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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

象徴の中には何が含まれる?

2019-10-15 | ことば

 僕自身がよくわからない言葉に「象徴」がある。言葉ですべてを表せないから、象徴があるのだという。しかしこれが共通になるというのはどういうことか。それが分からない最大の理由ではないか。
 キリスト教の象徴が十字架である、という表現は、なんとなくわかる。しかしそれで教義が分かるということではない。他の宗教に十字架が使われているかどうかは知らないが、ともかくキリスト教であるのだな、ということは分かる。要するにそういうものが象徴ということか。
 平和のシンボルが鳩である、というのも、分からないではない。でも鳩は食べてもいいし、ハト派が必ずしも平和主義なのかは疑問だ。平和の為に人を殺してもいいと思っているのではないか。
 自動車メーカーのマークのようなものは、以前はなんとなく理解できた。しかしながら近年のものは、販売店で違うのかどうか知らないが、いろいろあってよくないと思う。シンボルは作りすぎてはいけないのではないか。
 さてそれでは、と書こうと思ったが、やはりやめておこう。分からないでいいものもあるのかもしれない。少なくとも、分かったようなふりができて、実際には内容が違うようなものでさえ、象徴というものには含まれているのかもしれない。
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ベアトリスという猫

2019-08-26 | ことば

 朝の番組の猫の名前だったと思うが、ベアトリスということだった。種類や顔かたちは忘れてしまったが、名前は記憶に残った。ペットの名前というのは、どういうわけかちょっといい加減に呼びやすいものが多いように思うが、これはなんとなく目を引いて、かえって覚えてしまったのだろうか。散歩してても、何度も思い出した。どうしてだろう。なんとなくいい加減に感じないからだろうか。しかしベアトリスというのは、歴史がかった女王様のような名前だ。当然知人にはいないし、しかし記憶にある著名人にもいない。いや、映画で見た名前にあったかな。しかしそれはどんな映画だったか。
 人名語辞典を読むと、ラテン語のビアトリクスを語源としているようだ。意味としては「幸せにする人」。「神曲」に出てくる天使のような女性で、ダンテが愛してやまない永遠の女性の名前として知られているという。ベアトリスは、主にフランスやスペイン経由のようだ。
 あの猫は雌だったのだな。そんなことも忘れていた。しかし普段からベアトリスと呼ぶのだろうか。ベアちゃんとかトリスちゃんと略するのか。あんがいベスもありか。でも略さないほうがいいな。ベアトリス。まあ、なんとなく猫にはふさわしいような名前のように思えてきた。ちょっと貴族的で嫌な感じがいいのかもしれない。
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英語は必要ない言語

2019-08-18 | ことば

 日本人が英語ができないというのは事実である。何しろ、ほぼ全員といえる人々が、中学・高校と長い年月学んでいたにもかかわらず、出来るのはほんの一部、それもものすごく特殊な人のみだろう。できない人からするとものすごくできるようになっている人であっても、そんなに自信が無いという話も聞く。できる人でさえコンプレックスがあるようだ。それくらい英語は恐ろしく難しい言語のようだ。
 できない理由というのは、ほぼ決着がついていて、必要ないから。英語圏でなく英語ができる国の人々に共通するのは、英語が生活に結びついていること。収入に関係あることである。英語は生活必需になるとできるようになる能力なのだ(あたりまえだけど)。まあ、他の言語も同じだが。だから多くのアメリカ人は、当然ながら日本語ができない(勉強もしていないが)。何しろ日本語が必要ないから。日本語がうまくならない欧米人は多いが(特に米・英・豪)、彼らは傲慢なのもあるが、多言語を必要としない英語の利便性を享受しているからだ。日本も一億を超える人口や、国土も広く経済的にも豊かな大国であるために、日本語だけで一生完結して暮らしていくことができる。さらにほとんど内需でまかなえるために、一部の貿易にさえ頼ればいいという条件も、外国語を必要としない要件になっているのかもしれない。英語は必要になってから覚えたらいいことと、日本語のできる人を起用して事足りるということも、一般の人の能力を上げない理由かもしれない。
 また、今後は何といってもAIの時代である。同時通訳は、きわめて完成度の高い水準まで翻訳可能になっている。よっぽど才能のある人や、趣味的に楽しめる人を除いて、英語教育の必要はどんどん薄れていくだろう。また、出来ない身分としては、堂々とそうなってほしいという願望があるのは、確かなことだけれど…。
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お互いに無理のある言語関係

