い。それでいて関連語満載なんだから、ちょっと訳が分からないかもしれない。そのノミネート語の30語を見てみると、当然知らないのが多い。これは僕自身に問題がある可能性はあるが、何故流行っているのに耳にしたことが無かったのだろうか。
 「ウーバーイーツ」は聞いたことがあるけど、実物は見たことが無い。日本にもあるんですか? って感じもするが、実際はあるらしい。まあ、僕の住んでいるところは田舎なんで、誰もそんなことしないだけの話だろうけど。
 「愛の不時着」ググったけど分からなかった。いや、韓国ドラマだということは分かったが、そういう痕跡を誰かから聞いたことなど、たぶん一度もない。雑誌などでも見た覚えがない。こういうのがなんだか不思議なのである。
 「あつ森」は聞いたことがあるし、息子たちが昔遊んでいたことは知ってたから、その延長だろうと思っていた。しかし、アメリカ大統領選だとか、相撲協会なんかも利用したなんて知らなかった。そういうゲームなんですね。まあ、しないだろうけど。
 「恩返し/顔芸」はググったけど、分からない。知らないものは仕方ない。
 「香水」もググるが意味不明。歌が流れるが、これのこと?
 「フワちゃん」はググって、見たことある、と思った。
 「まぁねぇ~」はググったら太った女子が出て来た。これは見たことがある。
 「時を戻そう」は見たことがあるのかどうか、忘れた。それに動画をみても、いつこの言葉を言ったのかさえ分からなかった
 「総合的、俯瞰的」は、ああ、そのことか、とは思ったが、流行っているというのかね、そもそも。何かの批判精神のようなものなのだろうか。
 「ソロキャンプ」は意味は分かるが、昔からあるだろ。それに普通のことだ。
 ちょっと驚いたのは「カゴパク」かもしれない。実は、僕はカゴを持って歩いているおばさんを目撃したことがあります。ああ、あの事か、と思ったのだが、以前どこのスーパーだったか忘れたけど、自分のカゴを買い取って買い物する制度のある店があったように思う。あれは廃止されたのだろうか。また、マイバッグの万引きは増えるだろうと誰でも思っていたはずで、袋をサービスしたほうが被害額は差し引いて減るのではないかと思われる。まあ、それ以上にそもそも盗んだことに気づかない人が多いのだろうことが、驚きなのかもしれない。それにしてもカゴパクっていうにしても、流行ってるのかね、言葉自体が。
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命は尊重されるべきだが

2020-11-12 | ことば

 Black lives matter というのは、現在は一応「黒人の命も大切だ」という訳文で定着してはいる。というのも、僕が見る限りの報道では、そのように言われているからである。
 もちろん当初は少なからぬばらつきはあった。「黒人の命(は)(も)」の併記もあったし、「黒人の命だって大切だ」「黒人の命を尊重しろ」「黒人の命を粗末にするな」というのもあったそうだ。意味として一番近いのは、「黒人の命を粗末にするな」という気はする。この運動が始まった理由として、黒人が簡単に殺される上に、殺した(白人)の罪が問われないケースに不満があるという背景があるからだ。それも繰り返し繰り返しそのような事件は繰り返され、なかなかに改められているようには見えない。まるで沖縄の米軍兵の日本人女性への暴行事件のような感じでもあるが、話が複雑になるので、米国の話に戻そう。それは現在でも厳然と残っている、黒人差別への怒りである。
 村上レディオで村上春樹が、これは「黒人だって生きている」って訳したらどうだろう、と提案していた。なるほど、そうかもな、とその時感じたのだが、いささかやはり文学的すぎるかもしれない。白人に対して、黒人は白人同様に生きている人間であることを分かってもらわなくちゃ、という感じだろうか。
 過去からの代表的な事件を振り返るにあたり、確かにそのように黒人の命は、あたかも軽んじられ、犠牲になっているように見える。その怒りが渦のように広がりを見せ、行き過ぎて暴動めいた略奪まで起こっている。明らかに行き過ぎである。
 問題は、そういう風に黒人を中心とした人たちが怒り、暴徒化してしまったことで、黒人の命は尊重される方向へ向かっているのかということだ。ここまで運動が広がり、認識を新たにするように求められているにもかかわらず、まだ事件は繰り返されるのか。
 聞くところによると、白人たちは、暴徒化する黒人たちを見て、さらに黒人に対する恐怖感を強めてもいるのだという問題があるのだそうだ。特に白人警官の立場によると、不審な黒人を検挙しようとする際に、何か奇妙な動きをするだけで、過剰に白人に対して憎悪を含めた反抗をくみ取ってしまい、恐怖に駆られて過敏反応をしかねないことがあるのだという。結果的にそれは幻想で、疑いのある人物が丸腰だったりする。またそういうもっともらしい理由を用いて、過剰に強がって毅然とやりすぎる警官もいそうだという複雑さがある。それこそが差別だが、そういう人たちが混在すると、それがいったい悪意なのか憎悪なのか恐怖なのか、判然としなくなってしまう。結局は、黒人の命はまた失われてしまう。
 皮肉なことだが、始まりは確かに正当な怒りや公平さを求めるものだったとしても、受け止める相手側にとっては、黒人偏見の恐怖感を強めるものになっている可能性が高くなっているということだ。もちろん運動の中心的な考えには、共感に値する真摯なものがあるにせよ、その広がりが大きくなるにつれ、過剰に間違ったものを含んでしまうという悲劇である。
 やはり議論は、対立軸のみで語られるべきものではない。争点としては致し方ないことであったとしても、暴力的な圧力が議論をゆがめてしまう結果になりかねないということだ。もちろん、その意見を言える自由さえ失われる場所もあることを考えると、こういうものが正常なのかもしれないのだけれど。
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緑が青に見える人々

