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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

海の岩場の三角関係

2017-12-08 | Science & nature

 伊勢エビはその硬い殻で身を防衛している。またトゲトゲのある触角などでも身を守っている。一部の魚(カワハギの仲間など)を除いて、魚たちはこの防衛に文字通り歯が立たない。
 しかしながらこの硬い殻をものともしない天敵がいる。マダコである。マダコはこの硬い殻を砕くことが出来る口の機能がある。また伊勢海老のトゲトゲをものともしない吸盤で、動きを封じ込めるだけでなく、口からだす毒で体を痺れさせ食べてしまう。
 マダコは、伊勢海老が身を隠す岩場の陰にもぐり込んで襲うこともある。ところがこの岩場には、海のギャングとも言われるウツボも多く生息している。ウツボはマダコを大好物にしていて、足に咬みつくとぐるぐる体を回転させて引きちぎってしまう。マダコはやはり好物である伊勢海老を狙うが、伊勢海老はこのウツボを用心棒にして、マダコから身を守っていると考えられている。ウツボは伊勢エビの殻に歯が立たないが、身の柔らかいタコを襲うために、伊勢海老の周辺に張っているような感じだ。
 見事な三角関係といった感じだが、このような危険を冒してもマダコが伊勢海老を狙うのも、マダコの一生が一年しか無く、卵を産むために多くの栄養を摂らなくてはなら無いという事情があるようだ。ちなみに伊勢海老の寿命は20年とも言われ、大きく成長した伊勢海老は、マダコにとってこの上ない栄養分になるのだろう。
 一番強いウツボの寿命は30年(ウツボにも種類はあるが)。まさにこの海の世界では、王者のような存在だ。しかしながらこのウツボは非常に好戦的で、仲間どうしでも激しく争い合って生傷が絶えない。小さい個体は、そのまま餌になってしまうようだ。また、ウツボは大変に美味とされ、人間が好んで食べる。しかしながらその強靭な口で咬まれる危険も大きく、咬まれると縫うほどの大けがを負いかねない。魚屋に食材として並んでいるならともかく、安易に近づかない方がいいだろう。まあ、見た目もグロテスクだし、素人が相手する存在ではなさそうだけれど。
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三種の卵を産み分けるツボワムシ

2017-09-29 | Science & nature

 ツボワムシという微生物がいる。大きさは0.3ミリ程度。名前の通りツボのような殻を持っている。繊毛を使って泳ぐのはもちろん、水流を作り、植物プランクトンを食べる。口の中に咀嚼器があり、食べ物をつぶして食べる。食べかすは排出する。多くの小魚が好物として食べるらしいが、ツボワムシは繁殖力が極めて高い。普通一日に2倍、一週間で100倍の数を増やすという。毎日卵を産み、生まれた子供は二日でまた卵を産むようになる。餌が豊富など環境がいい時は、生まれるのは雌ばかり。だからこそ急激に数を増やすことができる訳だ。
 ところが餌が減ってきたり数が増えすぎたりすると、雄を宿す卵を産むものが出てくる。そうやって生れ出たオスは咀嚼器を持っていない。胃や腸なども無い。つまり食事をしない。ひたすら泳ぎ回り雌と交尾する。
 そうして交尾した後に生まれる卵は、茶色く硬い殻をもっている。この卵は気温の変化にも強く、乾燥にも耐えられる。そうして水中の環境が良くなるまで、孵化するのを待っているのである。
 一つ目の卵は、自分自身を二つに増やすような役割。二つ目は、オスを生むため。三つ目は、次代が生き残る為。同じ種類が3種の卵を産み分けるのである。
 僕は人間のオスだから二つ目の卵にはなんとなく悲しみを感じるが、しかしながら飯を食べない訳では無いから、いくぶん幸福である。まあ、生物のオスとしての役割というのは、基本的に本生命の補佐的な多様性の為の担保のようなものなのかもしれない。あまり意味のある存在で無いからこそ、虚栄を張るオスというのは人間には多いのかもしれない。
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無は無いというが

