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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

いい曲というのは再生産かもしれない

2023-05-23 | 音楽

 村上レディオでスガシカオがゲストで出ていて、二人でアトランティック・ソウルの話をしていた。実に面白かった。まあ、僕は特にアトランティックとモータウンなどを分けて聞くというようなことは無かったので、この番組でかかった曲は、知ってる曲がほとんどだったけど、新鮮に思えた。アレサ・フランクリンはあっても、ダイアナ・ロスは無いのである。そういわれると、そうなのかって感じだけど……(そういう具合にレーベルを気にしたことは,日本人には、ほどんどないことでは無かったのではなかろうか?)。
 村上春樹はもちろん日本を代表する音楽オタクだから詳しいのは当たり前だけど、スガシカオもまたやたらに詳しいのである。音楽談義はこうでなくちゃね。
 誰もが知っているパーシー・スレッジの「男が女を愛する時」は、実はホーンセクションの音などが少しずれてたりしてたので、ちゃんとしたのを録り直したのにかかわらず、何かの間違いで直してないほうがレコーディングされてしまった。しかしそれがそのまま受け入れられ、大ヒットしてしまった。それだけでも凄い事なのに、この曲の影響力はそれだけに終わらなかった。
 さらにこの曲がモチーフになって、プロコル・ハルムの「青い影」になったらしい。確かにそういわれてみると、よく似てますね。すごい。今まで気づかなかったけど、この曲をうまい具合に解体して、作り直したのはよく分かる。
 さらにだけど、この「青い影」をモチーフにして荒井(松任谷)由美が「ひこうき雲」などの曲を作ったというもの有名は話である。番組では語られなかったけれど、そういう土台になった歴史というのは、僕らが体験したはずのことなのである。
 音楽というのは、もしくは文学もそうかもしれないが、記録としてはこれからも残る可能性はあるとして、しかし極めて同時代性のあるものかもしれない。多少古いものであっても、体験しなければ分かりえないものなのだ。再体験というものがある可能性はあるにせよ、やはりそれも時代性なくしてはほとんどありえない体験である。すでにずいぶん昔の話になりつつあるものであっても、それは僕らが生きているレンジの中にあるのである。
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作品がすべてだと思いたいだけ

2023-02-25 | 音楽

 それにしても最近はよく死ぬな、という感じだ。ロック高齢化問題という背景があるので当たり前だけれど、要するに僕らの若いころに聞いていたちょっと先輩たちが鬼籍に入るお年頃になったのである。ただ、だいぶお久しぶりで忘れていた人ばかりだった頃とは違って、今もそれなりに活動していたりするから、ちょっと驚いたりするのかもしれない。昔の名前で出ていますが通用するのは、昔の名前を憶えている人が生きているからである。要するにもう少ししたら、僕らもその後を引き継ぐのだろう。確かにそう考えると、寂しいな。
 そうして過去を思い出したりするんだが、思い出すついでに知らなかったこともずいぶん知るようになる。自分の記憶違いも見つかるし、あんがい当時考えていたことと違う印象が、新たに生まれたりする。当時はネットも無かったし、買える雑誌も限られていた。ラジオでもそこまで詳しく解説は無かったと思う。そういう意味では、ある種純粋に曲だけを聞いていたのかもしれない。その曲とその時の青春の情景とともに。
 作家などでもいわれることだが、人物よりその人が生んだ作品こそすべてだ、という考え方がある。ミュージシャンも基本的にはそのように考えたいという気分はある。だから多少素行の悪い面があろうとも、たいがいのことは目をつむって、次に生まれる作品を楽しみにしているし、素晴らしいパフォーマンスを期待している。それで十分じゃないか。
 そうなんだけれど、いわゆる著名になっていくと、パパラッチというか、私生活を含めたゴシップの方が、人々の関心を集めていく。そうしてそのような情報をたくさん知っているからこそ、さらに上級のファンになっていくようなところもある。あの曲はすでに別れたあの子のことが書かれている、という話はごまんとある。今だと有名人同士付き合っていて、その恋愛の情景をそのまま歌詞にしていることで、さらに爆発的に売り上げを伸ばす女性シンガーもいるほどだ(あの人のことですが、複数いるな)。そういうリアリティこそが作品の面白さをさらに引き出し、そうしてアイコンそのものを引き立てていく。実際のところ生きているのに伝記が書かれ、さまざまなメディアに露出するゴシップこそ、今を生きている僕らの生活の糧になっていくようなところがある。作品がすべてである著名人なんてものは、それこそが理想的な幻想に過ぎないのではなかろうか。
 しかしながらその人のことを本当に知りえることはむつかしい。いつまでもその距離は縮まらない。集めるのはその人の周辺の情報のみであり、その人の生のものではありえない。偶像化された人物は、その人そのものではありえないのである。
 結局は曲に向き合って、同時代性と自分の記憶をたどるよりない。自分が生きているからこそ曲が聞けるのであって、この先のことなんて知りうることもできないのだから。
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哀愁のジェフ・ベックよ、永遠に

