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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

食えるか問題は切実だけれど…

2014-09-12 | 音楽

 古い話になるが、ツイッターでスガシカオがダウンロードよりCD買ってくれ、というような呟きが話題になったことがある。音楽家の現状としてCDが売れた方がいい(つまり儲かる)、さらに厳しいということのようだ。そりゃそうだろうな、とは普通の人なら思うのだが、しかしスガシカオのようなビッグネームでもそうなのか、という衝撃はあるのかもしれない。それでも消費者としてはCDなんか買わないよ、ということかもしれないし、業界何とかしろよ、なのかもしれない。ただ、この図式で少し問題点となりそうなことは、好きな音楽家の活動支援としてCDのようなパッケージを買ったりする意味ということについても言説が及んだようだ。好きだから聞き続けていたい音楽家であっても、食えなくなってやめてしまうのならば、結果的に消費者だって不利益なんじゃないか問題、という考えすぎな人がそれなりに居るらしい。多くの音楽家が食えないというのは過去から連綿と続く現実だとは思うが、その破壊として現在のダウンロードを含むネット環境の価格破壊の話になっているのかもしれない。
 それは確かに由々しきこともかもしれないし、音楽以外のネット上の製作者側の都合問題、もしくは生きていく切実さということかもしれない。たとえばニュースだって以前と変わらない、いやむしろもっと多様で広いニーズがありながら、もとを辿れば一番金のかかっている取材本などがちゃんと利益を得られるシステムは崩壊している。大本の資本が巨大だから何とかいまだに生き延びているだけのことで、これが転んだら、無料で配信しながら少なからず利益を得ている末端まで広く崩壊することは間違いなかろう。また、そのような維持が不能になった後、報道の質をどこまで保てるのかという議論は既にかなり問題視されているところである。
 音楽の話に戻ると、そもそも問題としては、食える人は少数だ。しかしながらネット上に情報が増えることにより、実際にはビッグネームといわれる人には、以前より多くの金が流れている現実もあるという。米国などは特に顕著なようだが、楽曲は流失しても、リアルにミュージシャンと接するコンサートなどの収入は相対的に増えているらしい。より興味を助長し、音楽家を助けているということだ。また、今までは簡単に宣伝に乗らなかった無名の人であっても、ちょっとしたきっかけで、多くの人の興味を瞬時に得ることも可能になってくる。巨大な資本の傘下に入らずとも、草の根的にビッグネームにのし上がるチャンスは増えたと考えられ、またその課金のやり方しだいでは、より多様に資金の回収の仕方も可能になっているのではないかという話なのだ。
 考えてみると日本でもAKBのように握手会のようなイベントでも集客課金が出来るという話題もある。CDで支えられなくなっている現状にスポットを当てすぎることで、そのほかの可能性を見えなくしているとしたら、そもそもの議論として、やはりバランスに欠けたものになるのではないか。またはっきり言ってしまうならば、いくら問題視したとしても、その現状が政治的に変えられる方が弊害が大きいのではないか。CDが売れなくなって困るのは、そのパッケージに頼って商売しているだけの人間にとって不利益になっているということはあっても、だからその現実が元に戻ることの方が不自然になっているのではなかろうか。
 もちろんスガシカオの真意としては、そう聞かれたからそう答えたというだけの話だったようだ。彼だって音楽で食う切実さはプロとして分かっているはずなのだ。受け取る側の責任転嫁して発言されているのではなく、恐らく他の食えないかもしれない恐怖の連鎖の方が、過剰にこの発言の重みに屈しているという図式ではなかろうか。それでもやるかやらないか、ひょっとすると馬鹿になれるかどうか。そういう世界の面白さとしては、今も昔もそんなに変わらない事なんじゃなかろうか。
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欲を出して歌える歌は歌わない