2017-08-22 | Science & nature

 何にも無い、という実感はある。目をつぶって何も見えない。いわゆる何にもないのと同じことでは無いか。
 でもまあそれは意識のことで、瞑想してもそんな簡単にはこころは空っぽにならない。むしろ無意識の時間なら、なんとなく覚えていないし、無といえるものがあるかもしれない。多くの人は生まれる前の頃は憶えていないだろうから、そういう前のことを考えると、人間の意識としての無は存在するかもしれない(表現に矛盾があるが)。
 地球には様々な条件があって大気がある。僕らは大気の中の酸素を利用して呼吸している。息を止めると苦しくなるから、目に見えないけれど、何かあるという実感はおそらくあるだろう。水の中だとか、行ったことないけど、宇宙に行くと、同じく呼吸ができないらしい。水の中はともかく、大気の無い宇宙であれば、それはひょっとして無といえる空間と言えるのではないか。英語だとspace。 まさに宇宙とは隙間というか空間であるような感じがある。でもそれって相対的に星などがある途中のすっ飛ばしたものを指している大雑把さも感じる。
 しかしながらその真空の中にも何らかのエネルギーの存在があるという。それは計算から導き出されていることで、一般の人には実感しようのない力だ。さらに実際何の力であるのかさえ、いまだに不明だ。ダークマター、とかダークエネルギーといわれるが、要するに暗い空間の何かだ。宇宙空間の星の集まりに影響を与えている可能性があり、今分かっている物質とは反応しないタイプの物質かもしれないと言われている。憶測の範囲だが、あるらしい気配はなんとなくあるもの、何しろ検出する方法が今のところ見つかっていない。だから厳密に宇宙空間を無と考えることは現時点でダメらしいということだ。
 哲学的には、人間をはじめすべてのものは意識下から無くなってしまう。それは人間が感じ得ないという点では、確認のしようの無い、しかし確かそうな無だ。宇宙空間は人間の意識化とは別に存在し、長い時間をかけられ、そうしてひょっとするとビッグバン以前から存在していた可能性すらある。そうすると人間の個人の意識を持っている時間なんて、まったく存在していないものと変わらない一瞬性の出来事だ。
 物理的に何を無とするかは難しい問題だが、やはり無に等しいものは、実感のあるものの中にも多く含まれている。無なんてことを考えているそこにある実感を誰がもっているのかなんて、他人には分かり得ないまったく自由で無意味な仕事なのである。
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ウサギは偏食家?

2017-08-06 | Science & nature

 ウサギの舌には味蕾(みらい)といわれる味を感じる器官が、ヒトの1.5倍、約1万7千あるという。要するにものすごく味にうるさいのではないかと考えられている。味音痴というようなことは考えられず、細かい味の違いを理解できているはずらしい。
 ヒトの場合だと、この味蕾の数の違いで、味の違いを感じる個人差が生まれるようだ。味音痴というのは本当にいて、味蕾の数が少なければ当然違いが分からないということになりそうだ。しかしながらこれは厄介で、いわゆる偏食家には味蕾の多い人があんがい混ざっている。特に野菜嫌いなどは、味蕾が多いために普通より苦さに敏感になって、食べられないような人がいるんだそうだ。細かい味の違いをテストするような立場の人には、この味蕾を持っているかどうかの才能は役立つが、味の違いが分かる人が、美味しく食べているかは別問題ということのようだ。いわゆる食通というような人は必ずしも味蕾が多いという訳では無く、実は味に鈍感だからこそさまざまな食べ物を抵抗なく受け入れたために、膨大な食の記憶を手に入れたという人もいるのかもしれない。
 ところでウサギだが、いくら苦味に敏感だからといって、草食動物である。人間にとっては苦すぎたり、酸っぱすぎるようなものを、しかもふだんはほぼ生で食べている。野生のものなら別だが、ヒトに飼われているような立場なら、食材を選ぶことすらできない。監禁状態の上に、なんとなく不幸な身の上という気もしないでは無い。おそらく人間とは味覚も違うはずで、味蕾の数が多くとも、何か感覚的にはもっと違う機能のために敏感なのかもしれない。例えば毒見の為であるとか。
 しかしながら好物とされる人参なども、偏食的にそればかり食べては、ウサギにとっては必ずしも健康的とは言えないという。人参はウサギにとってちょっと糖度が高めの食材なのだという。動物にはアリしか食べないとか何かの葉しか食べないとか、極端に偏食な生き物も多いけれど、事ウサギに関しては、ある程度バランスの良い食事を心がける必要があるそうだ。
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アオウミウシを探しに行こう