2019-08-08 | ことば

 日本にいてすでに十数年、いや20年近くだったか。とにかくそれくらい生活してて、まったく日本語はできないという外国人。それより短いかもしれないが、やはり英語圏の人も日本語は苦手だそうだ。
 日本語を話せなくていいと思っているわけでもないが、日本人と同じシャイなところがあるせいかも? といはいう。なるほど、性格と言語を関係づける考え方は、日本的だ。
 日本語を使わなくても日本は生活できる環境にあるということだろうし、それで収入が得られるのなら生活は可能だ。日本人の多くは、それで外国にいられるかどうか、分からないが。
 実際のところ英語圏の人でも、フランス語やイタリア語なんかだと話せたりする。中国語もそうかもしれない。日本語だけ特殊なのではないが、英語圏のような言語にとっては、やはり距離のある言語である可能性はある。
 国際的に特に英語に限定して下手だと認定されている日本人にとっては、ものすごく当たり前にも感じることだろう。日本にいると英語は不必要な言葉だが、勉強する上では、無視はできない。しかしながら、日本語と特に距離感のある言語であるばかりか、凄まじく難しい言葉が英語である。できるようになるような人は、ものすごくごく限られた一部の少数派であって、さらにそういう人たちであっても英語ができると自信のある人は、ほとんど居ないのではないか(謙遜もあろうが、できていても難しさを実感しているのだと思う)。またそのために費やされた時間を勘案すると、ほんとうに元が取れているのだろうか。そういう人が日本語で何か別の勉強をしていたら、その分野ではそれなりの学者にでもなれたのではなかろうか。少なくとも、それくらいの労力なしに英語ができるなんて無理だろう。
 まあ、言葉を勉強するのは面白いことなので、しなくていい話ではなかろうが、必要以上にやることは無い(そして人生は短い)。そうして仮にまったくできなくても、特に英語のようなものは、気にする必要もない。残念だけど、いくらでもほかの方法で代替可能だろう。憧れで話すようなことでなく、必要で頑張ったほうが身のためである。まあ、見栄を張りたいのなら、それはそれでいいですけどね。
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嘘が無いと書かれていたら

2019-07-31 | ことば

 誰かがある人の文章をほめていて、その理由に「書いてあることに嘘が無いから」というのを見た。それを僕はメモしていた。詳しい状況はほとんど忘れてしまったが、どうしてこれに引っかかった自分がいるんだろう、と思う自分がいる。
 嘘のない文章が好きだというのは、嘘のある文章が嫌いな可能性を示唆している。少なくとも彼は、書かれてある文章に、嘘か誠かの判断を下している。本当のことが書かれていれば好ましく、嘘であれば好きではないという、基準がそこに示されている。
 文章を読んで、嘘か誠かわかる場合というのはどういう状況か。
 その場に立ち会った第三者か、もともと知っている事実が書いてあったか。そういう検証的な何かの作業が、後から加えられたか。
 おそらくなのだが、この場合の嘘が無いという感じ方には、そういうことを指して言っているようではない。自分自身が彼の言葉を信じられるという立場を、示している可能性の方が高い。そうして信じられるような、いわば実直な書き方そのものをほめているのかもしれない。
 僕が引っ掛かった一番のことは、自分が信じたいとか、信じているような信念のようなものに対して、共感のある場合もあるんじゃないかと思えたからだ。たぶんそうなのだと思うが、真実を語る同志の考え方を、自分自身が称賛したい欲求があるのではないか。
 そういう場合の真実というのは、実証的である必要は必ずしもないかもしれないが、しかしながら嘘のバイアスのかかった可能性の方が高くなるのではないか。すでに価値観として自分自身が信じているものの証言は、あえて検証の必要なく真実といってしまいやすくなるのではないか。
 要するに、嘘が無い文章と紹介されている文章を目の前にすると、にわかには信じてはいけないような印象を持ってしまうと感じる。そこには少なくとも、検証もされていないが真実であると信じてほしいことか書かれているのではないか。第三者としては、それを生で受け取ることが危険なのではないか。
 警告文でない文章が、かえって人を警戒させてしまう。本人の強い願望は、得てして人の目を曇らせてしまうこともあるのではなかろうか。
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おへその場所と日本語の難しさ