2023-01-18 | 音楽

 ジェフ・ベックが亡くなった。ショックと言えばそうだが、78歳ということだから、ロックスターなので長生きだろう。昨年もツアーやったり他のプロジェクトの録音があったり活躍している様子だったので、意外性はあるにはあったが、亡くなるにはおかしな年齢ではない。
 日本では過去に世界三大ギタリストの一人としてジェフ・ベックの名前があった。今もそういう名称が残っているとする古いファンもいるだろうが、いわゆる新しいブルース・ロックの世界の黎明期においての存在感のあった人だ。影響を受けたかもしれないギタリストはそれなりにいるはずで、僕より少し先輩の人はまねしている人も少なからずいた。まあピックを使って弾いてはいたが。たいてい「悲しみの恋人たち」であり、僕が中学生くらいの時は流行っていたのである。
 僕自身もいくつかアルバムは持っていたが、当時はインストルメンタルの曲が多くて、あんまり熱心には聞いていない。ちょうど80年代のアルバムだったということもあってゼア・アンド・バックはよく聞いていた(探せばワイアード、ブロウ・バイ・ブロウなんかは持ってると思う)。時代もあるんでエレクトリック・サウンドの、いわゆるコテコテ泣きのギターでなかったのに、それなりに町で流れていた印象がある。
 その後も来日していたようだし、ファンも多かったと思うが、いわゆる大ヒットを飛ばすような感じでは無かった印象がある。とにかくいつまでも伝説的なレジェンドであり、息の長いプレイヤーだった。しかし相当な変人であるという固定的な印象もあって、わがままにステージをすっぽかすような人だとばかり思われていた。体調を壊したとかいう理由でツアーが中断したりということもあったと記憶するが、それも過去の噂だったかもしれない。ネット時代になっても演奏する映像はそれなりにあって、やはりライブでは精力的に活動を続けていたようだ。クラプトンも神格化されているが、ジェフ・ベックも我が道を歩んでいるという感じだろうか。
 少しジャズっぽい方向もあって、ジェフ・ベックと組んでいる人たちの演奏能力も高いという感じだった。だからからか、それなりに即興でライブを膨らませていくような弾き方をしていたのではなかろうか。体形も変わらず維持していたようだし、地毛かどうかは知らないが、少し短くなったとはいえ長髪だったし。妙なところで急に盛り上がるくせに、情緒なくパタリと演奏が終わったり、まあ、独特なセンスではあった。
 僕としては三大の残るもう一人の動向が気になっていたけれど、結局ジェフ・ベックのように精力的に活動をすることもしないので、こればっかりはいまだに残念だ。ジェフ・ベックは本当にギターを弾くのが好きだという感じがして、羨ましいのだった。どういう思想の持ち主なのかはまるで知らないが、もちろんそんなことよりギター・プレイである。放っておいてもおそらくギターを弾き続けるような人だったに違いなく、幸運にもファンが根強くいたので、最後までお金を取ってプレーし続けることのできた人だったと言えるだろう。それこそが彼の素晴らしさで、そのすべてであろう。
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音楽は振り返ってなかった(2022年)

2023-01-10 | 音楽

 まったく今頃になってという感じで人には言えないのだが、ビリー・アイリッシュが良かったりする。先日ラジオだったか雑誌だったかで、ラーキン・ポーが、ふだんはビリー・アイリッシュなんかを聞いててサイコー、なんてことを言ってるそうだった。僕はラーキン・ポーはスライドギターも楽曲スタイルもものすごくいいと思ってたのに、音は極めておじさん臭い曲をやっている若い彼女らは、やっぱり女ごころを歌うビリーのことが好きなんだな、と思ってあらためてなんとなく聞いてたら、なるほどすごく良い。女心の分からない後期中年男の心だって捉えるんだから凄いよね。そもそもウィスパー・ボイスで歌う歌い方そのものがあまり好きではないのだが、ビリーならもう許すしかないのかもしれない。
 でもまあふだんはギターロックの方がいいし、時には超絶テクニックもいいかな、と思ったら、ポリフィアを聞いててまた驚いた。なんと「アイウエオカキクケコ」と一応日本語を歌ってる。借りてきて歌ってる(フューチャリングっていうんだっけ)ボーカルの子が日本にもルーツのある子らしい。ただそれだけのことなんだが、そういえばロザリアだって「ヘンタイ」って日本語で歌ってたぞ。PVでは露出の多い女の子だが、曲はいいのではなかろうか。
 スーパーオーガニズムのボーカルは日本人だから、ちょっとそれっぽい発音の英語のように聞こえるが、日本語で歌う訳ではない。曲の合間にちょっと日本語が入ってはいるが……。別段日本語ブームというより、そんな感じの不思議な音ってことなんだろう。
 一方大ブレークしているリナ・サワヤマになると、もうこれは日本人だからというのはちょっとした見た目のファッションだけであって、完全にレディー・ガガにも勝つぞって感じになってる。本人はアバみたいなことも言っているようだが、それは俺には分からん。多少古い方法論かもしれないが、王道でグイグイいっているところは、ほとんど日本的ですらない。でも、それがいいんだけどね。
 実は昨年はベルセバもマーズボルタもウィーザーもスウェードもミューズもトッド・ラングレンもレッチリもZZトップもスプリングスティーンもアルバム出した。デデスキも出したしね。おじさんとしては、ずっと平穏な気持ちで居られたよ。みんな年を取って老いていく。ロックってそういう音楽になったな。だって時代性だから。年取ると趣向が変わるってすいぶん先輩に言われたことあるけど、あれは完全に嘘だったな。
 で、最後にそれなりに昨年を象徴するものとなると、1975とウェットレッグだったかな。とも思う。いや、そうじゃなかったって人も多いことは分かってる。僕が聞いてて、なんとなくだけど、今年はこんな感じだったなって思うだけだし、ほんとは力を抜いてイージーライフの方が好きだけど、注目度ってことでそう思うのだろう。
 ということで、今年も楽しみであります。
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選曲は、あまり悩んではいけない