2020-09-03 | ことば

 信号機の青は、実際に青の色のものが増えているように思うが、しかし以前から緑のものが結構あると思う。しかし青信号で疑問に思うことは少ない。日本に来た外国人が、けっこう疑問に思うことでもあるらしいが、しかし、日本人にも、信号は青で、色が緑でも、そんなに疑問は無いのだから、説明が難しい。信号が緑なのに青といわれるゆえんには諸説あるわけだが、チコちゃんではないので(それにあの番組は結構怪しいが)それを断定的にいう自信も無いが、問題なのは、日本人の多くは、そもそも緑を青と表現しても、そんなに抵抗がないということである。緑でも青葉だし、緑色でも青虫である。上手く言えないが、緑は青の中に含まれても抵抗のない色のように思う。実際にはちゃんと緑には見えているのであるが、そういうもの、というより、単語の語感に引っ張られて、いや青ではなくて緑だ、とまでは思わない性質があるようだ。新緑や緑茶のようにちゃんと緑と認識出来ていて、そのように言えもするが、信号機などには青といって固定して認識できている。常識的に信号は青・黄・赤であって、緑といわれる方が違和感を覚えるかもしれない。実際に子供であっても、信号機の絵を描かせると、青で書いてしまう子が多いのだという。言葉の語感で、記憶の色まで変えてしまうのだろうか。
 中国語で青のことは、一般的に藍(簡体字であるが)と書くし、そう表現する。青という漢字も当然あるが、ちょっとニュアンスが違うというか、一般的でない。ちなみに赤も紅というのが一般的に赤のことである。日本の漢字は、中国から来たのだから、色だってあちらの起源であるのが当然だと思われがちだが、要するに借り物なので、恐らくだが、日本語のニュアンスでの赤というのが赤であり、同じく青が藍より青として選ばれたのだろうと思われる。こういう感覚的なものは言語の面白いところで、こういうことを理由にして、言語の違いで思考への影響があるのではないか、という研究もあるそうだ。使われている言語の感覚で、思考にも影響がないはずが無いと考えている人がいるということであるが、今のところ、それが本当であるかという確証まで至っていない気もする。
 また、ノーベル文学賞のようなものが外国にあるということは、言語の違いがあっても文学比較ができると考えている人がいるということである。要するにその場合は、言語と思考には違いがない、という立場でもあろう。しかし詩などには、韻を踏んでいるから素晴らしいというのがあるのだから、そういう翻訳の難しいものを比較するということは、なんとなく無理がありそうではあるのだけど……。
 しかしながら色がどう見えるというのは、やはり感覚的なものがあるようで、ゴッホなら夜であっても黄色が多くなったりする。ひまわりだけを黄色く描いているわけではない。一般的に海や空を描いたものであっても、それが青であるばかりではないだろう。見ているといろいろな色になるのだけれど、言葉にすると青の一括りでも、それほど抵抗を感じないわけだ。それは写実的には違いのある事であっても、脳の中の言語として、青という考えに、思考の影響があってもおかしくない気もする。そのようにして考える日本人の思考が、どの外国人と比べてよいか分からないが、ともかくどこか外国と比較すると、発想の違いとして現れるという可能性があるのではないか。そうしてそれは、例えば日本の製品開発などの場合においても、諸外国と違いの出るようなことになるのではないか。
 もちろん信号を青と言ってしまう文化ということでもあるので、それは経験としての言葉の力なのかもしれない。そういう学習を強いる日本の文化の中にこそ、言葉の影響があるということにもなるのだろうか。
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単に僕が読めなかった漢字