2017-07-09 | Science & nature

 岩場の海岸でひときわ人気が高いのがアオウミウシ(写真はたくさんあります。ググってください)。小さいが、その名の通りその青が美しく、黄色い斑紋、赤い触角をもつ。
 岩についたカイメンを食べているらしい。そうして背中の下の方に肛門があって、そこからフンをする。さらに面白いのは、その肛門を取り囲むように、花びらのような赤い鰓がある。この鰓で海中の酸素を取り込んでいる。口は別にあるが、どうしてまあ、そんな体の構造になったのだろう。さらに似ても似つかないが、実は巻貝の仲間である。
 海岸の浅瀬ですぐに見つかるので人気があるわけだが、眺めていると、これが我々と同じ地球の生物であることが、なんだかとても不思議に思える。子供を連れて海に遊びに行くようなことになったら、ぜひ探してみてください。
 ただし、どういう訳か沖縄には居ないらしい。飛び越えて台湾や香港にはいるというのだが…。沖縄には、旨いカイメンが無いんでしょうかね。ともかく、ほんとに不思議な気分にさせられる生き物である。
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僕は学習部長に向かなかった

2017-06-15 | Science & nature

 中学生の時に、何故か僕はクラスの学習部長というのをさせられたことがある。それで部長として目標を掲げなければならないという決まりがあって、特に信念があった訳では無いが、適当に「朝自習の徹底」という目標にした。当時学習部長は、先生のお手伝いとしてプリントを輪転機にかけたりするようなことをやっていた。僕は長らく新聞部で新聞を作る事ばかりやっていたので、まあ、そういうことで学習部になったのかもしれない。それにまあみんなは勉強が忙しいし、まったく勉強する気が無い人間には、適任だったということだろう。この朝自習の時にやる小テストというのがあって、せっかくなので、これを作るのに結構燃えたという記憶がある。何しろ僕は元新聞部だ。活字を書いたりするような事と似ていればなんでもいい。いろいろ問題集を引っ張って来て、漢字テストをはじめとする様々な小テストを量産した。だいたい10問程度のものだが、学習進行具合にあわせて、どんどん、どんどん問題を作る。それはもう、朝自習の時間を目いっぱい使ってもらわなくてはもったいない。
 ところが、この所為で自分のやりたい学習時間が削られて困る、という意見が出だした。小テストは本来朝自習の中の一つのやり方に過ぎなくて、個人の課題となる勉強を妨げてはならない(大意)、ということらしかった。それはもっともで、僕は嫌いな人の意見はまったく聞かないが、比較的まともそうな子もそのようなことを言っていたので、先生に掛け合って、完全自習で好きなことを一定期間させるという了解を取り付けた。
 結果はすぐに成績に表れた。クラスの平均点はどんどん下がって行った。今考えると当たり前のことだが…。自主性のある一部の人間を除くと、ある程度の強制のない時間に、身を入れて勉強するような奇特な人間など居ないのだ。
 さらに今考えると、小テストは実はかなり有効だったのである。人間の脳は、反復して無理に力ずくで覚え込むより、実用的にテストを繰り返した方が、記憶力は増大する。それは必要であるという脳の錯覚を利用したもので、テストに出された問題を、たとえ答えにたどり着かずとも考えたことで、その答え自体を重要と思って勝手に暗記してしまうらしい。
 小テストをたくさんやった時期はそれなりにいい調子だったものが、本当の自習を徹底したことで、大きな落差をつくって成績が低下したということらしい。自習のやり方については多くのクラスメイトから感謝されたが(楽だし)、結局相対的には皆の為にはなっていなかった。その後も学習部長を続けられたものかは、もはや記憶にない。壁新聞用の4コマ漫画のネタを、うんうん唸りながら毎日考えていたという記憶はあるのだけれど…。
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見えないゴミの驚異~マイクロ・プラスチック~