2022-10-20 | 音楽

 先日の飲み会の時に、隣のテーブルで歌っていた二人の妙齢の女性が、ほとんど80年代歌謡曲を選曲していた。僕らのグループは、一人だけ少し先輩がいて、あとの二人は僕より15以上年下の男女のいる4人だった。それで、なんとなく隣のテーブルと交互にカラオケ合戦、のようなことになってしまった。
 素直に考えると、隣の人たちと、僕には融和性がある。何しろ僕が十代に聞いていた曲ばかりだから、僕もその頃のことを思い出せばいい。正直に言って得意な曲も多いし、かつて歌ってきたのだから悩む必要など無いだろう。
 しかしここで、我らが切り込み隊長は、いきなりサブちゃんの「祭り」を選曲した。これは盛り上がるけれど、数的な優位性のあるこちらのテーブルが、隣を抑圧する可能性が高い。そうして実際に適度に下手さ加減のある歌声と、我々の合いの手は絶妙に店の空気を揺らしていった。勝負なのかどうかわからないまま、勝ちにいっているような雰囲気だ。しかし先輩はかなり酔っていた。盛り上がるとともにふらふらと隣に向かっていき、その一人に手を差し伸べ、なんと立ち上がらせて踊り出した。「祭り」は踊ってもいい曲ではあるものの、何か二人は絡み合って、変なチークのような手の回し方になっている。
 お隣は大人の女性ということもあって、いったん下手に出たということかもしれないし、適当にあしらったのかもしれない。そうして聖子ちゃんを歌い、明菜を歌っている。なかなかの熱唱だったりもする。はっきり言って歌い慣れていて、上手いのである。
 僕らの若手男子は、なぜか「北酒場」を選択する。これも微妙に音程がずれていて、しかし盛り上がる。隣とは協調しているのかどうか、まったくわからなくなる。僕は酔いが回る一方だ。まずい。これはなんだか、まずい。ここはチェッカーズなのか、サザンで行くべきなのか。それとも沢田研二だろうか。
 それでどういう訳か、アン・ルイスの「グッバイ・マイ・ラブ」にしてしまったのである。80年よりはるか前になってしまっただけでなく、相手の土俵すぎる。それに科白が英語である。完全に字幕に追いつけなかった。なんというか、うーん、という感じと、敗北感を勝手に味わってしまうのだった。
 まあ今日はカラオケはいいかな、という気分になっていると、わがグループ最若手女子が宇多田ヒカルの「ファースト・ラブ」を歌ったのである。店に並んでいるグラスが、共鳴して揺れているのではないかと思われるほどの、透明感のある圧倒的な歌唱力である。お前いったい何者? って感じである。おそらく僕らに合わせて精一杯古い曲を選択したのではないかと思うのだが、しかしそれは、隣の女性たちもいったん我に返るようなものであった。感嘆の声とともに、称賛の拍手がしばらく続いた。
 ということだが、その後も何もなかったかのように歌は歌われ、遅くなったので店じまいだと言われ、タクシー呼んでお開きとなった。僕としては、帰ることができたのが、まずは喜びだったけれど、やっぱり選曲は考えすぎないようにしなくては、と思ったのだった。それが今後に生かされるかどうかは、まだわからないのだけれど。
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多様性と時代は巡る

2022-05-03 | 音楽

 今巷間では、ギターロック復活というトピックで盛り上がっている。なんのこっちゃ、という感じもしないではないが、本当にそういうことなんだろうか。
 ラッパーだったマシンガン・ケリーは、ギターを持ってパンクロックのようなことをやっている。ライブに来たファンが、ギターを弾くロックというのは初めて見たというんだよ、と語っていた。どういうことかというと、今はヒップポップとかばっかりで、ギターロックを聴くことも見る機会も何年もの間なかったからだろうという。ほんとにそんなものなのかな。
 僕はヒップポップは聴かないし(まあ、普通の同世代日本人よりは聴いているかもしれないが)、ヒットチャートにも興味がないから、本当の今の流行りというものは知らないのかもしれないが、いわゆる今でも聞いているロックのほとんどは、昔から今までほとんどギター・ロックばかりである。だから世の中がそんなことになっているなんて印象は露ほども感じていなかった。今だってラジオでかかっているのはウィーザーだったり、レッチリだったりするし、最近はブラック・キイズがまた何か出したな、という感じだし、それらはちゃんとヒットしているはずなので、ギターロックを聴いてない人々の存在の方が稀有な印象を持つんだが……。しかしまあピンク・フロイドが新譜を出したりして(これはウクライナ戦争があったからだけど)、世の中信じられないようなことが起こり得るんだな、ということは感じている。
 でもまあオリビア・ロドリゴが長い間ヒットチャートに残っていて、ちょっと昔っぽいポップ・ソングが流行るものなんだな、とは感じていた。でもこれは今時の多様性ともおそらく関係があって、父親がアジアンのようだし、ビーバドゥビーもサラミもそうなんだという。ミツキは日系が混ざってるようだし、スーパーオーガニズムはボーカルが日本人だし、最近は星野源もかかわっている。ジャパニーズ・ブレイクファーストは名前からして日系かと思ったら韓国だそうだ。そういう感じじゃないと流行らないということはないかもしれないが、いわゆる多様性が具現化した現象であって、人々が素直に偏見などを感じることなく受け入れられるようになった、ということは言えそうだ。
 ギターロックとは関係ない話にはなったが、時代が回転して先祖返りするようなことはあるようで、そういうものが若い人には新しく聞こえるのだということであれば、そういうものですか、とちょっとだけ驚いて見せても良い。というか、それなら一緒に聞きましょうよ、という気分になってもいいかもしれない。
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ロックの時間の流れは未来とは限らない