2020-08-26 | ことば

 先日テレビを見ていたら、リーダーといわれている城島茂が出てきた。軽くびっくりしたのは、彼が呼ばれているときに「ジョウシマ」という発音だったからだ。名前が以前と変わったということは考えにくいので、彼の名前の発音はずっとジョウシマさんだったのだ。いくら芸能に疎い僕であっても、城島茂のことはよく知っていると思っていた。彼の所属するグループがTOKYOと書いてトキオと発音するくらいも知っているし(※ これは指摘されました。TOKIOって書いてトキオなんですね! ちっとも知らなかった。トキオって沢田研二か、もしくは普通日本語の分からない外国人の発音とばかり思ってたので勘違いしてました。恥ずかしいことなので、本文はそのままにして僕への戒めと致します。失礼しました)、何やら福島の村などで、古くからいろいろ作業をやっていることなども知っている(今もやっているか、までは知らないけど。おそらく脱退か何かしているだろう山口さんという人の、僕はひそかなファンだった(けど下の名前までは知らない))。そういえばトキオの歌だって知っているといえば知っている。題名までは(ググれば分かるがしたくない)知らないが、かなり妙な歌詞が続いて、「お前のオールを任せるな」と決め台詞がある。子供のPTA時代にある先生が繰り返し歌っていて、なるほど先生ウケする歌なのかもしれないな、と思ったことを思い出す。それにしてもみょうちくりんな歌詞で、僕には意味がよく分からないのだが……。
 しかしまあ、ジョウシマで驚くことではないのかもしれない。ちょっと前まで報道でよく聞くことがあった日産の西川社長(すでに辞任されているらしい)なんかは、サイカワと読むらしい。そう読めないことも見て取れはするが、それなりに驚くべき名前である。布団屋もびっくりしたのではないか。
 さらに思い出すのは、お笑い芸人に金田と書いてカナダという人がいた。日本人なのに……、いや、カナダという外国人も知らないけど。これも後で知ったが、名古屋に出張中に金田という地区があって、ふつうにカナダと発音されていた。実はほかの地区でもそういうのがあるということで、金田というのは紛らわしいようだ。さらに野球で有名な金田正一だが、僕の子供のころにはショウイチと普通にテレビで紹介されていたが、死後にはマサイチで統一されていた。ちなみに苗字はカネダである。
 若い俳優で染谷将太という人がいるが、何か人を小ばかにしたような演技が上手である。これまでも活躍されているし、今後も期待大であるが、僕はなかなか彼がソメタニであることを失念してしまう。ふつうソメヤではないかという感覚があるのだろう。しかしながらこれはかなり混在しているようなことであるらしく、ソメタニもソメヤもそれなりあちこちにあるらしい。もともとタニというのは紛らわしいと思っていたが、あちこちにあるんだからどうにもならない問題かもしれない。
 佐藤健という俳優がいて、なかなかの二枚目なのだが、これが使われている漢字が違うけれど僕のおじさんと同じ読みの名前である。それだけの話なのだが、音だけで聞くと、ちょっとだけドキッとすることがある。それでテレビなどの画面を見て、ああ、そうかとホッとする。父と漢字も音も同じで名前の方でマサルという作家(というか、文筆家というか)がいるのだが、テレビに出るようなことは無いから発音はめったにされない。よく雑誌などの記事でお見受けするのだが、よくまあこれだけの量あちこちに書いておられるものだとは思うものの、特にドキッとするようなことは無い。文字だけだと大丈夫である。
 これも最近本を読んでいて井上毅が出てきた。歴史の本で度々目にする名前なのだが、その時はルビがふってあって、名前がコワシだという。これまで何度も目にしてきた名前だったのに、音を正確に覚えていなかった。これはちょっと恥ずかしいことのようにも思えたが、まあ、間違えることも人生だ。それにこれは関係ないが、僕が子供のころには最後の徳川家の将軍は、徳川慶喜(ケイキ)と大人たちは発音していた。いつの間にか誰もがヨシノブというようになったのであって、昔の人の名前を正確に発音するのはなかなかに難しいことだ。それに昔は個人でも襲名などしてコロコロ名前自体が変わる。今の世のキラキラネームのようなところがあって、勝手にいろいろ変な漢字や読みを試みる人が多く、たいへんに紛らわしい。現代のヤンキーの親が特に変なのではなくて、これはれっきとした日本の伝統的な変なところであろう。それにしても最近の子供で、音で読めるようなのは少数派で、学校の先生は大変であろう。書いてあるのに自国民すら読めない文字があふれている国というのも、国際的にも歴史的にも珍しいことのように思える。これからは名前は素直に読めないし、ましてや間違ったからと言ってとがめられるようなことが無いように、誰かが指導をすべきではないかと考えている。(これはいろいろ続けられそうですね)。
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ルビーは喜ばれる