2017-05-09 | Science & nature

 海はええなあ、海は。などと海を眺めていて心洗われる思いがしたことのある人は多いだろう。寄せては返す波は何故だか見飽きない。しかしながら残念なのはゴミである。よく見ると、ゴミのない海岸というのはほとんどないし、海上にもゴミが浮いている場合も多々ある。木の枝などは自然にそうなったという場合もあるかもしれないが、特に問題なのはプラスチックである。まったく分解されない訳では無いが、そのためには長い時間がかかる。海岸や海上だけでなく、海底にも相当量が堆積されているという。海底のゴミは微生物が少ない為か分解も遅くなる。深い海の底は、ゴミの貯蔵庫のようなことになっているという。海水にも流れがあって、そのようなゴミが舞い上がるようなことも稀ではない。人間のスケールでは地球や海は巨大だが、無限という訳ではもちろん違う。人間の活動に比例して、そのようなゴミが減ることは無い。特に日本の海においては、日本の国が出す排出量は減っているにもかかわらず、海の中に紛れているプラスチックのごみは、年々増加しているという調査結果がある。海はつながっている訳で、アジアの国々の経済発展が、日本の近海の海にも影響を与えているということだ。
 特に問題になっているのは小さなプラスチックだ。一般にマイクロ・プラスチックと言われているが、海にあるプラスチックごみのほとんどは5㎜以下と言われている。人間の視覚で捉えられるゴミの方が、実は少数なのである。そのことは、海の水をすくうだけで、その中にゴミが紛れているということを指している。その海の中で暮らす生物に、この影響が無いと考える人は居ないだろう。
 さらに近年特に問題視されているのは、もともと小さなプラスチックが、さまざま製品に使われて、我々は知らず知らず使っていることだ(むしろ歓迎して)。スクラブと言われ洗顔剤などの含まれている微細なプラスチック(マイクロ・ビーズといわれている)は、そのチューブ一本に数万単位で使われている。川や海には、いわばスモッグとしてそれらのプラスチックが漂っているということらしい。
 実際に魚や海鳥などが誤って小さなプラスチックを飲みこんでいる。そのような小さなプラスチックは、飲みこんだ生物の脂肪や肝臓などの臓器に溜まっていく。食物連鎖もあって、プラスチックを呑み込んだ微生物や小魚を食べる魚などには、有害な物質が染み込んだプラスチックの毒が濃縮して溜まるというようなことになるという。もちろん魚を食べるのは海の生物だけではない。人間が食べている魚の中には、一定数の有害化したプラスチックが含まれているのかもしれない。もちろん量が一番の問題だが。
 それらのゴミを回収したり分解させたりする研究は進んでいる。それらの研究そのものに対する期待もあるものの、実際には排出されるゴミを減らすことを考えないことには、根本的には問題は解決しえない。しかし問題なのは、当たり前だがそれらのプラスチックは、人間の生活には欠かせない便利なものであふれているということだ。それ自体を使わないという運動はあるにせよ、使わざるを得ないという事情もある(それが現代の人間が生きているということだ)。代替製品の開発もまたれるところだが、プラスチックを使わないことによるコストの方がかかることは間違いない。高コストというのは、つまり見えない公害を増やすリスクがあって、プラスチックを使わないことの方が、実は厳密にはエコではあり得ない。現時点の結論を言うと、もはやこの問題は絶望的である。
 しかしながら諦めるためにこんなことを書いている訳では無い。それでも問題を意識する。さらにその問題解決に向けて何らかのアクションをする。ものすごく地味でも、それも人間の生きる道なのではなかろうか。
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火星移住計画

