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当国諸国大地震(6) - 喜三太さんの記録

(御施餓鬼の祭壇)

今朝は5時過ぎの起床、亡き義父の初盆の御施餓鬼で、女房と義弟夫婦の4人でお寺に出かけた。本堂では20数人の御詠歌合唱団?のおばあちゃん達の御詠歌のライブ中であった。やがて6時になると曹洞宗の僧侶が10人入場してくる。緋の衣の当寺の若い住職がメインの僧侶である。御本尊へのメッセージの経が済むと、僧侶は輪になって半周して、御本尊へ背中を向け、本堂のエントランス側に注目する。入口の戸は開け放たれて、祭壇が設けられている。その祭壇及びその外へ拡がった空へ向けて、凡そ30分ほどの法要が営まれた。お盆で故郷の家族のところへ帰って来る諸霊に向けた御施餓鬼である。参集した一同が僧侶の読経と、その後、御詠歌に乗って、焼香を済ませた。そして終わりに、初盆の諸霊を戒名で呼び、今年は東日本大震災で亡くなられた諸霊へのメッセージが加わっていた。全体で凡そ1時間弱の法要であった。

「施餓鬼」とは、辞書を引いてみると、「盂蘭盆(うらぼん)に寺などで、餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏や生類(しょうるい)のために催す読経・供養。」餓鬼に施すと書いて施餓鬼である。餓鬼道とは、「六道の一。餓鬼の世界。常に飢えと渇きに苦しむ亡者の世界。」食べても食べても満腹しないで、常に飢えている亡者の世界である。

ちなみに子供を「がき」と呼ぶのは、子供の底知れない食欲を指しているのであるが、飽食の時代に「がき」と呼びたくなる食欲を示す子供も少なくなった。その一方、足るを知らない欲望に取り付かれている大人たちの如何に多いことか。「がき」の呼称はそういう大人たちに譲ったほうがよいのだろう。

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昨日に続いて、安政大地震の「喜三太さんの記録」の続きを以下へ示す。今日の部分には喜三太さんの親類衆がこの地震でどのような被害を受けたのかが、細かく記されている。これだけ長く「喜三太さんの記録」を読んでくると、喜三太さんの親類をわが親類のように感じてしまう。

さて一家親類は先ず当村一統の内は、残らず潰れ候、もっとも土蔵は元屋敷儀三郎方文庫蔵、跡にて潰れ、予が穀蔵(もみぐら)潰れ候ばかり、この外は土蔵の分は潰れ申さず候、
金谷長兵衛方土蔵一つ残り総ては残らず潰れ候、
掛川二藤、村田屋焼亡いたし、徳右衛門どの出後れ死亡いたし候、当年六十歳老人の事とは申しながら、悲歎無限事に候、同宿仲町、川西屋平三郎家は焼亡いたし候えども、土蔵潰れながら焼残り申し候、
上貫名村権之助家蔵とも残らず潰れ申し候、
下垂木村、弥作方本家は余程いたみ候えども潰れ申さず、土蔵、長屋門とも潰れ申し候、
波津親類、醤油屋千蔵残らず潰れ、当妻ます死亡いたし候、老母、番頭も大怪我いたし候えども、これは助り申し候、家におされ候者九人の内八人は助り、ます一人死亡いたし候事、何とも残念の事に候、油屋、杉本屋とも平潰れに相成り申し候、
片瀬村溜屋、これも家蔵ともに潰れ、老父出後れ、終りはかなく相成り候、

かくの如く、一家一類あるいは潰れ、あるいは焼亡、無事なる家一軒もこれ無く、剰(あまつさえ)一家親類の内にて四人まで死亡いたし候事、逃げ難き天災とは申しながら、愁傷悲歎、筆紙につくし難く候、去りながら焼亡いたし候所に比べれば、潰れ候のみは仕合わせなり


「金谷長兵衛方」- 金谷は喜三太さんの在所である。喜三太さんが身体を壊した時、一年ほど在所で療養したこともある。地震が起きたときに、娘のれきさんが金谷にいた。
「二藤村田屋」- 隣りの東小松の娘のおていさんが滞在していて、逃げた先で高塀の下敷きになって亡くなった。
「下垂木村弥作方」- 娘のみゑさんが滞在していた。
「波津の千蔵」- 伊豆へ湯治に行っていて、帰る道中で見た地震の被害を喜三太さんに語っている。自宅では妻のますさんが亡くなって、恐らく死に目にも会えなかったのであろう。
「片瀬村溜屋」- 秋葉山に詣でた帰りに、一泊泊めてもらっている。

今まで読んできた中でも、以上のようなことが思い出される。
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