2020-08-03 | ことば

 日本の文字の特徴にルビをふれるというのがある。読みにくい漢字にルビが降ってあると助かる。それは麻生大臣でなくとも助かることに違いない。実際読めない漢字というのは結構あるもので、読めないだけでなく、意味もつかみにくくなって閉口させられることもある。難しい漢字を使えることを自慢げに変換させるような無知な人も多くて、いちいち読みにくい文章というのがそれなりに増えている気もするのである。役人の文章みたいに妙な横文字や記号の多いのも困るが、要するに分かりにくく書く方が知性的だという勘違いの表れだろう。もしくは書いている人が、本当は何を言いたいかはっきりしないだけかもしれないが……。
 西洋の映画なんかを見ていると、発音している名前などを、何とつづるか説明している場面があんがいある。要するに書いてある通り発音されない可能性のある名前なのだろうと思われる。アルファベットにルビをふるという習慣を見たことが無いので、書いてあるだけでは、間違われて発音され続けている単語なんかもあるのかもしれない。特に英語というのは日本語と比べても単語の数も多いし、全部の英語話者がすべての単語を知ってるなんてことはあり得ない。読めない単語の存在なんて、実際にごまんとあることだろう。彼らはルビを持たないだけでなく、日々読み間違いの人生を送っているのではないか。それはロシヤ語でもスワヒリ語でも同じだろうし、中国語なんて漢字だらけだから、読めない文字ばっかりあるんじゃなかろうか。教育もあるとは思うが、海外では一定の文盲率があるようで、それらの何%かの原因に、このルビということがあるんじゃなかろうか。
 ところでこのルビという言葉は、英国からの輸入らしい。活版印刷の技術を日本が英国人から習った折に、伝わったものだという。ルビのない国から何故ルビを習うことができるのかというと、実はあちらの国では、文字の大きさを宝石などの名前を当てて読んでいるらしい。だからパールとかメノー(単語としてはageteだが)という文字の大きさあるらしく、なかなか華やかなのである。それでルビーという大きさの文字が、日本のフリガナに使われる小さいポイントの文字を指す言葉だったという。
 カッコつけてルビーをふるって発音したところで、気取っているだけでなく、通じないかもしれない。でも実際はその方が正しいわけだ。なかなか言葉というのは難しいものである。
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日本の苗字は何故多い?

2020-04-10 | ことば

 日本人の名前のルーツを探る、というたぐいのテレビ番組や、その手の本というのは、それなりに繰り返しこれまでも取り上げられている様子である。日本人の名前というのは、それだけ多種多様で、面白い分野であるといえる。何しろ一国の名前(苗字)としては、もっとも多様で数が多いとも言われている。もともと江戸時代までは限られた人しか苗字を持たなかったが、明治になって皆が苗字を持つようにということになった。それで多くの人が、自分の住んでいる地名や、自分の先祖が住んでいた地名をもとに姓を名乗ったとされている。そもそも地名というのが多種多様で、歴史の変遷で様々な地名が生まれたと考えられている。古来原住の民の言葉を漢字にあてたものもあるだろうし、新たな文化から命名されたものもあるだろう。要するにそのような地名をもとに名前をこしらえたものだから、膨大な数の苗字を生むことになったという。実際に調査したものもたくさんあるのだが、いまだに発見される苗字もあるという。その総数は、おそらく30万種ほどであると考えられているらしい。
 それでその種の名前を収めた本があるはずだと思って探してみると、それらを集めたとされる辞典自体も、たくさんあるようである。大変な労力をもって調べられたものらしく、また出版社の事情などもあるのか、30万すべてを収めたとされるものは、なかなか見つからない。さらにこの30万という数の根拠になっていると考えられる芳文館から出ている日本苗字大辞典というのがあって、これが全三巻で、定価がなんと346,500円であった。ただし収められている数は29万なのだという。欲しいと思わないではないが、ちょっと簡単には手が出ない。さらにあと1万がなんとなく惜しい。それくらい名前の集大成というのは、難しい事業なのであろう。
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お前はもうだめかも