2014-08-23 | 音楽

 先日数年ぶりに行ったスナックで、つれの人がずっと洋楽の曲を歌っていた(この人は還暦ちょっとすぎ)。客層が古くて、後から来た年配の客もやはりつられてボブ・ディランの有名でない歌を歌った。お前らも歌えといわれるが、歌える歌なんて無いという気分だった。チイママさんがビートルズくらいは、といわれるが、それもどうなのか。歌えるのもあるが、やはり止めて、エーとなんだっけ、キャンテイクマイアイオブユーとかいうやつ、と調子に乗ったら、ダンスミュージックが流れてきて、沈没した。なんか古いおじさんがゆっくり歌うから何とかなるかもな、と思ったのに…。
 チイママといっても僕よりひとつふたつ下くらいだろうか。最近の若い客で洋楽を歌う人なんてめったにないし、歌うとしても集団でマイクを譲り合ってビートルズのレットイットビーなんてパターンが多いのよね、という。ビートルズのレットイットビー、というのにすぐに混乱を覚えるが、それはつれの人が何やらつぶやいていたので任せて、やはりそういうことかもしれないとは思う。今でもロックは聴くけど歌うためでないし、歌えるような古いものは僕らのタイムリーではない。ましてや僕らより若いなら…。止めとこう。
 カラオケが最盛のときも、やはり中心は歌謡曲で、王選手がマイウェイを歌うらしいとは聞いたことはあるが、概ねあんまりそういう人は少数だった。自分も歌うが他の人もそれなりに聴くので、その人なりの選曲にならざるを得なかったということになるのだろう。
 いぜんは僕よりオジサンたちから、大人になると自然と演歌になるもんだといわれたものだが、あれは完全に嘘だったな。彼らは若い頃から演歌に親しんでいたに違いないのだ。僕も絶対演歌を歌わないという原理主義者じゃないが、冗談以外で口ずさむことなんてない。普段聞いているのはロックだけれど、だからカラオケはそうなるということでもない。ロック魂が少し出るような曲と酒の席を考えて歌うということであって、自分の趣味がそのまま表に出るような場所でもないという感じだろうか。そもそもツェッペリンはインストめいているわけで、歌ってどうなるというものでもないだろう。
 まあ、会話してもそんなに楽しくない気分の夜もあるわけで、そんなに聞きたくなくてもカラオケなら仕方がないと杯を重ねられることもある。上手く歌えなくてもカタカナ英語で歌詞を読むだけでもいいのかもしれない。お経だって意味は分からないわけで、ありがたいのか苦行なのか分からないから面白いこともあるかもしれない。とにかく時間はつぶれるので、客の居ない店ではそういう遊びもありということなんであろう。
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現役MD人生

2014-06-29 | 音楽

 最近は、というかちょっと前からあったことだけど、居酒屋なんかの装飾で、昭和のレトロな感じのものが張ってあったり置いてあったりする店がけっこうある。金鳥の蚊取り線香だとか、そういうの。三丁目の夕日という漫画や映画があったが、ああいう感じのノスタルジーと、そうして若い人にとっても、近い過去のデザインの面白さなども感じられるものなのかもしれない。
 さて、ある店で飲んでいると、やはり以前のポスターが張ってある。それがMDの広告だったわけだ。つれで飲んでいた人(僕より先輩)も、「そういえば、ほんとに一時MDみたいなものがあった時代があったよね~」みたいな話を振ってきた。実にそれで僕は困惑してしまわざるを得なくなったという訳である。
 それというのも、僕はいまだに音楽はMD現役だからである。
 僕にとってはカセットテープこそノスタルジーにあふれた録音媒体であって、MDはまったく古びていない。音楽編集が安易で、文字通りコンパクトで使いやすい。録音時間も長いし、比較的音の劣化も少ない(と今のところ思う)。時々調子の悪い古いのも無いわけではないが、カセットテープとは雲泥の差で、音がよがんで悔しい思いをしたことはほとんどない。間違って消去してしまった経験はあるにせよ、概ね扱いは簡単だし、古くからあるものであっても、そんなに古びていない現役感があるのである。
 もちろん数が多くなってかさばるというのがあるし、既にどこに何の曲が入っているのか分からなくなっているものも多い。ちゃんと記録をつけていればよかったのだが、以前はケースの方にだけ曲名を書いていて、中身が入れ替わって分からなくなってしまったものも結構あるようだ。聞くときはほとんど車を運転している移動中だから、もう曲名などは関係は無いというのはある。しかしこういう聞き方をしていると、聞いたことはあるが誰のものだったのかというのも適当になってしまっていて、検索機能としてのアーカイブの役割は果たしていない。そういうところが難点なのだが、しかしそれでもやはり記録媒体としてのストックがそれなりにあって、安易に離れられなくなっているというのはある。ipodのような音楽プレイヤーへの移行を考えなかったわけではないが、やはりこのストックの数の問題と、録音機材と車の再生機の問題もあって、要するにちょっとめんどくさいのでかえってこのMDに固執してしまう結果になってしまったようだ。さらにいまだにやはり販売されていることを考えても、僕のようにそれなりに不自由なく使用しているユーザーも相応に残っているらしいということは見て取れる。今の時代にあって、それなりに優れた過去の遺品ということになるのではなかろうか。
 要するに、僕はMDに対して、いまだに何のノスタルジー的な感情を持っていない。いつまでも現役でいられるものなのかは不明だが、デジタルでありながらこのアーカイブ性のアナログ的な確かさというのもなかなか良いのではないか。さすがにレコードからCDに移行してしまったものの、やはり同じくCDは生き残っている。これは聞いている人が古いまま生きているせいだという話はあるが、モノとしての消費財として、やはりアナログ的な質感と所持する楽しさがあるためだとも言われている。MDは曲としてはバラをまとめたものがほとんどだろうけど、多少の編集は可能とはいえ、やはり塊として物語を持っている。これがやはり愛着の源泉にもなっていて、この並びの曲の感じが、その時代の個人の記憶とリンクしており、別の価値を生み出しているのではあるまいか。
 今になって気付いたが、そういう意味では、ノスタルジーがある訳だ。そうしてそのような時代を固まりにしているからこそ、シャッフル機能が無いからこそ、MDらしい魅力があるということらしい。現役が長くなると、やはりドラマが付随する。音というのは時間の消費だ。時間というのは、やっぱり不思議な概念ということになるようだ。
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日本語だから可笑しかったり良かったり