2019-07-05 | ことば

 新聞の読者投稿の文書をなんとなく眺めていたら、日本語が難しいということが書いてあった。近頃そういう人は結構多いので、何かの流行りだろうか(ブログでも何度も取り上げていると思うし)。
 ともあれ内容としては、服か何かを買うためにお腹廻りをメジャーで測らなければならなかったらしい。表示に「おへその上で」測るように書いてあったそうだ。その方はその表記にすっかり悩まされてしまう。「おへその上」というのは正確にはどこのことか。おへそのある真上なのか、おへそのある場所からちょっと胸側に上がった場所なのか。どっちなのかわからない。わからないことが書いてある日本語は、悩ましく難しい。ということだったようだ。
 その方にはお気の毒なことだったかもしれないが、これは日本語の問題なんだろうか。読んでいてすぐに感じるのは、そういう違和感である。お腹廻りを測る位置として、どれほどの正確さが要求されているのだろうか。おへそは確かにお腹の真ん中あたりに普通はあるが、まあそれなりに個人差もあるだろう。その個人差のあるふくらみの、だいたいあのあたりという目安が、今回はおへそであったということだろう。おへそとその周辺で極端に長さの違う可能性のある人というのは、よっぽどのでべそであるとか、段のついた状態なのではないか。要するに悩んでいる暇があるれば、とりあえずそこらあたりで測ってみたらよかったのではないか。それに合う服を買うという目的の為に、どの程度を測るべきか、自分で実感できたらいいのである。
 もちろん、この日本語の難しさには、冗談の可能性がある。そういうことに悩んでしまう自分の面白さに、酔っている人だっているかもしれない。そうしてそれで、他の人を楽しませたいという気持ちもあったのかも。
 しかしながら僕のようなバカもいるので台無しである。そういう思い違いが起こるのは、本当に日本語の難しさなのだろうか。
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大統領が何代目かに合理的意味は無い

2019-06-27 | ことば

 アメリカの大統領で、例えばリンカーンが何代目かを英語でなんというか? というのはたびたび聞く話だ。あんがい難しいということもあるから問になる。しかしながら実際的にあんまり意味は無くて、そもそもアメリカ人は何代目かの大統領なんて気にしないという。あえてそのような順番は数えてもいいけど、いわゆる日本語的な何代目というつながりで、立場を捉えていない可能性の方が高い。ちょうど10代目だからひとつの節目であるとか、まったく意味が分からないことなのかもしれない。確かにそんなのたまたまのことかもしれないし、今の時代性とは何の関連も無い。大統領は代々築かれてきた地位なのではないのだろう。
 しかしながらこれには日本の首相も同じであって、何代目かなんて日本人の僕らもたいして気にもしていない。安倍さんが何代目なんて、知っている方が少数派だろう。さらに日本の首相は重複もあるから、やっぱり時間の上での順番でしかない。アメリカに比べてずいぶん多いということはあるが、これも実力主義で昇りつめたというような地位ではないような感じもあるので(権力闘争で勝った人ではあろうが)、仕方ないのである。僕らの直接投票する選挙で選ばれるわけではないし。
 しかしアメリカの大統領が何代目かというのは、実は就任した時など日本のメディアは、たいてい報道しているようだ。だからトランプさんが45代目であることは、それなりに知られていると思われる。これは日本人は知っていることだが、アメリカ人は知らないことである可能性が高い。
 日本人が気にする何代目かというのは、例えば天皇などはそれが言える。これは多くの人が気にしていると思われる。おそらくそういう連続性に意味を見出す人が多いからだろう。アメリカの大統領は天皇とは違う存在かもしれないが、しかし日本人の多くは、それに近い畏敬の念を、ひょっとすると米国大統領に抱いているのではないか。トランプさんは日本の報道機関からは嫌われている存在なので、そんなに敬意は払われていないようだけれど。
 他にも何代目と数える役職のようなものは結構ある。そういう連続性に、未来までの可能性を見出すような心情があるようにも思う。続くことだけが目的というのは、目的としては問題がある考え方だと思うものの、平和や安定を好む深層心理のようなものが、この何代目という考え方を支えているのかもしれない。
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親を何と呼ぶか