2022-01-31 | 音楽

 何がきっかけだったのか今となっては思い出せないが、ロバート・クレイが聞きたくなった。持っているはずだが、探すのがめんどくさいな、と思ってアマゾンを開いてみる。中古だと安いけれど、これは海外版かな、時間がかかりそうだ。どうしようとか思いながらよく見てみると、購入履歴2回と書いてあるではないか。前にも探すのが面倒で買ってしまったに違いない。自分のことながらしょうがない奴だな、とは思うのだが、すると2枚あるので探せるのではないか、ともひらめいた。ふつうそれが先に思うことであるべきだが……。
 で、探してみた。CDというのは小さいので詰めて重ねて保管してしまう。だからいろいろとひっくり返してみなければならない。アルバムの雰囲気というか、だいたいの感じは記憶してるけど、いろいろひっくり返すと他のアルバムも当然目に入る。引っ越しの時に昔のアルバム(この場合は家族などの写真のことだが)を発見して見ハマってしまったように、あれこれこんなのがあるな、などと感慨にふけってしまったりして、なかなか進まない。ちょっと休憩して結局ユーチューブでスモーキング・ガンだけ聞いたりしていたら、ありました。ちゃんと持ってたよ(当たり前だ)。
 で、聞いているのだが、やっぱりいいですね。CDをひっくり返したついでにベックのアルバムとかニール・ヤングなんかも掘り出して聞いたりして、なぜかレッチリもトゥールもファンカデリックも一緒に聞いている。まったく一貫性が無い。でもまあ一気に昔に気分が遡る。僕はそんな時代があったのだ。
 録音しておいたラジオ番組を通勤の時に聞いていると、コステロとニール・ヤングの新譜だってさ。前の週グリーン・デイの昔の音源やキング・クリムゾンなんかも新譜が出てたって紹介してた気がする。今はいったいどんな時代なんだ。やっぱり結局ロックっていうのは演歌のような感じで昔の人が聞いている分野なんだろうな、って改めて思う(※)。新しいのはノバ・ツインズがいいと思うが、これもなんだか古臭い感じがするもんね。若い人には新しいのかもしれないけど、知らないだけのことだろう。まあ最近はそういう話ばかりで、ヒップポップなんかもメロディがついて昔っぽくなってるし、もう何が何だか分からない。世界は時間軸としては混沌としている。まるで量子力学だな。

※ 実際演歌は僕の子供のころくらいから始まった分野なので、そう古いものではないらしい。いわゆるロックより新しい、歴史の浅い分野なのだ。
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今年は古くて新しい人が多かった(音楽)

2021-12-22 | 音楽

 今年のことだったか記憶があやふやだが、最近ドゥービー・ブラザーズの新譜が出て驚いて聞いてみて、その古めかしさも日本の歌謡曲っぽさも屈託がなく、呆れてしまった訳だが、そういえば今年はだいたいにおいて古い人がたくさんまた出てきたな、と思ったのだった。
 まず、ポール・ウェラーが新譜を出していた。この人は元々むしろパンクでは無かった人だというのがよく分かる感じで、まあ、好きなことをまだやれるしメロディは綺麗だし、いいのである。あんがいコンスタンスに曲は発表しているポール・マッカートニーも良かった。なので本当に驚いたのは、マイケル・シェンカーだった。まだ生きていてのか! とも思ったし、借金は返したのだろうか? とも思った。しかしあんがいまともなので、やはり凄いのである。そうしたらアリス・クーパーも元気なのだ。これはちょっと驚いた。これもちゃんとしてるし、古臭いだけではない。そうしたらウィリー・ネルソンまで出てきた。まだしっかりしている。あきれるね、まったく。当時はまったく熱心に聞いてなかったけど、ジョン・メイヤーは聞いてしまった。泣きのギターだというのはそうなんだけど、古臭いまま若ぶるわけでなく若々しくしている。こんなに日本の歌謡曲みたいだったのか、と改めて思うのだが、やっぱり80年代辺りは、結構境界があいまいだったのかもしれない。ロバート・プラントはまたアリソン・クラウスと一緒に歌っていた。これはもう完成された芸である。そうして僕らは遠くを見る目になってしまう。もうすべては終わってしまったのだ。そういえば、チャーリー・ワッツも亡くなって、しかしストーンズはツアーをしたという。昔のストーンズの曲が、なんとなくラジオから流れてもいた。日本でも追悼していたのだろう。そうしたら最近デュラン・デュランも新譜が出て、ちゃんと新しいバンドみたいな顔をしていた。なんとなく気恥ずかしくて人には言ってないが、ジェフ・リンズELOはちゃんとアルバムを買って聞いていました。昔は全然好きじゃなかったのに、僕も感傷的になったのだろうか……。
 新しめの久しぶりというのもあって、最初はジェイク・パグだった。もうギター一本で歌うスタイルではないらしい。フー・ファイターズもちゃんとしている。元気がある。やっぱりドラムがいいですね。グレタ・ヴァン・フリートもメジャーな貫禄がちゃんとついていた。素晴らしい。それで実は本当に驚き目立ったのは、グリフ・リースである。なんだか宗教じみていて、ほんとにこの人こういう感じのまま生きているんだな、と感心した。いいんですよ、これが本当に。
 昨年から今年の流れとしてはビリー・アイリッシュなんだろうけど、オリビア・ロドリゴが出てきて、今年の顔になったという感じだろうか。そういえば彼女が崇拝していると言われるテイラー・スイフトもロードもいい感じの、そうして野心的な曲が流れていた。やっぱり才能は枯れていない。世界的にはマネスキンだったのだろうが、いや、下品で面白いので僕は好きです。
 サウス・ロンドンの流れでソーリーは少し古くなって、ブラック・ミディが出てきてドライ・クリーニングが出てきて、最後のブラック・カントリー、ニュー・ロードが流れをかっさらっている感じになった。でもちょっと鼻につくんだよな、新しいのは。でも、こういうのがウケるというのは、やっぱりそういうのがいいという層のようなものがしっかりしているのだろう。
 楽しく驚いたのは、ザ・リンダ・リンダズで、日本の影響力が世界的にも根付いているという感じがして、いいのである。でもまだキッズで可愛いからだろうけど。
 最後に素直に今年でよかったのは、ビーバドゥービーであったりする。一曲で消えるのかとも思ったが、案外いい曲が続く。最後になってアデルが出てきて、さすがである。聞かせる。昔っぽくなって素晴らしかったのはブルーノ・マースとなんとかかんとかで、なんだかマービン・ゲイの時代のかっこよさをもっと明るくしたようで、心地よい。実はふつうは女の人たちが聞くんだろうけど、ケーシー・マスグレイヴスも聞いてました。僕はこういうの好きなんです、なんでだろう。
 でも本当に一押しはアミル&スニッファーズでした。もう、最高。古いのを若い人がやっているだけで大好きです。で、本当にかっこよかったと思っていたのは、ザ・ブラック・キイズでありました。結局僕はギターサウンドが好きなんだろうね。新しい頭にはなかなかなれないものなのです。
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番組のBGMでかかる曲