2017-03-26 | Science & nature

 SFの世界の話ではなく、実際に火星に移住する方法があるという。ただし地球と火星の環境の違いは大きく、人間が住むためにはそれなりの歳月をかけて、火星の環境を変える必要があるらしい。その方法をテラフォーミングという。
 火星は比較的地球に近く移動が簡単とはいっても時間がかかる。行くのに3カ月以上、帰るのに1年。時間差があるのは、地球も火星も太陽の周りをまわっているので相対的な距離が変わる事、季節の関係等いろいろあるんだそうだ。また移動中宇宙線を浴びることも人間には負担になるという。細かく言うとさらにいろいろ問題はあるが、ともかく火星の環境に絞ろう。
 とりあえず宇宙ステーションのような場所を火星に作るにせよ、人間はそこでしか住めない。それなら火星の環境を変えてしまった方がいいということのようだ。
 火星には人間が呼吸できるような濃い大気が無いので、まずはメタンなどを散布して火星を温暖化させる。そうすると火星の地下に眠っている氷が解けて海のようなことになり、雲が出来て雨が降るような環境が出来る。さらに二酸化炭素などが溶け出して温暖化が加速する。
 同時に火星に磁場を作る必要もあるらしい。火星の北極と南極に人工的な電磁場コイルを作り、出来た大気を太陽風から守り、宇宙線などもできる限り遮断する必要もあるらしい。地球は自然にそういう磁場があって、人間は守られているということなんだそうだ。
 映画なんかでもやっていたが、微生物を持ち込こんで植物が育つ栄養素なども作り出す必要があるそうだ。できる限り地球のような環境に近づけて、第二の地球にしなくてはならない。結局人間は、地球の環境で無いと住むには難しい。だから、住むためには地球化させるより無いのだ。
 ところでこの計画の途中で、火星由来の生命が発見された場合は、直ちに計画は中止されるのだそうだ。こういうのは火星の生物の先住権があるという人間的な考え方かもしれない。しかしながら火星独自の生命であれば、その命は尊重されるべきではあろう。その時に人類に危機的な状況で地球に住めなくなったという条件が無い限り、守られるべきルールかもしれない。
 何年先の話かは、分からない。100年後にはそうなっているという大胆な予想もあるそうだ。まあ、いずれにせよ、僕の寿命では確認は出来ない。そういう意味では現時点で、その予想は実現可能なのかもしれない。
 ところで、そういう火星に住みたいかと問われたら、どうなんだろう。夢の実現に為には様々な苦難が伴うが、夢を破壊する想像は、あんがいありふれているかもしれない。可能性の夢の前には、楽観的に、物事は現実的に考えすぎない配慮が必要なのであろう。
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重要なら何色?

2017-01-31 | Science & nature

 単純なようだけど、忘れちゃいけないようなことは、赤ペンで書くと忘れにくくなるという。おそらくこれは、ふだんは黒で書くのに、重要だから赤に変えたという特殊性もあるし、やはり赤という色と、重要というサインとの結びつきが、それなりに強固に実感を伴うためであると考えられる。
 実際に色と感情というのは、かなり強力に左右されるようだ。陶器なども青っぽいと冷たさを感じるし、肉の赤などは、それだけで食欲が増進したりする。
 自分なりに気に入った色で何かを飾ると、それだけで気分が高揚するというのは、だから理にかなったことかもしれない。何もかも、それらしい色にすることは無いとは思うが、特に勝負事などには、色でそれなりに結果に違いが出てしまうかもしれない。
 僕は三色ボールペンが好きで常用しているけど、インクの色が均一に無くなるように、三色均一に使うようなことをしていることがある。自分で使うノートに何色で書くかなんて自由だから、特に重要でなくても赤で書いたりする。でも時々困るのは、何が重要だったか、ノートを見返して分からなくなることがあることだ。もともと書いた字が読めないということもあるのに、さらに何が重要なのかもわからないなんて、なんとなく損なような気がして、普通に黒を多く使うように習慣を改めた。そうして数か月たつのだけれど、黒で書いた文字が多いと、やはり青や赤はそれなりに目立つ。そうしてやはり重要なのは赤が多くて、ちょっとした疑問や気付きなどが青になっていることが多くなった。これは最初から自分でルール化したことでは無かったけど、自然にそういう書き分けをしているということのようだった。感情が色であらわされるようになったということだろうか。
 でもまあ残念ながら、赤で書いたところで、忘れることは忘れる。こればっかりは基本的な記憶力の弱さということなのかもしれない。
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偉大なる足跡は宇宙空間に