2019-05-22 | ことば

 子供が親を呼ぶ。ママ。パパ。日本人の田舎の家庭でも、今はこれが一般的なのかもしれない。呼びやすいし、かわいい。聞いていて、ほほえましい。
 僕は両親を、お父さん、お母さん、と呼んでいた。小さい頃もそうだったのか、それは記憶にないが、うまく呼べないまでも、最初からそうだったのではないか。何故なら弟二人と妹一人がいるけれど、彼らが小さいころもお父さん、お母さんと呼んでいるのを見たような覚えがあるからだ。姉や兄も、たぶんそう呼んでいたのだろう。
 祖母のところに遊びに行くと、父はおばあちゃんだよ、と僕らに教えた。いや、おばあちゃんちに行くとか、そういう風に言っていたのだったか。母がおばあちゃんを何と呼んでいたのか、ほとんど記憶がない。お義母さんといっていたに違いないが。
 父とおばあちゃんが話をしていて、父が「かあちゃん」と発音しているのを聞いて、ひどく驚いた記憶がある。父は僕らにお母さんといわせて、自分はかあちゃんといっていたのか。なんだかとても不思議だったが、ずいぶんしてその話を母にすると、私が最初に「お父さん、お母さん」と呼ばせたので、そうなったのだろうということだった。
 檀一雄の小説を読んでいると、彼が自分の子供に「チチ、ハハ」と呼ばせていることを知った。これもひどく驚いた。間違いではなかろうが、意外な感じというか。考えてみると、そういう呼び方をする家もあったことだろう。
 つれあいは、自分のことは子供に「かあちゃん」と呼ばせているのに、なぜか僕のことは「お父さん」といっている。息子たちは僕を直接「お父さん」とは呼ばずに、「ねえ」とか呼び掛けるのを習慣にしていた。そして多少大きくなって、「お父さん」と呼ばれるようになった。なんでもないことかもしれないが、うれしいものですね。いい響きだよ、ほんとに。
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褒められた自信は壊れやすい

2019-03-09 | ことば

 振付演出家のMIKIKOという人がテレビに出ていた。僕も彼女の演出のダンスはいくつか見たことがあるようだ。ガッキーのヤツとか。こういう人が考えてたんだね。また、こういう仕事があるんだな。
 MIKIKOさんは、子供たちから質問を受けて、「自信を無くしているが、自信を持つにはどうしたらいいか」聞かれていた。正確な言葉としては忘れてしまったが
「人から褒められた自信というのは、壊れやすいものだ。自分自身で納得できるものを、努力して獲得して自信をつけていくしかない」
 というようなことを言っていた(ように思う)。
 朝の連ドラのまんぷくさん。チキンラーメンの安藤百福氏は、ラーメンの成功後政府に乞われて、カップライスというものを苦労して開発発売することになった。関係者からは大絶賛で、これほど称賛を集めた商品はなかったという。ところが事業は大失敗で、30億円を失って撤退した。安藤氏は「落とし穴は、称賛の中にある」と語っていたという。
 MIKIKOさんやまんぷくさんの強さというのは、そういうことのように思う。自分の納得のできる仕事は、自分自身で見つけなければならないようである。だれも信用しないのはまずいかもしれないが、人の意見を安易に自分の指針にしてはならない。僕はわがままな人間だが、実感としてよくわかる。人の意見を聞かないようにしているのは、実際にそういう理由からだ。いや、聞いてはみるのだが、言うことを聞くわけではないということだ。自信というものではないかもしれないが、そういう風にしないと、結局自分では生きていけないのではなかろうか。
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足が速いと困る