2021-09-15 | 音楽

 沢村貞子さんの料理日記をもとにしている「365日の献立日記」を楽しみに見ている。しみじみいい番組だ。(これは前にも書いたが)
 ところでこの番組は、音楽にも個性的なところがある。ほとんど知った曲はかからないが、多国籍でいろいろ選んでいるらしい感じはする。軽めのポップスというか、いい感じの曲である。でも普段聞く音楽と全く分野違いだと、これがまた見当がつかない。こういうのはエンディングの番組のクレジットで使った曲を紹介するとか、そういうことをしてくれないかな、と思う。録画しているので、あとでメモできるし、またはネットで紹介するとかしてくれたらいいのに。
 でもこの間はロバート・プラントがかかってて、ちょっと嬉しかった。しかしまあロバート・Pさんは、実際ツェッペリンよりも、こんな甘い曲をたくさん歌いたかったのかもしれないな、ってつくづく感じましたけど。
 テレビの番組で知った曲がかかるっていうのは、なぜかうれしいものだ。別に僕のためにかけてくれているはずなんてないのに、がぜん興味がわくものだ。番組の制作人に好きな人がいるのかもと考えられることで、共感を呼ぶのかもしれない。
 録画してみる番組の定番に、「新日本風土記」というのがある。これも観ていると、ときどき耳に残る曲がかかる。しかし知らない。最近はこういう曲を調べるアプリのようなものがあるというが、商品誘導であることもあって手を出していない。鼻歌でも検索できるというので試すと、まったく違う曲だったりする。まあ、一人で携帯にフフフーン、フフとか何とか言ってるのは、いくら誰も見ていないとはいえ、結構恥ずかしい。
 それで、歌詞をメモして検索すると、引っかかった。そうして知ったのが「思い出野郎Aチーム」だった。曲は「ダンスに間に合う」だった。曲調が何となく「面影ラッキーホール」みたいな感じもあったけど、それよりはずっと健全なのでご安心を(けど面影ラッキーホール、興味ある方はググってみてください。不健全でいい感じですよ)。
 僕は普段はもっぱらラジオで聞いた曲をもとに、好きなものを選んでいる。小学生のころからずっとそうしていて、そういう風に曲と出会うというのが自然すぎることである。しかしまあ、実際にはいろんな場所で曲は聞いているわけで、それ以外の出会いがあってもいいはずだ。ただ、聞き流して逃してしまっていただけのことだろう。しかし今の時代は様々な検索が可能になっていて、今まですり抜けてしまっていたものが、少しだけひかっかることが可能になりやすくなっているのであろう。
 そういうことなんだが、実はジャスティン・ビーバーの曲がなかなかいいじゃん、と思って検索すると、CDの発売は無く、ネット配信のみの購入しかできないことを知った。将来のことは知らないけど、僕は古臭い人間で、そういわれると一気に要らない気分になって見送った。さよならジャスティン・ビーバー。僕らには、相性がまだ合わないところがあるみたいだね。
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二人のミニマニズム