2014-06-02 | 音楽

 外国人ミュージシャンが日本語の歌詞を歌うというのは昔からある。あるが、成功している例はそんなに多くは無いと思う。日本に来日して人気を博すバンドも多いし、日本人の彼女の出来た人も多いだろうから、これはごく自然なことだし、ファンサービスとして日本語で歌うのはごく自然な行為だとは思う。映画や演劇界なんかでは日本語表現にすると作品の質が落ちる、という偏見を持った人が結構いるが、音楽の世界は柔軟なのだろうとは思う。
 そういう中で普段英語で歌っている人々がいきなり日本語で歌うというのは、かなりドッキリする。有名なのはポリスの「DODODO」だったと思うが、しばらく何が起こったかよくわからなかった。スティングの高い声が日本語になると、本当に奇妙だなと思った。クイーンもそういうのがあったが、これも妙な感じではあった。誰か指摘した人がいるのかどうか、いつの間にかなかったことになったような感じもあったかもしれない。
 ちゃんとヒットして日本語だ、というのもある。ちょっとだけだから日本語の歌というより、アクセントがある、という感じかもしれない。それがスティックスのミスターロボットだったかもしれない。ドモアリガット、ミスターロボット、というのは、外国人の歌というか、まさにコンピュータがうめいているようでもあった。
 同じようにヒットしたものはクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」があるが、これは「愛の」コリーダと歌っているとはしばらく知らなかった。知ってしまうと妙に恥ずかしい思いがした。
 その後チープトリックなんかも日本語があった。これは結構うまく歌っていて、日本の彼女から訓練受けたんだろうなと思った。
 比較的古いのは、皆恥ずかしいという感じが消えなかったのだが、僕はひとつだけちょっと例外に思ったのは、スコーピオンズの「荒城の月」である。これは高校生くらいのとき、夜にラジオ番組を聴いていたら流れてきた。ライブ演奏で、会場の客とともに情緒的に歌う。とにかく大仰なのだけど、この古臭い山田耕作の曲が、とても斬新な曲であるように思えた。
 これを書こうと思ってネットを見たら、タモリ倶楽部でも紹介されたらしい。その番組でマーティ・フリードマンもこの曲で日本の歌が好きになった旨を告白している。外国人にもこの感覚は伝わったものらしい。
 ちなみにこの番組で取り上げられていたジャイガンターの蕾が一番いいという評価になったようだ。まあ、なるほどね。