2020-02-16 | ことば

 1940年代にアメリカのデュポン社の開発した新素材のナイロン・ストッキングが発売されると、爆発的にヒットして世界を席巻した。それまでの我々の生活が、激変したといえるのだそうだ。ちなみにナイロンの語源は、「now you lousy old nipponese.! (古い日本製品はもうだめだ)」という説があるという。少なくともアメリカでは、そのように揶揄して覚えられた新素材の名称だったようだ。
 まあしかし、実際の語感としては、日本人に対しての敵対心を直接的に日本人に向けていることがよく分かる。当時日本の絹製品がアメリカを席巻していたとされ、その後戦争で戦うことになるわけで、アメリカ世論が日本との戦争に向けて一方的に高まっていたということなのだろう。
 政治とは敵を作って叩くことだ、ということが言われることもある。日本のそれはどうかとも思うが、西洋的な考えは、そうなのかもしれない。また、そうである方が、強く物事を推し進めるには、何かと都合がよさそうだ。叩くだけで気分がいいわけで、まあ、大衆とはそういうものだということだろう。悲しい気分はあるが、だから政治は科学ではないのだろう。ジャーナリズムも、またしかりだが。
 しかしこの日本に混ざっている敵対心の中には、アメリカ自体の弱さでもあったはずだ。日本の絹製品をアメリカに売っていたアメリカ人だっていた筈だ。アメリカの自由があって日本製品がアメリカ人の生活に入り込んでいたはずで、その後そのために、日本をねたんだということだ。結局は自分自身のさもしさに過ぎないのである。
 いや、しかしこれは、アメリカだけのことを言っているのではない。何か似たようなものを、日本にも感じているのである。ナイロンのようなものができるのであればそれも良かろうが、それなしにさもしくなる人々が増えると、どうなっていくのだろう。それを考えると、なんだか気分が重たくなるのみである。
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1+1に答えは?

2020-02-12 | ことば

 スープを作るにあたって、様々な食材を生かし、最高のものを作ろうとする料理人を紹介するものを見た。その人の談で、目指しているスープは「1+1のものが3になるように」作られるのだということだった。
 まあ、意味は分かるような気はするのだが、3になるのであれば、1+2だったりするはずなのが正解で、いくら1+1を試したところで、3にはならないからこそ意味があるのである。それが数学というものであって、根本的に考えを理解していないと思われる。
 しかし、繰り返すが、意味は分かるし、そういうものかもしれないという雰囲気も良く伝わりはするのである。食材の組み合わせというハーモニーが、不思議な化学反応のようなもので、深みのあるスープの味となるのであろう。それは確かに1+1のような組み合わせのはずなのに、3になってしまうように感じられるのであろう。
 そうなんだけど、実際には1+1ではなかったから3という結果が得られたのだ、というのが、数学的な答えなのである。そこに実証的な態度がある。そうしてだからこそ本当の意味を知ることができるのだ。要するにこれは数式を借りた文学であって、フィクションである。そういう世界の話が、この世にも存在するという空想を共有する人々の物語なのでありましょう。
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詩を書かなくていい時代