2021-08-30 | 音楽

 ジャクソン・ブラウンが新譜を出している。曲がかかると、ジャクソン・ブラウンが歌う前からジャクソン・ブラウンであることがわかる。なんというか古臭い雰囲気。しかしちょっとゴージャスでタイミングがいい。要するに僕らが青春時代を過ごした80年代の青臭いままだ。歌詞もまだまだ青臭いんだそうで、かれももう70歳を超えているはずで、やっぱり老人というのは、青臭いことを言い続けることくらいしかできないのかもしれない。もちろんこれは誉め言葉で、そういうことを信じて生きてきたんだろうから、それでいいのである。僕らはもうまっすぐ歩けなくて、別の道に行っているだけのことだ。
 僕はあんまり彼のファンとは言えなかったはずだが、何しろヒットソングが多いので、検索してみたら結構曲を知っている。あの頃はあちこちで曲が流れていたし、プリテンダーはひょっとするとレコードかCDは持っていたかもしれない。いや、確かにこれは繰り返し聞いた覚えがある。なんだ、それなりに好きだったんじゃないか。恥ずかしくてそれを人に言えなかっただけのことだろう。何しろ僕はロック少年であって、こんな軟弱なロックを聴いていると思われたくなかった。そうしてこういう曲の流れる青春映画も好きじゃなかった。でも今見ると、結構面白いので、観るべきだったかもしれないけど。そうしたら、もっとジャクソン・ブラウンも聴けたことだろう。
 それにしても、これは一種のミニマニズムではある気がする。音数はそんなに多くなくて、ギターも鳴っているが、いつもではない。もっと弾いてもいいくらいだけど、印象的なくらい出てきて、ピタっと止まる感じ。でも、それしかフレーズがないような気もする。歌だってメロディアスであるとは思うけど、しつこくない。声は若々しいままで凄いけど、でもぜんぜん頑張ってない感じである。
 そういえばプリンスも新譜を出している。これは10年も前にアルバムは作っていて、時代に合わないか何か考えがあって、発表を控えたのだという。いわゆるアルバム一枚お蔵入りさせていた訳で、ちょっと考えられない。でも聴いてみるとこれが、やはりミニマニズムなんである。何か足りないわけではない。ものすごく凝っているくせに、音を少なくしている。でもゴージャスで重厚だ。スライ&ロビーのようなソウルフルな系統も受け継ぎながら、しかしプリンスでしかありえない。
 そういうものが並んで現代で同時期に発表される。なんだか本当に不思議な感じがするのだが、でも同時にまた、当然のような気もする。長く生きていると、いろんなことがあるもんだ。
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結局辛抱して曲を聴く毎日

2021-07-28 | 音楽

 自分の教養のなさなのかもしれないが、クラシック音楽を聴きに行きたいという願望はない。もっともロック・コンサートであっても、考えてみると特に行きたいわけではない。住んでいるのが田舎だということもあるが、何か足を運んでイベントに行くということすらしない。若い頃は、文字通り若い衆として祭りの手伝いにかり出される身だったが、実のところ祭りすら好きなわけではない。付き合い上やっていただけのことで、要するに今でいうインドア派であるのかもしれない。祭りとクラシック音楽は別物だろうけれど、出かけていくという行為ということでは、僕の中では五十歩百歩である。
 昔松田聖子の歌で、クラシック・コンサートに誘われていい子にしてて疲れるということを歌っていたが、確かにクラシックというのは、ものすごく退屈な時間を経て盛り上がるものであって、それなりに心構えがなければ耐えられない。そのために事前に準備というか、予備知識的に曲を知っていないとあんまり盛り上がれないということもある。キャッチーな曲がない訳ではないが、全く未知の領域になると、戸惑うばかりか、曲を追っていく道筋すら見失ってしまいそうだ。
 知的水準の高い人が、どういうわけかそういう分野においてのめり込むような傾向があるようにも見受けられる。庶民的な人がクラシックを聴いているという話は、やっぱりなんだかなじまない。散歩をしていると、それなりの音量が漏れて聞こえるお宅があって、それがクラシックなのである。佇まいからして想像するに、退職して子供も巣立った後に越してきたような比較的新しい家である。家では何か作業でもされているのかどうか、そういう中にあって、音楽をかけっぱなしにしておられるような雰囲気がある。あくまで想像だけれど。しかしながらどうしてこれほどの大音量なのだろうか。自分がその音楽に浸り続けていたいのだろうか。
 もちろん、それでも時々はクラッシックは聞く。若い頃は今より頑張って聞いていた。モーツアルトやベートーベン、さらにどういうわけかラフマニノフ。でもまあ、繰り返し聞いていているとやっぱり飽きるし、今時はロックの方が辛抱して聞かなければならないような曲も多いので(難解なのである)、結局苦労するために、またロックの世界に戻る。軽くジャズにも行くが、すぐにやっぱりロックに戻る。僕は辛抱強いのか軽薄なのかよく分からない。よく知らない新しい人たちの、なんだか分かりにくい新しいポップスを聞いて、昔はこんなにむつかしくなかったけどなあ、などと思っている。でももう昔の曲は、やっぱり古くなって、聞き飽きたような気もする。そういうのはたまに戻って聴く程度だけになっていて、そうして結局聞いたことのない曲を求めて際限なく消費を続けていくのである。
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選曲はむつかしい