Gigantor - Studio 2009 (Music: "Tsubomi" by Kobukuro)


 その後時代は下って今となっては日本語の歌をうまく歌う人々は増えた。アンドリューWKには笑わせられるし、ふざけているが日本人のことを良く知っているものだと感心する。いろんなパンクバンドがリンダリンダをカバーしているし、日本語の歌でもカバーしやすい定番の曲なんてものもあるようである。
 そんな中、なんと言ってもウィーザーのリバース・クオーモさんは日本人の奥さんがいるということで、飛びぬけて日本語の語感がいい。日本語だけのアルバムも、自作の詩で歌ったりしている。もともとウィーザーは好きなんだが、こうなるとまさに好感度が違う。西洋人から認められて喜ぶ日本人には複雑な思いがするのが常だけど、これは本当に気分がいい。
 日本語だから素晴らしいということはぜんぜん違うのだけど、日本語はずっとロックのりの悪い言語だといわれてきたことに、なんとなく引っかかっていたものがあったのかもしれない。まだまだ稀だからこそ感傷的になっているのは分かるけれど、日本語で歌われるからこそ音楽というものがなんとなく普遍的なものであるような感覚を呼び覚まされるというのはあるのではないか。もっとも、やっぱり曲が良くなければ駄目なんではあるけれど…。
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意外なほど斬新ビートルズ

2014-04-26 | 音楽

 録音していたラジオ放送を聞いていたらビートルズだった。まだ音源があるんだな。
 当時のビートルズの登場には同じく他のミュージシャンたちも注目してことは間違いない。その中の一人にエリック・クラプトンもいた。既にギタープレイヤーとして名を成していて、そのテクニックは名手とも言われていた。そのクラプトンが最初にビートルズを見たとき、「とにかく演奏が上手い」と感じたという。
 そんな感じが意外に思うのは、今までビートルズが別に下手だと思ったことは無いにしても、いわゆる上手いバンドだとも思ったことが無いからだ。しかしながら考えてみると、確かに新しい音源といって聞いてみても、やっぱりちゃんとしたビートルズに変わりは無い。特にアレンジが変わっていることもないし、実に完成した、そうして安定した演奏だ。聞くところによると初期の頃は、ほとんどスタジオ一発録音だったという。曲によっては誰かがトイレに行っていて、途中から演奏に加わって録音した、ということもあったらしい。
 さらにプロデューサーだったジョージ・マーティンは、なんだか地味なバンドだな、と思っていたらしい。二人でコーラスしながら歌うので、リードボーカルが居ないじゃないか、ということらしい。しかしながら派手さは無くとも、二人ともものすごく歌が上手くて、さらにコーラスも美しい。まあ、何とかなるかな、程度だったということだ。今では当たり前のビートルズだけど、地味だったなんてやっぱり意外である。さらに当時としては、ずっとコーラスで歌うスタイルがあんがい少なかったというのも、ちょっと不思議な感じだ。
 今となっては当たり前も、やはり最初は本当にちょっと変わった感じだったのかもしれない。今でもみずみずしさが残るのも、その変なところだったり、ある意味で斬新さの名残があるのだろうか。新しい音源はちっとも新しさは感じられないのだけれど、やっぱりみんなそれでも聞きたいと思うのだろう。凄いものはいつまでも凄いなんて、やっぱり並外れているんだろうね。
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作った人より馴染んだ人