2018-12-31 | ことば

 落語で「お足(単に足でもよいが)」と言ったら銭(金)のことである。辞書を引くと、足があるかのように渡り歩くから、とある。落語は庶民的な娯楽だから、そういう解釈でいいのだろう。もちろん足が好んで一休みするところもあるのかもしれないが、どうやったら休んでもらえるのか、またどこで集会などなさるものなのか、よくは知らない。
 他には、足が出る、などともいう。お金が足りない、赤字である。それは以前から聞いたことはある。おそらく落語以外でも言ったものなのだろう。予算を言っていたのに超えてしまう店があるが、幹事さん泣かせである。客の要望の何を聞いているか、考えてほしいものである。いや、客の中(仲間に)に特別いう人がいて困るのかもしれないが。
 人間は二本足だから四本足の獣からすると不利なようにも思う。しかし足ばかりの動物は、残念ながら「お足」には興味を示さない。いや、二本足の種でも、人間以外はそうかもしれない。コインのような光るものを集めるカラスならいるかもしれないが。要するに流通されるためではないのだろう。
 子供や陸上選手などなら足が速くて結構だけれど、お足のほうが速すぎると、生活に困窮する。やはり計画性が大事なのであろう。
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真似をされたらくすぐったい

2018-12-23 | ことば

 映画を見ていると言葉遣いが違う。ああ、舞台が北海道なんだな、と大体すぐには分かる。ふつうは風景が先だが、その程度の言葉遣いで場所は特定できる。また、北海道のアクセントは、いわゆる標準語との違いとしては、ほとんどほんの少しである。
 似たような場所に、沖縄がある。沖縄だって厳密にいえば方言のきついところはあるが、だいたいのアクセントの強弱の仕方の程度で、沖縄だとわかる。意味も大体通じやすい。
 僕は長崎県人だから、東北の言葉というのが一番むつかしく感じる。アクセントであちらのほうだとはわかる。しかし、相手がまじめに方言を使われると、ちょっとわからないところが出てくる。カンでわかる場合もあるが、流れ次第だろう。
 テレビや映画だと、語尾のアクセントだけ東北っぽくというのがあるのだろうと思う。なぜなら大体意味が分かるから。わからないように話されては、物語が理解されない。そういう意味では、やはり本当の方言ではないのかもしれない。
 ドラマの中で九州弁を聞く場合がある。こちらとしてはネイティブだから、わかるはずだが違和感が残る。要するに全国に通じる方言だから、こちらのものとは違うのだろうと思う。確かに長崎弁だとわかるのだけど、変だなあ、という感じ。地元がこちらの役所広司のアクセントは、さすがにうまいものだけれど、彼の演技と同様に、大げさでかつ、わかりやすい単語を交えながら発していることが理解できる。役者さんは上手いものだ。
 ところがこちらの出身でない俳優さんのもので、形だけ九州弁というのがはっきりわかる人もいる。身についていないものだから、語尾のアクセントが妙にわざとらしい。聞いていて何かくすぐったいような、妙な気分になったりする。
 東京の言葉がダイレクトに標準語なのではないが、そういう感じの語感は、東京の人にはないのだろうか。もともとネイティブでない人の集まりが東京だという話もあるし、気にしてないようにも見えはする。しかしながら妙に江戸っ子ぶったアクセントの俳優はいるもので、あれはあれで田舎臭い。言葉というのは妙なものである。
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自主規制は行き過ぎだけど