2021-07-10 | 音楽

 カラオケで何を歌うか悩む。歌える歌はたぶんたくさんある。でも思いつかない。そもそも何を歌うべきなんだろう。歌いたい歌を歌えばいいだけなのに、どうして思いつけないんだろう。知らない歌は歌えないが、知っている歌を何度も歌いたくない。カラオケなんて酔ってないと歌わないから何でもよさそうなものだけれど、酔っているからこそ、妙なこだわりの心が芽生えてしまうのかもしれない。どうだっていいことが、どうだっていいことではなくなる。自分でもめんどくさいが、頭の中で選曲がぐるぐるめぐる。どうにも決めるのが難しくなるばかりだ。誰かに決めてもらうと楽なのだが、そうかといってそれで納得がいくとは限らない。おそらく過去に僕がそれらの曲を歌ったからこそ選んでくれるのだろうけれど、だからといってその曲を今歌いたいかは別問題である。もう選んでしまったのなら仕方ないけれど。
 若い頃は、とにかく最初に歌えと言われた。悩んでいる暇はない。しかしながら得意になって歌ってはいけない。どのみち真剣に誰も聞いてくれているわけでもないし、自分が何を歌うのかの方向性を、僕の出だしで決めようとしているのかもしれない。いや、歌う歌なんてすでに決めているのかもしれないが、単にもったいぶっているのかもしれない。それは分からないまでも、場を盛り上げる若者の歌を歌うべきか、その場の年長者の好みらしいその時代の歌を選曲すべきか、見極めが必要だ。とはいえ、演歌系列を歌えるわけではない。知っているロックな曲が、大きく外す可能性も非常に高い。そもそも普段は洋楽を聞いているし、しかし僕は英語は分からないので、実際には歌えない。日本語の歌詞でロックなヤツは、どういうわけかやたらキーが高かったりして困惑する。声がひっくり返ったらかっこ悪いではないか。
 先日普段は一緒には飲まないが、一緒に飲むことの多い人の連れの人がいて、ものすごくキーの高い声で「もののけ」の歌を歌っていた。最初は多少ふざけているんだろうと思っていたのだが、全然そういうことではなく、すごかった。けれどこれがどうにもその場では戸惑うというか、どうしたものかという感じになった。彼はいったい何者で、子供のころに声楽か何かしていたのだろうか。ひょっとするとあちらの人だろうか。いや奥さんや子供はいるらしいけど、分からないぞ。でも分かったとしても、どうしていいかはわからない。しかしなんとなくだんだん盛り上がっているのかもしれない。僕らのグループ以外に客はない。独擅場である。しかしたぶん次は僕が歌うことになる予感がする。でも頭の中は真っ白になって、選曲どころではない。しかし悩んだ割にはすんなり拓郎を歌ってしまった。困ったときには拓郎はいい。とにかくありがたいのだったが、しかしもののけは結局なんだったのだろう。
 ということで、そういうときに悩まないように、今度は「明日なき世界」を歌おうと決めていた。ところが選曲の機械をいじっても、その店の機械が古いのか、「明日なき世界」はなかった。がっかりして何故か「スローモーション」を歌った。妙に悲しい雰囲気だったのは、たぶんそのせいである。
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ポルトガル語を勉強したくなる音楽

2021-04-13 | 音楽

 少し前の村上レディオで、ボサノバのコンサートやってた。演奏は、なかなか素晴らしかった。いわゆるボサノバはブラジルのもので、 ポルトガル語で歌われるのが本場である。特にアントニオ・カルロス・ジョビンという人が有名で、というかこの人が創始者なのかな。本当はよく知らないけど、多分そんなようなことで、歴史的に尊敬されているんじゃないだろうか。村上さんもカルロス・ロビンさんの言葉を紹介したりして(それは以前のこの番組のものではあったが。だから実際はそんな風に村上さんが紹介したことを、司会の坂本美雨さんが紹介した)、それなりに敬意を表しているようにも思えた。 後でピアニストの山下洋輔さんが、カルロス・ロビンさんのエピソードも紹介していたけど(曲づくりにジャズの影響があるのではないか(要するに西洋文化)と言われても、そんなものは知らなかったと言い張っていたらしい。自分の音楽はブラジルが生んだものだ。と、かたくなに主張したかったのかもしれない)、それもなんだかすごかった。色々事情はあるんだろうけど、それなりに我の強い人だったんじゃないだろうか。
 そうそう、ポルトガル語の事を言いたかったんだった。村上さんはボサノバはやっぱりポルトガル語じゃないと格好つかないと言うか、さまにならないと言うか、そんなことを言ってて、スペイン語じゃちょっとどうか、ということも言っていた。ボサノバが好きになると、ポルトガル語を勉強するようなことになると、そういう人を知っていると話していた。
 ポルトガル語を聞く機会なんてあまりないけども、考えてみるとサッカーなんかで、ジーコとか アルシンドが話していた言葉が、ポルトガル語だったんだなぁと思う。何か抑揚が波のようにいつまでも続いて切れ目が少ない、ちょっと楽しそうな言葉である。南米で人口の多いブラジルでポルトガル語が使われているので、それなりに存在感があるけども、南米はブラジル以外はほとんどはスペイン語だから、なんだかちょっと変わっている。さらにポルトガル語と言ったって、そういう事情でポルトガル人よりも、そうじゃない国の人の方がポルトガル語を使う人が多い。英語やスペイン語やフランス語なんかもそういうことが言えるわけで、列強が侵略した世界地図が、現在も色濃く残されているということなんだろう。
 ということでポルトガル語で歌われるボサノバは大変美しく、それでいてなんだか少し楽しい。ラジオで聞いた演奏は、本当に素晴らしかった。でもまあボサノバに限らずジャズ系というのは、なんだか終わりがよくわからない。もうすぐ終わるなというのは分かるけども、最後の方でまた演奏をゴニョゴニョ続ける人がいて、なんと言うか本当にちゃんと打ち合わせしてるのかな~と心配になってくる。なんか全然知らないので、うっかりコンサートなんかに行くと、よくわからないために焦って早めに拍手をしてしまいそうである。そう考えると恐ろしいので、生の演奏は聴きに行けそうにないのである。
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レイナードスキナードって、嫌いな先生の名前をもじったんだって