2014-04-08 | 音楽

 佐村河内問題では他人の作った曲を自分で作ったというから問題なわけだが、最初から他人の曲なんだけど自分で演奏しましたとか、歌いましたというのであれば勝手が違う。著作権だとか使用料のようなものもあるようだけど、ごちゃごちゃいわんと歌ってしまうというのが業界的にありそうだ。さらに著作物の著作権とは違って、曲というのは何年までその権利があるのかもあやふやだ。クラッシック曲でバッハの子孫が著作権料で食っているという話は聞かない。比較的新しい概念の上に、現代でも取る人ととらない人というのが居るんではないか。まあ、そこのあたりは専門外だが、たとえば自分がシンガーソングライターで、最初は自分が歌って泣かず飛ばずで、他人が歌ったら大ヒット、というのもそれなりに複雑な気分になりそうな気もする。金が入ればそれなりに癒されようけれど、そんなことに頓着しない人ならなおさら報われないというのはありそうだ。さらに明らかにカバーなりリメイクなりのほうがいいというのがあって、そういうのはプライドが高ければさらに具合の悪いことになりはしないだろうか。実際にカバー曲のほうが明らかに有名で原曲が知られても居ないようなものは結構あるようで(もちろん聴く側の無知もあるが)、カバー曲のほうがその人の代名詞的なことになっていることも多いような気がする。もちろん曲というのは歌っているキャラクター(シンガー)だけのものではないのかもしれないが、そうなってくると、誰が作ったか問題というのは限りなくどうでもいいような気がしないではない。曲そのものには人格が無いわけだが、そのほうがしあわせな曲だって、感情的にはありそうなものである。もちろん、根本的にはパクリとは違うということはあるが、その境界線にある曲というのは相当数存在することはあるだろうし、誰でも人には影響を受けざるを得ないものである以上、これからも境界線にある曲というのは無くなりはしないだろう。結局はその曲の周辺にいる人が、どのように感じてその曲に向き合っているかということを、さらにその外側に居る人がどのようにピックアップして感情移入するのかということにもなるのかもしれない。
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宝くじは僕には当たらない(買わないし)

2014-01-20 | 音楽

 今頃になって昨年のことを考えるなんて間が抜けているんだけど、さらに最近は新しいCDなんてまるで買わないのが現実だから、語る資格なんてものもなさそうな気がして申し訳なく思う。思うが感想はあるんだからしょうがないじゃないか。
 それというのも月並みだけど、ロックの高齢化が進んでいることと、しかし新人もそれなりに増えたという印象がまずある。そのコントラストが鮮やかだった年ということがまず言えそうだ。ポール・マッカートニー兄貴しかりストーンズ話題は、もうなんと言うか、涙。デビット・ボウイなどはアルバムも素晴らしく現役感あふれ、ただ脱帽。これって本当にすごいことなんだよな、と後でしみじみ思ってしまう。しかしやっぱりジェイク・パグであるというのもあって、彼はすでに大物として歴史に残って、そうして僕らの死後も活動しているはずのような予感がある。若いけど古いタイプのピン芸人。じゃ無くて正統派スターでやっぱりすごいなと思った。また、やっぱり若いけどストライプスという超古臭い完璧なスターバンド。時代が時代ならビートルズよりすごいのは間違いなさそうだけど、やはり大人の陰謀も感じられるし、かわいいけど本格派というまま、そうして長く活動して欲しい大本命なのであった。
 でもまあこっそりというか個人的に今年良かったなと思うのはバンパイヤ・ウィークエンドとパールジャムという変り映えしない面子だったりする。内容も変り映えしないし、特に並べていいものか疑問のあるタイプの違う二つのバンドなんだけど、そういう変わらんが地味にすごい感じが良かったという感じかもしれない。
 アトムズ・フォー・ピースもあるじゃん、という声はわかる。わかるけどこればっかりは、なんとなく鼻についてしまって、しかし悔しいけど良いと思うから、もういいんじゃないの、という気持ちが強くなった。そういう人で楽しめばいいので、もう広がりを見せて欲しくない。
 それとたいした話題じゃないが、僕はお兄ちゃんよりビーディ・アイのほうがいいと思ったね。やっぱり声の力なんだろうか。どっちもどっちなんだという意見もあろうけど、偉そうより普通に不良の弟のほうが、力強くかっこいいという感じもする。世間もそれでいいんじゃなかろうか。
 ほんとのこというと、年末はN島君がFBでドナルド・フェイゲン聞いてる旨UPしているのを見て、なんとなくスティーリー・ダン熱が高まって熱心に聞き返していた。一緒に聞いていたのはベックだったりクラッシュだったりRCのブルーだったり急激に古いというか、いつもどおりというか、で、カラオケでは沢田研二を歌ったりしてたわけだ。おいら何にも変わんないんだもんね。それと一番新しめで繰り返しなんてものはアラバマ・シェークスとビンテージ・トラブルで、これはすでに一昨年前だから微妙に古い。もっと巷間で盛り上がって欲しいと思ってたけどなんとなく消えたように見えて寂しかったのだ。
 最後になぜか避けて通っていたようなものがあって、それはほかならぬダフト・パンクということになる。この恥ずかしいくらい古い感じのものが昨年を圧倒的に席巻していたという風景が、僕にはどうしても馴染めない思いだったかもしれない。一部のファンが盛り上がっている分には微笑ましかったのだろうけれど、何でまたこうも世界がこれ一色になるくらいこればっかりになってしまったのだろうか。怪現象といってしまえばそれまでだけれど、誰もこればっかりは良くわからん状態だったのではなかろうか。時代がめぐってちょうどここにやってきて、何にも変わらん古臭いやつらの頭の上に偶然落ちてきたということでしか説明がつかん、という変な感じで昨年を片付けてしまいたくない思いだった。だからほんとのこというと、終わってホッとしたというか、もう終わって欲しいは願望かもしれない。本当に何か新しい予感のほうが、めぐりめぐってくる偶然より楽しそうだ。まあ、世の中は本当にわからんもんだねという宝くじ的な当たり年だった人たちに、僕らは振り回される運命にあるのかもしれないですけど…。
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数学的音楽世界