2018-10-14 | ことば

 お隣の大国を支那というのは、ごくありふれた常識だ。もっとも一般的には、中華人民共和国を略して中国という場合が増えたようだ。日本にも中国地方という場所があるので紛らわしいが、主に国を指す場合の文面としては、前後を忖度して理解している場合がほとんどだろう。歴史的にいろいろな名前のある国だから、支那で統一した方が混乱が少ないとも思われる。世界的にも一般的には支那(表記はchinaで日本人の耳にはチャイナと聞こえるけど、同じことである)という音で統一されてもいる。中国といっている国は、ほとんど日本くらいのものだろう。支那でも漢字文化は同じだから、略して中国とは書く場合が多いが、音はチュウゴクでは当然違う。ゾョンゴウに近い音で、日本人には聞き取りにくい。
 ところが支那とあえて使うと、どういう訳か右翼的な言動と捉えるような人が居たりする。さらに面倒なのは、これを自主規制する場合がある。マスコミはそういう対応を以前から取っていて、さらにネットでもそのようなことになっているらしい。何かに対する配慮という事らしいのだが、既に書いたように標準からずれる行為でもあって、困る以上に何か大変に失礼な感じがする。あまりよその国を馬鹿にしない方がいいのではないか。
 という事は普通に思うことだけれど、実際を考えると、やっぱり普段は中国といっていることが圧倒的に多い。日常の会話においては、そう正しくない中国の方が一般化している為である。文章で書く場合も、少し躊躇を感じないではないが、意識しすぎなければ中国と書く。特に信念が無くて申し訳ないことである。
 国の名前がどうでもいいことというのは変だけれど、まあ、そういうことはあるということか。日本だってジャパンやジャポンだけれど、これは中国の主に広東地区から日本という漢字を読むと、それに近い音がするからだ。それをポルトガル人が自国語で書き、さらにその表記を英語読みするとジャパンになるらしい。もっとも以前の日本でも日本のことをジッポンと言っていた可能性もある。祝日のジツという読みですね。ニホン、ニッポン、ジッポンと、この国の名前は音がいろいろである。どれが一番正しいというのは無い。あるという面倒な人もいるが、事実を知らないだけのことだろう。
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良い面だけを見る食べ物

2018-08-31 | ことば

 ふと翻訳ソフトに「親子丼」って言ってみた。でも「oyakodon」ってかえって来た。つまらん奴だな。でもまあこれは説明の仕方だろう。チキン&エッグ・(ライス)ボール(bowl)とでもいうのかもしれない。調理の仕方を説明する場合もあるだろうけど、複雑なのでパス。
 それでは、ってんで、やっぱり目玉焼きですよね、気になるのは。まあ、一般的にはフライド・エッグでいいらしいけど、日本的に片面だけを焼くのならsunny side upっていうらしい。これは太陽に似ているってのがあるようだが、何と言ってもsunny sideっていえば、良い面だけを見るって意味ですよね。太陽の当たる面だけを見ている感じが、なかなか面白い。目玉焼きの意味はぜんぜん通じてないけど、これはもう考え方の問題なんで、日本人には面白い発想に感じる。
 ちなみにだが、固焼きの卵焼きのことをhard boiled egg という。良いですね。非情な卵。もちろん素直な英語なんだけど、日本語的には面白く聞こえるところがいいです。実際に食べるなら、半熟の方が好きだけど…。
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記号の名前って味気ない?

2018-08-27 | ことば

 前を走る車がワーゲンでTSIと書いてある。後で調べたら、ターボチャージャーなんとかかんとかというエンジンのシステムの略文字であることが分かった。気になったのは、それなら仕方のないことだが、なんとなく速そうじゃないな、と感じたからかもしれない。
 日本車の場合は、SとかRとかZのような文字がくっ付く場合がある。何の意味かは実はよく知らないが、なんとなく速そうな印象があったりする。おそらく日本人にとってそれらのアルファベットは、そういうクオリアがあるのだろう。ドイツ人にだってそういう感覚はあるんじゃないかと思ったのだ。
 さらに思うのだが、確かにドイツ車というのは、このアルファベットの使い方が、なんとなくそっけない。ベンツのくせにCクラスとかLとかいうのがある。実際はどうだか知らないのだが、なんとなく程度が低そうな印象が無いか。これはドイツ合理主義の所為だという話であるが、そうなのか。ヨーロッパ車には数字(ナンバー)の場合もけっこうあるようだ。そっけないし覚えにくい。子供のころは911とか928とか言っていた気がするが、あれは昆虫採集のような物覚えの良い時期の為であるようにも思う。覚えている人はいるが、覚えにくい人もいるのではないか。
 名前を付けると輸出をする際にその国での印象が良くないという事があるという。日本車が米国で販売されるときに違う名前になったりする。それはなんとなくめんどくさそうだが、別にかまわないような気もする。日本でも米国でもドイツなどは数字やアルファベットで通すのだ、というような頑固さがあるんだろうか。いや、これは頑固なのか。
 記号や数字でも意味を知りたい。またその印象も知りたい。どうしてそのようなものに、感覚が伴うのだろうか。また、これには男女差もあるのではないか。
 僕はブランド名がほとんど読めないが、そのようにローマ字読みなどで分からない文字を、そのまま日本で売っている感覚がよく分からない。ルビを振って欲しいな、と思うのだが、それじゃだめなのか。
 まあ日本車だって「トヨータ」と言われたり「ハンダ」と言われたりしても、通じてはいる。日本人だってよその国ものをちゃんと発音できているかは怪しい。数字やアルファベットは、そういう意味では無難なものなのかもしれない。
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末尾に姓だけは失礼です