2021-03-20 | 音楽

 僕の子供の頃には、雑誌の「暮しの手帖」が居間などに何冊か転がっていて、まあ、目の前にあるんだからパラパラとめくって読んだものだ。それで、この雑誌の後ろの方に、黒田恭一という人がレコード評のようなことをしている欄があって、音楽の紹介がしてあるのだった。クラシック音楽が中心だったので、最初はあまり興味はなかったんだけど、よく見てみるとロックだとかジャズだとか、まあそう言うような異分野のモノも時には紹介してあるのだった。クラシックのアルバムの紹介の折に、紹介されてあるアルバムをレコード店に探しに行ったことがあるのだが、一度としてそのアルバムが店頭に置かれてあることは無かった。要するに田舎のレコード店には、クラシックのレコードを置くスペースを割けなかったらしい。そういうことはあったにせよ、雑誌に書いている人の権威と言うか、威光と言うか、めちゃくちゃ偉い人というような印象ではないにも関わらず、なんだか信用してもいいような気分になっていた。それにここで紹介されているロックな人というのは、実は一人もしらないバンドや人達だった。僕が学校から帰って聞くラジオでは、1回も聞いたことない人達ばかりなのだ。
 そうではあるんだけど、その時は小さい写真で紹介されているジャケットがよかったと思ったのか、レーナードスキナードの紹介に目がいっていた。妙なバンド名だけど、その妙な感じがまたロックっぽい。そして解説の中では、アメリカを代表するハードロックバンドのようなかんじで紹介がしてあった。アメリカのハードロックバンドってやっぱりラジオで聞くはずなんだけど、全く知らない。書いてある内容でも、アメリカの偉大なっていう感じの紹介である。そんな偉大なのに日本では紹介されない。それって一体どういうことなんだろう(当時は知らなかったのだが、事故のせいで絶頂期にもかかわらず巷間からは消えてしまっていたらしいのだ)。
 それで地元にあるレコード店でレコードを探す。田舎なので大した品揃えではない。で、その時にもレーナードスキナードは売ってなかった。もっとも僕が探せなかっただけかもしれないけど。 結局僕はフーとかキンクスのレコードを物色して時間をつぶした。
 時間は一気に流れる。ある店で飲んでいると、古臭いが聞いたことあるような音がしている。マスターにこれ何だっけ? と聞くと、他ならぬレーナードスキナードだった。なんとなく聞いたことあるよ、と思った。一体どこで聞いたんだろう。しかしあれほど探してなかったレコードの人たちだが、店のマスターの話だと、やっぱり流行ったもんね、ってことだった。マスターは僕より10以上上だろうか。やっぱり世代の差だったのかな。でも正直なところ、こんな感じだったら血気盛んな10代の頃なら好きにならなかったかもしれない。なんだかカントリーロックって感じだし。
 でもまあ、今は大人になった。この田舎臭い音というのは、今じゃぜんぜん悪くない。というわけで懐かしくて、改めてレーナードスキナードを聞いているって訳である。Free bird 、イイっすね、やっぱり。ふにゃふみゃしてて、どんどん盛り上がっていく。最高なんである。
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ステージで水飲んでる……

2021-02-14 | 音楽

 いつものように渋谷さんの番組を聞いていたんだが、また新しいバンドがロンドンで注目されているという紹介が行われていた。black country, New road って言っていたようだが、これがまあ、学生バンドなんだろうけれど、文学性が高く、さらに実験的な音楽をやっていて、プロのミュージシャンからも注目されているのみならず、その評価も一様に高いのだという。芸術性が高いのには興味ないけど、まあ、面白いのが出て来たよ、って感じなのかもしれない。
 それはいいのだが、見た感じというかファッションの話になって、写真だと普段着で、まあ、学生風というか、あえて言うとIT企業の社員さんみたいだと、渋谷さんが言っていた。以前のアーケイド・ファイヤみたいなより、ずっとおとなしくまともでそうで、しかしふつうすぎるということなんだろうか。
 ここで小島さんが反応して、昔のロックミュージシャンは、ステージで大酒飲んでやっていたものだけど、90年代過ぎあたりから、ステージでミネラルウォーターを飲む連中が現れて、それで変わっていったんだ、というのを悲しい語り口で言うのだった。
 ああ、確かにそうだよな。僕らが聞いてたロックと今のロックの何が違うのかというのは正確に言い表すことはできないんだけど、そういう雰囲気としてのロックの決定的な違いは、ミネラル・ウォーターなのかもしれない。
 僕だって別段ステージで酒飲んでやってるのを、いいことだと思っていたわけではない。ちょっとやりすぎじゃないの? と呆れる気分もありはする。しかしまあ、客商売というのはそれなりにストレスだろうし、また曲を生み出すようなクリエイティブな人は、自分を保つのにそれなりの苦労もあろう。さらに言うと、会社勤めをやっている訳でもないし、恐らくそんな堅気の仕事もできる人たちじゃないだろうし、まあ、ともかく自由に今を満喫するよりないじゃないか。そんな感じを読み取って、ステージでの飲酒は、皆が黙認し、音を楽しんでいたわけだ。
 ところが今のロックの人では、音楽に向き合う時は、水を飲まなくてはならないのかもしれない。それはちっとも悪いことではなく、それ自体が新しく、支持しているファンも、そのことを好ましく思っているのではないか。普段の生活でプリウスに乗っているのかどうかは知らないけど、映画スターなんかは時折そんなことをする奴(ディカプリオとか)もいたけど、まさかロックスターまでスポーツカー以外に乗らなければならない時代が来るなんて、いったい誰が予想できたことだろう。そうして、それを求めるファンがいるなんてことが……。
 ということで、今時の新しいロックの姿は、面白いんだか面白くないんだか、最初からよく分からない。僕ら日本人にとって外タレというのは、胸毛出したり火を噴いたり、まあ、最初はサーカスとあまり変わらなかったのかもしれないけど、それがまたドキドキワクワクして楽しかったのだと思う。ふつうの服着た人たちが環境問題がどうのこうの言いながら楽器を鳴らしてどうすんの? って感じは、やっぱりどうにもノリが良くない感じなんだけどね。
 すいません、もうこれは年寄りの愚痴なんだね、きっと。
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