2013-10-27 | 音楽

 NHKでは白熱教室という番組が続いていて、サンデル教授以外でも面白い授業を聞く事が出来る。まあ、サンデルさんの様な話って、日本受けするのは分かるけど、他の人たちも毛並みは違うんだが、なかなか凄い。学問的にどうかというより、一般向けの公開講座という感じで、とっつきやすい演出とは言えるのかもしれないけど、いい時代になったものだな、とつくづく感じますね。
 さて、そのシリーズのオックスフォード版の、さらに数学教授であるマーカス・デュ・ソートイさんの授業が現在シリーズで放映されている。これもなかなか面白い。内容は見てもらった方が早いが、数学が実に豊かな感性を育むことが理解できて素晴らしい。文系人間は数学やデジタルみたいなものを、情緒的につまらないものとみなすような偏見を持っているような人が多いように思うんだけれど、まったく逆だという事実に心打たれて欲しいものだ。
 実はこの人の本は買いそびれていて、ああそうだったと改めて思った次第。ずいぶん前から出版の方面では有名なことは知ってたけど、こんなに楽しい人だったんだね。それも今回のテレビの収穫だった。
 さて、それで数学の世界を音楽で表現したものとして紹介されていたオリビエ・メシアンに興味を抱いて、聞いてみた訳です。



オリヴィエ・メシアン「世の終わりの為の四重奏曲」


 うーんそういえば現代音楽だったよね。ケント・ナガノ以来の?!な世界で恐れ入りました。難解というよりかなり気分が悪くなる感じかもしれない。
 でもまあ、この分からなさはある意味で邪魔にならない感じも少しして、流しっぱなしで何も考えないのには良いのかもしれない。分からなく楽しくないものがすべて駄目だということではない。お経などを聞いているよりよっぽどましかもしれない。いや、お経がいい人はそのままで結構ですが…。
 ある種のシンメトリーというのは、身を任せるには心地よい場合があるのかもしれない。僕自身はあんまり馴染の無い世界だったので、ついつい引っかかってしまうのだろう。もう少し我慢を続けるか、それとも放り出すか、今のところまだ思案中であります。
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葬儀の時に聞いてもらいたい曲

2013-08-18 | 音楽

 親戚の葬儀に出席。待ち時間に葬儀場に流れている曲は、故人が自分の葬儀の時にかけるよう指示して置いたものだそうだ。癌だったそうで、死期を悟っていたということなんだろう。クラシックの落ち着いたものが多く、なるほどという感じもする。聞いたことがあるようなものもあるけれど、曲名までは知らない。
 考えてみると結婚式などの選曲は、普通にやることかもしれない。これが好きで何度もするような人は居ないだろうけど、自分の選んだ曲がしかるべきタイミングでかかるというのはそれなりに快感かもしれない。また、自分の好きなものを他の人に聞いてもらいたいという欲求も、人間には本来的にあるのかもしれない。自分自身を知ってもらう、もしくは少しばかりの自慢ということもあるかもしれないが、気分的なものを共有してもらうという場合には好きな曲を聞いてもらうというのはあんがい手っ取り早い手段かもしれない。
 葬儀の時はどうしたものだろう。自分の葬儀に参列するような人々だから、何らかの所縁のある人々であるに違いない。自分をよく知っている人なら、なるほどな、と納得する人もいるのではないか。また、(自分の死を)悲しんでくれるような人だから、そういう死の悲しみを和らげるようなものがいいのだろうか。もしくは、葬儀という場面にふさわしく、そういう気分が自然に現れるようなものがいいのだろうか。
 死を前にして考えることとすると、あんがい選曲をするという作業は心を落ち着かせるという作用があったのではなかろうか。死んでしまった後は、たぶんその曲は聞く事は叶わない。しかしながら、本当に家族が自分の希望通り曲をかけてくれるとしたら、ひょっとしたら生きているようにその場を共有することだって可能かもしれない。
 まだ本当にはそういう気分は分からないのかもしれないが、死の選曲を言うのは、そんなに不自然な行動なのでは無いのではなかろうか。
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少数の高齢化問題に過ぎない