2018-08-25 | ことば

 宛名の話で思い出したが、最近メールをいただく際に、特に事務的なものに限って、文章の最後に、自分の姓だけを書いてくる人がいるのである。それも、そんなに少なくは無い。
 これはおそらくなのだが、書いている人は、案外へりくだって書いているつもりであるようなフシがある。姓名まで記すほどの者ではありません、と言いたげな雰囲気なのである。何故かというと、そういう人に限って、本文は事務連絡にしては結構丁寧だったり遠回しだったりする場合が多いのである。いわゆる失礼の無いようにという意識が、過剰な感じかもしれない。そうして自然に最後には、姓だけの人間になるという事ではないか。
 しかしこれは、本来は大きな間違いではある。姓だけ書くような人は、実は自分が目上であるからそうする訳で、目下の人間に親しげな雰囲気を出すためにそうする訳である。それくらい君とは親しい間柄になったね、という感覚であろうか。姓だけ書いても当然相手は自分のことを詳しく知っているのだからかまわない、というような気やすい感じからそうするのかもしれない。
 さらに実際に困るのである。まだそれほど親しくもなっていないような、さらに返答が必要な文面であるにもかかわらず、これを平気でやってしまう事務方の人が困るのである。メールを返す際にこちらとしては、相手の姓名を書かなければ礼を失するという感覚がある。確かお逢いしていたはずであれば、名刺などを引っ張り出して探さなければならない。また、相手側の他の記録などを探して姓名を探る場合もある。もともと面識も無くて、上司からの命令で書いてくるような人もいる。これではどうにもならないので、あえて相手側の事務局の担当者様とことわりを書いて、失礼を承知で姓だけを書く場合もある。電話などで確認するより、急を要する場合があるからである(まあ、面倒だし)。
 何を言いたいかというと、迷惑だという事だ。こういう事務連絡こそ、正確に必要最小限のことを書くべきだ。文面などを特に凝る必要などなく、自分自身の名前くらい、正確に記すべきなのである。特にそのような面倒を相手にかけることになり、大変に失礼であるという感覚を持ってほしいものだ。まあ、それくらい偉い人なのかもしれないが。
 よく分からないのだが、そういう間違った礼儀を教えるところがあるんだろうか。まあ、僕は礼儀などは、あんまりどうでもいいのだけど、仕事をしやすい感覚をお互いに持って欲しいと思うだけのことである。また、本当にへりくだるのなら、姓では無く名の方だけにすべきなのだが、また話がややこしくなるので止める。素直に両方書いて下さればそれでいいだけのことなのである。よろしくお願いします。


追記:末尾に苗字だけでいいのは、例えば同じ会社内の案内などはそうだといえる。総務部の斉藤が他の部署の上司に向けて文章を書く場合は、それでもかまわない。いわば身内だから。しかし同じ業界の他の会社へ、共通の案内だからと言ってこれをやるには注意が必要だ。礼というのは内と外は厳格な感じがある。
 役場などが市民向けの案内の末尾に担当者の性だけ書くのがあるが、これも厳密には悪い見本だろうと思う。ひょっとするとこういうのが、この問題の蔓延の元かもしれない。
 行政の文章には、一般社会の礼儀からすると、非常識なものが多いように思われる。これを見本にするのは、危険が多いと考えた方がいいだろう。
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