2016-12-23 | Science & nature

 ハッブルの法則などで知られるエドウィン・ハッブルは、「20世紀最大の天文学者」と言われている。遠い宇宙ほど早い速度で移動していることを突き止め(いわゆる膨張)、銀河以外の外側世界にも他の銀河や宇宙の広がりのあることを証明した。そのことにより、アインシュタインは定常宇宙を前提にして書かれた相対性理論を書き換えたとされる。
 ハッブルは若いころにはボクシングや陸上競技に高じ、天文学だけでなく数学や法律も学んだ。従軍し少佐ともなっている。一次大戦終了後に天文台に勤め、熱心に観測を進めた。そうして数々の発見を成し遂げることとなった。
 当時の天文学的な常識を大きく覆し、また、広げる発見だったために、先輩や仲間の天文学者とは論争騒ぎが絶えず、また観測に一人で執拗にこもるような性格とも伴い、いわば嫌われていたという。一方で時代の寵児として、芸能人などの有名人との交流も広く注目の的だった。要するに妬まれていたのかもしれない。性格的にも協調性のある方では無かったと言われている。63歳で生涯を閉じるが、もう少し長生き出来たら、ノーベル賞も間違いなかったとも言われている。もっともそのような賞がなくても、その偉大さに陰りのあるものではない。
 ところでハッブルが亡くなっても、(本人の意思だったと言われている)妻は葬式はせず、墓の場所も明らかにしなかった。いまだに遺体の所在は不明のままだという。さらにこれだけの偉大な人物とされながら、同僚や仲間たちから、銅像など記念碑的なものを立てるような機運があがらなかった。功績だけは後世に残り、本人の痕跡は消えたかに思われた。
 しかしながら時はながれ、1990年に打ち上げられた宇宙望遠鏡に、ハッブルの名が冠せられた。地球の大気の影響を受けずに宇宙空間で観測できる望遠鏡として、数々の研究の功績を飛躍的に増やした。まさに名前の通り、人間の財産とするにふさわしい、偉大な望遠鏡と言えるのではないか。ハッブルの子孫たちは、銅像などが建てられるより、はるかに誇らしく思っているのではなかろうか。
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高級車にはご用心

2016-11-21 | Science & nature

 車の運転で人格の変わる人は少なくない。ワイルドな人が繊細な運転だったり、ヤンキーにくせに車間距離をやたらとるとか、妙な癖のある人もいる。しかしながら一番多いのは、運転中に横柄になったり、凶暴になったりする場合かもしれない。日ごろおとなしそうなご婦人が、別の車を罵倒する場面を何度見たことか。車の中からでは相手に聞こえない、というのもあるのかもしれないが、とっさに出る言葉にこちらもギョッとすることになる。
 これには何か訳があるらしいというのは聞いたことがあるが、残念ながら忘れた。まあ、危ない思いなどをすると、相手に対して言いたいことが出てしまうということだろう。ドキリとした体験に、割り切れない怒りがこみ上げるのかもしれない。
 ところで乗っている車で、運転態度が変わるという研究があるらしい。
 高級車と普通車で交通マナーの違いを調査したものがあるという。例えば交差点で割り込む率は、普通車で12%、高級車で30%。日本の場合ベンツのような車に乗っているのはヤクザな人もいるんじゃないか、と思ったりもするが、これはそういう特殊なものではないらしい。実は車に限らず、一般的な社会的地位の高い人ほど、モラルに欠ける行動をとるものだという。特権的意識がそうさせると考えられている。ウソを隠し、貪欲さが増し、非道徳行動をとりやすくなる。
 ところで、下流階級といわれる人に、「自分は社会的地位が高い」と思ってもらって行動してもらうだけでも、そのようにモラルが低下するという。ふだん軽自動車に乗っている人が高級車に乗ると、やはり割り込み運転をしてしまうのだ。特権意識というのは、なかなか厄介である。逆にいうと高級車に乗りながら謙虚な運転ができるような人は、よっぽど人間が出来た人と言えるのかもしれない。
 人間偉くなると、大抵はろくでなしになる。なかなか考えさせられるものです。高級車に乗るときは、自戒を忘れずに。
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鏡に自分の姿を映そう