2013-07-26 | 音楽

 ラジオを聞いてたら、あるロックファンの悩みのような事を言っている。要約するとグリーンデイを家で聞いてたら父親から「40前にもなってまだそんなの聞いてんのか」と言われたという。そろそろクラシックとか他のを聞かなきゃならんのか?という反発心を覚えるということなんだろうか。
 しかしながら若いからロックというのは単なる偏見だから、それに捉われる事なんて最初から無かろう。父親なんだから、とにかく息子に何か言いたかっただけだろう。
 職場では僕より若い人がずいぶん増えて来た。何を聞いているのかは実はよく知らなかったのだが、当たり前だがロックを聴いているような人は今でも少数派のようである。何故なら僕の若い頃からだって圧倒的に少数派だったからだ。ロックはメジャーだといったい誰が考えているのか不思議なくらいだ。
 以前森博嗣が「小説読んでいるのなんてマイナだ」と言っていたが、小説もロックも、実は少数者の楽しみに過ぎないと思う。あの清志郎だって、(自分たちがヒットチャート・ナンバーワンになるのは)共産党が政権取るようなものだ、と言っていた。ロックが若者の聞く大衆的な音楽だというのは、単なる間違った偏見に過ぎないのだ。
 さらに特にロックという分野の最近の傾向でいくと、かなり高齢化が進んでいるという気もする。若い人は最初からロックなんて聞かないのではないかという疑いさえある。
 CD屋で買いものをしている時に店員と話をする機会があったのだが、彼の話だと、今やあなたのような中年男性しかCDは買ってくれないんですよ、といかにも寂しそうに言われたものである。まあ事情はいろいろあるが(そもそもダウンロードが中心だろうし)、ロックとは既に回顧主義的な趣味になりつつあるんじゃなかろうか。
 少なくとも昔若かった頃からの趣味が、長く続くというだけの話である。いわば習慣であって、習慣であるなら宗教のようなものかもしれない。それならやめられないのは当たり前で、年をとるからクラシックというような認識の方が、かなり不自然なことだろう。
 そんなことを考えながらラジオを消してパールジャムを聞いてるのだから、まったく頑固なものだな、と思ったことだった。
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笑った後には…

2013-06-29 | 音楽
The Strokes - "One Way Trigger" (Audio)


 最初はまさに「アハ」みたい、で笑って聞いてたんだけど、不思議と馴染んで来るもんですね。こういう感じの人とは思って無かったけど、考えてみると最初からこんな人だったよな。という感じかもしれない。

 初対面の印象が大切だという話はよく聞く訳だが、そんなことを気にしたり大切にしたり引きずったりするのは、後々問題が多いような気がしないではない。最初が悪くてそれで終わりは悲しいということは言えるけれど、その印象で押し切られるほど甘くないというか、なんというか。むしろちょっと期待を裏切ったり、驚かせたり出来ることの方が大切だという気がする。そのためにネタを仕込むというのは、なんではあるんだけれど…。
 相対的な関係を楽しむ、という姿勢でやっていくしかない訳です。
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ほとんど少年