2020-01-11 | ことば

 若いころには割にやっていたのに、今はまったくやらなくなったものに、詩を書くというのがある。これはいわゆる曲を作っていたからで、詩もなんだけど、曲も作らなくなった。まあ、曲というのはギターか何かあれば今でもすぐに何かできるにはできるだろうとは思われるが、いわゆるメロディーができたとしても、それに詩をのせる気になれない。思いついた言葉を言ったとしても、センテンスとして意味を成すようなものを考えようという気になれない感じである。
 若いころの作詞方法は、ギターコードに合わせてだいたいのメロディを決めて、その上に詩を当てはめていくという感じだった。おそらく多くの人がそうすると思うのだが、ごろのいいと思われる言葉を、まるで俳句の575のような感じで当てはまりそうならば並べていく。うまくいくと詩のような感じになる。とりあえず当てはめておいた言葉も、後で何かと入れ替えたりする。だいたいのスジとして、「分かってくれないあいつのバカ野郎」のようなテーマがあったとして(それはテーマといえるのかは、とりあえずおいておいて)エピソードを交えて言葉を紡いでいく。時折ものすごく上手く言葉がハマることがあって、自分でも感動しながら(馬鹿である)詩を作っていた。何度か歌ってみて、再修正し(推敲のようなもの)、バンドのメンバーに聞かせて編曲をし直す、というような作業をした。僕よりどんどん曲を書く人が居たので、そういう役割は減ってはいったものの(どちらかというと人の作った曲の編曲に力が入るものなのだ)、やっぱり時々は自分も何か書きたくなるようなことがあったようで、自発的にぽつりぽつり書いたものである。今考えるとそれなりに言いたいことがあったのかもしれない。いや、ブログも書いているし、詩の方が面倒であるが。
 でもまあ、詩なんてものを書いていて平気なのは、若さの特権のようなもののようにも感じる。大人になっても詩を書いている人はいるんだろうけど、僕のような感じで書いているわけではないのではないか。その表現方法として自分なりにしっくりするから続けておられるのであろうから、僕のような若気の至りで詩になるということではないと想像する。
 また書きたくなるようなことが起こらないとは限らないが、とりあえず書きたくなくて平和である。平和でない発言もするにはするが、とりあえずやっぱり平和なのである。
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キラキラを変えるか変えないかを決めるもの

2019-10-19 | ことば

 クロ現で名前を変える人々を取り上げていた。今日本では年に4000名を超える人が自分の名前を変える手続きをしているのだという。日本人のうちそれくらいしかいないのか、と驚くところではないようで、たくさんの人がそうしているという意味なんだろう。日本の人口に比して、ずいぶん少ないとは思うけどね。また、ちゃんと手続き上戸籍の名前を変えるということに、何か世間的な抵抗もあるという感じなんだろうか。生活上勝手に名前を変えている人なんて、それこそごまんといるだろうからな。
 名前を変える人の大半は、いわゆるトランスジェンダーといわれる人らしい。性も変わるのだから、当たり前という気もする。もともと親は、生まれた時点では同一性でないことは分かりえないのだから、後に自分で変える必要はありすぎる理由だろう。また、名前には性と結びつくニュアンスが当然あるので、よりそれらしい響きの名前にするのは、生活上も必要になるということではないか。
 もちろん問題がありそうな人もいて、それは家族との関係が悪くなったため改名したいというものだろう。親との関係が悪くなると、親からつけられた名前自体が、いわゆる呪縛的な呪いのようなものになる。親の支配であるとか、家族の束縛から逃れるためにも、過去の名前を変えるという気持ちになるようだ。
 また犯罪歴のある人間が名前を変える必要があるということも言っていた。現在のようなネット社会だと、検索しても過去の事件が簡単に検索できる。新たな生活を始めようとしても、芋ずる式に過去の事件が洗い出され、暮らしにくくなる場合があるのだという。なんとなく、この問題だけは引っかかるものが無いではないが(性犯罪者など)、更生して社会生活をやり直す足かせであるのなら、幾分は理解できるかもしれない。
 あえて最後にあげるが、いわゆるキラキラ・ネームを大人になって変えるというのもあるようだ。紹介されていた人の過去の名は「王子様」というのだそうだ。親にとっては、そういう大切な子供という意味で名付けられたようだが、大人になってまで、自分の名前で親が馬鹿だと皆に教えているようで、嫌だったという。これは、もともとたいへんに話題になった話らしく、いかにもという感じだ。一般的なキラキラネームへの嫌悪感は、まさにそのような身勝手で馬鹿な親に対するものであろう。
 ただしである。現代の子供たちのほとんど大多数は、すでにキラキラネームばかりといっても過言ではない。フリガナなしに正確に名前が読めるようなケースの方がまれなことかもしれない。それくらい現代の若い親は馬鹿になったのかといえば、多少はそうかもしれないという可能性はあるものの、要するに少子化が進んで、子供を大切にするあまり、凝った名前を付ける傾向にあるだけのことであるらしい。聞くところによると、過去であっても長男などの最初の方のこどもには凝った名前が多く、実は一郎より二郎、三郎の方が数が多いのである。たくさんになると、あえて面倒になるのか、名前はいい加減になる傾向にあるらしい。
 そういうわけで、親からちゃんと名前の理由を聞かされて、愛情たっぷりに育った子供は、たとえキラキラネームであったとしても、その名前を将来変えたいということには至らないらしい。いくらひどい名前でも、親子の関係が悪くならない限り、そう簡単には改名しずらい、という気分はあるのだろう。ある意味それは、幸福なのか不幸なのか分からない話ではありますね。
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