2016-11-03 | Science & nature

 野菜の無人販売や、オフィスの料金箱へ投げ銭するようなコーヒー・メーカーなどで、小銭の持ち合わせが無かったなどの理由なのかどうか知らないが、無銭で失敬する輩というのは一定数いるらしい。相手の善意に期待して、あえてそういうシステムを採用している立場の人からすると、なんだか悲しい現実を思い知らされることになるということだろう。ヒトは性善説にあらず、ということまで思い及ぶ人もいるかもしれない。
 かといって自動課金する装置を作ったり、人間が常駐するような経費もかけられない。いっそのこと止めてしまうというのも世知辛い。せめて継続できるくらい被害を少なくできないものだろうか。
 一般的に知られているのは、第一は防犯カメラの設置だろう。近年の記録媒体は膨大になっているので、撮りっぱなしでもかなり放置できる。もっともカメラ自体を壊される等の二次被害の可能性も残るが。また、そういう大仰なこともしたくない、という心情もあろう。
 人の目を巨大化させて壁に貼り付けるというのも効果があるらしい。見られているという意識が、そのような不正を押しとどめる効果があるのだろう。目だけではかなり不気味だから、人の顔(ポスターなんかだろうか)でも少しくらいは効果があるという。他人の目の意識は、出来心防止になるのは間違いなさそうだ。また、鏡があるのも悪くないらしい。不正を働く自分の姿を見るのは、耐え難いことなのかもしれない。
 受験生の机に鏡を置くと、休憩時間が短くなるというデータもある。一日のスケジュールを守れないような人の机を鏡の前に置くと、スケジュールを守るようになるとも言われている(実際仕事がはかどるという実感のある人が多いらしい)。経理担当者の机のそばには、必ず鏡が必要かもしれない。
 ちなみに女性の多くは鏡を前にして化粧をされている訳だが、まあ、それは不正とはちょっと関係ないのでしょうね。失礼いたしました。
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自動運転は安全社会の到来を予見する

2016-10-22 | Science & nature

 テレビで自動車の自動運転への開発の現場をリポートしていた。開発競争にしのぎを削るのは自動車メーカーに限らず、米国グーグルのようなネット関連会社なども名を連ねている。自動車が場を認識するためのセンサーの開発で先行しているのは、いわゆる軍事関連企業でもあり、イスラエルの会社と日本の日産が手を組んでいる様子もあった。いわゆる最先端で先行開発する重要性が語られていた。理由として先にシュアを独占するものしか生き残れない世界である、ということであるようだった。今でも高速道路などでは、高級車を中心に実質的に一部の自動運転が可能になっているようだが、あくまで補助的というか、やはり限定的という感じはする。しかしながら完全自動運転への布石は確実に打たれているようで、ある程度の試験段階では、実際に自動運転車が公道を走ってデータを集めている様子が映し出されていた。公道運転という複雑な場面で本当に自動運転が実現できる日も必ず来るということなんだろう。
 人間が見出す未来のことは、ある程度実現する条件があろうにせよ、そのようになるということかもしれない。さて、そうなるといくつか疑問が無いではない。かなりの完成度と安全度があがらないことには自動運転は認められないとは思うが、さて実際に自動運転車が市場に出てくると、特に最初の頃は自動運転車と人間の運転車と公道で混ざることになる。さて、ここで事故が起こると、運転者の責任はどうなるか。特に自動運転は、製造メーカーの責任になるのか。ある程度の安全性の確保が認められた上での認可ということになると、人間の運転者に不利になるという可能性もあるかもしれない。事実上自動運転が安全であるのなら、人間の運転は危険ということになろう。そうすると自分で運転することは、結果的に禁止されるような展開になるのではなかろうか。
 なんとなく未来が見通せる感じだが、なるほどそうなると、自動運転技術が大きな利益をうみそうなことと、事移動に関しては、人間が完全に管理される時代が到来しそうだということも予見できそうだ。すべての人間の移動データがビッグデータとして管理されることにもなっていくだろう。それは人々の安全にはつながることにはなるんだろうけれど、やはりちょっと不気味な感じもしないではない。決められた場所以外で散歩するような人物が危険視されるような社会になると、交通事故で死ぬような人は事実上いなくなっているのかもしれない。まあ、交通事故ゼロというのは、そのようなハッピーだということなんだろう。この項目ホラーだったかもしれない。
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巨人の肩の上