2013-06-15 | 音楽
The Strypes on Totally Irish


 これまでにもビートルズの再来というバンドは数多くいたわけだが、当然のごとく再来ではなかった。期待の大きさと大風呂敷にシラケと悲しさを感じたものだ。
 そういうわけでそういう興味で見たわけじゃないのだけど、こんなに若いんだ。驚いちゃったよ。
 見た目は学芸会だけど、音は割としっかりしてる。勢いも大切だけど、長い目で見ましょうかね。
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実は怪しいとは思っているのだが…

2013-06-02 | 音楽
Colbie Caillat - Bubbly


 多少古い話になってしまったが、ネット上で自作のこの歌を流していて話題になり、そのままデビューして大ヒットしてしまったという。その後そんな話はいくつも聞くようになったけれど、比較的元祖的な存在であろう。
 そういう話は必ずしも嘘ではないのかもしれないが、巧妙なプロモーションである場合が多いのは確かだろう。彼女がそうなのかは知らないのだけれど、父親もミュージシャンだし、最初から完成度が高いというのはあるかもしれない。女性のジャック・ジョンソンとも言われるが、力の抜き方が最初からこなれすぎているかもしれない。
 揶揄しようと思ってあげているわけではないのだが、そういうなんとなく怪しいものがありながら、やっぱりなんとなく聞いていて心地いいのだから仕方がない。息抜きにどうぞ、といったところなんである。
 雨の心配の多い日曜日。何とか、もつといいですね。
 
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相手があるから進めない件

2013-05-06 | 音楽
Pearl Jam: All Along The Watchtower [HD] - 2010-05-15 - Hartford, CT


 まあ、楽しそうで何より、である。
 最初にこの曲を知ったのはジミヘン。その後ボブ・ディランの原曲を聴いて、まあ、なるほど、とも思った訳だ。もちろん原曲がいいので誰がやっても良いということになるんだろうけど、だいぶ前にアマチュアバンドがこれをやってて何となく滑っていた。冒険には拍手を送りたいが、なかなか難しいもんだということは身にしみた。ギター一本だと様になるが、バンドだとあんがい上手くいかない曲かもしれない。

 毎年言ってることだけど、ゴールデン週間というのが終わるのが待ち遠しい。普通の週間になってやっと休まるような気分になるらしい。もちろん僕んところの職場に祭日が関係ないこともある。週に40時間と決まってるので、そういうもんなんである。僕は守って無いけどさ。
 まあ、それでも人はこの時期に休みたくなるらしくて、やっぱり人数は減る。それで大変かというと、出先機関は休んでたりするんで、適当に暇なこともあったりする。僕のような立場だとよそと話が進まないで困ることも多いけど、まあ、そんなことがあっても自分のことを済ませるチャンスなんで割り切ることも出来る。ちょっとフル回転できないフラストレーションということなのかもしれない。特にバリバリ仕事が好きな人間でも無いけど、アクセル踏めないのは嫌だということなんでしょうね。人間の自分勝手さを見つめ直す週間であったということで、明けたらまた適当に頑張りましょう。
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良いペースとはいえない

2013-05-05 | 音楽
Willy Moon - Yeah Yeah


 微妙にダサいところが良いのかもしれないですね。

 昨年は20回ぐらい風邪をひいたとあてずっぽうに言ってたんだけど、今年既に9回を突破。自分で言うのもなんだけど、ウソにならずに済みそうですね。特に正直者であることを心がけている訳では無いんだけど、人一倍体が弱いのは間違いなさそうだ。
 見かけがどうなのか分からないけど、僕は子供のころから一貫してひ弱だ。気が小さいので無理を強いられても断れないが、すぐにつぶれるので当てにはならない。基本的に期待にこたえるのは嫌だから、そうやって被害が小さいうちにあてにされず落ちぶれていくというのが理想的である。誰も相手にしてくれないのは寂しいかもしれないけれど、大人になったのでそれでも何とかやっていけそうである。
 しかしまあ、相手も困るだろうけど僕だって困る。具合の悪いのは好きな訳ではない。体の痛みにはやはり弱いし、要するに天然の拷問を受けていることと同じである。少しくらいマゾっ気があると、そういうことも楽しめるのかもしれないが…。
 しかしながら具合が良くなる爽快感というのがあって、これはこれで気分がいい。やっぱり世界はいい気分でこそ過ごしやすい。年間の回数なんて本当はどうでもいいことだから、今後は増えないように祈ることにしよう。
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