2016-09-28 | Science & nature

 ニュートンは言わずと知れた偉大な科学者だ。おかげで僕はこの人を使ってよく話をした。特にPTAでの子供たちの前で挨拶をするときは、重宝した。それというのもニュートンには有名な逸話が多く、特に「巨人の肩の上」は引用しやすい。ニュートンは万有引力をはじめ多くの法則を見出し、天文や数学、物理の世界において様々な発見をした。しかしそれらの功績の陰に多くの科学者の果たした役割については本当に認めていたようで、「私が人より遠くまで先を見通せているとしたら、それは私が巨人たちの肩の上にのっていたから」と述べていたという。多くの人の功績があるからこそ、その功績に上に自分の成果を積み上げることが出来たのである。
 しかしそのような背景は正しいとはいえ、実は当時のニュートンには強力なライバルがいた。バネの法則で有名なロバート・フックである。この言葉は、当時ライバルとして毛嫌いしていたフックに向けた嫌味だったという説もある。実際にこの言葉はフックにあてた手紙にも書かれているという。どういう意味かというと、フックという人はたいそう背が低かったらしい。要するに、お前は遠くまで見通すことは出来ないだろう、ということを暗に言いたかっただけなのだと。偉大な人が性格まで良かったとは、必ずしも言えることでは無い。まあ、そのほうが人間らしくていいと、あえて思うことにしよう。
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ヤマメとサクラマス。どちらが勝者?

2016-09-24 | Science & nature

 渓流釣りなどでは人気の高いヤマメ。水の澄んだ上流の川でよく見られる。斑点模様があって、見た目も特徴のある美しい魚である。北海道から九州まで広く分布し、地方では呼び名なども微妙に異なる。さらに同じ魚ながら、川によって多少の生態が異なる。人間の目からということになるが、特に北に住むヤマメというのはずいぶん変わっていて、北の渓流の厳しい自然で生き抜くために、ずいぶん個体の変化の激しい魚なのである。
 ヤマメの餌となる水中昆虫などは、渓流でも上流の瀬に集中して流れに任せて漂ったりしている。ヤマメの稚魚は、この渓流のポジションどりで、大きく成長が違う。場所争いに勝ち出来るだけいい場所を確保できた個体は、多くの餌にありつきどんどん体を大きくする。そうするとますます強くなって、いい場所を独占し続けることが出来る。滅多に餌にありつけない個体は、小さい体のまま場所取りに負け続け、水生昆虫の少ない下流域へ下って行かざるを得ない。細々と食いつなぎながら、段々と下流へ流されるように下っていく。その経過において模様も銀色めいていき、淡水から海水にも適応できる体へと変化していく。そうしてついには大海原へ、その生き方を大きくシフトしていくのである。
 渓流では体の大きな強い個体の主にオスのみが君臨し、生存競争に負けたオスや多くのメスたちは、大海原へ旅立つ。川に戻ってくる個体は0.1%をはるかにしのぐといわれている。渓流での競争に敗れたヤマメは、厳しい大海原で生存をかけて生きていかざるを得ないのである。
 ところが海へ飛び出したヤマメには、リスクがあるとは言いながら、渓流とは桁違いの豊富な資源のある海で、どんどんと体を大きくしていくのである。渓流では大きな個体といってもせいぜい20センチ(条件によっては40センチに達する例もあるとはいうが)だが、海で成長したものは60センチにも達するほど成長する。そうしてそのような海の個体は、姿かたちもヤマメでは無く、サクラマスという個体へ変貌しているのである。生態を知らずに姿だけを観て、ヤマメとサクラマスが同じ個体だと判断できる者は無いだろう。まったく別の種別だと思う方が自然なくらいの大きな変化である。
 人間の目から見てこの成長の変化は、人生の大逆転に例えられる。ある場所でダメだったとしても、別のところで開花する人生もあるだろう。最初に負けたからといって、最終的にはオオモノになる人間もあるだろう。
 ところで産卵のために遡上してきたサクラマスのメスは、当然小さなヤマメのオスなどは相手にしない。サクラマスのオスに寄り添われ産卵を促され、そうしてサクラマス同士で寄り添いながら産卵を行う。ところがその瞬間に岩陰に隠れていたヤマメのオスたちは、その小さな体を生かして、機敏にサクラマスのメスの体の下に回り込み、同時にちゃっかりと射精を果たす。受精する卵のどれくらいがヤマメのものかは知らないが、確実にヤマメも自分の子孫を残していると言われる。もともと同じ魚なので、生まれた稚魚がどちらに由来するものはは分からない。さらにヤマメやサクラマスの人生に、どちらが勝者といえるのかは、やはり限りなく分からない話なのではないだろうか。まあ、どう思うかという人間の勝手な思いはあるのだろうけれど…。
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